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降誕節第9主日礼拝 説教 「生きるようになる」

日本基督教団藤沢教会 2019年2月24日








説教:阿佐 光也 牧師

  日本キリスト教団 新泉教会 牧師
 社会福祉法人視覚障害者支援総合センター 理事
 日本盲人キリスト教伝道協議会 副議長
【新約聖書】ヨハネの手紙Ⅰ 4章7~12節
 7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。


「生きるようになる」
(1)
 おはようございます。この度は、お招きいただきまして、ありがとうございます。今日は「日本盲人キリスト教伝道協議会」を覚えて礼拝と午後の集会を開いて下さるという、大変嬉しい、また有難い企画を、心から感謝いたします。私は、現在は、この日本盲人キリスト教伝道協議会の副議長をしています阿佐光也といいます。日本基督教団の西東京教区の新泉教会という小さな教会の牧師をして、32年目を迎えるところであります。

 日本盲人キリスト教伝道協議会という名前は、大変長いので、少し縮めて、盲人伝道協議会と言ったり、もっと縮めて「盲伝」と言っています。通常、仲間内では、「盲伝」「盲伝」と言い合っています。私は今は、副議長の役割を担っていますが、11年前の2008年の3月までは、事務局で盲伝の主事を24年間していました。ということで、この「盲伝」の活動にどっぷり浸かっている人間であります。

 そこで、最初にちょっと、何故、この盲人伝道協議会(盲伝)に私がどっぷり浸かっているのかということをお話し致します。その一番の理由は、私の父が全盲の視覚障害者で、クリスチャンで、この盲伝に深く関係していたということです。

 父は、徳島県の生まれで、5才の時に怪我で失明をして、14才で官立東京盲学校に入学し、そこの師範部を1944(昭和19)年に卒業して、22才で岡山県立盲学校の教師となりました。戦後、昭和21年に、クリスチャンの母と知り合い、結婚して、翌年、昭和22年6月30日に私が長男として生まれます。その直後に、父は東京の母校である官立東京盲学校に転任するよう辞令が来ましたので、9月に慌ただしく、母と生まれてまだ2ヶ月ちょっとの私を連れて東京に出てきたのであります。

 戦後間もない昭和22年の東京は焼け野原で、住む家などありませんから、私たち一家は、盲学校の中の教室を仕切ったような一部屋を与えられて、住み始め、後に物置として使っているおんぼろ建物の2階で暮らしたのであります。盲学校の中には、私たち一家だけでなく、空襲で家を失った教員や事務員も沢山住んでいました。その家庭の子どもたちも沢山いて、私は盲学校の中で楽しい子ども時代を過ごしました。そういう訳で私は赤ん坊の時から盲学校を我が家として、生活をしたのであります。そして、中学1年生の時、昭和35年ですが、国家公務員住宅が初めて建てられ、2DKの狭い集合住宅でしたが、わが家は、やっと人並み家に住むようになりました。家の中にトイレがある生活に感激した覚えがあります。

 その後、私は学校を卒業して、貿易会社でサラリーマンをしていましたが、30才を過ぎたあたりから、両親の宗教であるキリスト教に興味を持つようになり、それが高じて、とうとう36才の時に、夜間の神学校「日本聖書神学校」に入学することになりました。そこで、会社に勤めながら通学するのは全く無理なので、会社を辞めて、夜間神学校に通える昼間の仕事を探さねばと思っていたときに、この日本盲人キリスト教伝道協議会の主事の方がちょうどお辞めになるということで、次の主事を探していたのであります。

 私は、盲人には慣れていますし、盲伝の修養会に子ども時代に父親に連れられて行っていたこともあり、また、点字の読み書きもできましたので、主事として、雇っていただいて、36才から60才まで、24年間主事として、働いたのであります。また、神学校を40才で卒業して、今の新泉教会の牧師となりましたが、とても主事を辞めることはできず、また、辞める気も全然なかったので、牧師をしながら、主事の仕事を続けたのであります。

 これが、私の素性でありまして、盲伝どっぷりと言うことが少しお分かりいただけたのではないでしょうか。

(2)
 さて、次に、今日の主役である、この盲人伝道協議会について、ちょっとお話し致します。この盲伝の創立は、1951年の夏で、来る2021年の8月に創立70周年を迎えます。この盲伝が創設されるに至った、最大の要因は、1948(昭和23)年にヘレン・ケラーが2度目の来日をしたことであります。私は、盲伝の生みの親は、間違いなくヘレン・ケラーだと思っています。つまり、盲人伝道協議会は、ヘレン・ケラーの日本における遺産なのであります。

