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待降節第1主日アドヴェント合同礼拝 説教 「目を覚ましていなさい」

日本基督教団藤沢教会 2018年12月2日

【新約聖書】ルカによる福音書 21章34~36節
 34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」


「目を覚ましていなさい」
 アドヴェントクランツの1本目のローソクに火が灯され、教会は、新しい年を迎えることとなりました。ですから、この朝、僕は、「新しい一年が始まったんだなあ」とそう思い、いつものように急ぎ教会へとやって来たのですが、ところで、皆さんは、どうでしたか。「早く礼拝に行かなきゃ」、そう思い教会にやってきたのでしょうか。それとも、今日は、大人の人たちと一緒の礼拝ですから、「ちょっと嫌だな」、そう思い、教会にやって来たのでしょうか。あるいは、何でもご存じなのが神様ですから、行きたくないと思いながらも、神様に怒られるのが恐くて、渋々やって来たのでしょうか。けれども、やはり一番多いのは、いや、きっと多分、全員が、教会に行って早く神様とみんなに会いたい、そう思い、喜び勇んで教会にやって来たのだろうと思います。じゃあ、僕はどうだったと思いますか。さっき、みんなには、「急ぎ教会にやって来た」と言ったのですが、こうしてみんなの前に立っている僕は、みんなから見て、どういうふうに見えますか。うれしそうに急いで教会にやって来たように見えますか。それとも、嫌々やって来たように見えますか。どっちに見えるのでしょうか。

 ○○ちゃん、どう思う。よく分からない。そうか。じゃあ、○○ちゃんは、どう思う。やっぱりよく分からない。そうだよね。じゃあ、他のお友だちはどうでしょうか。多分、心の中で、一杯いろいろなことを思っていると思いますが、みんながいろいろと思うことは、すべて正しいし、間違ってはいません。僕もみんなと同じで、ですから、うれしくて喜び勇んで教会にやって来ることもあれば、そうじゃないときもあります。教会に行くのが恐いなあ、と思うこともあれば、どうしようどうしようと思うこともあります。今日は、みんなとこうして礼拝できるのが楽しみで、嫌々ということはなかったのですが、でもね、これも本当なんだけど、行きたくないと思っても、それで行かなかったことは一度もありません。それは、牧師だから、お仕事だから、ということではありません。行かなきゃと思いやってくるのですが、それは、多分、こういうことなんだと思います。

 朝起きて、学校や幼稚園に行くまで、みんなはいろいろなことをすると思います。顔を洗ったり、着替えたり、そして、最後に、お母さんが作ってくれたご飯を食べてから学校に行くと思いますが、それは、ご飯を食べずに学校に行くと、途中でお腹がすいてしまうからです。ですから、みんなは、朝、必ず食卓に着いてから学校や幼稚園に行くと思うのですが、教会に行くのも、それと同じことなんだと思います。行かないと、動けなくなる、だから、行くのが当たり前であり、当然である。また、だから、体が自然とそう動いてしまう。このことはつまり、ご飯を食べないとエネルギー切れで動けなくなるし、大きくなることもできない、そういうふうに人間は神様によって造られているということなんだけど、それと同じで、日曜日の朝、僕たちが礼拝に行くのは、僕たちがそういうふうに神様に造られているからなんだと思います。でも、そういうふうに造られていながら、さっき、僕がみんなに言ったように、嫌だな、どうしようどうしよう、行きたくないな、逃げ出したいな、そんなふうに思ってしまうのは、どうしてなのでしょうか。その理由はいろいろなんだと思いますが、でも、ほとんどの場合、みんなは、よほどのことがない限り、そういう気持ちを心の中に隠して、教会に来ているのではないでしょうか。それは、僕も同じです。けれども、それって、どう思う、みんなは。本当の気持ちを出したくても出せない、出してはいけない、そういうことって、一杯あるとは思うんだけど、教会に行くのって、そういうことなのかな。

