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降誕節第7主日礼拝 説教 「してはならないこと」

日本基督教団藤沢教会 2019年2月10日

【旧約聖書】出エジプト記 20章8~11節
 8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

【新約聖書】ルカによる福音書 6章1~11節
 6また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。7律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。8イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。11ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。


「してはならないこと」
 史上最強の寒波の到来とそれに伴う降雪予報が繰り返し伝えられておりましたが、そこで、思い出したのが、5年前のあのドカ雪でした。藤沢でもかなりの降雪量であったと聞いておりますが、前任地では、本当にすごい有様でした。吹きだまりでは私の胸の上くらいまで雪が積もり、教会の玄関が吹きだまりであったために、直ぐに外に出ることができないほどでした。ですから、「今日は、皆さん、礼拝に来たくても来ることはできないだろうな」と、ふとそんなことを思ったりもしたものでした。ところが、膝より上の雪をかき分け、6人の人たちが、いつもと変わりなく礼拝にお見えになったのです。そして、始まったあの静かな礼拝は、今でも忘れることができません。

 さて、安息日、私たちにとっては、主の日の礼拝でもありますが、十戒の中で守るべきものの一つに数え上げられているように、雨が降ろうが、雪が降ろうが、必死になって集うのが、主の日の礼拝というものでもあるのでしょう。礼拝は、私たちクリスチャンの生活においてそれほどまでに外すことのできないものだからです。ですから、それについては、皆さんも、自らの心にそう強く命じておられることと思います。また、だから、様々な事情で礼拝に出席できないときなど、その旨を人に伝えたりもするのでしょう。従って、礼拝を休む旨を人に伝えるのは、出席できないことへの言い訳からではありません。私たちの中で、守るべきものだと言うことが徹底されているからであり、それゆえ、私たちがこうして主の日の礼拝を共にしているということは、私たちの意思や考え、その時の気分などに基づいて、出たり出なかったりするものではないということです。けれども、その反面、そうした理解が徹底されているからこそ、休むことにどこか後ろめたさを感じてしまう。そして、そう感じるのは、この安息日の規定を受け、出エジプト記31:13節以下で語られている御言葉の影響が少なからずあるようにも思うのです。

 「あなたたちは、私の安息日を守らなければならない。それは、代々にわたって私とあなたたちとの間のしるしであり、私があなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。これは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚すものは必ず死刑に処せられる。誰でもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は、仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。誰でも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠に私とイスラエルの人々の間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業を止めて憩われたからである」と、このように語られているのですが、そこには、神様と共に荒野の旅を続けるイスラエルに対する神様の厳しさに加えて、この御言葉が、神様の臨在の幕屋建設を命じられたその頂点において語られているように、何があろうとも共にいるという、神様の覚悟のほどを感じさせられもするのです。

 それゆえ、信仰の営みの中心でもある幕屋、私たちにとっては、こうして集められている礼拝堂ということになりますが、神様との関係性を第一とする私たちにとって、その信仰を支える時と場所は欠かすことのできないものであるということです。つまり、主の日の礼拝とは、いつでもどこででも好きな時に、勝手にやっていいというものではないということです。ですから、場所だけあればそれで良いということでもなく、また、時間をやりくりして、とりあえず集まりさえすればそれでいいというものでもない、私たちの信仰における礼拝とは、安息日という特別な日に、神様が定められた特別な場所に集まることが求められているのであり、また、だから、そこに神様と私たちの、その特別な思いが込められることにもなるのです。ですから、この礼拝なくして、信仰が信仰とされることはなく、もし、私たちが、信仰に対する確信を得たいと願うなら、主の日の礼拝を守ることなくして、この信じることの手応えを感じることはないということです。

 従って、礼拝というものは、これは当然のことではありますが、強いられてやらされるものでもなく、また、おざなりにするものでもありません。礼拝は、自ら進んで喜んで献げるものであり、そして、私たちがそのように礼拝を守りたいと思うのは、私たちが神様の御心、その覚悟のほどをよくよく分かっているからです。つまり、神様が、その御心として、教会という共同体とそこに連なる私たちのことを、神様が定める終わりの日までを何があろうとも導こうとされている、そのために、私たちの歩みを支え、守り、惜しみなく働きかけてくださっている、私たちがそれを知ってこそのものだということです。ですから、この安息日を守り、神様に礼拝を献げるからこそ、終わりまでの旅を続ける私たちの交わりは、交わりとしての本来の意味を保ち、神様の御心にふさわしく、その交わりとしての形を保ち続けることになるのです。だから、神様と私たちとの間に立てられたこの約束を、私たちは必ず守らなければならないわけで、ですから、私たちが一番してはならないことは、この神様との約束を破ることです。

 ただ、それについては、先に申しましたように、皆さんの中で、もうすでに徹底されていることでもありますので、今更、敢えて、安息日は守るべきものですよ、守らなければなりませんよと、敢えて申し上げるまでもないことなのだと思います。けれども、そうであるからこそまた、皆さんにお尋ねしたいのですが、では、御言葉はどうしてそれを敢えて私たちに求めるのでしょうか。また、このように、安息日というものが、私たちの中で守るべきものとして、徹底して意識されているにもかかわらず、安息日に安息に与ることができないということを時折耳にするのはどうしてなのでしょうか。

