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イースター(復活日)礼拝 説教 「我らの神、主のもとへ上ろう」

日本基督教団藤沢教会 2019年4月21日

【旧約聖書】エレミヤ書 31章1~6節
 1そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
2 主はこう言われる。
 民の中で、剣を免れた者は
   荒れ野で恵みを受ける
 イスラエルが安住の地に向かうときに。
3 遠くから、主はわたしに現れた。
 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し
 変わることなく慈しみを注ぐ。
4 おとめイスラエルよ
 再び、わたしはあなたを固く建てる。
 再び、あなたは太鼓をかかえ
 楽を奏する人々と共に踊り出る。
5 再び、あなたは
 サマリアの山々にぶどうの木を植える。
 植えた人が、植えたその実の初物を味わう。
6 見張りの者がエフライムの山に立ち
   呼ばわる日が来る。
 「立て、我らはシオンへ上ろう
 我らの神、主のもとへ上ろう。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 20章1~18節
 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


「我らの神、主のもとへ上ろう」
 イースターおめでとうございます。この祝いの日に先立ち、主は、私たちにこう仰いました。「しばらくするとあなたがたは私をもう見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と。このお言葉通りに、主イエスは、この朝、甦られました。この日の御言葉は、そのことを私たちに語るものですが、それゆえ、主が、「マリア」と、マグダラのマリアに向かい、そう呼びかけられたように、主イエスにその名を呼ばれ、この場へと召し集められ、御言葉の語る主の真実に触れているのが、イースターの朝を迎えた私たちであるということです。このように、主の甦りが、私たちにとって他人事ではない以上、私たちは、そこで、この驚くべき出来事への喜びを大きくすることにもなるのですが、それがまた、主が甦られたこの朝の、私たちの自然な姿でもあるのでしょう。

 ところが、御言葉は、私たちのそんな思いとはまた別の方向へと私たちを導こうとしているように思うのです。感情の赴くまま、気持ちに流されるまま、その喜びを現すことには、いささかの躊躇を覚えているかのように見えるからです。そのわけは、主の次の言葉の中に見ることができます。主イエスに声をかけられ、その声の主人が主イエスだと分かったマリアに向かい、主イエスは「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父の元へ上っていないのだから」とこう仰ったというのです。このことはつまり、「復活することですべてが終わったわけではない、復活は、いわば通過点に過ぎない、だから、我を忘れたように喜びなさんなよ」と、主がマリアにこう言ったということです。そして、復活に至るまでの前後を考えるなら、それも分かるように思います。なぜなら、主イエスの物語は、十字架の主の復活だけを伝えるものではないからです。

 十字架から復活へと導かれた主は、天に昇り、神の右に座したまい、そして、終わりの日に神の御前へと私たちを迎え入れることをその使命としているのです。従って、この一連の流れを無視するかのように、復活だけを取り上げ、喜ぶことはできません。ですから、この点を、私たちがもう一度しっかりと受け止めるなら、このように手放しでない理由も分かります。また、それと共に、復活の事実性、その有無についての議論が、いかに木を見て森を見ない議論に過ぎないかかもよく分かります。このようにただ喜べ、喜べと、騒ぎ立てることなく、また、嘘だ嘘だと騒ぎ回るでもなく、ある種の抑制を利かしているところに、復活の出来事を伝える御言葉の本質がよく現されているように思います。ただし、この抑制を利かせているということを誤解し、だから、私たちが、主の復活を喜んではいけないと考えてはなりません。同調圧力のように人々を扇動をし、また、無意味な自粛を、御言葉は求めているわけではないからです。

 復活の喜びを現す上で重要な点は、十字架の出来事を経て復活へと導かれてきた私たちが、この朝、どのような心持ちで迎えたかということです。それは、一言で言えば、手放しの喜びではなく、静かな喜びです。そこで、今日は、そのことを確認したく、一番最初に讃美歌の321を選ばせていただいたのですが、それは、十字架という闇を経験した私たちが、この朝、感じるに至ったことが、この静かな喜び、つまり、主への信頼と神への静かな希望であるからです。そして、今日の御言葉がある種の抑制をきかせて私たちに復活の出来事を語るのはそのためでもあるのです。ですから、この姿勢、つまり、静かな喜びこそが、私たちのイースターの迎え方だと言えるのでしょう。