 僕もみんなと同じように、大人の人たちやお友だちに、そして、みんなにも、嫌だな、と思う気持ちを隠しながら教会に来ることはあります。けれども、みんなとは、もしかしたら一つだけ違うところがあるのかもしれません。それは、絶対に誰にもそういう気持ちを言ってはいけないとは思っていないということです。出しては行けない、出せない、そういう気持ちを心の奥底に隠すのは、それをしてはいけないと思っているからなんだと思いますが、以前の僕も、そう思うことがありました。だって、そういうことを誰かに言ったら、怒られそうだし、嫌われてしまうかもしれないからです。そして、それだけではありません。そういうことを言うのは、絶対にやってはいけないことだと、自分でもそう思っていたからです。でも、今は違います。嫌だな、不安だな、教会は、そういう気持ちを隠すところではなく、外に出していいところだと分かったからです。でも、前はそれが分かりませんでした。みんなよりも、もっともっとたくさんいけないことをやってきたし、人にも言えないことがたくさんあり、いつも怒られてばかりだったからです。だから、自分はダメだな、自分のことが好きになれないな、そう思い、そういう澱んだものをたくさん持っているので、そんなこと、絶対に外に出しては行けないと思っていたのです。けれども、今は、出していいんだ、出したい、そう思うようになったのです。でも、それは、神様に対して、ということです。

 ところで、みんなは、その神様のことをどういうふうに思っていますか。優しい方だと思いますか。それとも、とっても恐い方だと思いますか。また、意地悪で、ずるくて、何もしてくれない方だと、そんなふうに思うことはありませんか。そして、みんなが、もし、神様のことをそんなふうに思っているとしたら、それはとっても悲しいことだし、残念なことなのだと思います。けれども、みんなが、もしそう思っているとしても、それは、みんなにとっては、本当のことなんだと思います。だって、神様って、本当にずるいし、何もしてくださらないと、僕も時々そう思うことがあるからです。勉強のできる子もいれば、僕のように、勉強が嫌いで、できない子どももいますし、そのため、僕は、いつもいつも、学校の先生からは怒られてばかりでした。それは、もちろん、僕がいけない子だったからなのかもしれませんが、けれども、もし、神様が僕に何かしてくださったら、きっと、もっと頭が良くなっていたのかもしれません。でも、僕をそういうふうに造ったのは神様なのです。だから、神様は意地悪でずるくて何もしてくださらない方だとそう思い、そのため、僕は、神様に何か言ってもダメなんだと、そう思っていました。けれども、それは、僕の間違いだったと、そう思うようになったのです。

 一体、何が僕を変えたのでしょうか。それは、今、みんなと一緒に守っているこの礼拝です。嫌だなと思いながらも、恐いなと思いながらも、神様を礼拝し続けたから、だから、出してはいけないと思うことも、神様に出していいんだ、出さないと行けないんだ、そう思えるようになったのです。でもね。それは、礼拝で楽しいことばかりが続いたからではありません。嫌だなと思うことはたくさんあったし、それは今でも同じです。だって、神様の前に出るのって、ダメな自分、いけない自分、好きになれない自分、そう言う自分の姿を毎週毎週見させられることでもあるからです。ですから、楽しいはずはありません。そして、それは、今でもそうですし、そういうものなんだと思います。だから、こんなことを言っていいか悪いかと言ったら、やっぱり、言ってはいけないようにも思うのですが、でも、それを変えることのできないのが、神様によって造られた僕でもあるのです。自分の性格がどんなに嫌だなと思っても、それを変えることができないように、神様の前に立つのって、誤魔化しがきかないわけですから、自分がどんなに嫌だと思っても、どうすることもできないのです。けれども、その僕に、その僕たちに向かって、毎週毎週変わらずに礼拝にお出でよ、来なきゃダメだよ、そう言い続けてくださっているのが、神様なのです。

