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受難節第2主日礼拝 説教 「一切を失い、なお残るもの」

日本基督教団藤沢教会 2019年3月17日

【旧約聖書】創世記 6章11~22節
 11この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。13神はノアに言われた。
 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
 14あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
 15次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、16箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
 17見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
 18わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。19また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。20それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
 22ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

【新約聖書】ルカによる福音書 11章14~26節
 14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

 24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」


「一切を失い、なお残るもの」
 自らの思うところと自らがなすところの違いを思わされることがありました。先週の木曜日、今年もみくに幼稚園の卒園式が行われましたが、短期保育を含む25名の子どもたちが幼稚園を巣立ち、また、転勤などご家庭の事情により、3名の子どもたちが転園し、さらに、職員一人も退職することになりました。藤沢に参りまして間もなく3年が過ぎようとしておりますが、この春、幼稚園を離れるその一人ひとりとは、多くの時間を共にするものでもありました。特に、今年度は、夏前から、毎朝、子どもたちを迎えるのが日課となっております。ですから、今年は、全員の顔と名前が分かるまでになりました。ところが、当たり前のように毎朝見ていたその顔が明日からは見ることができなくなるわけです。そこで、「日曜日、教会で会おうね、待っているね」と、しきりに声をかけたりもしたのですが、しかし、早々顔を見せに来てはくれないだろうとも思いました。ですから、巣立っていくことの喜びの一方で、子どもたちには、その寂しさから、「卒園しないでもう少し幼稚園にいていいよ」と、冗談とも本気ともつかないことをついつい口にしてしまったわけです。ところが、子どもたちは、どうか、後ろ髪引かれる私とは違いました。けんもほろほろに、「嫌、小学校に行く」と返す始末なのです。そこで、再度、「無理しなくてもいいよ、4月からも幼稚園においでよ」と言い返したところ、とりつく島もなく、「絶対に嫌」と言われてしまいました。そして、改めて思わされたことは、ここみくにでここまで大きくなったんだな、ということでした。

 僕の顔を見るやいなや泣き出し、お母さんに抱きついて離れなかった子、その子が、大好きと言って僕に抱きついてくれるまでになりました。また、毎朝お約束のようにわざと憎まれ口を叩く子どもが、はにかみながら、またね、と言って、幼稚園を巣立っていきました。それもこれも、神様の導きと職員たちのきめ細やかな保育の賜物でもありますが、それだけにまた、神様に感謝せずにはいられません。本当に大きくなったなあと思います。ただ、その一方で、子どもたち一人一人にとって、このみくに幼稚園で過ごした数年間は、どういうものであったのか。それは、子どもたちにとっては、戦いの日々でもあったということです。その最初の試練が、いつもべったりくっついていた親から離れるということであり、そして、次なる試練が、身の回りのことを自分でやらなければならないということであり、さらに、自分の思い通りにならないことがたくさんあることを体で思い知らされる経験をするということでもありました。また、それ以外にも、子どもたちは、数多くのことを学び、身につけ、こうして、みくに幼稚園を後にすることになったのですが、このように、卒園までの数年間は、子どもたちにとっては、子どもなりの苦労と不安も必ずあったはずです。けれども、そのおぼつかない足で階段を一段一段踏みしめればこそ、子どもたちは成長し、ですから、成長していった子どもたちの姿は、戦いに負けなかったという自信にみなぎり、また、その後ろ姿は、どこか誇らしげでもありました。

 ただ、子どもたちがここみくに幼稚園で培った、その自信と誇らしさは、環境が大きく変わったところでは、これまでと同じようにそのまま通用するものではありません。恐らくは、早晩、その自信と誇りは打ち砕かれることにもなるのでしょう。ですから、また新たな戦いが始まることにもなるわけですが、では、これまでとはまったく違う環境の中で、子どもたちが、ここみくにで身につけたみくにらしさ、藤沢教会との関わり通じて学んだ私たちの信仰といったものは、やがて忘れ去られ、まるでなかったかのように子どもたちの内より消えてなくなってしまうのでしょうか。もちろん、そうではありません。そのわけについては、今日のそれぞれの御言葉がその点を明らかにしてくれているのですが、それゆえ、実際に卒園生の方々と接していて感じさせられることは、年配の方々も含め、このみくにらしさをいつまでも持ち続けられておられるということです。では、それはどうしてなのか。それは、私たちがそうなって欲しくはない、そういうことは絶対にないと、私たちの身勝手な願望ゆえのことではありません。