 昨年の2018年は、ヘレン・ケラーが亡くなって、ちょうど50年目の記念の年で、私は、何ヶ所かで、ヘレン・ケラーの話をする機会があって、改めてヘレン・ケラーの足跡を辿ってみました。ヘレン・ケラーは、岩橋武夫という日本の盲人の先覚者と非常に親しい間柄になり、日本に3度も来て下さって、日本の障害者福祉の発展にとても貢献して下さいました。

 そして、戦後昭和23年の2回目の来日のとき、敗戦でメチャクチャになった日本で多くの視覚障害者が大変悲惨な生活をしていることに心を痛めたヘレンは、彼女が総裁をしてるアメリカの盲人伝道団体のジョン・ミルトン・ソサエティーから、日本の盲人たちへ援助をしようという申し出をしてくれたのであります。

 そして、その援助金を受け取って管理し、日本の盲人たちや盲人団体に配分するために、日本にも盲人伝道団体と作ろうという計画が持ち上がったのであります。その母胎になったのが、大正時代から活動していた、盲人キリスト信仰会という盲人クリスチャンたちの活動でありました。そこで、活動している指導的立場にある盲人たちに、日本基督教団とNCC(日本キリスト教協議会)から委員が派遣されて準備が進められ、1951年に盲伝は発足したのです。

 その時のメンバーの名前をちょっとご紹介します。皆さんにはあまり馴染みのない名前かも知れませんが、私たちにとっては、すごい先輩が集っているのであります。まず、盲人の側からは、好本督、中村京太郎、熊谷鉄太郎、岩橋武夫、秋元梅吉、本間一夫、伊藤福七、肥後基一、佐藤和興、大村善永、大野嘉久二、瀬尾真澄、石松量蔵という人々です。そこに、横浜訓盲院の理事長、今村幾太も加わっています。この盲伝創立者の方々を詳しくお話する時間はありませんが、いずれ劣らぬスーパー盲人クリスチャンたちです。

 そして、NCCからは、副議長の平井清、総幹事の海老沢亮、日本聖書協会総主事の都田恒太郎が派遣され、日本基督教団からは、副議長の柏井光蔵、淀橋教会の小原十三司、棟方功、というメンバーが送られました。ここで注目されるのは、NCCと教団の委員が両団体のトップに近い人たちが派遣されていることです。戦前の盲人キリスト信仰会は、盲人の世界では大きな活動をしていましたが、教会ではほとんど知られていません。しかし、戦後の盲人伝道協議会では、NCCと教団の、ある意味、首脳が集っているのです。そこに、ヘレン・ケラーの影響が見て取れる思いがします。こうして、1951年の夏に盲伝はスタートしますが、今でも、理事は、盲人の中から選ばれた人と、日本キリスト教団とNCCから派遣される7名、合計20名で構成されているのです。このジョン・ミルトン・ソサエティーからの援助は、30年ほど続いて終わりました。現在の盲伝は維持会員の会費と盲伝を支援してくださる信徒や教会、団体の献金で活動しています。

 ところで、盲伝が、戦前の盲人キリスト信仰会から引き継がれているという、一つの証拠があります。それは、盲人伝道協議会が現在発行している月刊点字雑誌『信仰』で、今年で創刊104年を迎えるのであります。つまり、この雑誌は戦前の盲人キリスト信仰会が発行していた雑誌『信仰』を引き継いでいて、この2019年2月号が、通巻1180号となります。104年間、戦時中も休まず、この点字雑誌は発行し続けてきて、しかも、この雑誌の編集主筆は、すべて視覚障害者が担ってきているのです。この雑誌『信仰』は1000号を記念して、墨字(普通の活字)でも発行されて、目の見える会員にも届けられています。そして、この『信仰』の今の編集委員会に川上豊子さんも加わって下さり、とても貢献して下さっているのであります。これが、盲伝の伝統であり、力なのであります。

(3)
 私は36才の時に盲伝の主事なって、こうした、盲伝を作った人々の信仰や伝記をいろいろな文献や図書で読みまして、本当にビックリしたことを今も覚えています。そして、そこには世界で例を見ない盲人自身による、事業が幾つもあるのです。とにかく、私からすれば、とんでもない働きをした盲人たちが明治から昭和にかけて沢山存在していて、そのほとんどの人たちはクリスチャンだったのです。この人たちによって、つまり、当事者によって、日本の盲人の福祉や、文化や、教育がなされてきたのでした。盲人伝道協議会はそういう古い歴史と、そこで活躍されてきた人々を土台に創設され、活動しているのであります。