 それは、どうしてなのでしょうか。それはね。いけないことばかりしている僕のことを、神様は、嫌いになったりすることがないからです。そして、そんな僕が、神様に嫌われていないと思えるのは、僕たちが、一人だけで神様の前に立っているのではないからです。みんなの周りにいる大人の人たちやお友だちと一緒に神様の前に立っているのが僕たちでもあるのですが、その僕たちは、自分たちだけで神様を礼拝しているわけではありません。もうお一人、とっても大切な方と一緒に礼拝しているのが、こうして神様を礼拝する僕たちなのです。さて、そのもう一人とは一体誰なのでしょうか。誰でしょうか。○○ちゃん。そうですね。今、○○ちゃんが言ってくれたように、イエス様と一緒に礼拝しているのが僕たちなのです。そして、アドヴェントクランツに灯される一本一本のローソクが、そのことを僕たちにまた教えてくれているのです。

 でもね。ローソクって、火をつけるとどうなっていくのかな。どんどんどんどん小さくなっていくんだよね。火が付いて燃えて、どんどん小さくなっていって、最後には、消えてなくなってしまうのが、火の灯されたローソクです。そこで、イエス様のことを消えてなくなってしまうローソクと同じだと思うと、イエス様もまた消えてなくなって、そのために、イエス様も見えなくなってしまうのでしょう。それどころか、私たちを照らすイエス様が消えてなくなってしまい、真っ暗になってしまうわけですから、それでは、自分のことも見えなくなってしまいます。だから、そんなとき、僕たちは、イエス様も神様も、どこか遠いところに行ってしまい、消えてなくなってしまったと思ってしまうわけです。何かあると、どうしようどうしようと思ってしまうのは、そういうことなんだと思います。でもね。真っ暗になって、どうしようどうしようと思ってしまうのは、イエス様と神様が、本当に消えてなくなってしまったからなのでしょうか。もちろん、そうではありません。目をつぶれば何も見えませんし、後ろ向きになれば、イエス様と神様がその目に映ることもありません。そのようなとき、僕たちの目が何も見ていないように、神様とイエス様のことが見えなくなっているのは、僕たちが見ていないからです。でもね。そこで、一つ大切なことがあるのです。僕たちが見ていなくても、その時も、僕たちと一緒にいて、僕たちのことを見ていてくださっているのがイエス様であり、神様なのです。

 ですから、イエス様が、ここで、「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と仰っていることは、「私は、みんなと一緒にいるよ」とイエス様が僕たちにそう仰っているのだと、僕はそう思います。つまり、いつも目を覚ましていなきゃ、いつも祈っていなきゃ、いつもいつも常に常にと、僕たちは、そう思う必要はないということです。なぜなら、恐いことやどうしようどうしようと思ってしまうことは、必ずあるんだけど、その僕たちと一緒にいて、それも、ただ一緒にいるだけでなく、そんな僕たちのことをいつも見ていてくださって、神様の方に向かって、一緒に歩いてくださっているのが、イエス様だからです。そして、そのイエス様が、僕たちと一緒にいるということは、ただ一緒にいるだけでなく、僕たちのことをいつもいつもイエス様が祈ってくださっているということでもあるのです。ですから、「いつも目を覚まして祈りなさい」と、僕たちに向かって、イエス様がそう仰っていることは、そういう僕たちとイエス様が一緒にいるということを、僕たちが忘れないでね、と、イエス様がそう仰っているということであり、また、イエス様の祈りの中に置かれているのが僕たちでもあるわけですから、僕たちは、いつもいつも安心して毎日を過ごすことができるのです。そして、イエス様を僕たちのところに送ることで、そのことを伝えてくださったのが、イエス様のお父様である、私たちの神様なのです。ですから、イエス様という決して消えてなくならない方の光の中で、そして、それが、私たちがこうして一緒にいる礼拝でもあるのですが、この光の中で、イエス様のお誕生を、今年もみんなで一緒にお祝いしようとしているのが、こうして一緒に神様を礼拝している僕たちなのです。みんな一緒に、うれしいクリスマスを迎えましょうね。

祈り




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