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降誕節第1主日礼拝 説教 「主の祝福を受けた一族」

日本基督教団藤沢教会 2018年12月30日

【旧約聖書】イザヤ書 61章1~11節
1 主はわたしに油を注ぎ
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして
 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み
 捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。
2 主が恵みをお与えになる年
 わたしたちの神が報復される日を告知して
 嘆いている人々を慰め
3 シオンのゆえに嘆いている人々に
 灰に代えて冠をかぶらせ
 嘆きに代えて喜びの香油を
 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
 彼らは主が輝きを現すために植えられた
 正義の樫の木と呼ばれる。
4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し
 古い荒廃の跡を興す。
 廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い
 異邦の人々があなたたちの畑を耕し
 ぶどう畑の手入れをする。
6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ
 わたしたちの神に仕える者とされ
 国々の富を享受し
 彼らの栄光を自分のものとする。
7 あなたたちは二倍の恥を受け
 嘲りが彼らの分だと言われたから
 その地で二倍のものを継ぎ
 永遠の喜びを受ける。
8 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。
 まことをもって彼らの労苦に報い
 とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9 彼らの一族は国々に知られ
 子孫は諸国の民に知られるようになる。
 彼らを見る人はすべて認めるであろう
 これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。

10わたしは主によって喜び楽しみ
 わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 主は救いの衣をわたしに着せ
 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
 花婿のように輝きの冠をかぶらせ
 花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ
 園が蒔かれた種を芽生えさせるように
 主なる神はすべての民の前で
 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

【新約聖書】マタイによる福音書 2章1~12節
 1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


「主の祝福を受けた一族」
 主イエス・キリストのご降誕を共々に喜び祝った私たちが、その喜びを携え、そして、主イエスに導かれ、神様を礼拝すべく再び教会へと集められて参りました。そして、御言葉は、その私たちにこう語ります。「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び踊る。」と。つまり、喜び楽しみ、喜び踊るのが、イエス様の誕生の祝いの席に集められた私たちであるということです。また、御言葉は、そのような私たちについて、さらに次のようにも語ります。「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠を被らせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」と、まさに、着飾って晴れの舞台に立つのが、主イエスのご降誕を共々に祝い、喜ぶ私たちであるということです。そして、もちろん、こう言われることに異論はありません。その通りだからです。けれども、信仰の事柄としては、異論はなくとも、こうしてこの世の現実に生きる者としてはいかがでしょうか。100%身も心も、諸手を挙げて、喜んでいると言えるでしょうか。クリスマスを迎え、喜びだけで胸が一杯になっているのでしょうか。

 先週の23, 24日と、会堂は溢れんばかりの人々で埋め尽くされておりました。その光景は、まさに、今の御言葉が語るそのままであったように思います。ところが、今日はどうでしょうか。クリスマス以外の日はどうでしょうか。ただ、祭りの後というのはそういうものでもあるのでしょう。ですから、そのことにとやかく言っても仕方ありません。そういうものだからです。けれども、そうであるからこそ思うのです。私たちは何を喜び、何を祝ったのか。主イエスの誕生に際し、長い旅を続け、黄金、乳香、没薬を献げるべく主イエスの御前へと集まってきた東方の学者たちでありますが、その彼らが、主イエスの誕生を告げ知らせる星を見て喜びに溢れたと、福音書が語るのです。ですから、私たちの喜びの中心は、もちろん、主イエス・キリストの誕生です。救い主の到来、預言の成就、私たちの喜びの中心に置かれていることは、この一点に尽きるものであるからです。そして、先週も様々な方をお尋ねし、牧師として、そのことを確かめさせられるものでありました。ですから、お訪ねした皆さんは、牧師である私を快く迎え入れてくださいましたし、それゆえ、訪問は、牧師冥利に尽きるものでもありました。けれども、その一方で、ある一つの思いを捨て去ることができずにいたのも事実です。