 そこで、イースターを巡っての昨今の風潮を批判的に思い起こされた方もいることでしょう。昨今、クリスマス等と同様に、イースターを商機として捉えられるに至ったからです。けれども、この日の御言葉に聞いていくなら、私たちはそうした現状を特段にいぶかしく思う必要はありません。むしろ、クリスマスのようにイースターが話題に上るようになったこと自体は、喜んでいいことだからです。ただし、そこで、忘れてはならないことは、今申しましたように、私たちが主の復活をどのような心持ちで迎えたのかということです。なぜなら、それは、私たちの生き方、人生にも繋がるものでもあるからです。

 もし、私たちが、この点を見失ってこのイースターを迎えるようなことがあれば、私たちが祝うイースターも、世間がイベントとして行うイースターも、何一つ変わらないものになるのでしょう。そして、もしそうだとしたら、私たちは、人生の道筋をも見失っているということにもなるのでしょう。ですから、こうしてイースターを祝うということはつまり、同じように祝っているように見えながらも、世間の人たちが、あれ、どこか違うぞ、そう思っていただける機会が与えられたということであり、それゆえ、そういうチャンスが与えられたことは、むしろ、いいことのように思うのです。そして、イースターの静かな喜びを、そうした状況下で私たちがこうして現すことが許されていることは、私たちが、自らの人生の道筋をしっかりと踏みしめているからであり、それゆえ、イースターは、私たちの信仰の本質を人に伝える上での、とてもいい機会とされていると、そのように言うことができるのです。

 ですから、私たちが、世間の向こうを張って、本家と元祖の争いをするような愚かな真似をする必要はありません。十字架から復活へと向かわれた主について、この時、御言葉が私たちに語ることが、主への信頼と神への静かな希望である以上、わざわざ敵を作って争うような真似は、やはり慎まなければなりません。むしろ、そこで意味のない争いを避ければこそ、この静けさが、私たちの生き方、人生となって、現されることにもなるのです。ただ、このイースターの静かな喜びでありますが、これは、私たちの手の内に勝手に転がり込んできたわけではありません。では、どのようにして、この静けさが私たちにもたらされたのか、そこで、この点を改めて確かめたいと思います。

 主の復活の朝、誰よりも早く主イエスにその名を呼ばれたのが、このマグダラのマリアでありました。ただ、その直前において、マリアが主の墓の前に立ち泣いていたとあるように、十字架によって断ち切られた主との絆を回復することは、自らのその力を持ってしてできることではありませんでした。主を心から愛する者にとって、主の十字架の出来事は、言葉に言い表すことができないくらいの辛い出来事であったからです。でも、そうでありながら、その私たちが、主への信頼を新たにすることが許されたのは、主にその名を呼ばれることで、新たな信頼と静かな希望が与えられることになったからです。このように、この朝、私たちが感じている静かな喜びは、主からその名を呼んでいただくことで新たに与えられたものであり、悲しむ者がこのように喜ぶ者へと変えられて行ったのは、復活の主が呼びかけ、その後も共にいてくださり、そして、ここが肝心なところでもありますが、それがぬか喜びに終わることなく、御国へと導かれ、ずっと続くことを知らされたからです。ただし、人がこの思いに至るためには、しばらくの時間を必要としているのであり、ぱっとすぐに分かることではありません。