 人が抱くであろう、その時々の自信や誇りといったものは、環境の変化や時間の経過などによって、常に打ち砕かれ、変えられていくものです。それゆえ、絶えず新たにされていくものが、この自信と誇りといったものなのかも知れません。従って、自信や誇りなどといったものは、常に打ち砕かれなければならないし、また、打ち砕かれ、そこで新たにされるからこそ、人の成長は促されることにもなるのです。ですから、それは、ちょうど年輪を積み重ねていくようなものだと言えるのでしょう。それゆえにまた、人を勇気づけ、力づけるこの大きな力を与えるものを、つまり、積み重ねを促し、成長へと導く大きな力を、人はまた信仰などと呼び、大きな期待を寄せたりもするのでしょう。従って、みくにを巣立った人々のみくにらしさとは、つまり、積み重ねられた年輪の中心、核のようなものだと言えるのでしょう。けれども、残念なことに、その多くが、このみくにらしさと刻まれた年輪との関わりを見失っているようにも思います。それぞれが別々に成り立っており、そのため、卒園された方々の多くにとっては、みくにらしさとはつまり、遠い日の記憶、思い出ということなのかもしれません。

 ただ、こうした現状を憂い、その責任をその人たちだけに押しつけることはできません。むしろ、その反対で、このような現状に至っているのは、むしろ、私たちにその責任があるように思うからです。ですから、この点については、私たちもよくよく考え、その人たちに働きかけていかなければなりません。そして、そのために、御言葉は、私たちに何かを語りかけようとしているわけで、ですから、そういう意味でも、今日のそれぞれの御言葉に私たちはしっかりと聞いていく必要があります。それは、自らの信仰を捉え直すということであり、信仰を持って生きる自らの生き方を問い直すということです。つまり、そのために、この信仰とそれに伴う私たちの生き方を、ノアと主イエスの言葉の中に見出す必要があるということです。そこで、結論から申し上げると、このノアの洪水の物語と、いわゆるベルゼブル論争と言われているこの箇所が語ることは、ルカの11:20で「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、主イエスが仰るように、神の国が私たちのいるところで実現している、つまり、私たちは救いの外に放り出されているのではなく、救いの中にいるということです。それが、今日それぞれの御言葉を通し語られていることでもありますが、また、だから、私たちは、神様とイエス様のお言葉を真剣に受け止め、そのお言葉に聞き従わなければならないということです。

 ですから、先程来申し上げてきたように、このみくにらしさと刻まれた年輪との関わりを、みくにの卒園生の方々に気がついてもらうためには、私たちが、自らの信仰者としての生き方を明確にしていかなければならないわけです。それが、ノアのように、神と共に、神に従う無垢な姿をはっきりと世に現すということなのですが、ただ、いざ具体的に何かをしようとするとき、総論賛成、各論反対ではありませんが、そこでいろいろな問題が噴き出すものです。それは、主イエスを巡って、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者もいた」とあることからも分かるように、目に見えるところから見えないところまで、人の様々な思いや考え、思惑といったものがそこで深く絡み合い、そうした中で、自分の主張ばかりを押し通そうとするために、物事は、なかなかすんなり進むことが少ないからです。

 では、そのような中で、主イエスはどうされたのか。この混乱を力尽し、思いを尽くして収めようとしているかと思いきや、納めようともしていない、実のところ、それがここで語られていることでもあります。ですから、そのため、混乱は、今でも続いておりますし、神学論争という言葉が、世間では結論を見ない水掛け論として用いられているように、現に教会の中にも、ここにあるような論争の類いは、未だに後を絶ちません。ただ、今日のそれぞれの箇所でも語られているように、神様のお言葉、神の国の福音というものは、そうした緊張、矛盾を生じさせるものであり、むしろ、神様もイエス様も、その解決を先延ばしにしているように思うのです。ですから、神様のお言葉を信じ、従うということは、私たちが最も嫌う緊張関係、矛盾した状況に我が身を置くということであり、また、だからこそ、そこで私たちは、このゴタゴタの中で、自分を見失わないために、自分だけは、自分たちだけは身綺麗でなければ、清廉潔白、品行方正でなければと、そう思い、身を整えることばかりを考えてしまうのでしょう。つまり、神様の御前で体裁を整えることが私たちの信仰だと、そのように思い込むことにもなるということです。

 ただ、そうした清らかさは、まさにノアに代表されるように私たちが大切にしてきたことでもありました。ですから、これからも大切にしていかねばならないのですが、しかし、今日の御言葉を通し、主イエスは、それが仇となって帰ってくることがあると、しかも、前よりもっと悪くなるリスクがあると、そうはっきり語るのです。ですから、その箇所は、汚いままでいいじゃないか、掃除何か適当でいい、丸く履いていればいいんだ、主イエスがそう語っているとも読めますが、けれども、もし、主イエスがそのようなことを仰っているとしたなら、私たちが大切にしてきた伝統は、意味のないものとなり、それこそ、聖書の御言葉は、自分に都合のいい言い訳だけを与えるのものとなってしまいます。しかし、もちろんそうではない。なぜなら、そこで主イエスの仰っていることは、私たちの信仰には、言い訳すらも許さない厳しさがあり、自分だけが身綺麗にしていればそれで片付くほど、神様の御言葉、福音を聞いた人々の置かれている現実は、まさに主イエスの十字架が示すように、単純明快なものではない、そういうことだからです。

