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受難節第3主日礼拝 説教 「思い起こせ、主の御心を」

日本基督教団藤沢教会 2019年3月24日

【旧約聖書】イザヤ書 63章7~14節
7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
 主がわたしたちに賜ったすべてのことを
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
 憐れみと豊かな慈しみを。
8 主は言われた
 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
 そして主は彼らの救い主となられた。
9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
 御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐れみをもって彼らを贖い
 昔から常に
 彼らを負い、彼らを担ってくださった。
10しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。
 主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。

11そのとき、主の民は思い起こした
 昔の日々を、モーセを。
 どこにおられるのか
 その群れを飼う者を海から導き出された方は。
 どこにおられるのか
 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
12主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ
 民の前で海を二つに分け
 とこしえの名声を得られた。
13主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが
 彼らは荒れ野を行く馬のように
 つまずくこともなかった。
14谷間に下りて行く家畜のように
 主の霊は彼らを憩わせられた。
 このようにあなたは御自分の民を導き
 輝く名声を得られた。

【新約聖書】ルカによる福音書 9章18~27節
 18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」


「思い起こせ、主の御心を」
 イチローの引退会見をご覧になった方も多いことと思いますが、恐らく、この朝、多くの牧師たちが、このイチローの引退から説教を始めていることでしょう。そこで、そうした牧師の一人として、御言葉に聞きつつ思うことは、人というものは、その人生において、幾度となく終わりを迎えるものだということです。そして、その最後に置かれているものが、死という厳粛なる事実であり、それゆえ、その山あり谷ありの生涯の終着点は、死ということにもなるのでしょう。ただ、私たち信仰者は、その死をもって、人生の終着点とは考えません。こうして主を信じ、主と共に同じ命に生き、主と共に人生の旅路をなす私たちの目指すところは、主イエスが仰るように、神の国以外他にないからです。従って、私たちの人生を何かに例えるなら、同行二人ではありませんが、主と共に神の国を目指す巡礼の旅ということにもなるのでしょう。そして、そのことがはっきり知らされるのが、一つの終わりを迎えたときであり、中でも死というこの厳粛なる事実と向き合うその時です。

 私たちは、その人生において、幾度、終わりを経験するのでしょうか。それと同時に、幾度、新たな始まりを経験するのでしょうか。そこで、一つの終わりと新たな始まりとを感謝をもって受け入れることができるなら、イチローではありませんが、「もう死んでもいい」と、人は喜んでそう思うこともできるのでしょう。けれども、次の段階へと進むことができず、また、進んだとしても、その新たな局面を喜んで受け入れることができなければ、その時、イチローのように、「もう死んでもいい」などと思えるのでしょうか。恐らく、その時、口から付いて出てくる言葉は、「死んでしまいたい」、「消えてなくなりたい」、それが、人の世の常なのではないでしょうか。ただ、一つお断りをすれば、このイチローの「もう死んでもいい」との一言は、自らの成功体験におもねったものではありません。大きな結果を残したイチローでありますが、ご本人も語るように、輝かしい数々の記録は、彼自身にとっては、大きなことではありませんでした。では、いかなる思いが彼をしてこう語らせたのか。そこで、引退会見でのこの彼の言葉の真意を考えるとき、今日の主イエスの言葉に重ね合わせて聞いていくことができるように思います。

 彼のこれまでの野球人生は、彼が、野球という自らの十字架を負いつつ、その長い現役生活を過ごしてきたということです。そして、それは、彼が言うように、彼が野球を愛してきたということです。ですから、このことは、主イエスが仰る「自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というこの言葉と重ね合わせて考えることができるように思います。つまり、日々、野球を愛し、まさに野球という競技の伝道師として歩み続け、そして、その彼が数々の輝かしい偉業を達成することができたのは、彼が野球への愛を貫き通すことができたからです。ですから、主イエスが仰る愛を貫くことの貴さを、私たちは、この一人の偉大なる人物を通し、知らされているように思います。それゆえにまた、愛という言葉を、意味をイチロー以上によく知っている私たちは、彼以上にこの愛を貫き通さなければならないのです。つまり、日々、主イエスへの愛を我が事として受け止め、その愛に根ざし、その愛を現していくこと、それが、十字架を背負い、主イエスに従うということであり、そして、この愛ゆえにまた、私たちも、終わりを終わりとして、感謝をもって、受け入れることにもなるのです。

