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降誕節第8主日礼拝 説教 「実を結ぶ信仰」

日本基督教団藤沢教会 2019年2月17日

【旧約聖書】箴言 3章1~8節
1 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。
 わたしの戒めを心に納めよ。
2 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し
 平和が与えられるであろう。
3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。
 それらを首に結び
 心の中の板に書き記すがよい。
4 そうすれば、神と人の目に
 好意を得、成功するであろう。
5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば
 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
7 自分自身を知恵ある者と見るな。
 主を畏れ、悪を避けよ。
8 そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり
 あなたの骨は潤されるであろう。

【新約聖書】ルカによる福音書 8章4~15節
 4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
 聞いても理解できない』
ようになるためである。」

 11「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」


「実を結ぶ信仰」
 主イエスのもとへと集まってきた大勢の人々に向かい、謎めいた言葉を伝えた直後、主イエスは大声でこう叫びました。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。ところで、この、聞く耳のあるなしについては、私たちも子どもの頃より、何度となく言われてきたことではないでしょうか。大抵の場合、目上の者からの小言のようにこの言葉を聞いてきたように思います。ですから、そうした経験に基づき、ここで語られている主イエスの言葉を聞いていくと、主イエスのこの一言は、まるで職員室に呼び出され、そこで語られる先生の小言のように聞こえてしまうことでしょう。ただ、そう感じるのは、それが度々であった私だけなのかもしれません。けれども、職員室で先生からお小言をいただいたことがない方も、では、主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と仰るこの言葉を聞いて、自分には聞く耳があると、自信を持ってそう言い切ることができるでしょうか。

 職員室に立たされた経験がなくても、主イエスのこの言葉を聞いて、そういう気分にさせられるのは、そう言っているのが、私たちの主イエス・キリストだからです。まただから、弟子たちもまた、「聞く耳がある者は聞きなさい」との主イエスの叫び声を同じように聞き、そこでぎょっとさせられたのでしょうし、それゆえ、「この譬えはどんな意味か」と主イエスに尋ねることになったわけです。このことはつまり、「聞く耳」の有無を問われ、弟子たちでさえ、安心できなかったということです。ただ、物事何事もそういうものだと思うのですが、初めからすべて分かっている人など一人もおりません。何事も少しずつ学んで身につけていくものであり、そして、その身への付き方については、飲み込みの早い子もいれば、遅い子もいるわけです。そこで、開き直って、分かっちゃいるけど止められないと、余計な一言を口にするから、そこでまた怒られる。ですから、利口な人は、そういう人の失敗を見て、余計な一言を発することなく静かにしているものです。また、だから、人からもかわいがられるのでしょう。でも、だから、全部が分かっているかと言えば、そうではない。そして、そうではないことをよく分かっている謙虚な人は、まただから、余計な一言を口にすることもしないのです。ですから、イエス様がここで語っているこの種を蒔く人の譬えとは、わたしたち人間が立っているその時その時のそうした状況を踏まえ、語られているものなのだと思います。また、そうであるからこそ、私のような者は、聞く耳ある者は聞きなさいと言われると、しまった、バレたか、と、職員室に呼び出され、あたふたオタオタしているかつての自分のイメージと重ね合わせて、主イエスのこの言葉を聞いてしまうのです。

 ただ、その私が、今では皆さんから先生と呼ばれ、神の言葉を神の言葉として、こうして皆さんにお伝えしているわけで、しかも、もうかなりのいい年を迎えているわけです。ですから、今日の御言葉の意味については、かくかくしかじかこういうことであり、だから、皆さん、こうしなければなりませんよと、それこそ、今日のお題が「実を結ぶ信仰」とあるわけですから、皆さんの信仰が実を結ぶためにも明確に何かを語らねばならないように思います。そこで、ここに記されていることをお伝えしますと、こういうことだと思います。種である神様の御言葉が、畑の隅々まで、実に様々なところに蒔かれたのですが、それを蒔いたのはイエス様でありました。そして、イエス様が種を蒔いた畑とはつまり、こうして教会に集められている私たちのことで、ですから、種の蒔かれた畑は、自ずとたわわに実をつけることになるということです。そして、それが、神の国が完成するその時でもあるのですが、主イエスが、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい、と仰ったように、それゆえ、神の国の到来に向かう歩みは、つまりは、収穫の時は、すでに私たちの足下で始まっているということです。従って、ここでの譬え話は、神の国の到来原理、そのプロセスといったものを私たちに伝えてくれているものであり、ですから、主イエスが、この神の国の奥義、つまりは、それまで誰も見たこともないこの神の国の現実でありますが、それを、主イエスは、御言葉を通し、大勢の人々、弟子たちと同じように、私たちにも伝えてくださっているのであり、従って、私たちが、こうして御言葉に聞いていると言うことはつまり、主イエスと私たちとは、それだけ近いと言うことです。