 十字架の出来事は、自らに対する主の思いが変わらない、失うことがないと信じていた人々にとって、一切を失う出来事でもありました。ところが、十字架の出来事を経て、復活の主と出会うことで、この思い込みが少しずつ、本当に少しずつでありますが、少しずつ和らぎ、自分たちと主イエスとの関係性が、主のそのお言葉どおりに変わることがなく、また失われることもないのだと、主の死を悼み、悲しむ人々は、このことを実体験することになったのです。このように、復活を理解し、その先の道筋を見出すためには、時間が必要であり、また、その時間を備え、その傍らに立ち続けてくださっているのが、復活の主イエス・キリストというお方でもあるのです。

 主の十字架の出来事は、弟子たち、共に歩んだ女性たち、主に信頼し、最後まで従おうとした人々にとって、混乱、恐れ、疑い、怒り、絶望、そして、自責の念、負い目など、十字架を経験した人間が、恐らくは感じるであろう、あらゆるネガティブな感情を湧き上がらせるものでもありました。それだけにまた、主が復活されたという話を聴くだけで、彼らの頑なな思いが、簡単に覆えされることはありませんでした。慣れ親しんだものが根こそぎ失われ、奪い去られたわけですから当然です。そして、その人生において、幾度となくそうした経験をさせられるのが私たちでもありますが、ところが、十字架という乗り越えることのできないこの深い悲しみと苦しみを経て、静かに変えられていくことになったのが、このマグダラのマリアであり、主イエスの弟子たちであり、そして、この朝、静かな喜びに包まれている、主を信じ信頼する私たちでもあるのです。

 それゆえ、私たちは、今年も、こうしてイースターを迎え、主への信頼と神への静かな希望をもって、主の復活を祝うことが許されているのですが、ですから、そこで、もし私たちがこの静かな喜びではなく、どんちゃん騒ぎを優先するなら、イースターを祝うことは、別の意味を持つことになるのでしょう。どんちゃん騒ぎは、絶望と混乱、怒り、自責の念といった、そうした、様々なネガティブな感情を一気に希望へと変えるための予行演習のようなものであり、もし、私たちにとって、イースターの祝いがそういうものであるとすれば、語るに落ちるとはこのことを言うのでしょうが、その時、私たちは、復活の主と出会っていないことを自ら証明することになるのです。つまり、主イエスの復活が、壊された主イエスとの関係性が再び回復され、元の鞘に戻ったに過ぎないとすれば、イースターは、覆水盆に返る出来事と言うことになり、もうしそうであるとすれば、それは、私たち信仰者の生き方、人生に次のような影響を与えることにもなるのでしょう。

 愛する者であったり、地域、職場、学校など自分自身の思い入れの強いものであったり、私たちには、その人生において、恵みとして多くのものを与えられ、そして、それを大切に思うものでもあり、マリアも主イエスの弟子たちもそうでした。ですから、そういう大切なものを奪われ、失うような経験をした際、その深い哀しみと苦しみに置かれた私たちが、回復へと導かれるためには、悲しみや苦しみを完全に打ち消すことが一番手っ取り早い方法でもあるのでしょう。そして、主の復活の出来事が、そのような意味で覆水盆に返るような出来事であったなら、これほど分かりやすく、誰もが納得できるものはありません。けれども、それでは、十字架自体がなかったこと、無意味なものとされなければなりませんが、けれども、主の復活は、マリアが主の十字架を深く悲しんだように、覆水盆に返るような出来事として、人々に経験されたわけではないのです。

 イースターを祝うために必要なことは、マリア初め弟子たちがそうであったように、十字架の上に立ち、深く悲しみ、そこから復活の喜びへと導かれることです。十字架を無視し、なかったことにすることではありません。十字架の哀しみ、十字架の苦しみを担い、引き受け、このように、十字架の上に立ち、主イエスの愛と救いの業を思い起こすことで、その喜びはもたらされるものなのです。壊れた事実、失われた現実に背を向けることによって、与えられるものではありません。主イエスとマグダラのマリアとのここでの出会いが、そのことを私たちに明らかにしてくれているのです。

