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受難節第1主日礼拝 説教 「神との縁(えにし)」

日本基督教団藤沢教会 2019年3月10日

【旧約聖書】申命記 6章10~19節
 10あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、11自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、12あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。13あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。15あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

 16あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。

【新約聖書】ルカによる福音書 4章1~13節
 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
11また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


「神との縁(えにし)」
 先週の水曜日、教会の暦では、灰の水曜日を迎え、主の御苦しみを覚える受難節(レント)を迎えました。そこで、受難節第一主日の礼拝をこうして献げる私たちは、主の御苦しみを覚えると同時に、十字架の主と自らとを重ね合わせ、これより御言葉に聞こうとしています。ただ、東日本大震災から、間もなく八年が過ぎようとしているこの時、主のご受難に加えて、あの日の出来事を思い出すのが、こうして御言葉に聞いている私たちでもあるのでしょう。それは、あの日の出来事が、私たちの中で単なる過去の記憶として刻まれているだけでなく、私たちの身体感覚として身に備わり、思い出されるからです。しかし、その一方で、記憶の周辺にあるものが、少しずつ色あせていくのを感じもします。それは、あの日を思い起こさせるものが、身の回りから少しずつ少なくなってきているからであり、それゆえ、私たちの中では、あの時の絶望感、不安感は徐々に薄まり、穏やかな日常を取り戻したかのようにも思えるのです。ただ、そう思うのは、もしかしたら、かりそめのこと、つまり、一時的でその場限りのことなのかもしれません。

 今、私たちが、穏やかな日常の中に置かれているのは間違いありません。震災直後の混乱はなく、栓を開けば水が出て、また、電気、ガスも当たり前のように使うことができます。それが私たちの生きる日常だからです。けれども、あの時、私たちが感じたことは、かりそめのものではありませんでした。今、身体感覚として身に備わっていると申しましたように、今の穏やかなこの日常を当たり前のように過ごしているのは、あの時の経験、記憶を、私たちが、心の奥底にしまい込んでいるだけのことなのかもしれません。それは、地震が、私たちがこうしてこの日本という国に生きる限り、避けて通ることができないものである以上、心に蓋をして鍵を閉め、その奥底にしまい込む形でしか、穏やかな日常を取り戻すことができないからです。従って、八年前に私たちが身につまされたことは、この時代だけに課せられた重荷ではありません。あの日の私たちの体験は、その歴史を通じて、この地に生きる者であれば誰もが常に感じてきたことであり、つまり、多くの人々の絶望を抱え込むように形作られてきたのが、私たちの歴史だということです。

 そして、私たちの身を強ばらせるものは、地震などの災害に限ったことではありません。今日は、ちょうど3月10日ですが、74年前、一夜にして、まさに一瞬のうちに、10万人とも言われている人々の命が奪われた、あの東京大空襲のあった日です。そして、この10万とも言われている人々の中には、東日本大震災同様に、数え上げることのできないくらいの助かった命、助けられた命があったはずです。そもそも、この大勢の人々の命は、本来は、奪われる必要のなかった命なのです。そして、この3月10日を思い起こす中で、さらに絶望を深めさせられるのは、失われた命の数の多さに加えて、生き残った人々のその後です。100万とも言われている罹災者、その中には、戦災孤児と言われている人々、戦争未亡人と言われている人々、生きる術を失い、様々な形で絆を断ち切られ、なお生きることを求められた人々がおりました。ですから、そのご苦労は、後々に生きる私たちが軽々しく言葉で言い表すことなどできないくらいに重いものでもありました。

 ただ、未曾有の惨劇とも言えるそうした出来事も、私たちが一歩外に踏み出すなら、私たちだけが特別だということではありません。私たちが生きるこの日本という国の外に目を移すと、そこには、私たちと同じような絶望を抱え生きる人々の歴史を見ることができるからです。そして、この歴史がいかにして築かれてきたかと言えば、人々が、絶望を抱きしめ、抱え込んで生きてきたがゆえのことでもありました。従って、世界全体を包み込むこの絶望が、私たち人間の歴史を形作る一因であったということです。人として生きることの喜びだけが、この世界を支配しているわけではないのです。そして、その影響が特に大きかったのは、ここ100年のことでもありますが、しかし、それは、私たちの手の届くここ100年ほどに限ったことではありません。地震、津波などの災害、コレラ、ペスト、スペイン風邪など、病気の蔓延、さらには、命の奪い合いであり、人間の尊厳を深く傷つける戦争、そうした様々な出来事を通して、こうして築かれてきたのが人類の歴史であり、その中で、どれほど多くの人々の命が奪われてきたことかと思うのです。