 このように、私たちが福音を信じると言うことはつまり、そこには緊張と矛盾に満ちており、けれども、この緊張と矛盾をそまま引き受けるからこそ、私たちは、そこで我が身を持って、信仰を現すことができるのです。また、そうであるからこそ、まさにノアがそうであったように、そこに、神様の御心、つまり、「神の国はあなたたちのところに来ている」とのイエス様の言葉にもあるこの神様の思いを、緊張関係と矛盾する状況の中で、私たちが揺るがぬ現実として知ることになるのです。つまり、そのように生かされているのが私たち信仰者だということです。ですから、その私たちがこうして自らが立っているその場所で、一体何をするべきなのか、このノアの物語が明らかにしてくれているのはこの点です。それは、箱舟を神様が示された場所に築くということで、つまり、私たちにとってそれは、この町に主の教会を築くということです。従って、初めに申し上げた、みくにを卒園された人々への働きかけとして、私たちの責任として行わなければならないこととは、つまりは、私たちがこの町に箱舟、教会を築いていくということで、この箱舟の中に、それらの人々を招き、共に天へと繋がる道を歩み続けるということです。ですから、それには、入ってみよう、入ってみたいと思わせるところがなければなりません。流行っていないお店のように、ゴミは散らかりっぱなし、窓はすすけて中は見えない、そういうところに人が行きたいとは思わないからです。

 教会というところは、偏った興味を持つ、限られた特殊な人たちだけが集まるところではありません。様々な立場の人々が気持ちよく集まることのできる場所でなければならず、ただ、そのための条件として求められることは、そこが神様と断絶していないということです。かつて、教会は、耶蘇耶蘇と蔑まれ、変わり者と見なされた時代を過ごしたことがありましたが、けれども、世間から見下され、様々な矛盾や緊張の中に置かれながらも、態度をコロコロ変え、言い訳ばかりに徹するのではなく、穏やかに、身を整え、世間との関わりを保ち続けようとした教会に対しては、世間は、少なからぬ敬意を払ったものです。つまり、教会の変わらぬ姿勢、世間とのこの違いの中に、世間の人々をして、教会に敬意を払わせることになったのですが、それは、その教会が神様と断絶せず、しっかりと福音に生きていたからです。ですから、この町に教会を築くということは、私たちがこの看板を下ろさないということであり、またそれが、世間の人々が言うところの教会らしさ、みくにらしさと受け止められることにもなるのです。

 しかし、この世間でいうところの教会らしさ、みくにらしさ、つまりは、私たちにとっては、それが教会をこの町に築いてきた、築いていくということでもあるのでしょうが、世間の人々が理解するこのらしさが、私たちと同じように信仰へと繋がっていくためには、このらしさが、私たち同様、それぞれの人生と深く結び合わされていかなければなりません。つまり、私たちと同じように、この緊張関係の中で、矛盾した状況において、なお、自分は救われている、神様によって見放されてはいない、教会に足を運んでもらい、同じようにそう実感してもらう必要があるということです。そして、それが、このらしさと信仰とを繋ぐということであり、それが、この町に教会を築くということです。そして、そのために私たちに求められることは、私たちの命が、神様の光を受け、天へと繋がっていることを、答えを急がずに人生を共にすることで感じてもらうこと、そして、それは、今日の説教題を「一切を失い、なお残るもの」としましたが、すべてを失うような経験をしたとしても、たった一つ、最後に一つ残るものがある、みくにらしさを感じている人々にそれを実感してもらうこと、私たちに求められていることは、この点であるように思うのです。なぜなら、それが、神様の御心であり、すべての命は、そのように神様によって守られ、支えられているからです。

 私たちには、一切を失っても、なお、信仰という最後まで残るものが与えられています。従って、教会が明らかにすべきところは、このことに尽きるということであり、つまりは、私たち同様、教会へと招き、御心を存分に味あわせようとされているのが、私たちの神様であるということです。ですから、この町の人々に蒔かれた種でもあるこのみくにらしさ、教会らしさが、らしさのまま終わることなく、信仰へと結実するためにも、教会とすべての命が神様と断絶していないことを、私たち自身がその身をもって明らかにしなければなりません。そして、そのためにも、私たちは、神様に受け止められているとの安心感をもって、町の人々と関わりを築いていかねばならないのです。そして、それが箱船である教会を築くということでありますが、ただ、私たちは、まだまだ100年しかこの町で過ごしてはおりません。ですから、その基礎がようやく定まった段階なのかもしれません。ですから、そういう意味では、巣立ったばかりのみくに子どもたちと変わりません。けれども、教会を築くことが、私たちに与えられた使命であるなら、その中で、私たちがいろいろありながらも穏やかに祝された生涯を歩み通すからこそ、そこに、目に見える形での神の救いが現されることにもなるのです。ですから、そのためにも、私たち一人ひとりが、ただただ主の安息に満たされたその信仰のあるべきその姿をこの町で我が身をもってこれからも現し続けていく、共にこの恵みをこれからも大切にしていきたいと、そう思います。

祈り

  


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