 ですから、私たちが主イエスのお側近くでこのことを聞いているわけですから、主イエスのそのお声は、私たちの元にしっかりと届けられているのであり、届いている以上、主イエスが弟子たちへのその説明として語っていることも、それが、自分のこととして語られているのが、よくよく分かってもいるのが私たちであるということです。ですから、ここでは、そのための四つの選択肢が示されておりますが、それゆえ、そこで私たちのなすべきことは、ただ一つ、四つ目の譬え話であるということです。「立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」のをただただ待ち望むこと、これ以外にはないということです。しかも、待ち望むに際し、いささかの不安や恐れなど抱く必要がない、それが、こうして御言葉に聞いている私たちであるということです。なぜなら、私たちがこうして聞いている福音とは、神様の気前よさを伝えるものであり、神様が、私たちのために、イエス様を惜しみなく差し出してくださったわけですから、私たちの神様が出し惜しみしたり、もったいぶったり、恩に着せたりする方ではない以上、しみったれた、けちくさい真似など、私たちの神様がするはずもないからです。ところが、主イエスの気前の良さを聞きつけ、我も我もと集まってきた群衆は、その気前よさの意味が分からなかった。そして、弟子たちをも、それが分からなかったというのです。

 そこで、その理由を説明する上で、主イエスの説明は、とても便利だと言えるでしょう。群衆はこれ、弟子たちはこれ、あの人はこれ、自分はこれと、レッテルを貼りさえすれば、ああ、だから分からなかったんだと誰もが納得することができるからです。けれども、それでは、イエス様がどうして気前がいいのかは分かりません。それどころか、レッテル貼りに終始するだけでは、自分には聞く耳あると、恥ずかしげもなく、自慢をしているだけのことになってしまいます。しかし、そこで恥を知っているから、だから何も語らないと言うようでは、やがて大きな実を結ぶということにもなりません。ですから、イエス様の気前の良さを知るのに必要なことは、レッテル貼りに終始することでも、恥知らずとのレッテルを貼られることを恐れ、沈黙を守ることでもありません。

 この種まきのたとえを聞いたとき、私たちが真っ先に思うことは、自分はどの畑かということでもあるのでしょう。イエス様が仰ることを信じたくとも、私たちの置かれている現実が、自分について、実を結ぶ畑だと、そう思わせないところがあるからです。つまり、語られていることと実際に置かれている現実との間に大きな隔たりがあり、そのため、「聞く耳ある者は聞きなさい」と言われることで、私たちは、まるで心の内を見透かされているように思い、どきっとさせられることになるのです。ですから、主イエスの気前の良さは、多くの人々にとって、自分とは縁遠いものだと、そう思わせるものでもあるのでしょう。では、主イエスは、この言葉をもって何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。分かるものだけが分かればいいといった、宗教的エリートを選別するためにここでこのようなことを語っているのでしょうか。

 主イエスのここでの言葉は、聞く耳のある者だけが聞けばいいと、そんな投げやりな態度で、主イエスは、ここでこのようなことを仰っているわけでもありません。ぱっと見た目、そのようにも思えるのですが、でも、そうではありません。聞く耳ある者は聞きなさい、と仰るこの叫び声を聞いているのは、群衆であり、弟子たちであり、私たちであるのです。すべての者がこの言葉を聞いているのであり、理解力のある者だけが聞いているわけではありません。全員の耳にイエス様の声は届いているのですが、ただ、それ以上のことについては、何も仰いません。そのため、レッテル貼りに終始することにもなるのでしょうが、それ以上何も仰らないのは、自ら語ったその言葉を聞いている者に委ねられたからです。ですから、聞かねばならない、こうしなければならないといった、私たちの自由を奪う形で、主イエスは、ここで何かを語ろうとはしていないということです。

 委ねられるということは、自分の頭で考え、試行錯誤することが求められているということです。ですから、そういう意味で、弟子たちは正直でした。委ねられたその言葉の意味を素直に分からないと口にしたからです。ところで、私は、私たちが神の国に進み行く上で、分かることも大事なことですが、分からないとの思いに捕らわれることの方がより大事なことのように、私は思うのです。まただから、そんな弟子たちに向かって、主イエスは、イザヤ書の御言葉を引用し、「『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と仰ったのです。それは、知恵の教師たちが、共同体の将来を担う子どもたちに向かって教訓を語り聞かせているように、そこで語られている掟や教えといったものは、成功体験ではなく、イスラエルの犯した神様への背信、つまりは、失敗に基づいているものでもあるからです。ああやっちゃった、しまった、どうしよう、そうした反省を踏まえて語られているものでもありますが、ただ、反省するだけでは、同じ轍を踏まないためのテクニックと失敗したらまた怒られるといった、神への恐怖心を植え付けるだけで終わってしまうのではないでしょうか。それでは、人は、失敗を誤魔化し、隠そうとするだけです。様々な言い訳を口にし、挙げ句の果てには、神様すら悪者に仕立て上げ、自分の気持ちにより添ってくれるものだけを神と崇めることにもなるのでしょう。ですから、神を知るには、そういう意味で、途方に暮れる経験というものが時に必要であり、途方に暮れ、見捨てられたとの思いを強める中で、そこで、たった一つ、最後まで失われないもの、それが、私たちの信仰でありますが、まただから、神を畏れることが知恵のはじまりと、つまり、神への信頼、神様に対し畏敬の念を抱くこと、それが、人を人として終わりの日までを導くことになると、そう御言葉は語るのです。