 では、何故そんなに盲人の世界の有能な人々が多くクリスチャンであったのか、そこにはいろいろな要因があります。明治になって来日した宣教師や、キリスト教の教会によって、盲人福祉が始められたこと、更に、教会が盲人達を受け入れ、支援したことが上げられると思います。また、日本語の点字は、1890年に官立東京盲学校の教師であった石川倉次という方によって考案されたのですが、これは、フランスの16才の少年、ルイ・ブライユによって1825年に世界で初めて点字が考案されてから65年後のことです。そして、日本語の点字で最初に出版された本はヨハネ福音書だった言われます。

 そのヨハネ福音書の9章の1節から3節には、生まれつき目の見えない物乞いに対して、弟子たちが、「誰の罪でこの人は盲人なのか、本人の罪か、親の罪か」とイエスにきいたときに、イエスは、「誰の罪のためでもない、ただこの人に神の業が現れるためである」と答えている有名の言葉があります。この言葉に、当時の盲人達は自分が視覚障害であることの意味を見出していくのです。過去からの因果から解放されて、未来の自分の働きを志向していくのです。ある意味、折角自分は盲人となったのだから、同じ辛い思いをしている盲人たちのために、自分にしかできな仕事をしようと立ちあがったのです。同じ境遇の人々の幸せのために、自分が働くという、大きな希望と喜びを見出して、活動をし、またイエスの福音を伝えたのであります。

 先ほどの、盲伝の創立者の中に、熊谷鉄太郎という人がいますが、この人は、日本で最初に大学(関西学院大学)に学んで、牧師となり、盲人伝道、盲人福祉に活躍した人ですが、最晩年にこういう短歌を詠んだと言われています。

 「得べくんば またもめしいと 生まれきて 見果てぬ夢の後を追いなん

(4)
 盲伝の創立者にはこういうスーパー盲人クリスチャンたちがいっぱいいるのですが、今日はそういう人たちの中でも、これまた飛び抜けて、その思いが強かった秋元梅吉という人のことを少し紹介したいと思います。この秋元によって、先ほどお話ししました、点字雑誌『信仰』が1915年(大正4年)に創刊されたのであります。秋元は、今は日野市にあります東京光の家という、日本を代表する盲人の総合福祉施設を作った人として知られています。

 この秋元梅吉は明治25年、中野に生まれ、14才の時に官立東京盲学校に入学しますが、ここで聖書に接して熱心なクリスチャンになり、内村鑑三の聖書集会に通うようになりました。そこで、キリスト教こそ、盲人にとって希望の光、生きる力となると信じた秋本は、盲学校の住所の土地の名前をつけて、「雑司ヶ谷信光会」という会を作って、伝道活動を始めます。そこで、キリスト教の点字雑誌を発行したのですが、これが104年続いて、今は盲伝で発行している点字雑誌『信仰』なのであります。

 彼は大正5年師範部を卒業します。クラスメイトはみな地方の盲学校の教員となって、東京を去っていったのですが、秋元は就職せずに東京に残ったのであります。当時の視覚障害者の多くは、盲学校にも行けず、生活に追われ、苦しんでいる、それらの仲間にも光が与えられるのでなければ、自分だけぬくぬくと安逸な生活を送っても、心は休まらない、秋元はそういう思いが強かったのであります。

 それ以来、盲人同胞のために、雑誌の発行、点字図書の出版、そして、総合的な盲人福祉施設「東京光の家」の創設など、驚くべき働きを多岐にわたっておこなうのであります。

 そこには、数々のエピソードや逸話が残されていますが、その一つに、点字旧約聖書の発行というのがあります。当時は、点字の新約聖書はありましたが、旧約聖書はありませんでした。秋元は、旧約聖書も自分で読みたいと、自分のための旧約聖書を作ります。聖書を読んでもらって、自分で点字を一点一点打って苦労して二十数冊に及ぶ点字旧約聖書を作りました。秋元は、これを読んで、盲人仲間みんなにこれを読んで欲しいと切に願います。そこで、その発行を求めて、当時の聖書協会に掛け合いますが、取り合ってもらえません。秋元は、それなら自分たちで点字聖書を発行しようと決心して、突然に友人の伊藤福七というやはり仲間の盲人クリスチャンに 「どうだ、伊藤君、聖書のために死なないか」と語ったのであります。

