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受難節第4主日礼拝 説教 「口数少なく、かつ、雄弁に」

日本基督教団藤沢教会 2019年3月31日

【旧約聖書】出エジプト記 34章29~35節
 29モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。30アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、31モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。32その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。33モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。
 34モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。35イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

【新約聖書】ルカによる福音書 9章28~36節
 28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


「口数少なく、かつ、雄弁に」
 2018年度最後の礼拝を共にする私たちでありますが、この2018年度について一言で申し上げるなら、こうして御言葉に聞き、礼拝から礼拝へと導かれた私たちの歩みは、主の恵みの中を過ごすものであったということです。それゆえ、この時私たちの口について出る言葉は、主への感謝、この一言に尽きるのでしょう。ですから、新しい年度も、この主への感謝の思いをもって礼拝から礼拝へと導かれるものでありたいと、そう思うのです。そこで、新たな歩みを始めるに当たって、ご一緒に確認したいことは、御言葉に聞き、礼拝から礼拝へと導かれる私たちの歩みが、どうして、主への感謝、この一言に尽きるものなのかということです。

 3階等改修工事を終え、今年度も神様から多くの恵みをいただいた私たちでもありますが、このこと一つとっても、その口に上る言葉が、主への感謝というのはよく分かることです。その一つ一つが私たちを生かし、主の幸いの内に置かれていることを知らしめるものであったからです。ですから、この時、この恵みを噛みしめる私たちは、こうして2018年度を振り返り、また次の年度も同じようにと、そう願わずにはおられません。ただ、それにしても、この同じように、ということはどういうことなのでしょうか。私たちにとりまして、この2018年度は、嬉しいばかりではありませんでした。苦しいことも、辛いことも、もちろん、悲しいこともありました。従って、今、私たちが口にしている感謝の言葉とは、そのすべてに対し、献げられているものであり、ですから、当然、去る者日々に疎しと言われるような、喉元過ぎればといった類いのものではありません。喜びであり、苦しみであり、悲しみでもあったこの2018年度の歩みすべてを主に丸ごとすべて感謝するということであり、この丸ごと感謝を献げられるところに、この一年の有り難み、そして、迎える新しい一年のありがたさがあるのです。そこで、その私たちに対し、主は、この日の御言葉を与えてくださっているわけでありますが、ですから、今日私たちがこうして聞いているそれぞれの御言葉が語るところも、この一年も、そして、新たな一年も、主への感謝、この一言に尽きるものであるということです。

 ただ、それにしても、そこで一つの疑問が湧いてきます。ルカによる福音書の最後のところには、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった」とあるのです。つまり、ここに記されていることは、起こったときと語られたときとの間には、時間差があるということです。つまり、経験したことがすぐに感謝に結びついてはいなかったということです。それは、このことを経験したペトロ、ヨハネ、ヤコブが、ここで経験した出来事に恐れをなしたからでもありましょう。そして、それは、御言葉が「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と語るように、目の前に起こった出来事の意味が、そもそも、彼らには分からなかったということでもあるのでしょう。しかし、後日、その彼らがこの時の出来事を言葉にするに至った、それは、主イエスの十字架と復活の出来事を経験した彼らが、この時経験した出来事の意味を後日深く知らされるに至ったからです。では、彼らはそこで何を知らされ、その固く閉ざした口を開くことになったのか。その切っ掛け、つまり、彼らの背中を押すことになったものでもありますが、それが、父なる神と主イエスへの感謝であったということです。そして、それは、こうして2018年度を振り返り、主に感謝する私たちの思いと同じなんだと思います。

 私たちが、自ら経験したことに対し、感謝の思いを募らせるのは、言わされるでもなく、また、分けも分からずに言葉だけを口にするのでもなく、まさに、感謝にふさわしく、喜びの中に、自ら進んで主にありがとうございますと言いたくなるからです。ですから、今日のそれぞれの御言葉が私たちに語りかけてくれていることは、こうして礼拝から礼拝へと導かれ、主の恵みの中を歩む私たちとは、そのように感謝を口にする者であると言うことです。そして、その私たちが、この1年を振り返りつつ感謝の言葉を口にしているのは、主というこの言葉によって、私たちが養われ、成長させられたとの実感があるからです。また、だから、この一年の楽しいことも苦しいことも、そして、悲しいことも、そのすべてを丸ごと恵みとして感謝し、受け止めることができるのです。ですから、そこで私たちが口にする感謝の言葉は、自分の想像を超えた出来事などを経験した子どもらの発するあの言葉に近いように思います。