 子どもにとっても、大人にとっても、クリスマスは喜びに満ちあふれたものであり、それだけにまた、楽しみなものでもあります。ですから、多くの子どもたちが、サンタさんからのプレゼントを期待して、神様に篤い祈りを献げたことでしょう。そして、私もそんな一人でありました。お気づきの方もおられるかもしれませんが、今年は、牧師室の扉に大きな靴下をつるし、サンタさんでなくても、我が家の奥サンタさん、教会の信徒サンタさんからの何かを期待しておりました。そして、25日、わくわくしながら教会にやって来たところ、すると、どうでしょう。なんと、中には何も入ってはおりませんでした。これは、私が、神様と皆さんとのコミュニケーションに失敗したからということでもあるのでしょう。そして、このことは、ある意味で、私自身のこの一年を現していると、その時、思ったのです。そして、それが、今申しました、捨て去ることのできないある思いでもありました。

 ただ、いずれにせよ、福音が、良き訪れ、喜びの音信と言われているように、神様が伝えたいと願っていることは、私たちに喜びをもたらすことです。ただ、この喜びは、あれよりはましだ、あれほどではない、あれとこれとを比べて、ああ自分は違った、良かったというものではありません。あるいはまた、差し出されたものだけでは物足りず、あれもこれも全部、といった、欲張ったものの考え方を、聖書は、喜びの訪れなどと呼んでいるわけではありません。御言葉が「主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」と語るように、それは、すべての人々にもたされる喜びです。そして、そのために重要なことは、「彼らを見る人はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である」と御言葉が語るように、その喜びを実際に経験し、世に現す私たちであるということです。ですから、空っぽの靴下を見て空虚感に包まれた私も、その中の一人であるということです。そして、その点を明らかにしてくれているのが、今日の福音書の箇所でもあるのです。なぜなら、そこに記されていることは、福音を福音として実際に喜び、それを伝えた人々の心根が現されているからです。

 牧師である以前に、私も皆さんと同じ一人の人間です。それゆえ、取り残されたとの思いを持ってしまうことがあるのです。そして、多くの牧師は、常にそのような思いを抱えながら、歩む者なのかも知れません。ですから、靴下の中身が空っぽなのを見て、自らのなすべき事がなされぬままでいる、自分自身のそのままを現しているように思ってしまったのです。ところが、そうではなかった、そのことを知らされた一週間でもありましたが、ただ、それは、私が手にしたいと思っているものとは少し違いました。けれども、それが私の欲しいものではなかったとしても、こうして皆様と共にクリスマスを迎えた私に、いや、私と言うよりも、私たちに、この日の御言葉が語ってくれていることは、それでいいということです。なぜなら、そのように独りよがりな、破れることに恐れ、不安を抱き、それを誤魔化すかのように欲しいものばかりを願う私、そして、私たちの、その心根に神様が届けてくださったものがクリスマスの喜びであるからです。

 それゆえ、クリスマスは、私たちを神の正しさの前に立たせるものでもあります。そして、この神様の正しさの前に立つと言うことは、私たちを予定調和の世界、自己実現、自己充足が図られる世界、人が願い求める利益の最大化、そうしたことが、そこで約束されているということではありません。ですから、予定調和、自己実現、利益の最大化を求める人々にとっては、ちょうど、私がそうであったように、神様から切り離されたとの思いを抱くことにもなりましょう。また、見捨てられたとの思いを強くすることにもなるのでしょう。空っぽな靴下を見て、私ががっかりしたのは、そういうことでもありました。ですから、そうしたあり方は、信仰に反することだとも言えるのでしょう。正しくはないし、だから、否定されなければならない。そして、そう考えることは、私たちが考える神様の正しさからすると、間違ってもいない。だから、そうした正しさを声高に主張する必要もあるのでしょう。けれども、果たして、そうなのでしょうか。こうしてクリスマスを喜び祝った私たちに、御言葉は、そのような正しさ、健全性を求め、何かを訴えかけているのでしょうか。むしろ、そうしたことは、背後へと退けられ、クリスマスを経験した人々のその喜び、その心根、それだけを前面に押し出しているのが、クリスマスの祝いの時なのではないでしょうか。それは、何かを主張し、それに無理矢理肯かせることが、イエス様を私たちの下へと送り出された、神様の御心ではないからです。