 それゆえ、この愛するということは、私たちに結果を求めます。ただ、そこで求められることは、私たちが愛というこの言葉を多用することでもなく、また、ありがたがることでもありません。イチローのように結果を残すことであり、それが、自分の十字架を負うと言うことでもあるのでしょう。ただ、それができればいいのですが、結果を残すことができないとき、そして、それは、ただありがたがり、言葉を多用するだけで、やったことがなければ当然なのですが、多用されてきたこの愛という言葉をもって、私たちは、人を責め、また、自分をも責めることにもなるのでしょう。どうしてなんだ、こんなはずじゃなかった、おかしいだろう、そういうことです。そして、私たちが、そうしたことを我が事として間近に感じるのが、一つの終わりを迎えたときです。それは、愛が破れたと、その時、私たちはそう思うからです。また、それだけに、日々の繰り返しの中で、その実践が問われ、また求められもするのです。

 ですから、自分を捨て、己が十字架を負い、主イエスにお従いする生涯を私たちが過ごすことができれば、私たちの多くは、イチローのように、もう死んでもいい、との素直な思いをもって、まさに、最期を最期として、喜びと感謝の中に迎えることにもなるのでしょう。従って、イチローは、恐らく、彼の今後の人生がいかなるものであるのかは分かりませんが、その輝かしい業績にふさわしく、今後の人生を歩んでいくように思います。けれども、私たちはどうでしょうか。この時、彼への賞賛を惜しむものではありませんが、彼の姿を自らに置き換える時、この己が十字架を負い、主イエスに従うということ、つまり、自分が主イエスの愛にふさわしく生きたか否かを考えるとき、はたして、どれだけの人々が、自信を持って愛に生きたと口にすることができるのでしょうか。ですから、そのような思いをもって、改めて、一つの終わりを迎えたイチローを見つめるとき、彼への賞賛と感謝は、そのままの姿を保つことはできません。賞賛は落胆へと、また、彼への感謝は、自らを卑下する思いへと置き換わってしまうことにもなるのでしょう。それは、私たちの多くが、彼のように才能に恵まれてもいなければ、彼のように日々努力し続ける力もないからです。まただから、私たちも、世の人々も、彼の偉業に対し、惜しみない賞賛を与えるのでしょうが、では、主イエスに対してはどうなのでしょうか。

 主イエスへの惜しみない賞賛、感謝、私たちがこの言葉を口にするとき、私たちの眼差しの中には、主イエスの姿がしっかりと映し出されていることでしょう。それは、主イエスの偉業を知らされるからであり、そして、そこに現されているものが、主イエスの愛でもあるからです。けれども、その一方で、私たちは、主イエスの目に映し出される自らの姿を見て何を思えばいいのでしょうか。それが、もし、愛という言葉だけを多用し、実際には、主の十字架の愛からほど遠い現実に生きるだけだとしたら、主イエスに向かい語るその賞賛、感謝の言葉を、私たちは同じように口にすることができるのでしょうか。仮に、もし、できたとして、では、傍目には、その姿はどのように映るのでしょうか。自分では気がつかないその姿を、人は敏感に気づくものです。また、そうした人の姿を見て、なにがしかの思いを抱いたその人たちが、同じように主イエスの中に自らの姿を見つめるときに、今度は、自分自身をどのように受け止めることになるのでしょうか。そこで、互いの醜さを知らされ、傷ついた者同士が互いに互いをいくら慰め合ったところで何かが変わることはありません。その一瞬、お互いの欠けの多さを事実として共有し、一緒だねと、そこで安心し、そうして、その時をうまくやり過ごし、仮にその先に進むことができ、それ以後、主イエスに近づこうともせず、安穏と過ごすことができたとしても、私たちの人生の最後に、今度は、主イエスの方から私たちに近づかれるのです。では、その時、私たちは、主イエスに対し、どんな言葉を投げかければいいのでしょうか。また、投げかけることができるのでしょうか。そして、その時の主イエスの姿を、私たちは、どのように見つめることになるのでしょうか。

 こうして御言葉に聞きつつ歩んだ私たちが、一つの終わりと向き合い、その時、率直に思うことは、もしかしたら、すべてを知らされていないがゆえのもどかしさ、つまり、分からないという思いなのかもしれません。けれども、分からない中で、また、新たにされることは、御言葉を通し、主と共に歩んだその生涯は、悪いものではないということです。それどころか、これで良かったのだと、そう思えるのが、主と共に生きる私たちの生涯なのではないでしょうか。私は、1月、ある一人の信徒の方を天にお送りし、その方との別れを経験する中で、このことを知らされたように思います。その方は、藤沢教会で受洗し、前任地の佐倉教会の役員として、教会を支えてくださった方でありました。そして、二十年以上前に癌を患い、その時からずっと末期癌と言われ続け、その間、医者からは、何度あと一年と言われたか分りません。けれども、そうした中で、病気と向き合いながら、教会生活を過ごし、役員として教会を支えてこられたのです。私は、その方と十年ほどをご一緒させていただいたのですが、会堂建築もあって、牧師として本当に辛い時期にも、その方には本当に支えていただきました。また、だからということではありませんが、その方に時折言われたことは、私の最後は頼みますよ、ということでした。ですから、はい分かりました。任せてください、とそう返事をしたのですが、残念ながら、その思いに応えることなく、離任することになったのです。