 主イエスの墓の前で涙するマグダラのマリアは、その哀しみで一杯になり、その心を深く閉ざしておりました。そして、その直後、マリアは、主イエスに呼びかけられ、二度、主イエスの方に振り返ったと御言葉にはあるのですが、振り返ったと言うことはつまり、マリアは、主イエスに背を向けていたと言うことです。つまり、一度目に振り返ったとき、すぐに主イエスだと分からず、そして、その次に、マリアと呼びかけられ、主イエスだと分かったその時にも、主イエスに背を向けていたのが、その時のマリアであったということです。けれども、壊れた、失われたとの思いゆえに、主イエスにも、そして、自らに対しても、その心を固く閉ざすマリアが、主へと心を開くに至ったのは、主イエスが、マリアから離れることがなかったからです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」との主イエスの呼びかけが、そのことを現しているように思います。そして、その上で、御言葉は、マリアと主イエスご自身の関係が、決して崩されないことを語るのです。

 主イエスのことを墓の園庭と思い込むマリアは、主に対し、こう語ります。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたかを教えてください。私があの方を引き取ります」と、主に対し、マリアはこう言ったというのですが、聞き覚えのある主イエスの声を聞いたマリアでありながら、なお、主イエスの存在に気がつかなかったのは、主イエスに向けられたその愛と、主イエスとの関係性が断ち切られたがゆえのその悲しみが、それだけ深いものであったからです。そして、その直後、主イエスが、「マリア」と呼びかけることで、マリアの心は主へと開かれることになったのですが、けれども、主イエスのこの呼びかけとマリアのその直前の問いかけとの間には、大きな空白があるように私は思うのです。そして、この空白は、主に背を向けている時間の長さを現すものであり、また、すべてのものをはねつけ、拒む、マリアの悲しみと苦しみの大きさを現しているように思うのです。しかし、そこに主は共にいてくださり、この共にいます主が、マリアと呼びかけてくださった。マリアと主イエスとの間にあった溝が、この主の「マリア」との呼びかけによって埋められ、マリアは、主イエスへと心を開くことになったのです。つまり、この隔たりが埋められることになったのは、そこに主が共にいてくださったからです。

 悲しみと苦しみの中で、その原因となった出来事を恵みとして受け止めることは、簡単なことではありません。主イエスとの暮らしを大切にしていた弟子たち、このマリアでさえそうであったのですから、私たちにそれが難しいことは明らかです。けれども、そのマリア、弟子たちが、ここで変えられていったように、私たちが悲しみを悲しみとして、苦しみを苦しみとして、十字架の前で嘆けばこそ、共にいます主の存在が、私たちの頑なな心を少しずつ、少しずつ開いてくださり、そして、その頑なさが和らいだとき、主は私たちに呼びかけ、固く閉ざしたその扉を開け放つかのように、私たちにその姿を明らかにされるのです。この朝の私たちの心持ちを「静かな喜び」と一言で表すのは、主と共に歩み、経験したこれまでのことを思い起こすからであり、そして、それゆえにまた、私たちは、悲しみ、涙していいということです。それは、十字架が、私たちにとって、安心して嘆いていい場所であるからです。

 十字架の前に立ち、心を閉ざし、十字架に背を向け、嘆くしかない私たちではありますが、主イエスは、その一人ひとりのその名を呼び、復活の事実を明らかにしてくださったのです。そして、私たちは、私たちと主イエスとの関わりが、決して壊されることのないことに気づかされ、それゆえ、この朝、静かな喜びをもって、自らのその気持ちを率直に表すのが、今の私たちでもあるのでしょう。ただ、そこで現されるこの時の気持ちは、この一瞬だけで終わるものではありません。主とのこの関係性の中で、御国へとその歩みを進める私たちにとって、この時の喜びは、さらに深められ、大きくされていくのであり、それゆえ、十字架と復活の出来事は、私たちの人生、生き方の土台となるのです。この朝、私たちが経験していることは、そういうことであり、それゆえ、最後にもう一度、申し上げたいと思います。皆さま、イースターおめでとうございます。

祈り

  


晴 20℃ at 10:30