 そこで、先週、報道などで大きく取り上げられた水泳の池江璃花子さんについて最後に触れたいのですが、彼女が発信したメッセージは、18歳とはとても思えない、しっかりしたものでした。その中で、彼女は、「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分には乗り越えられない壁はないと思っている」と言っていたのですが、ですから、彼女のこの言葉に目を引かれたという方は多いのでしょう。もしかしたら、と、そう思うものでもあったからです。ただ、彼女が口にした神様が、私たちの神様と同じ神様であるかどうかは分かりません。けれども、それが何であれ、絶望的な状況に置かれ、なお、自分を信じる彼女の強さ、それを目の当たりにし、私たちクリスチャン、私たち大人は、何をすればいいのでしょうか。彼女は強い、偉いとだけ言っていればいいということではありません。そこで、何をするかは、それぞれがお考えいただくとして、もし、彼女が口にしている神様という言葉が、私たちが口にしている神様と同じ神様であるとしたら、そこで私たちが求められているものは一体何なのでしょうか。

 これこれこういうことだから、こうしなければなりません、もし、主イエスがここでそんなことを私たちに伝えたいだけだとしたら、「聞く耳ある者は聞きなさい」などと仰る必要はなかったはずです。もしそうであれば、私たちのすぐ側まで近づいて、私たちの自由に委ねる形で、何かを語る必要はなかったはずです。もっと偉そうにものを言っていればそれですんだはずなのです。けれども、そうではなかった。近づき、途方に暮れる私たちと同じところに立って、何もかも失われ、不安におののく私たちと、主イエスご自身が共にいてくださっている、主イエスが知らしめようとされたのは、このことなのではないでしょうか。ですから、池江さんの強さは、信じ、信頼できる方が、自分と共にあることに信頼しきっている、それゆえの強さだと思います。つまり、聞く耳があるということは、途方に暮れた中で、主が共にいますことを見つめ続けるということであり、主の御言葉を委ねられた以上、主イエスと同じ命に自分がすでに生かされているということに信頼し続けるということです。

 何をすべきで、これをしなければならないという、自分のしていること、やろうとしていることに拘る、そうした前のめりの姿勢は、ここで主イエスのもとへと馳せ参じた群衆と同じように、一瞬の納得を得るために集まったに過ぎません。ですから、一瞬の満足が得られなければ、主イエスの許から離れていき、結果、うまくいかない理由を、人の所為にしたり、何かの所為にしたりして、結局は、絶望が支配するこの世の現実にただ身を任すだけでしかないのです。けれども、ここで主イエスが仰っていることは、私たちのそうした一瞬の満足に応えようとするものではありません。こうして種をまかれた私たちは、やがてたわわに実を結ぶということであり、主イエスが、私たちのことをこれからも共にいて、種まかれた私たちのことを養い育て続けてくださっているということです。つまり、主イエスの気前の良さは、一回限りのものではなく、まだまだ終わったわけではなく、続いているということです。ですから、まだ終わったわけではない以上、主に信頼し、一緒に終わりまでを歩み続けていくのが、こうして主と共に生きる私たちであるということです。私たちは、そういう神様との人格的関係性の中をすでに生きているのであり、ですから、このたとえ話をもって、主イエスが言わんとしていることは、聞く者の心構えや態度などではないということです。

 どんなに態度が悪く、性格が悪く、心構えの悪い者でも、それでも、イエス様を通し、神様の御心へと目が開かれた者を、神様は必ず実を結ばせてくださるのです。池江さんがまだ終わってはいないと言うところで、神様を信じているように、信じると言うことはつまり、終わりを見据え、自分には神様もイエス様もいつも付いてくださっているから、だから、大丈夫だと、そう信じられることなのです。そして、そこで、大事な点は、池江璃花子さんのことを大勢の仲間が応援してくれているように、神様を信じるということは、仲間を信じるということであり、その仲間と普段から仲良くし、信頼関係をしっかりと結んでいると言うことが大切なことなのです。つまり、神様を信じ、神様が造られたこの世界も人も信じればこそ、結果は自ずとついてくる、うまくいかない理由を道ばたや茨や石地に求めるのではなく、闇の中にあってもなお、私たちを必ず導こうとされている神様と主イエスに誠の信頼を置く、それが神様を畏れ敬う私たちなのです。そして、それを最後の最後まで貫き通されたのがイエス様でもあるわけですから、イエス様がそうであるように、そういう意味で、神と人とに愛される私たちでありたいと思います。

祈り




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