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待降節第3主日礼拝 説教 「私たちの口にあるもの」

日本基督教団藤沢教会 2018年12月16日

【旧約聖書】ゼファニア書 3章14~18節
14娘シオンよ、喜び叫べ。
 イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
 娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
15主はお前に対する裁きを退け
 お前の敵を追い払われた。
 イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
 お前はもはや、災いを恐れることはない。

16その日、人々はエルサレムに向かって言う。
 「シオンよ、恐れるな
 力なく手を垂れるな。
17お前の主なる神はお前のただ中におられ
 勇士であって勝利を与えられる。
 主はお前のゆえに喜び楽しみ
 愛によってお前を新たにし
 お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
18わたしは
 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。
 彼らはお前から遠く離れ
 お前の重い恥となっていた。


【新約聖書】ルカによる福音書 1章5~25節
 5ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。12ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。13天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」18そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」19天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 21民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。22ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。23やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。24その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」


「私たちの口にあるもの」
 四本あるアドヴェントクランツのローソクに、三本、火が灯され、クリスマスまで残りわずかとなったことを思わされます。そこで、子どものようにわくわくする気持ちを抑えられずにいる方もいらっしゃることと思いますが、私自身、そんな一人であるのは間違いありません。なぜなら、私たちがアドヴェントをこうして一緒に過ごすということは、クリスマスの恵みを一つ一つ、自分自身の内に増し加えられる体験をするということであり、神様を日一日と、間近に感じさせられることでもあるからです。先週1週間、様々な方々をお訪ねし、共に聖餐に与り、共に讃美のひとときを持つ中で、牧師として、このことを改めて知らしめられたように思います。また、だから、御言葉も、この日、私たちに次のように語るのでしょう。

 「娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」と。そして、そのように喜び踊る私たちに向かい、御言葉はまた、「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と語るのです。このことはつまり、クリスマスを私たちがこうして共々に祝うということは、それが、私たちの楽しみだけで終わるのではなく、神様の楽しみでもあり、神様と私たちとが、心弾ませ、一緒になって祝うもの、それが、クリスマスの祝いの時であるということです。そして、それは、神様が、私たちと一緒にクリスマスを祝いたい、祝わねばと、そのように思っておられるからであり、また、御言葉が「愛によってお前を新たにし」と語るように、神様と共に祝えばこそ、私たちは、神様によって、そこで新たにされる経験をさせられるということです。ですから、そのように、私たちが神様と共に祝うクリスマスの喜びを選び取るから、神様の心弾ませる喜びが歌となって現され、さらには、その神様と共に楽しむ私たちのその姿をもってして、まさに目に見える形で、神様ご自身の喜びが、この世に現されることにもなるのです。それが、クリスマスの祝いの時だということです。

 ところで、この新たにされるということをもう少し詳しく言うとどういうことなのでしょうか。これについて、自らのその経験をもって伝えてくれているのが、福音書に記されているザカリアとエリサベトの夫婦です。ここでは、特に、夫ザカリアのその姿もってして、明らかにされてもいるのですが、この、新たにされるということを私たちに知らしめるために神様が選ばれたのが、祭司であるザカリアと祭司の家柄出身であるエリサベトでもあったということです。ですから、この夫婦は、家柄や身分的なものに加えて、御言葉が「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ち所がなかった」と語るように、まさに、この二人こそが、クリスマスの祝いの出来事を担い、神様の導かれる幸いに与るにふさわしい人たちで、この人たちをおいて他に、この貴い役割を任せられる人たちはいないと、誰もがそう思うものを持っていたのがこの夫婦でもありました。ただし、多くの人たちが、いくら、この人たちしかいない、と思っても、ゼファニア書で、御言葉が、「彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた」と語るように、イスラエルにとっての恥とも言える一つの大きな問題を抱えていたのが、このザカリヤとエリサベトの夫婦でもありました。それは、この夫婦には子どもがなく、そのため、ユダヤの社会においては、神様の祝福の外に置かれていると、自他共に認めざるをえない現実に置かれていたからです。しかし、そういう難しさを抱えながらも、なお、非の打ち所がなかったと言われているところに、この夫婦の偉さがあるように思いますし、また、だから、神様は、この二人を特別に選ばれたとも言えるのでしょう。御言葉に「私は、祭りを祝えず苦しめられていたものを集める」とあるように、二人は、日々、この御言葉を思い起こしつつ過ごし、そして、現に恥がそそがれる経験をすることで、「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」と、クリスマスを神様と共に祝うその喜びへと、こうして導かれていくことになったのです。

