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降誕節第5主日礼拝 説教 「カッコ悪いがカッコいい」

日本基督教団藤沢教会 2019年1月27日







説教
鈴木 みどり 牧師
(前 茅ヶ崎教会副牧師)
【旧約聖書】出エジプト記 4章10~17節
 10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」11主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」13モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
 14主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。
 「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。15彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。16彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。17あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

【新約聖書】コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12~26節
 12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


「カッコ悪いがカッコいい」
● パウロの想い
 前回私がここで8月26日にお話させていただいたのが、今日のコリントの箇所の次のところ、27節からだったことを憶えていらっしゃるでしょうか? 実は今回この1コリントの聖書箇所にした理由は、3年サイクルの聖書日課では、今日の箇所がたまたまここだったからです。厳密には31節まででしたが、27節以降は前回お話したところですので、今回は、この聖書では一応区切りの良い26節までにしました。なので神様が、何かよっぽど藤沢教会で、みなさまと私にここの内容を伝えられたいのかなと思いまして、せっかくなので少し戻る形ではありますが、今日は出エジプト記と絡める形で、このパウロの言葉に聴いていきたいと思います。

 まずコリントの方から少し見て参りたいのですが、前回も申し上げましたとおり、教会の真のリーダーは、牧師でも役員さんでもなく、イエス様です。そして、27節でパウロが言っていたように、私たちはキリストの体であって、一人一人はその部分なんですよね。教師も信徒も関係なく、私たちは一人ひとりが皆、キリストの体を形作る一部分なのだということをぜひ思い出して、それを大前提として、今日のメッセージをお聴きいただきたいと思います。
 今日初めて教会にいらした方がいらっしゃるかどうか、今私にはわかりませんけれど、教会というところは、この世の会社や学校のようなところとは、違う価値観、神の国、つまりは天国の価値観で動いています。誰が一番だ、誰がビリだ、というような競争はしません。(役員を決める時などに選挙はするかも知れませんが、何かご褒美があるわけではないので、あれは競争ではありません)でも会社にも学校にも、必ず競争があります。営業成績やらお勉強の成績やら。私たちはそうした社会で生きながら、無意識にその価値観に心を乗っ取られているところがあったりするのではないでしょうか。

 でも教会というのは、そうではない。そういう“しのぎを削る”ようなところではなくて、みんなで一つの体なのだ、ということをパウロは、この12節から21節のところまででも、ずっと繰り返しています。コリント教会の中に分裂が起きて、なかなか信徒たちが、一つにまとまれない状況に陥っていたからです。パウロはそのことを、体は一つでも、多くの部分から成り、と言って、私たち自身のこの体に例えて、各部分の大切さを切々と手紙に書いて、コリントの人々に訴えているのです。
 13節の、「一つの霊」というのは、聖霊のことです。クリスチャンは皆、身分や国籍に関係なく誰でも、キリストの体である教会に連なって、皆一つの体となるために洗礼を受けました。そして、聖霊という、同じ神の霊を受けたのです。皆一つの霊をのませてもらったというのは、洗礼を受けたことによって、聖霊、つまり神の霊、キリストの霊が、私たち一人ひとりの中に入られた、という意味です。

 講壇でこんな言葉はいかがなものかと思いつつ言いますが、「目くそ鼻くそを笑う」という諺をご存じでしょうか。これはさすがに聖書から出た言葉ではないと思いますが、「自分にも同じような欠点があるのに、それには気付かず、他人の欠点を平気であざわらう」という意味の諺です。パウロがこの21節で言っていることも、それと少し似ています。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
 要するにコリント教会の人々は、あまりにも霊的な賜物が豊かに与えられたので、預言をする人、異言を語る人、病気を癒やせる人、などがたくさん現れて、ついつい人間の罪の性質から、知らぬ間に驕り高ぶってしまったわけです。それで預言をする人が、預言はできないけれど病気を癒す人に向かって、「預言できなきゃダメなんだよ」みたいなことを言っていたのでしょう。「全部が耳だったら、どこで匂いを嗅ぐんだ」、という17節のパウロの言葉も、そうしたコリント教会の状況に警告を発しているわけです。そして22節で、それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分のほうが、かえって必要なのだと、コリントの人々を諫めるのです。