 正しさと正しさのぶつかり合い、せめぎ合い、それが、私たちすべてを喜ばせるものではありません。正しさを主張しあうことは、ここに登場するヘロデのように、必ず、自分自身の不都合な面を隠そうとするものだからです。ですから、そこでの主張がいくら正しいものであったとしても、いずれ化けの皮は剥がれるものです。御子の誕生が近いことを告げられたヘロデの姿が、そのことを現してくれています。従って、そこで、喜びを阻害する要因は、取り除かなければならない、私たちの多くは、そう考えることでしょう。けれども、御子の誕生が近いとの情報をいち早くつかんだ東方の博士たちが、いの一番に選んだのは、誰であろう、ヘロデでありました。それは、彼らが、世間知らずで浮き世離れしていたからではありません。ヘロデの悪名は、周辺世界にも轟き渡っており、それを知った上で彼らは訪ねていったのです。それは、預言者が「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」と語るように、そうすることが、主の輝きを現す道筋であり、また、それが、彼らの役割でもあったからです。ですから、彼らが自らに与えられた役割を、もし、なんだかんだ理由をつけ、自分の都合のいいことばかりを主張して、途中で投げ出すようなことがあれば、預言の実現は先延ばしにされたことでしょうし、もしかしたら、途中で立ち消えになり、クリスマスの喜びがこうしてもたらされることもなかったのかもしれません。ただ、この日、私がこうして御言葉に聞きつつ示されたことは、そうした、if、もしかしたら、ということ自体が、そもそも、御子の誕生の喜びからは、最も遠いところに置かれていることだということです。

 クリスマスの喜びは、私たちが自らの努力によってつかみ取ったものではありません。神様によって与えられたものであり、神様ご自身が、御子を世にお遣わしになることでつかみ取ったものなのです。ただ、そのためには、長い時間が必要でした。イザヤが「あなたたちは二倍の恥を受け、嘲りが彼らの分だと言われたから」と語るように、私たち人間にとっては、苦しみを伴う、神様による長く厳しい教育期間を必要とするものでもありました。そして、主イエスの誕生を通し現されたものが、神様の正義であり、ただ、この正義、正しさは、告げ知らせる者の正しさ、正義の主張によってもたらされたものではありません。全く新しいものであり、人間の経験を超えたものでもありました。そして、その知らせが、ヘロデのところに真っ先に届けられたところに、御子の誕生の新しさが現われているようにも思います。そして、この新しさでありますが、それを神様が現されたのは、もしかしたら、と、人が考え、そして、願い求める、予定された調和、自分だけはと考える人の願望、また、そのためには、手段すら選ばず、己の利益の最大化を図ろうとする欲望、そうしたことは、一部の権力者に限ったことではなく、大なり小なり、ちょうど、私自身がそうであるように、神を見つめず、時に、神すらも超えて、神をも利用してまで自らの立場を守ろうとするところが、私たち人間にはあるからです。また、だからこそ、神様は、御子の誕生という新しい出来事、この一回限りの出来事をもって、御心を現してくださったのです。