 驚くような経験をしたとき、子供らがよく口にすることは、「すごい、本当だ、絶対だ」というこれらの言葉です。ですから、これについては、皆さんも経験がおありだと思いますし、もしかしたら、今も、同じようなことを口にすることもあるのでしょう。ただ、それは、その子にとってそうであっても、もしかしたら、私たち大人にとっては、そうだねと、すぐに肯くことのできないものなのかもしれません。ですから、ペトロ始め三人の弟子たちが、子どものようにすごいすごいと騒ぎ回らず、この時の経験を封印したというのは、彼らがそれだけ大人であったということです。従って、ここでのことが、その点を踏まえて語られてもいるわけですから、私たち大人は、ここでのことを子供だましの一言で片付けることはできません。つまり、御言葉を通し、私たちが彼らと同じ経験をしているということであり、そうである以上、それに基づいて、ここに記されていることを自らの言葉でもって、何かを語らなければならないのが、こうしてこの御言葉に聞いている私たちだということです。では、私たちはそこで何を語るのか。「すごい、絶対、本当に」は脇に置くとして、それが、感謝感謝ということでありますが、では、この一語に尽きると言えるその中身とは、一体何なのでしょうか。

 そこで、それぞれの御言葉に改めて触れ、私たちが真っ先に目を引きつけられ、しゃべりたくなることは、モーセ、エリヤ、主イエスの、その神々しいまでの輝きであろうと思います。それは、この神々しさこそが、神のなさることを信じるに値する何よりの理由だとも言えるからです。従って、このような経験をすれば、ペトロならずとも、誰もが、「すごい、絶対、本当だ」と、喜びと感動の余り、天にも昇らんばかりの境地に達し、思わず、「ここに三つの仮小屋を建てましょう」と、つい口走ってしまうものなのかもしれません。また、だから、そうした大きな力に押し出された人は、人にも、信じましょう、信じなければ、信じたら、こんなにいいことがありますよと、そう口走ることにもなるのでしょう。しかし、ここで私たちが口にすべき感謝、驚きとは、どうやらそういうものではないようです。

 自らの感動的な体験を素直に言葉にすることは大切なことです。そうでないと、人の心は潤いのない、渇いた痩せたものとなるからです。ですから、御言葉がペトロをしてそう語らせていることから、この素直さ自体を否定してはならないように思います。けれども、人の素朴な思いは、それだけですと逆に作用することがあるのは、皆さん、よくお分かりのことと思います。善意であったり、良心であったり、人が素朴によいと思うその思いを素直にそのまま口にしさえすれば、その思い通りの結果がもたらされるわけではないからです。むしろ、善意が善意ゆえに、また、良心が良心ゆえに、自らの気持ちに溺れるがあまり、周りが見えなくなり、そのため、時に独善に陥り、本来良いものであるはずのものが、逆に傲慢や偽善に姿を変え、毒々しさをも帯びることすらあるからです。特に、宗教的経験については、ここでもそうですが、特定の選ばれた人々にのみ許されたことであり、誰にでも許されているわけではありません。ですから、その特異な出来事をどのように受け止め、語るかについては、慎重であらねばならないように思います。まただから、神様もまた、興奮し、我をも失うペトロのその口を、一端、封印し、神の御前に静まるひとときを与え、その上で、何を語るべきかを伝えたのでしょう。

 ですから、ここでの出来事、弟子たちの経験したことは、ただ見たまま聞いたまま、それだけを人に伝えればいいというものではありません。人に伝えるためには、天よりの声として語られている「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」というこの言葉の意味をじっくり味わい知る必要があり、また、そのための十分な時間が必要であるということです。それが、主の御前に静まり、時を待つということですが、ですから、この時、私たちがよくよく受け止めなければならないことは、「私の子、選ばれた者、これに聞け」との神様の御声です。そして、それが分かるのが、主の十字架と復活の出来事を経てということでもありますが、ただ、御前に静まり、時を待つことで、「これに聞け」といわれる神様の御心の真意を、どうして私たちが分かるようになるのでしょうか。それは、これに聞けとある、この言葉のその直後に、御言葉が「そこにはイエスだけがおられた」と記すように、この神のみ声を聞いた者には、神の御心として遣わされたその独り子が共にいてくださっているからです。だから、十字架と復活の出来事を経て、弟子たちは、主が共にいますがゆえにその口を大きく開くことになったのです。ただ、御前に静まり、時を待つ弟子たちが、この時、我に返り、これに聞けと言われた目の前の主イエスを見てみると、共にいます主イエスは、この直前のような神々しい輝きを発してはおりませんでした。しかも、沈黙を強いられているその弟子たちに対して、どうしてそうなったのかの説明すらせず、沈黙したままなのです。

 それは、ここで起こった出来事の意味が分からなかったからではありません。むしろ、よく理解していた。それも、ただ知っている知っていないというレベルでのことではなく、主イエスが理解する神様の御心、つまり、「私の子、選ばれた者、これに聞け」と仰る神様のこの御心が、どうすれば弟子たち、私たちによくよく伝わることになるのか、弟子たちには、御前に静まり、時を待つことで伝えたかったからです。ですから、すぐに答えを示すのではなく、このように回りくどい方法を選ばれたところに、何が何でも私たちに御心の真意を伝えたい、そう願う神様の強い意志、主イエスのその愛の深さを、私は、感じないわけには参りません。なぜなら、このじっくり構えたところに、その真意、つまり、神様が、すべての人々を御国へと招こうとされている御心が現されているように思うからです。そして、それをはっきりと知らしめることになったのが、主イエスの十字架と復活の出来事であったということです。

