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降誕節第4主日礼拝 説教 「歓迎と拒絶を通り抜けて先へ」

日本基督教団藤沢教会 2019年1月20日

説教:川嶋章弘神学生(東京神学大学)
【旧約聖書】民数記 9章15~23節
 15幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。16いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。17この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。18イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。19雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。20雲が幕屋の上にわずかな日数しかとどまらないこともあったが、そのときも彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。21雲が夕方から朝までしかとどまらず、朝になって、雲が昇ると、彼らは旅立った。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは旅立った。22二日でも、一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間、イスラエルの人々はそこにとどまり、旅立つことをしなかった。そして雲が昇れば、彼らは旅立った。23彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った

【新約聖書】ルカによる福音書 4章16~30節
 16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


「歓迎と拒絶を通り抜けて先へ」
<伝道の初めに、ナザレにて>
 降誕節第4主日を迎えました。今年は灰の水曜日が3月6日、イースターが4月21日と遅いため、例年より長い降誕節を過ごすことになります。もう世の中では、またもしかすると私たちもクリスマスを遠く過ぎ去ったものと思っているかもしれませんが、主イエスのご降誕に引き続きルカによる福音書に描かれている主イエスの物語に耳を傾けたいと思います。

 またこのようにして主の日に藤沢教会の皆さまと共に礼拝を守れる恵みに感謝しております。藤沢教会から柿ノ木坂教会へ転会してもう6年目になりました。6年ですから、小学校に入学した子どもが卒業を間近に控えるような年月が過ぎたことになります。それだけの時間を必要としましたが皆さまのお祈りに支えられ東京神学大学を卒業する日を迎えることができそうです。卒業を前にして藤沢教会でみ言葉を語る奉仕のときが与えられましたことは大きな喜びでありますし、またこのようなときを与えてくださった藤沢教会の皆さまと主に感謝しております。

 母教会の礼拝に出席するというのはなんだか故郷に帰るような心持ちになります。皆さまのお顔を思い浮かべつつお会いできることを楽しみに過ごしてまいりました。もちろん皆さまにお会いできることへの期待だけでなく、講壇からみ言葉を語ることへの緊張もあります。

 本日の聖書箇所は、母教会での説教奉仕ということで私が特別に選んだわけではありません。先生は自由に選んで良いと仰ってくださいましたが、私は藤沢教会で聖書日課(日毎の糧)のみ言葉によって礼拝生活を送り、また信仰を養われてきましたので、このたび藤沢教会で説教奉仕を務めさせていただくにあたり、迷わず聖書日課を本日の聖書箇所とさせていただきました。

 本日の福音書日課であるルカによる福音書4章16節以下は、故郷ナザレにおける主イエスの物語です。先ほど母教会の礼拝に出席するのは故郷に帰るような心持ちがすると申し上げましたが、期せずして本日私たちは故郷における主イエスの物語に耳を傾けています。

 とはいえルカによる福音書の物語に目を向けますと、主イエスがお育ちになったナザレに来ることと、私が故郷のように思える母教会の礼拝に出席させていただくこととではずいぶん違いがあることに気づかされます。マタイ、マルコ、ルカ、この三つの福音書は主イエスの伝道がガリラヤで始まったことを記しています。またこのガリラヤでの伝道の開始が主イエスの公の生涯の始まりとされます。しかしマタイやマルコとは異なりルカによる福音書だけは、主イエスのガリラヤ伝道の始まりが故郷ナザレであったことを記しています。ルカによる福音書では、本日の聖書箇所の直前14, 15節に短い言及があるとはいえ、ガリラヤ伝道における主イエスの癒やしや奇跡、教えや譬えなどが語られるよりも前に、主イエスの伝道の初めに、故郷ナザレにおける主イエスの物語が語られているのです。ですからルカによる福音書では、ガリラヤ伝道の途中で主イエスが故郷ナザレに帰ったのではなく、主イエスのガリラヤ伝道の始まりが、いえガリラヤ伝道だけでなく主イエスの公の生涯のスタート地点が故郷ナザレであったといえます。