 さて、世の中には実に色んな賜物、才能を持った人がいるわけで、きっとどこの教会の牧師も今日はこれを語らずにはいられないでしょう(笑)。また国民栄誉賞か、という偉業を昨夜成し遂げた、テニスの大坂なおみ選手のことです。彼女は5ヶ月前の全米オープンでも優勝して、さらに昨日の全豪オープンで、クビトバ選手との、まさに激闘の末にまた優勝して、さらに世界ランキング1位にも輝きました。あんなにハラハラドキドキする試合もなかなか見られないのではないでしょうか。私は途中で見るのに疲れてしまって、一端テレビから離れたくらいでした。大坂選手も途中、泣きながら試合していたほどです。あと少しのところでなかなか勝たせてもらえずに、まさに死闘を経ての世界一でした。
 野球のイチロー選手やサッカーのなでしこジャパンなどもそうですが、あんな風に何か一つのことをずっと一生懸命やってきて、見事に花開いて、スーパーヒーローやヒロインになれる人々は、まあものすごいプレッシャーと練習で大変なんでしょうけれど、お金もたくさんもらえるし(笑)、生きててさぞかし楽しくて気持ちがいいだろうなと思いますよね。

 でもですね、水を差すわけではないのですが、あれが素晴らしい、すごいことだと賞賛されるのは、実はこの世だけの価値観に過ぎないのです。もちろん、自分に与えられた賜物を十分に磨いて生きることは素晴らしいことです。でも天国に帰った時に私たちが神様から問われるのは、金メダルをいくつもらったか、いかに栄光ある人生を生きたか、ではなくて、たとえ何にも人の目に映える結果は出せなくても、いかに、私たちの救いのために十字架で死なれたイエス・キリストを知り、そのキリストの体の一部として、キリストのために生きたか、なのです。なぜなら、自分の栄光のためでなく、神様の栄光のために生きるなら、みんなが大坂なおみさん以上のスーパーヒーローでありヒロインだからです。
 ですから私が彼女に望むのは、あのスピーチの場で、サンキューと言う宛て先の中に、「神様」も加えてくれる人になって欲しい、ということです。Oh my God!と言うだけではなく、「Thank you God! 神様あなたにこの栄光をお返しします!」と言える人として、霊的に目覚めて欲しい、救われて欲しいということです。心にキリストの愛を、つまり神様を持つ人になれるように、みなさんも彼女の救いのためにお祈りください。

 「心に愛を」で思い出しましたが、前回、この後の13章の3節の日本語訳が、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。ではなくて、「誇ろうとして」とか「」という言葉は原語にはないので、そこは「焼かれるために我が身を引き渡そうとも」と訳した方がよいようです、と申し上げたのですが、先月遂に出ましたこの新しい聖書は、見事にその通りの訳に変わっていました、ということをせっかくなので一応お知らせしておきます。ただこうした礼拝で使おうとしますと、当然ながらページもズレていますし、小見出しまで変わっていますのでご注意ください。

● モーセとアロン
 さて、神様がフォーカスしてくださるのはむしろ、何かが欠けている人や、やろうとしてもうまくできない人の方なのだという実例を、ここで一つ見たいと思います。本日の旧約聖書、出エジプト記のモーセです。このモーセという人は、エジプトから民を率いて逃げる時、海の水を割ってみんなが地面を歩けるようにしたというあの有名な人ですが、今日の箇所はまだそれより前のお話です。
 モーセはエジプトで奴隷として働いていた時に、仲間のヘブライ人を虐めていたエジプト人を殺してしまい、死体を砂に埋めて、ファラオから逃げてミディアン地方に隠れました。そしてそこでミディアンの祭司の娘と結婚し、息子を持ち、羊飼いとして生活していました。その時、ホレブの山(シナイ山)で、柴の間に炎が燃えて神様の声を聞いたのです。そのシーンはこの一つ前の3章から始まっているので、あとでぜひお読み下さい。モーセが神様の名前を聞いたら、「わたしはあるという者だ」と言われた不思議なやりとりのところです。その時にモーセは、エジプトのファラオの所に一度戻って、奴隷として酷い生活を強いられているイスラエルの人々をエジプトから導き出せ、という召命を、神様から告げられたのです。
 クリスチャンではない人にまでよく知られている、あんなに世界的に有名な人も、神様から召命を受けた時、つまり、「民のリーダーになりなさい」という命令を神様から受けた時には、まだこんなに情けないことを神様に言っていたのだ、という興味深い一場面です。