 ただ、そうであるからこそ、またそこで思うのです。この場にいる私たちすべては、十字架と復活の出来事を知っているわけです。そして、この主イエスを信じているがゆえに、この一年もまた、私たちは、主の恵みの中を過ごすことが許されたのです。だから、その語るところは感謝の一語に尽きるのであり、それゆえ、主への感謝は、子供らがすごい、本当に、絶対だと口にするのと同じように、私たちの素直な気持ちとして現されることにもなるのでしょう。だから、私たちは、十字架と復活の出来事を経て、なお私たちと共にいてくださる主を素直に喜んでいいし、もっと喜ぶべきなのです。けれども、そのためには、見たまま、聞いたままでいい、ということではありません。私たちに対し、この日御言葉が語りかけてくれているように、私たちが本当に心の底から自らの信仰を喜ぶためには、御前に静まることが、それに合わせて大事なことでもあり、それは、そこで、私たちが感謝を献げる共にいますお方は、光り輝いてはいないからです。

 神様が「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」と仰る主イエスは、私たちと変わらぬ普通の姿をもって目の前に立つのです。そして、それが、今も変わらない主イエスのお姿でもあるのでしょうが、ただ、それは、どこか物足りない、もしかしたら、この方を神様の独り子、選ばれた方、私たちの救い主だと、そう信じることさえ難しくしているのかもしれません。けれども、間違いなくそれが、私たちの主イエスであり、そして、御言葉が語ることは、この変わらない姿の中に、神様の御心、つまり、神様の愛が現されているのです。ただし、それは、主イエスが、その本来の輝きを失ったということではありません。山の上でペトロらが目の当たりにした、モーセ、エリヤ、主イエスの輝きは、世界の歴史を貫き、神様の栄光がこの世界に留まり続けていることを示しており、それゆえ、人は、この神々しい輝きを求めることにもなるのでしょう。けれども、その感動、興奮といったものが、私たちがこうして主イエスを信じるすべてではないのです。なぜなら、私たちが主への感謝の言葉を口にするのは、教会を出てすぐに忘れてしまうような感動と興奮の類いではないからです。それは、神様の御声を聞いたペトロらが目にしたものが、代わり映えしない主イエスの姿であったように、代わり映えしない私たちの日常、その暮らしにおいて、私たちと同じように、同じところに立ち、共にいてくださる方、それが、私たちの主であるからです。

 このことはつまり、主イエスが、私たちのこの生活のレベルまで下り、日々の暮らし、私たちの生活のすべての領域において共におられるということです。そして、それは、いつからということではなく、十字架と復活のそれ以前も、これ以後も、私たちのこの暮らしの中に、この方は共にいてくださっている、分かり映えしない主イエスのここでの姿は、この点を明らかにしてくれているように思います。また、だから、このお方は、私たちを礼拝から礼拝へと導かれるのであり、まただから、日常のレベルで生活を共にする主は、私たちを御国へと導こうとされているのです。ただ、代わり映えしないと言うことは、目をこらしてしっかりと見つめていなければ、うっかり見過ごしかねないことにもなります。まただから、私たちもまた、そこでとんちんかんなことを口走しってしまうのでしょう。それゆえ、ありきたりな姿にありがたみを感じなくなることもあるのでしょう。ですから、ペトロの「ここに三つの仮小屋を建てましょう」と言ったこの一言は、そのことの裏返しであるように思います。けれども、私たちの主は、私たちがあつらえた奥の院の奥の奥に収まり、神々しい姿をもって鎮座ましますお方ではありません。代わり映えしないその姿をもって、私たちの生活のレベルまで下り、私たちと親しく交わってくださる方なのです。そして、このお方が、私たちを御国へと連れて行こうしておられる。感謝の一語に尽きるのはこの主イエスの導きによるものでもありますが、つまりは、それが、私たちにとっての救い、恵みであるということです。

 代わり映えしない方が私たちと生活のレベルで共にいてくださっているということは、私たちの期待に反するものなのかもしれません。けれども、それが、私たちが主の救いとその恵みを感謝をもって受け止める上で、特に大切なことなのだと思います。なぜなら、身近であり、その反面、私たちの期待に反するように見えるということはつまり、私たちの思いや考えを超えて、私たちがもうこれでお終いと思うその時でも、そんな私たちの思いに反し、主イエスは、私たちといつもと変わらぬ姿をもって共にいてくださっているということだからです。そして、このことはまた、私たちが生きるこの地と神様がいます天とは、主イエスゆえに繋がっているということです。そして、このお方が、私たちの生活のレベルまで下られたということはつまり、神の救いは、私たちの生きるこの世界をあまねく包み、それも、ただ雲や霧のように世界を覆うだけでなく、その恵みは、常に我々の足下に置かれているということです。そして、このことをはっきりと私たちに知らしめることになったのが、主の十字架と復活の出来事でありました。

 レントの時を過ごす私たちは、この思いを新たにしようとしているのですが、この新たにされるその思いの根底にあるもの、それが、私たちの主への感謝であり、そして、その私たちを、主は、新しい年度も、私たちと共にいまし、礼拝から礼拝へと導こうとされているのです。そのことをしっかりと受け止め、ご一緒に新しい歩みを進めて参りたいと思います。

祈り




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