 それゆえ、ヘロデを真っ先に選ばれたところに新しさがあり、目を見張るべきところがあるように思います。ただし、それは、ヘロデに同情してのことではありません。ヘロデのようなものを排除して得られる希望は、結局は、絶望の裏返しでしかないからです。なぜなら、ヘロデほどではないにせよ、59章の冒頭の箇所で、「主の手が短くて救えない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神のみ顔を隠させ、お前たちに耳を傾けるのを妨げているのだ」と御言葉が語るように、私たちの希望を見つめ得ない嘆きと苦しみが、必ずしも、私たちの霊的成長を促すものではないからです。ですから、ヘロデを排除するという単純な解決方法は、うまくいかない原因をヘロデにだけ負わせるだけのことなのでしょう。それゆえ、自分を守るためには、神をも非難することさえ憚らない私たち人間にとっては、悪い奴をただ悪い、気に入らないと言うだけですべてを終わらせることは、むしろ好都合なことでもあるのでしょう。ところが、その重荷をヘロデではなく、御子イエス様に背負わせ、全く新しい手段をもって、その御心を現し、神様の御前へと進み行く道筋を示されたのが、御子イエス様の父なる神様であったのです。このように、一貫して神様の御心が現されているものが御子の誕生の出来事であり、そして、御子の誕生というこの新しさが示すように、神のご支配、私たちに向けられたその思いの深さ、約束を必ず守ろうとするその意思、それは、何があっても失われるものではなく、私たちすべてを、そして、ヘロデをも、神様は導こうとされているということなのです。

 ただ、すべての者が、この神様の御心を御心とするわけではありません。ヘロデ然り、また、予定調和、自己満足、己の利益の最大化、自らの都合に合わせて正しさを主張する者然り、そのような人々が、御子イエス様によって現された神様の新しさを願い求めることはなく、それゆえ、そのような人々は、ちょうど、ヘロデがそうであるように、自ら選び、御心の外に自らを置くことにもなるのでしょう。そして、それは、時に、教会も例外でないことを、私たちの歴史は物語ってくれており、また、先ほどのイザヤ書59章が示すように、御言葉もまた、神の民のそうした一面を「ない」ことではなく、「ある」こととして語るのです。では、私たちはどうか。どうすれば、そのような状態に陥ることはないのか。そのことの答えは、自分自身の内側だけを見つめるだけでは分かりません。三人の博士らのように、自分の内側の世界に籠もるのではなく、御心が置かれている外へと進み行く必要があるのです。しかし、外に出ることは、三人の博士らが別の道を通り、帰っていったように、時に危険が伴うこともあります。けれども、預言者が「彼らを見る人はすべて認めるであろう。主の祝福を受けた一族であると」と語るように、果敢に挑戦すべく外に一歩を踏み出せばこそ、私たちが、神様の祝福の中に置かれていることを知るのであり、また、私たちが外へとその一歩を踏み出せばこそ、祝福の内側に置かれた喜びが、また、世へと伝えられることにもなるのです。つまり、それが私たちであり、それが祝福された神の民であり、それがわたしたち人間であり、クリスマスの喜びが、ヘロデのようなものとさえ分かち合おうとされたように、すべての人々と分かち合ってこその喜びでもあるということです。

 ですから、私たちは、自分の内側だけを見つめる予定調和の世界に生きることもなければ、自分満足を自己実現と呼ぶこともありません。それゆえにまた、自己の利益の最大化を至上命題とすることもありません。それが「主の輝きを現す」道筋ではなく、また、それが私たちの担うべき役割でもないからです。主が導かれる人々と互いに関わり、時に、それはヘロデのようなものも含むものでもありますが、けれども、そこで、その私たち一人ひとりを尚、その愛によって結びつける神様の御心を見つめる、だからこそ、そこで、私たちは、必ず知らされるのです。それは、神様の正義の原則とも言えることですが、この神様の原則、神様の正しさをそこで私たちが受け入れ、寄り添おうとするからこそ、私たちにクリスマスの喜びを喜びとして喜ぶことになるのです。今年も暮れゆき、間もなく新しい年を迎えようとしているこの時であるからこそ、この新しさがどこからもたらされるものであるのか、このことをもう一度しっかりとそれぞれの胸に受け止め、感謝と喜びをもって、主の新しさへと足を進めて参りたいと思います。

祈り

  

  
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