 安息日の礼拝に出席しながら、すべての人が至福のひとときを過ごすわけではなく、退屈し、それどころか、窮屈な思いをしている人が必ずいるのでしょう。ただ、窮屈な思いをしているのは、私たちだけではありません。私たち以上に窮屈な思いをしている方がいるのが、主の日の礼拝でもあるのです。では、その一番窮屈な思いをしている人とは、一体誰なのか。それは、神様の御心を御心として現すことが求められている人物ですが、さて、それは、誰でしょうか。弱ったな、困ったな、大変だな、礼拝の中で、その人は、誰よりも強くそう思っている違いありません。それは、一体誰かということです。御言葉を見ればすぐに分かるように、それは、イエス様です。ただ、イエス様は、それを嫌々渋々引き受けられたわけではありません。自ら進んでこの面倒を引き受けておられる。今日の御言葉が明らかにするのは、イエス様というお方が、自ら進んで窮屈な立場に身を置かれる方であるということです。しかも、敢えてというか、わざわざというか、今この時ここでそれをするの、と、私たちならそう思うやり方で、自らをそのような立場に置くのです。

 イエス様は、ここで右手の萎えた人を癒やされるのですが、この人の負った病は、流れから考えると、急を要するものではありませんでした。ですから、今この時すぐに行わなければならないことではなく、安息日が終わった翌日でも遅くはなかったはずなのです。ところが、礼拝の中にこの人がいることに気づいたイエス様は、すぐにこの人を癒やされた、それには、二つ、理由がありました。一つは、イエス様のお人柄ゆえ、つまり、苦しみ哀しみを抱えた人を見過ごしにすることができず、自らの使命を全うされたということです。そして、もう一つは、律法学者、ファリサイ派の悪意に気がつき、そこで、自らのなすことの正しさを明らかにされたということです。それゆえ、ここでのイエス様の振る舞いを見た多くの人々は、溜飲を下げることにもなるのでしょう。気の毒な人を憐れまれただけでなく、悪いやつの鼻を明かしてくださったからです。

 ですから、そう考えると、安息日の礼拝というものは、何が何でも言われたとおりに言われたまま、行わなければならないものではないということです。困った人がいれば、見過ごしにせず、そちらを優先していいということであり、イエス様が率先してそうしているわけですから、それについては、誰も文句は言えないということです。従って、私たちが、やむにやまれぬ事情で礼拝を休むことがあったとしても、説明が立てば、後ろ暗い気持ちになる必要はないということです。胸を張って、自信をもって、どうどうと礼拝を休めばいい、そういうことでもあるのでしょう。ですから、だからというわけではありませんが、私は、這ってでも礼拝に出なければならないとは申しません。強迫観念に追い立てられ、心や体に大きなダメージを与えるような形で献げられる礼拝に、喜びも平安もないからです。

 ただ、ここでのイエス様の振る舞いですが、では、この振る舞いを通し、御言葉が語ろうとしていることは、礼拝を休む上での逃げ道、方便を私たちに与えることなのでしょうか。もしそうであるとしたら、そもそも主の日の礼拝は、あってもなくてもいいものになってしまいます。私たちの理由が立てば、それはどちらでもいいということになりますし、もし、そうであるとしたら、命がけの礼拝を求める神様の覚悟も、イエス様ゆえに、意味のない、古くさいものになってしまいます。けれども、もちろん、そうではない、そうではないなら、ここでのイエス様の振る舞いを通し、御言葉は、私たちに何を言わんとしているのか。この日、私たちが目を向けるべきところは、この点にあるように思うのです。つまり、休むか休まないか、そのための理由が立つか立たないか、そのことは二の次、三の次のことであり、そもそも、安息日に、私たちが主の日の礼拝を献げるということがどういうことなのか、御言葉が語らんとしていることは、この点だと思うのです。そして、その答えが、この癒やしの出来事の直前に語られている「人の子は安息日の主である」というイエス様のこの言葉の中に現されているのです。このことはつまり、私たちが安息日に主の日の礼拝をこうして献げるということは、そのすべてが、神様とイエス様の御心ゆえのものであり、神様が一切を統べ治められているという、この神様の秩序の中に私たちの命が置かれている、このイエス様の言葉は、このことを現しているのです。

 主の安息という言葉が持っているその根源的な意味は、やめる、止める、中断するということです。人間の意思、考え、習慣など、それに伴うあらゆる営みを七日目に中断し、あらゆる思い煩いから離れて、主にある安息、平安の中に身を横たえることなのです。このことはつまり、ただただ神様にその心も目も、私たちのすべての感覚を神様だけに向けるということです。従って、安息日は、私たちの管理下にあるものではなく、神様の管理下にあるものであり、人の子は安息日の主であると仰ることの意味は、つまりはそう言うことだと思うのです。また、だから、神様をその管理下に置こうとするあらゆる振る舞いは、当然、罰せられるべきでありますし、まただから、万死に値するものだと御言葉は語るのです。ですから、万死に値するのは、イエス様ではなく、イエス様を陥れようとしている人々であるのは間違いありません。