 従って、神様と共にクリスマスを祝い、新たにされるということは、神様の御心から遠いと思わされるような悲しい現実から遠ざけられ、自らが変えられるということです。つまり、ザカリアとエリサベト夫婦がそうであったように、クリスマスを通し、私たちが味わい知る喜びとは、恥がそそがれ、生きる苦しみそのものから解放されてこそのものだということです。けれども、そのためにまた、神様は、この夫婦のように、私たちにも一つのことに徹することを求めるのです。それが、御心に聞き、御心に従うということなのですが、それは、神様が、この一に徹する二人にその恥をすすぐべく子を与え、二人が神様の祝福の外ではなく内側にあったことを知らしめたことからも明らかです。けれども、御言葉がここで関心を置くのは、神様への信頼に徹し、信仰に生きたこの二人を褒めそやすことではありません。

 時に、私たちは、結論を急ぎすぎ、そこからすべてを分かろうとすることがあります。特に、この時期、神様と喜びを分かち合うという点で、先を急ぎ過ぎるきらいがあるように思います。そのため、どうしても、この夫婦の優れた資質ばかりに目が向いてしまうのですが、けれども、私たちがこうしてクリスマスを祝う上で目を留めるべきことは、この夫婦のそのような資質の高さ、誰もが認める表面上の偉さではありません。なぜなら、クリスマスの喜びへと導かれたこの夫婦は、ことがなるその前に、心の内にひた隠しにしているものがあり、御言葉が関心を注いでいるのは、それを含めてのものでもあるからです。ですから、私たちが見つめるべきところは、表と裏のそれぞれを含めてのことであり、むしろ、表に表されているところよりも、その背後に退いているところに目を留める必要があり、その上で、この二人の上に現された神様の御心に聞いていく必要があるのです。

 従って、神様を信じ従う敬虔な態度と、その反面、自らの境遇を呪い、神様の御心を疑う不信仰な態度と、クリスマスを神様と共に祝う上で、私たちは、そのそれぞれに目を留めなければならないのです。けれども、その両方を同じように見つめることは、口にするほど簡単なことではありません。なぜなら、私たちに求められることは、この夫婦を観察することではなく、この二人の置かれた現実そのものを同じように生きることだからです。つまり、二律背反する事柄それぞれを引き受け、対立する現実の狭間に立って、この夫婦のように生きるということ、そして、それは、矛盾する自らを我がこととして引き受けることであり、ですから、そのような状況に身を置くと言うことは、気が滅入ることでありますし、誰もが避けたいと思うことでもあるのでしょう。そして、このことは、ただ気持ちがふさぎ落ち込むだけで終わるものではありません。天使を見たザカリアが不安になり、恐怖すら感じたように、また、天使がザカリア夫婦にとっていいことずくめのことを伝えてくれているにもかかわらず、それについて、ザカリアが、そんな馬鹿な、そんなことが絶対にあろうかと、そう思い、御心を伝える天使ガブリエルの言葉をはねのけたように、神様を信じ信頼するその思いと、何一つ変わることのない過酷な現実への鬱積した気持ちとが、その人の心の中でせめぎ合い、このように、私たちから素直さ、喜ぶ気持ちを奪い去り、歪ませることがあるからです。そして、それは、信じられること、信じたいこと、人がそれしか受け付けなくなるからであり、それはまた、自分が壊れていくのを無意識のうちに避けようとするからであり、けれども、そのような人に神様の御心として伝えられ、もたらされたものが、クリスマスの喜びでもあったのです。

 そこで、この天使ガブリエルを通し、神様がザカリアになさったことは、様々な言葉で口の中が一杯になっているザカリアより言葉を奪うことでした。それは、ガブリエルが「時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」と語るように、ザカリアの悲惨な現実が、これ以上御言葉を欲してはいなかったからです。また、だから、天使ガブリエルは、ザカリヤより言葉を奪い、その心にぽっかり隙間を与えたわけですが、従って、天使ガブリエルがザカリアからその語るべき言葉を奪ったのは、その不信仰を罰するためではありませんでした。人が神様の御心を知り、神様と喜びを分かち合うために、自らの苦しみを苦しみとして引き受け、何があっても、どんな時にも変わることない神様の御心を知る必要があるからです。それは、自分の気持ちや考え、そういうもので一杯になった心の中を一端空っぽにしなければ、人が新たにされることはないからです。そして、神様が、そのようにいささか乱暴とも思えることをなさるのは、私たち人間には、苦しみを苦しみとして、そのありのままを経験できる力があるからです。だから、諦め、悲観し、絶望に陥り、空しさを抱えながら、なお、自らのその思いをひた隠しにして生きるしかないザカリアから言葉を奪い、苦しみを苦しみとして担うことのできるこの力を知らしめ、新たな者にしようとされたのです。また、だから、矛盾を矛盾として引き受けることを避け、自分の気持ちを誤魔化しながら生きるしかなかったザカリアもまた、自分自身のありのままを引き受けることを可能とする言葉を神様から与えられ、こうして、神様を信じ、信頼する、新たな存在へと変えられていくことになったのです。