 そして、藤沢に参りまして、約3年近くが過ぎた年明けのことです。前任地の信徒より、ホスピスに入ったので、見舞って欲しいという連絡をいただきました。そこで、家内と二人で病室を訪ねたのですが、私に会うなりその方が仰ったことは、「詐欺師、騙された」というこの一言でした。ただ、その方は、人が聞いたらなんと思うか分からないこの言葉を、にっこり微笑み、嬉しそうに、私に向かってそう仰ったのです。そして、その傍らにいた奥様も、嬉しそうにやさしく、「これで思い残すことはないわね」とそう仰ったのです。そして、このやり取りの中で、私もとてもうれしく思ったのですが、その四日後、その方は、主の御許へと静かに召されることになったのです。ただ、その日は、主が復活された日曜日でもありました。私は、その方が召されたことを知らないまま、もう一度感謝の言葉をお伝えしたく、夜、病室を訪ねたのですが、残念ながら、直接、感謝をお伝えすることは許されませんでした。けれども、主が復活された日、その方の最後の姿は、微笑み、口にした「詐欺師、騙された」と仰ったそのままの姿でありました。そして、思ったのです。聖書が私たちに伝える御心の真実を、終わりを終わりとして迎えるしかないその生涯の最期を主がどのように見つめておられるのかを、そこで、改めて知らしめられたように思うのです。

 人に終わりを定めたのは神様であり、それゆえ、人は、終わりを必要以上に避ける必要はありません。ただ、その一方で、私たちの多くは、終わりを嘆き、避けようとしてしまう。イチローのように、もうこれでいいとは思えず、そして、イチローと比べ、嘆くのです。それゆえ、私も、終わりを終わりとして受け止めきることができずに、嘆くことが多いように思います。それゆえ、その矛先は、時に神へと向かうこともあります。ですから、そうした私の姿は、神に敵対しているとしか思えないことでしょう。しかし、神は、そうした人の嘆きを自らに敵対しているとは考えません。「神からのメシアです」と主イエスに対する正しい認識を示しながら、けれども、終わりを終わりとして受け止められず、主を呪い、神を呪い、自らを呪い、嘆いたペトロのことを、主はどのような眼差しで見つめておられたのでしょうか。そこに、神と主イエスの愛が現されているのは明らかです。ただし、私たちは、この愛に溺れ、流されるだけで終わってしまってはならないのです。

 神を呪い、自らを嘆くしかない私たちは、主というこの言葉から人生を問い直し、その命を見つめ直すとき、私たちの向かい行くところがどこなのかを、私たちは、知らされるのです。それが、神の国と言うことなのですが、しかし、私たちには、その全貌が明らかにされているわけではありません。分からないのです。けれども、分からないからこそ、私たちは、終わりを終わりとして、穏やかな笑みをもって受け止めることができるのです。なぜなら、私たちの人生は、その全貌がすべて明らかにされ、すべてが分からずとも、主イエスは、私たちと共にいてくださっているのです。それが、主イエスの人生であり、それが私たちの人生でもあるからです。ですから、この主イエスの生涯を同じように歩む私たちの人生は、分かっていても分からなくても、主イエスが私たちの人生を共にしていることだけを受け入れることができるなら、そこで発せられる最後の言葉が、どれだけ人を驚かせるものであっても、そこには、私たちにはすべてが分からないがゆえの平安が満ちあふれることになるのです。そして、それは、そう受け止めることのできる人々だけに与えられる喜びではありません。この事実を受け入れ、感謝する者が、悲しむ人々、苦しむ人々、つまり、世の人々のその傍らにいることができるなら、主が共にいます幸いを信じる私たちの生涯も、また、その私たちの傍らにある人々の生涯も、主イエスゆえに、感謝と喜びをもって、受け止められることになるのです。つまり、私たちの能力や努力する力の問題ではなく、このように主イエスゆえの幸いを分かち合うことが許されているのが、こうして主を信じる私たちであり、だから、私たちは、その人生において、何度終わりを経験し、嘆こうとも、誰もが向かい行く終着点に共々に手を携えて、進み行くことになるのです。ですから、そのような交わりへとすべての命を招いてくださっている主に感謝し、また新たな歩みへとご一緒に進み行くものでありたいと思います。

祈り




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