<イザヤの預言の実現>
 物語の冒頭に「いつものとおり安息日に会堂に入り」とあります。「いつものとおり」というのは、言い換えれば「習慣にしたがって」ということです。主イエスはユダヤ人の習慣にしたがって安息日に会堂に入られたのです。このことは主イエスが安息日に会堂で礼拝をささげていたことを示しています。主イエスにとって会堂は習慣的に入る場所でした。実際ルカによる福音書では会堂における主イエスが幾度か語られていますし(4:15, 33, 44, 6:6, 13:10)、主イエスと会堂に関連する人物との物語も語られています(7:5, 8:41)。そのように考えますと、お育ちになった故郷ナザレが主イエスの慣れ親しんだ場所であっただけでなく、会堂もまた主イエスの慣れ親しんだ場所であったと申し上げて良いと思います。しかしルカによる福音書は、この会堂において主イエスが律法学者たちやファリサイ派の人々(6:6)あるいは会堂長(13:10)と衝突したことを記しているのです。本日の聖書箇所から少し先の6:6-11の物語に目を向けてみますと、やはり主イエスは安息日に会堂で教えておられるのですが、そこに右手の萎えた人がいました。そこで律法学者たちやファリサイ派の人々はイエスを訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか注目していたのです。主イエスはそのことを見抜かれ言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、滅ぼすことか。」そして手の萎えた人を癒やされたのです。それを見た律法学者たちやファリサイ派の人々は怒り狂ったと述べられています。このように主イエスの慣れ親しんだ会堂において、主イエスに対する反発が、主イエスに対する拒絶が起こるのです。本日の聖書箇所に戻りますと、故郷ナザレの会堂におけるこの物語も、主イエスの慣れ親しんだ場所における物語であるだけでなく、その場所における主イエスに対する反発をも描いています。

 主イエスが聖書を朗読しようとしてお立ちになると、預言者イザヤの巻物が渡されました。主イエスは渡された預言者イザヤの巻物を開き、ある箇所に目を留められます。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 旧約聖書イザヤ書61章1-2節のみ言葉です。「主がわたしに油を注がれたからである」とありますが、「油を注がれた方」とは救い主のことを意味します。ですからイザヤ書61章1-2節は救い主について告げているみ言葉です。

 会堂にいるすべての人の目が主イエスに注がれていました。すべての人の目が主イエスに注がれる。これから主イエスがこの聖書のみ言葉についてなにを語るのだろうか。そのことに大きな注目が集まっていたことが分かります。主イエスは言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。会堂内にいるすべての人たちへ、あなたがたがこのみ言葉を聞いたとき、まさに今日、このみ言葉は実現したのだと言われるのです。主イエスはイザヤの預言が主イエスご自身において実現したと言われました。

<歓迎から拒絶へ>
 主イエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのを聞いて、会堂にいる人たちは皆イエスをほめました。また主イエスの口から出る恵み深い言葉に驚きもしました。人々は主イエスを歓迎したのです。しかし人々のイエスに対する称賛や驚きは、一つの問いの言葉へと移っていきます。「この人はヨセフの子ではないか?」

 主イエスは「神の霊がわたしの上にある」と言われ、また主イエスはご自身においてイザヤの預言が成就したと言われました。故郷ナザレですから、子どものころの主イエスを見知っていた者たちもいたことでしょう。会堂ですから、普段から主イエスが礼拝をささげているのを知っていた者たちもいたことでしょう。「この人はヨセフの子ではないか?」という問いは、主イエスのことを知っていると思っていた人たちの間でこそ、主イエスに慣れ親しんでいた故郷ナザレの会堂においてこそ、最も生じやすい疑問であったのではないでしょうか。この人はヨセフの子ではないか。そうであるならば、この人の上に神の霊があると信じられるだろうか。この人が救い主だと信じられるだろうか。

 主イエスはナザレの人たちに言われます。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」ナザレの人たちはヨセフの子であるイエスに期待していました。自分たちの知っているヨセフの子イエスなら、自分の故郷でいろいろなことをしてくれるに違いないと期待していたのです。私たちはしばしば自分が知らない人に対してよりも、自分が知っている人に対して期待します。あの人のことは分かっている、そのように思っている相手にこそ多くを求めます。ナザレの人たちも自分たちはイエスのことをよく知っている、よく分かっていると思っていたのでしょう。だからこそイエスがいろいろなことをしてくれると期待したのです。

 しかし主イエスは言われます。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」。主イエスは故郷ナザレの人たちの期待が救い主である主イエスに向けられたものではなく、ヨセフの子であるイエスに向けられたものであったことにお気づきだったのではないでしょうか。そして主イエスは旧約聖書のよく知られた二人の預言者、エリヤ(列上17:8-24)とエリシャ(列下5:1-27)が出てくる話を語りました。預言者エリヤの時代に、3年6か月雨が降らず大飢饉が起こったとき、預言者エリヤは自分の故郷であるイスラエルにいた多くのやもめのもとには遣わされないで、自分の故郷ではないシドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされたことが語られます。また預言者エリシャの時代に、故郷イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいましたが、故郷の人ではない外国人のシリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかったことが語られています。