 ただ、ザカリアが経験したこの神様ゆえの新しさは、ザカリアにとっては目からうろこの新しい出来事でもありましたが、ザカリアを見つめ続けてきた神様にとっては、それ以前もそれ以後も、何一つ変わらないものでありました。なぜなら、神様にとって、ザカリアはあくまでザカリアであり、だから、このザカリア夫婦と喜びを共にしたい、しなければと、神様はそう願いこの夫婦にその御心を現わされたのです。ですから、神様がここで現されたその御心は、ザカリア夫婦にとって、子が与えられたというところに限定されるものではありません。それは、この夫婦に与えられたその子の名が、初めからヨハネと決められていたように、この子は、イエス様の到来の先駆けとして、やがてその命を悲惨な形で奪われる定めにあり、従って、この夫婦にとっては、むしろ、与えられなかった方がよほど良かったとも言えるからです。けれども、この与えられる経験も、そして、奪われる経験も、そのそれぞれが神様の御心によるものであり、それゆえ、私たちが、もし神様のこの御心を「与えられる」ということに限定して受け止めようとするなら、このザカリア夫婦が経験した神様の新しさは、束の間のものに過ぎないことになり、もしそれが神様の御心であるなら、新たにされた喜びが大きければ大きいほど、それを倍する悲しみと苦しみがやがてその人を包みこむことにもなるのでしょう。

 ですから、神様のこの新しさをそのように受け止めてしまうと、私たちは、そのような新しさなど御免被りたいと、多くは、そのように考えるのでしょう。それは、自分自身の人生を自分が思い描くように形作りたいと願う私たちの思いに反することだからです。そして、また、そうであるからこそ、ザカリアがそうであったように、信仰という言葉を隠れ蓑にして、この嫌だという気持ちを誤魔化し、さらに、それを誤魔化すことがあたかも信仰であるかのごとく、錯覚を抱いてしまうことにもなるのです。つまり、私たちが、自らに対する嫌悪感、恥ずかしさ、罪深さ、そして、周囲の者に対する恐れや不安、そうしたものをその心の奥底に隠そうとするのは、神様の新しさを実際に経験し、知らないために起こるということです。けれども、信仰という言葉を隠れ蓑にし、ありのままの自分を見つめえないその心根を良しとはなさらないのが私たちの神様でもあります。だから、神様は、神様に祝福された私たち本来の姿を取り戻すべく、その人が執着し、しがみつくものを奪うことで新たにされようとしているのです。つまり、それが、私たちが願い求める御心であるということです。

 この神様の御心は、私たちの手の中に多くが与えられていても、何一ついいものを見いだせなくても、こうして御言葉に聞き、クリスマスの祝いの時を神様と共に迎える私たちすべてに、いついかなるときにも、どこにあっても与えられているのです。だから、私たちは、いつでも、どこでも、この神様のみ心を喜べるし、まただから、人も優しくなれるし、大切にすることができるのです。神様が私たちに与える人々と精一杯喜びを分かち、共に喜ぶことを選び取ることができるのです。そして、このことをイエス・キリストの出来事を通して、神様によって知らしめられたのが私たちであり、それほどまでに神様に思われているのが、こうしてクリスマスを共に祝い、喜ぶ私たちであるということです。では、その私たちとは、一体どんなものなのでしょうか。

 お腹がすいたとき、気持ち悪さを感じたとき、不安や恐れを抱くとき、赤ちゃんは、泣いて親を呼ぶものです。そして、そのようなとき、赤ちゃんが泣き叫ぶのは、親を奴隷のように思い、扱おうとしているからではありません。親の愛の中にあることを信じ、そこに立ち帰ることを願い、泣き叫ぶのです。そして、それは、泣き叫ぶ赤ちゃんのところに親が必ず来てくれることを、赤ちゃんは知っているからであり、だから、泣き声を上げるのです。そして、親も赤ちゃんもそうするのは、赤ちゃんにとって親は親でしかなく、また、親にとって赤ちゃんは我が子以外の何者でもないからです。イエス・キリストの出来事は、私たちにとって、神様がそのような方であることを知らしめるものであり、だから、どんなに気が滅入るようなことがあったとしても、この神様の御旨の中に私たちは立ち帰り、神様の子として、自分の力ではどうすることもできないようなことでも、そこで、神様から大きな励ましと慰めを受け、自分を超えていく生き方を喜びの中に選び取ることができるのです。ですから、私たちがクリスマスを神様と共に祝うということは、そういう神様の御心に立ち帰るということであり、また、立ち帰るからこそそこで、親のとって我が子が我が子であるように、イエス様を信じる私たちのことを、神様は、ご自分の子どもとしての見方しか持っていない、このことを心から味わい知るのが、神様と共に祝うクリスマスなのです。だから、この神様の温かさを感じながら、残りの一週間を大事に大事に過ごして参りたいと思います。

祈り




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