 そして、それは、遠い昔、人間が富の蓄積を始めたその時代まで遡ることができるそうですが、私たちはまた、その証拠を聖書の中に見て取ることができます。聖書には、エリコという町が登場しますが、エリコは、世界最古の町と言われ、その歴史は、およそ八千年前くらい前まで遡れるのだそうです。そして、それとほど近い場所で、町が造られた時代に近い地層の中から、凄惨な殺され方をしたおびただしい数の人骨が発見されたことがあったそうです。ですから、聖書が、私たちがこうして手にしているような形で記されているのは、そうした歴史的事実とまったく無関係であったとは思えません。人と人との凄惨な歴史をその背景として抱え、そして、事実、聖書には、そのことを彷彿させる記述もあるのです。ですから、聖書に記されていることは、決して神話や物語の世界のことではないということです。私たちと同じように、絶望を見つめ、それも、ただそれを茫然自失に見つめるのではなく、絶望に身を置き、まさに、そうした歴史に生き、身体的な感覚をもってまとめ上げられたものが、聖書の御言葉であったということです。

 それゆえ、人間の愚かさ、それに伴う悪意と邪気といったものを、聖書は遠ざけることはしません。ただ、そこで、私たちがこの誤魔化しのない事実だけ見つめるなら、人の世は、空しく儚いだけということにもなるのでしょう。ですから、当然、そうした事態には対処しなければならないのですが、けれども、聖書は、絶望の一因ともなる人間の愚かさといったものを一方的に暴き立て、問題の解決を図ろうとはしません。それが、聖書が語られている目的ではないからです。なんとかせねば、ということを視野に置きながらも、聖書がこうして記されているその目的は、神様とイスラエルの人々、人類との一貫した関わりであり、その歴史を記すことです。そして、神様が、歴史を通じて、一貫した姿勢を保ち続けたのは、イスラエルを通して、世界と世界の人々とを神様の祝福に中に置くためでした。つまり、この目的のためにこの世界において働かれるのが、私たちの神様であり、それゆえ、この神様の働きが、絶望の中に置かれている人々に希望を与えることにもなったのです。ですから、ここでのイエス様と悪魔とのやり取りは、正義と悪との単純な戦いを現しているわけではありません。神様が働かれているこの世界を舞台に、主イエスを通して、神様を信じる希望がここに現されているのです。

 40日40夜の主イエスとの戦いの後、悪魔が、「時が来るまでイエスを離れた」とあるように、悪魔は、主イエスの前から一時的に雲隠れしただけです。ですから、この時点ではまだ決着はつけられなかった、つまり、勝敗は付かなかったということです。従って、主イエスは悪魔に負けなかった、ただそれだけのことであり、私たちが期待するような結論は、先延ばしにされたままであるということです。それゆえ、私たちがどれほど身綺麗になろうとも、私たちを絶望へと陥れる様々な要因は、悪魔が完全に滅ぼされてはいない以上、世界から完全に払拭されたわけではありません。しかも、私たちを苦しめる悪意、邪気といったものは、悪魔が、主イエスに寄り添うような体裁を取り、働きかけているように、その手法は巧妙で、それゆえ、その働きかけに私たちが抗うことができず、私たちは、容易く絶望の縄目に絡め取られることにもなるのです。

 このように、悪魔のささやきは、時に天使のささやきのように聞こえます。ですから、もし、主イエスと同じような状況の中で、悪魔の声を聞いたなら、私たちは、それが悪魔のささやきだと思えるでしょうか。この悪魔の声を天使の声のように聞き、おっ、やった、有り難い、私なら、そう思うことでしょう。ただ、それだけにまた、主イエスがここで悪魔に負けなかったことが、とても大事なように思うのですが、しかし、負けなかったということは、問題が先送りされたままだということです。それゆえ、私たちが凄惨な出来事を前にしたとき、それだけが私たちの置かれている現実だとしか思えず、絶望の縄目に絡め取られることにもなるのです。ですから、そのようなとき、私たちは何を思うのか。戦争体験者、関東大震災、東日本大震災等の罹災者、中でも、愛する者を突然奪われた人々は、神様の造られたこの世界を、主イエスが活発に動き回っている世界ではなく、主イエスも神もただ静まるだけで何もしない場所だと、それどころか、この世界を支配しているのは悪魔ではないか、そう思うことにもなるのでしょう。そして、そう思うのは、直接的に体験した人々だけではありません。そのような人々の傍らに立つ私たちも、身の丈を超える力に抗うことができず、それゆえにまた同じように絶望を深めることにもなるからです。つまり、私たちもまた同じように言葉を失う経験をするということです。