 ナザレの人たちはこの二つの物語を知っていたのではないでしょうか。しかし知っていたとしても、この二つの物語を自分たちに関係あることとして受けとめたことはなかったのです。ですから主イエスが「預言者は自分の故郷では歓迎されない」ことをこの二つの物語から示したとき、ナザレの人たちの反発は非常に激しいものでした。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」と語られているくらいです。ナザレの人たちのイエスに対する称賛や驚きは、これほどまでに大きな拒絶へと変わったのです。

<歓迎と拒絶を通り抜けて先へ>
 私たちは、一月ほど前に、神の独り子主イエス・キリストのご降誕を祝いました。主の恵みの年2019年も、この地上へと来てくださった主イエスに期待して歩んでいきたいと思いますし、大いに期待して良いのだと思います。どれほど私たちの期待が大きいとしても、主のなされるみ業は私たちの予想をはるかに越えたものであるに違いないからです。けれどもまた同時に、私たちの毎日は主への期待と主への失望の繰り返しであるともいえないでしょうか。主が祈りを聴いてくださったと喜ぶ一方で、主が祈りを聞き入れてくださらないと失望するのです。もちろん祈りが聞き入れられたときは大いに喜び、祈りが聞き入れられないときは大いに嘆いてよいのでしょう。しかし故郷のナザレの人たちが主イエスの言葉を聞いて主イエスを歓迎し、同じお方の言葉を聞いて主イエスを拒絶したように、私たちもまた主イエスを歓迎したり拒絶したりしてしまってはいないでしょうか。

 「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というナザレの人たちの主イエスに対する激しい拒絶に続いて、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と語られこの物語が終えられます。この一文をもっと素朴に訳せば「しかし、イエスは人々の間を通り抜けてから、行った」となります。主イエスがどこへ行ったのかについては書かれていません。ただ主イエスは「行った」と書かれてあるのみです。主イエスの故郷の人たちは、主イエスがどこへ向かわれたのかを知りません。主イエスがどこへ向かって歩んで行ったのか分からなかったのです。ですから主イエスが自分たちの救い主であることも認められませんでした。最初人々は聖書に書かれてある救いが今日実現したと聞いたときには大いに主イエスを歓迎しました。しかし彼らは主イエスの言葉を神の子の言葉としてではなく、ヨセフの子の言葉として聞いていたので、主イエスが語られたことが自分たちの期待に反すると主イエスを拒絶したのです。

 けれども私たちは主イエスがどこへ向かわれたのかを知っています。私たちは主イエスが故郷のナザレの人たちの歓迎と拒絶を通り抜けた先で、私たちを救われるために十字架におかかりになったことを知っているのです。故郷のナザレの人たちはだれひとり、主イエスが十字架へ向かって歩んでいたことを知らなかったに違いありません。しかし私たちは主イエスが十字架へと歩まれたことを知っています。すでに私たちには救いの実現が告げられているのです。主イエスこそ真の救い主であることが告げられています。

 私たちの日々の歩みは、時として故郷のナザレの人たちと同じであるかのように思えるかもしれません。主イエスを歓迎し、主イエスを拒絶する。ルカによる福音書は、主イエスの伝道の初めにナザレで主イエスが歓迎と拒絶にあったことを記しています。その歓迎と拒絶は、主イエスがエルサレムに入場した際、弟子の群れがこぞって神を賛美したにもかかわらず、その弟子たちが、とりわけペトロはイエスが逮捕されたとき、三度「わたしはあの人を知らない」と主を拒んだことを伝道の初めにおいてすでに先取りしているといえるでしょう。故郷ナザレで始まった主イエスに対する歓迎と拒絶は十字架への歩み、受難週の歩みにおいて極まるのです。

 けれども、私たちはたとえ一方で主イエスを歓迎し他方で主イエスを拒むような自らのあり方に気づかされることがあったとしても、そのような私たちの歓迎と拒絶を通り抜けて先へ行かれる主イエスにこそ安心して望みをおいて良いのです。私たちの歓迎と拒絶を通り抜けて先へ行かれる主イエスは、私たちの期待をさらに超えるものをお与えくださいますし、私たちの失望を予想もしていなかった仕方で希望へと変えてくださるからです。私たちは主イエスの歩まれるその先で、主イエスに対する拒絶の極みである十字架において、主の救いが実現したことをすでに知っています。私たちが救われたことを知っているのです。私たちはこのことにこそ望みをおいて、すでに主の救いが実現したことを告げ知らされた者として、主によって救われた者として、それぞれにこの世において遣わされた先で主の救いが実現していることを伝えていきたいと願います。


主なる神よ、あなたは私たちの期待をはるかに超える恵みをお与えくださいます。あなたは私たちの嘆きを喜びに変えてくださいます。ただあなたのみを信頼し、あなたのみ心を祈り求め、あなたに従って歩む者としてください。アーメン


  


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