 すると、伊藤福七は並々ならぬ秋元の決意に動かされて、また、本当に聖書のためなら死んでもいいと思って、それを引き受けたのであります。大正11年8月初めのことです。これは命がけの仕事でした。当時の点字製版は一点一点2枚重ねの亜鉛板に点字を打ち込むのです。しかも、伊藤にとっては点字製版機の扱いは初めてのことでした。しかし、伊藤は短期間にして見事に点字製版の技術を習得して、その年の11月6日から創世記の製版を開始するのである。この時のことを伊藤はこのように言っています。

 「私はどの一字によって盲人が信仰を起こすかも知れないと思いましたので、一点一点祈りながら打って参りました。

 こういう情熱がその頃の盲人達にあったのです。この無謀とも思える秋元たちの企ては周囲を驚かせ、資金面は好本督が支援し、聖書協会からも、製版ができたら出版をしてくれるという協力が得られ、大正13年12月22日に点字旧約聖書全巻が完成、翌23日に、仲間たち30数名が集まって、点字旧約聖書完成の大感謝会が開かれました。この会には内村鑑三も出席して、新しくできた23冊の旧約聖書の上に手を置き、心情あふるる祈りを献げ、出席した関係者はみな感涙にむせんだといいます。こうして点字の点字旧約聖書が完成しますが、新旧約聖書全巻の点字出版は世界でイギリスに続いて2番目でした。但し、盲人自身の手でそれがなされたというのは、世界で初めてで、今でも例を見ません。そういう、若き盲人たちが、福音に生かされ、情熱を燃やしたという歴史が、大正、昭和の時代だったのです。

(5)
 秋元は、その後、先ほども言いましたが、「東京光の家」という盲人の総合福祉施設を創立するのですが、その「東京光の家」の50周年の記念誌にこのような言葉を書いています。

 「私は今も盲人であるし、50年前も盲人であった。こんな私が、ある日、内村鑑三先生との出会いにより、聖書の神を信ずる人となった。これを境に私は、一変してしまった。古い私は死に、新しい私が誕生した。不平と不満の私は死に、希望と感謝の私が生まれた。内村鑑三先生からキリストの信仰を学ぶことにより、私の人生観は180度の転換をした。私自身のことは、すべて解決され、私は否応なく自己以外のことに目を向けさせられた。

 障害者への偏見と差別の渦巻く大正から昭和初期の時代、福祉の恩恵などほとんどないこの時代に、全盲の秋元は、聖書の神を知って、「私自身のことは、すべて解決され、私は否応なく自己以外のことに目を向けさせられた」と語っているのです。

 秋元は聖書の神を知って、あるいは、イエス・キリストの福音によって、いったい自分の何が解決されるというのでしょうか。自分の目が見えないという現実も、貧しい自分の境遇も、何一つ解決されるわけではありません。でも、秋元は、「自分自身のことは、すべて解決された」と言うのです。いったい何が解決されたのでしょうか。

 私は、それこそが、聖書が人間に問いかけている罪の問題だと思います。秋元は、聖書のいうところの罪の問題こそ、人間の本質であることを見抜いたのであります。秋元は、聖書によって、自分という人間存在の罪の問題を知ったのです。秋元は、その罪と向き合い、そして、その罪をキリスト・イエスの受難と十字架の死によって赦されたのであります。こうして、自分の障害や、境遇などの一切のことがらから解き放たれ、真の命を、キリスト・イエスと共に生きるようになったのであります。

 秋元は、このようにも言っています。

 「まことに『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来給うた』という言は信ずべく、また無条件に承認さるべきである。そしてこの私がその罪人の第一人者である。

 今日は、ヨハネの手紙一4章の言葉を読んでいただきました。その9節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と記されています。

 私たちは、この世に生まれて、既に生きています。その既に生きている私たちが、「その方によって生きるようになる」とは、どういうことでしょうか。それこそが、秋元の言っている「私自身のことは、すべて解決され、私は否応なく自己以外のことに目を向けさせられた」ということであります。私たちの信じる福音とは、こうして、私たちが「生きるようになる」ということなのだと、私は信じます。

 「生きるようになる」とは、「イエス・キリストによって、自分自身のことは、解決されたのだから、あとは、隣人と共に、隣人の幸福のために生きる」ということなのだと、秋元の言葉と生き方を通して、私は教えられるのです。

 今日は、盲伝のこと、そして盲伝の先輩の一人である、秋元梅吉のことを、ほんの少しお話ししました。盲伝は、この秋元たち盲人クリスチャン先覚者たちの信仰と情熱によって今も支えられ、その活動が続けられているのであります。

 最後に主イエスの言葉を一つ聴いて、終わります。
 ヨハネ福音書16:33で、イエスはこうおっしゃっています。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

祈り




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