 しかし、そのような状況の中にあってなお、希望があると、そう断言するのが聖書の御言葉でもあるのです。なぜなら、神の御言葉がこうして後世に残されることになったのは、この希望を実際に経験した人々がいたからです。まただから、イスラエルの人々は、その信仰的実体験を子どもたちにも懸命に伝えようと努めたのです。申命記の記述には、このように、神が共にいます希望ゆえの実体験が現されているのですが、けれども、この希望の体験は、イスラエルの人々だけでなく、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じる私たちもまた、同じようにこの希望の体験を積み重ねているのです。だから、あの震災直後の日曜日、私が語ったことは、言葉を失う経験をした私たちには、語るべき言葉が何もないのではなく、あるのだということをでした。ただし、それは、自らを偽り、なきに等しいことを人に押しつけるかのように、希望、希望といたずらに希望という言葉を連呼したわけではありません。

 言葉を失うような経験を、私たちは決して避けることはできません。そして、私たちにそう思わせるものは、あの日の出来事だけではありません。貧困、饑餓、それを克服するかのように私たちが目指す上昇志向、そして、それに伴う名誉欲、権力欲など、外からの力に加えて、私たちのエゴ、自我がどれほど人と自分自身とをないがしろにし、傷つけることか。ただ、そうしたことを私たちは自ら選択し、また、それを希望とすら思い込み、際限のない戦いを挑むのです。そして、その戦いに敗れたとき、私たちは絶望感を味わうことにもなるのです。しかし、中には、そうしたものをものともせず、果敢にも抗おうとする人々もおります。いわゆる、悟りの境地に達した人々が、そのような人々とも言えるのでしょう。けれども、悟りを開いたと言われたある高僧が、癌を患い余命宣告をされるやいなや絶望に駆られたという話があるように、絶望と完全に抗える者は、恐らくはいないのだろうと思います。そこで、信心深い者は信仰により頼む、そして、その自信の深まりと共に、神から自分へと軸足を動かし、自分の都合のいいように聖書の御言葉を解釈し、結果、ここでの悪魔のように、自らを納得させ、また、人を説得しようとして、自らの身勝手な思いを聖書の御言葉に代弁させたりもするのです。では、私たちが見つめている希望とは何か。

 私たちは、希望が見えない中で、希望という言葉だけを口先で語り続けてきたわけではありません。従って、私たちが口にする希望は、私たちにとって、見せかけ倒しの、子供だましのようなものではありません。けれども、言葉を失うような経験をした時、私たちは、御言葉の中に希望を見出すことができなくなることがあるのです。では、私たちは、本当に希望だけを見つめ、言葉を発しているのでしょうか。恐らく、絶望に駆られた多くの者は、神様なんて、イエス様なんて、聖書なんて、教会なんて、そう思うことでしょうし、また、それが、嘘偽りのない私たちの姿ではないでしょうか。ですから、そのようなとき、私たちが心を傾けるものは、悪魔でも、天使でも、どっちでもいいのでしょうが、ですから、聖書の御言葉をいくら持ち出し、説得されたとしても、それで、私たちの心が動かされることはないのでしょう。ましてや、希望を語るその口が、やせ我慢や空威張りのように言葉を発したところで、その姿を見た人々が、なるほど、希望はまだまだある、世の中捨てたもんじゃないなどとどうしてそう思えるのでしょうか。けれども、この誤魔化しようのない中にあって、希望に生きていたのが主イエスであり、ですから、その点で、私たちとイエス様とでは大きく違ったということです。ですから、この違ったというところ、つまり、主イエスが悪魔にここで勝つのではなく負けなかったということが、それゆえに、この荒野での出来事における最も大切なことだと、私は思うのです。