 ただ、神様は、イエス様ゆえに、これらの人々のことを必要のない人々だとは見なしません。昔から変わらずにあり続ける世の本質、つまり、それが、神様の秩序、主にある平安ということなのですが、ですから、自らの思い通りにならず、不信感、不快感を募らせる律法学者、ファリサイ派の人々を前にし、なお救いを待ち望む人を癒やされたイエス様のその振る舞い、それが明らかにすることは、私たちが生きるこの世界において、神様が、その本来の命に生きる道を備えてくださっているということです。そして、私たちの命を存続させるその根拠が明らかにされるのが安息日であり、従って、安息日が私たちにこうして与えられているのは、それゆえのことでもあるということです。私たちが守るか、守らないか、正しい礼拝を献げるか献げないかというところに、その意味があるのではなく、神様の問題として、私たちを神様の安息の中に置こうとしていると言うことです。ですから、賜物として与えられたこの安息日を、ああだこうだと理屈づけ、狭く狭く捉えるのではなく、ただただ賜物として感謝して受け取る。そして、イスラエルがこの姿勢を徹底して身につけることになったのは、神様の命の祝福から外れたかのように見える荒野での旅を、神様と共に続けたからでもありました。

 ただ、この荒野の旅は、40年もの長きにわたるものでした。つまり、イスラエルの人々が主の安息を本当の意味で実感するには、時間が必要であったということです。ですから、このことはつまり、主の安息を知るには、それこそ人生をかけて、知ろうとする姿勢が求められているということです。それゆえ、イエス様がそうであるように、共に旅を続ける人に対する心遣いも、当然求められることにもなるのでしょう。荒野の旅は、自分一人だけで続けるものではないからです。それゆえ、この荒野での旅が一塊の群れとして続けられたように、塊が損なわれることは、私たちがどんなに気に入らないことがあったとしても、神様ご自身がそれを望んではおられません。ですから、この世の旅を続ける私たちにとって、安息日を守るということを何かにたとえるとするなら、それは、固いからに包まれた二つのクルミを手の中で握りしめ、こすり合わせるようなものだと思うのです。一つは、自分、もう一つは、共に歩む人々、そして、それをその御手の中に置き、ごりごりこすり合わせるのが神様だということです。けれども、そこで、ごりごりこすり合わされるからこそ、やがてバキッと音を立てて固い殻は破られ、私たちが最も知りたい、見たいと願う、神様の御心が、固い殻の中から現れ出ることにもなるのです。

 このことはつまり、自分の思い通りにならず、イエス様に対し、不信感を募らせる人々も、救いの外に置かれていると思い、哀しみを募らせる人も、皆同じように神様の御手の中に置かれているということです。そして、その固い殻を被った人々と共に一緒にいててくださっているのが、イエス様なのです。ですから、窮屈どころか、身を削るような思いでその間に置かれているのがイエス・キリストというお方でもあるのでしょう。けれども、そうであるからこそ、また、安息日に、六日間、抱えに抱えてきた様々な重荷を、私たちは、イエス様の前に下ろすことができるのです。ですから、そうであるわけですから、私たちは、安息日が正しく守られているかどうかといった、自分がしていることへの拘りを捨てなければなりません。なぜなら、自らの正しさを私たちが自ら決めるということは、自分を神と等しいものとすることであり、そして、この拘りは、律法学者、ファリサイ派の人々がそうであるように、私たちをその御手の中においてくださっている神様とイエス様をも、偶像のごとく拝ませることにもなるからです。

 従って、イエス様のここでの振る舞いは、まさに、神の子として、神様の御心を深く知っているがゆえのものであり、しかも、それを知に働かず、情に流されず、意地を張らずに現すことができたのは、神様の平安の内に置かれている自らをしっかりと見つめていたからです。ですから、守るか守らないか、守るべきか守らないべきかなどと、自分が何をどうするかなどといった拘りは、神様の御前においては、私たちに求められていることではありません。そういうものは、みんな神様に預ければいいわけです。ただ、それに安心できずに、預けたものを中途半端にその時の気分で引き出そうとするから、利息が付いて、余計に窮屈な思いをすることにもなるのですが、でも、それもすべてご存じであるのが、私たちの神様なおです。なぜなら、すべてをご存じの上で、神様がその私たちと共に荒野の旅を続けてくださっているからこそ、神様の良き御心は、御前に集う人々の前に必ず現されることになるからです。それが私たちがこうして信じている神様であり、まただから、こうして御前に集う私たちは、この神様の秩序の中に置かれ、終わりまでの歩みを続けることを、その歩みを共に続けるからこそ、「ああ、そうか」とそう実感させらることにもなるのです。特に、今日は、この後、聖餐式が行われます。イエス様の命をいただきながら、神様の導きの下に終わりまで歩み続ける私たちであることを、もう一度、しっかりと味わい知る者でありたいと思います。

祈り

  


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