 聖書の中で有名な人は、結構神様に反抗します。口答えもしますし、意外とワルです(笑)。アブラハムも神様に食い下がったり、子どもができると言われて密かに笑ったりしましたが、モーセもとにかく、とことん、主、つまり神様からの召命を嫌がりました。
 でも神様も負けずに、モーセに「奇跡」のような「しるし」を見せます。すると、モーセが神様に言われたとおりにしたら杖が蛇になったり、また杖に戻ったり、あるいは懐に手を入れるだけで重い皮膚病になったり治ったりしました。でも「それでもなお」、モーセは、イスラエルの人々をエジプトから脱出させる導き手となりなさい、という主の命令に、首を縦には振らなかったのです。
 モーセはまず、10節にあるように、「ああ主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。…全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と言って、主の前に食い下がりました。要するに「そんな事は自分には全然向いてないからやりたくありません!」というワガママを、神様に向かって言ったわけです。

 実は私も、今はこうしてここに立って話しておりますが、モーセと同じで、人前で話すことが大嫌いで、いまだにあまり好きではないので、このモーセの気持ちがとてもよくわかりますし、「牧師になれ」という意味の大きな声が突然天から降ってきた2000年の9月から、きっかり10年間、2010年に東京神学大学に編入学するまで、「人前で話す仕事なんて、私には絶対無理です!」と、このモーセと同じ事を言い続けて、神様の召命から逃げようとしました。ほんとうに嫌だったからとはいえ、10年間というのはあまりにも逆らい過ぎたからなのか、最後は神様も結構投げ槍というか強引な感じで、「この船には乗りなさい、これが最後の船です」と言われて、背中をボン!と押される感じで東神大に叩き込まれました。ようやく人前で手も足も震えずに説教ができるようになったのは神学校卒業の頃でしたが、もはやそんな時代があったとは、誰にも信じてもらえなくなって来ました(笑)何が言いたいかと申しますと、神様には神様の御計画がある、ということです。そしてそれが神様の御計画である限り、神様が御自身で成し遂げられます。

 聖書に戻りまして出エジプトの11節から見てみますと、モーセもどうやらそんな具合で主から叱られています。主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。
 すべてをなさるのは神様御自身だ、ということです。
 しかしそれでもモーセはまだ「はい」とは言わないんですね。13節「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」とまた食い下がります。
 そうしたら神様が遂にプチッとキレられたんですね(笑)。14節、主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。…
 そして、さすが全知全能の主なる神様には、モーセが反抗してくることもすべてお見通しでしたから、もうその時アロンがモーセのところに向かって来ていました。すべて備えられていたのです。何のためかと言いますと、アロンという兄は、モーセよりも喋るのが得意で、弁が立つタイプだったので、そのアロンがモーセの代わりに人々に話す役割をする、というのが神様のご計画だったのです。神様はいつも用意周到です。それが神様の御計画ならば、ないはずのお金さえ、必要なら、なぜかきっちり与えられます。私にはアロンは与えられませんでしたが、その代わり、私自身がどうにか人前で話せるように、変えられました。

 15節〜17節で、主なる神様はこう言われました。
15彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。16彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。17あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。
 喋るのが苦手なモーセに、「喋るのが得意なアロンを与えてあげるから、それに、わたしもいつもあなたの口と共にあるのだから、あなたは、この杖を持って、さっき私が見せたように、しるしを行っていればよいのだ」と、神さまは言われたのです。
 つまり、モーセはリーダーシップを取るけれど、話すのは苦手だから喋らなくてよくて、その代わりにしるしだけ行えばいい、一緒に出エジプトをする60万人とも100万人とも言われる多くの人々に語る役目は、兄のアロンが代わりに担当する、というのが、神様のご計画だったのです。
 私たちはこのようにして、できないことはできないままで、つまり格好悪い部分もそのままで、組み合わされて、欠けを補い合って、共に主の体である教会を、立て上げていくのです。

● カッコ悪いがカッコいい
 さて、最後にまた新約聖書の1コリントの方に戻りたいのですが、みなさん、「ジェンガ」という、積み木を崩していくゲームをご存じでしょうか?同じ形をした小さな棒状の積み木を、最初はキレイにタワー型に組み上げておいて、そこから一つずつ間の積み木を抜いていって、崩した人が負け、というゲームです。どこの教会でもよくやるのではないでしょうか。あるいは、もっと簡単に言うなら、金八先生じゃないですけれど、「人」という漢字。下の棒が倒れても、上の棒が無くなっても、どちらも崩れてしまいます。組み合わされて、立っています。どのひとつの部分も大事だし、必要。要らない部分なんてどこにもない。教会というのも、私たち一人ひとりが、そのように組み合わされて立つキリストの体です。先ほどのモーセとアロンの兄弟もそうでした。どちらが欠けてもダメです。