 主イエスが経験した十字架と復活の出来事が私たちに明らかにすることは、天の窓が開かれ、神の希望が確実にこの世界に届けられているということです。そして、それが、この荒野での主イエスの姿を通して明らかにされているのですが、それゆえ、私たちは、どれほどの絶望を味わおうとも、主イエスがそうであるように、天の窓が開かれている私たちの上には、神様の希望が燦々と降り注いでいるのです。そして、それは、思い込むことではなく、事実その通りだということです。先ほどから申し上げているように、それが、主イエスが悪魔に負けなかったと言うことの中に現されているのです。なぜなら、悪魔に勝ったのであれば、絶望はもはや私たちの足下から失われたと言えるのでしょう。けれども、実際はそうではない。私たちは言葉を失う経験を未だにし続けているし、終末まで続くことでもある。それゆえ、悪意、邪気などの様々な力が私たちを絶望へと追いやることにもなるのですが、しかも、それは、時に善意の仮面をつけ、私たちに近づくことさえある。ですから、悪魔と対峙する主イエスの姿が、まさにこの世界に生きる私たちの姿そのものだとも言えるのですが、そこで、一つ疑問が湧いてきます。

 主イエスはどうして、悪魔の誘いにおめおめと乗っかったのでしょうか。なにも相手にせずとも、適当にあしらっても良かったはずです。けれども、主イエスは、悪魔の誘いに乗り、身を任せて一つ一つその相手をし、しかも、そこで、悪魔に勝とうと思えば勝てたはずなのに、あえて負けないという選択をしている。それはどうしてなのでしょうか。それは、悪魔が手強かったからではありません。勝つことを選ぶのではなく、負けないということを選んだところに、私は、主イエスの愛、天の窓が開かれた現実に生きる者の姿、悪魔すら受け止めようとするその懐の深さが現されていると思うのです。そして、このことが、私たちの救いと深く関わっているように思うのです。なぜなら、絶望の内に置かれた私たちが、どうして主イエスの出来事の中に希望を見出すことができるのかと言えば、この絶望的な状況の中にあって、主イエスが悪魔すら受け止めたからです。

 先週も申し上げたことですが、愛とは、現実に則することであり、現実まで下り、現実を受け止め、相手に合わせるということです。それゆえ、愛は、時に私たちの理屈に合わないこともあるのですが、主イエスがここで悪魔に勝つのではなく負けなかったと言うことも、私たちの理屈に合わないことだと言えるのでしょう。しかし、それだからこそまた、主イエスが、この悪魔とどこまでも付き合っている点が特に大事だと思うのです。それは、絶望に駆られたとき、私たちは、悪魔にも天使にもなるからです。それも、天使の仮面を被り、自分自身の悪魔の部分を誤魔化しもする、さらには、ちょうどここでの悪魔がそうであるように、自分を誤魔化すために御言葉すら持ち出すことさえある、絶望の駆られた私たちの中に、そういうところがあるのです。けれども、そのような者を、主イエスは、ご自分の前から叩きのめそうとはしておないのです。戦うのではなく、受け入れている、ここに、絶望に至った際の希望の道筋がはっきりと示されているように思うのです。それは、主イエスのこの姿の中に、私たちは、天の窓が開かれていることをはっきりと知らされることにもなるからです。

 絶望的状況の中に置かれた私たちほど、もろいものはありません。そのため、希望へと向かう道筋を見失い、さらに絶望を深めることにもなるのです。けれども、そのような中で主イエスを信じ信頼する者は、言葉を失う状況の中で、主イエスのように天を見つめ、御心を信じ、御心をこの世界に現すことが許されているのです。このことはつまり、絶望的状況においては、主イエスを信じる私たちこそが、世の希望があり、まただから、その私たちをして、天のみ光が地上に降り注がれることに、世も気づかされることになるのです。従って、絶望の中にあって、絶望の虜とならずにこの世に希望を届けることが私たちの使命であり、世界制覇を企む悪魔に打ち勝つことではありません。現実に即するように神の働き、神様の愛が今ここにあることを信じることであり、そして、それは、ささやかなものかもしれませんが、現実を共にする人々と、その時できる精一杯の形で、神様の愛を分かち合うなら、私たちが置かれているその場所は、天の希望に満ちあふれた場所となるのです。それが私たちであり、それが私たちがこうして集められている教会だということです。このように、神様とイエス様にとって、私たちこそが世の希望であり、この希望を分かち合うことを神様は望んでおられるわけですから、世に希望を現し、この希望を世の多くの人々と分かち合う私たちでありたいと、そのように思います。

祈り

  


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