 でもパウロはここで、それだけではなく、さらに大事なことを言います。23〜24節、
23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
 むしろ他より弱くて格好悪いような部分の方がかえって必要だし、神様はそういう格好悪い部分の方をむしろ引き立たせてくださるのだ、というのです。

 実はこの、23節24節は、例の新しい聖書では、もっとすっきりと分かり易い訳になっています。ご紹介しますと、「23私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。24しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。
 「縁の下の力持ち」という言葉もありますが、目立たなくてつまらないような感じで、格好悪いような陽の当たらない陰の部分こそが、かえって必要だし、神様はそういう劣った部分を、かえって尊いものとして大切にしてくださって、ぜーんぶ合わせて一つの体、一つの教会、としてくださっているのだと、パウロは言うのです。
 そして、そうであるならば、25節、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っているはずで、26節、一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶものなのだと、教会とはそういうものなのだと、パウロは言っているのです。

 さて私たちにはそれぞれ、どんな賜物があって、どんなことが苦手でしょうか?キリストの体である教会のために、自分にできることは何でしょうか?
 たとえ病気やケガで動けなくなっても、口に筆をくわえて聖書的な絵や詩などを描いて私たちを励ましてくださる方もおられます。あるいはだいぶご高齢になって教会に来られず、ホームに入られた方でも、ひたすら祈りで教会を支える方もおられます。そして元気な人たちは、そうした人たちの所へお見舞いに行き、病床で礼拝や聖餐式をしたり、必要なものを届けたり、共に時間を過ごす中で、お見舞いに行ったはずが逆にとても励まされて帰って来たりします。
 私たちは、人生を通してでも、あるいはその時その時に応じてでも、それぞれ神様からいただいている自分自身をそのまま使うことによって、互いに組み合わされて支え合い、互いに輝くことができるのです。
そのままの自分で、自分らしくあれば、神様がちゃんとその御計画に従って、必要なものを補って、私たちを用いてくださいます。だから私たちは、安心して神様に身を委ねていればよいのです。

 先ほどの、新しい聖書の23節、実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのですというのが、実は本日の説教題なのですが、どうして「カッコ悪い」が、かえって「カッコいい」のでしょうか?
 むしろ神様は、劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださったのだ、(新共同訳=見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられ)と24節でパウロは言いました。モーセがアロンと組み合わされて、神様の働きに用いられたのも、まさにそれなのです。
 かえって尊いものとし、の「尊いもの」には、τιμή(ティメー)という、「名誉」とか「栄誉」などを意味する原語が使われています。
 なぜ私たちの劣っているところ、カッコ悪いところが、名誉あるものとされるのか。
 それは、そこにこそ、神様の力が働かれるからです。
 神様御自身が、アロンを与えるとか、何らかの方法でそのカッコ悪い部分に関わって、その欠けた部分に働いてくださるからです。
パウロ自身も、どう祈っても癒されない病を抱えていました。癒しを求める祈りに対して、イエス様の応答はこうでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。それでパウロはこう言ったのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…わたしは弱いときにこそ強い」(2コリント12:9−10)と。 
 繰り返しますが、みんながみんな、大坂なおみ選手のようなヒーロー、ヒロインである必要はないのです。カッコ悪いまんまでも、神様とタッグを組んで生きるなら、私たちはみんな、大坂選手以上にカッコいいスーパーヒーロー、スーパーヒロインになれるのです。

共に祈りましょう。

 主なる神様、あなたの御名を誉め讃えます。
 今日もあなたの尊い御言葉を感謝いたします。
どうぞ私たちがそれぞれ、カッコ悪い自分のままで素直にあなたに頼ることができますように。そして、その弱さにこそあなたの力が働かれることを信じて、パウロのように、「自分は弱いときにこそ強いのだ」との信仰をもって教会にお仕えすることができますように。
 次週には創立101周年を迎えられるこの藤沢教会も、お一人お一人が神様の愛と平安の中で一つに組み合わされ、共に苦しみ、共に喜び合って歩む主のみ体として、さらに祝福してください。そして、さらに多くの方をここにお招きください。これまでの歩みを導いてくださったことを、心より感謝いたします。
 また、ご病気や困難や、ご家族を天に見送られ、深い悲しみの中にある方には、どうぞ天来の癒しと励ましとを豊かに注いでください。
 冬休み中の黒田先生ご夫妻のこの貴重な時を、お疲れを癒し、心穏やかに過ごせる時として、どうぞ豊かに祝しお守りくださいますように。またこれからのお働きの上にも、さらなる主の祝福をと願います。
 今お一人お一人の心にある切なる祈りと合わせ、この祈り、私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。
アーメン


  


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