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復活節第2主日礼拝 説教 「天の窓は開かれた」

日本基督教団藤沢教会 2019年4月28日

【旧約聖書】列王記下 7章1~16節
 1エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」2王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」
 3城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。4町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」5夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。
 6主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、7夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。
 8重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。9彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」10彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」11門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。
 12夜中に王は起きて家臣たちに言った。「アラム軍が我々に対して計っていることを教えよう。我々が飢えているのを知って、彼らは陣営を出て野に隠れ、『イスラエル人が町から出て来たら、彼らを生け捕りにし、町に攻め入ろう』と思っているのだ。」13家臣の一人がそれにこう答えた。「ここに残っている馬の中から五頭を選び、それに人を乗せて偵察に送りましょう。彼らも、ここに残っているイスラエルのすべての民衆、また既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆と同じ運命にあるのです。」14こうして、彼らが馬と二台の戦車を選ぶと、王は、「行って見てくるように」と命じて、アラムの軍勢の後を追わせた。15彼らはアラム軍の後を追って、ヨルダンまで来たが、その道はどこもアラム軍が慌てて投げ捨てた衣類や武具で満ちていた。使いの者たちは帰って来てこのことを王に報告した。
 16そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られるようになった。

【新約聖書】ルカによる福音書 24章13~35節
 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


「天の窓は開かれた」
 主イエスのご復活を共々に祝った私たちが、こうして一巡りの歩みを終え、再び主の御前へと集められて参りました。そこで、先ず思うことは、先週との違いです。礼拝の名称、聖餐式等の聖礼典の執行、聖歌隊による讃美、などなど、形の上での大きな違いがあるからです。けれども、それは、イースターという特別な日を祝う上での違いであって、私たちがこうして主の日の礼拝を守る上では、何一つ変わるものではありません。なぜなら、甦りの主と共にこうして献げられているものが、主の日の礼拝でもあるからです。また、そうであるからこそ、主の日から主の日へと導かれることで、私たちの人生は、この甦りの主によって、豊かなものとされるのです。それゆえ、この、主の日から主の日へと導かれる私たちの歩みを、巡礼にたとえ、語ることもできるのでしょう。

 ところで、スペイン、サンチャゴへと続く巡礼の道、エル・カミーノをご存じでしょうか。日本でも昨今人気を博しているとのことでありますが、そのことに加えて、昨年度の信徒の友にも、学生たちのサンチャゴ巡礼の記事が載っておりましたので、ご記憶の方もおられることと思います。ちなみに、この巡礼の旅に、私の友人の息子も参加し、信仰的にも大きく成長させられたとのことですが、しかし、昨今の人気の高まりは、信仰者だけに限ったものではありません。フランスからスペインまで続くこのエル・カミーノの全行程は、その距離およそ700㎞と言われていますが、ですから、すべての人が、一度に全行程を踏破できるわけではありません。区間を区切って、少しずつ全行程を歩き通す方もおられるとのことですが、それゆえ、全工程を終えて得られる達成感がその人気の後押しをすることにもなったのでしょう。けれども、それだけにまた、それが、信仰的営みとしてなされたとき、信仰者は、信仰的に大きく成長させられもするのでしょう。ただ、主の日から主の日へと歩み続ける私たちの人生と、今日、御言葉が語る、この弟子たちと主イエスとのエマオへの道行きとを思いますと、サンチャゴ巡礼といった非日常的な体験だけに過剰な期待感を寄せることは、今日の御言葉が語るところからすれば、大事な何かを見失う危険性があるように思います。

 サンチャゴ巡礼のような特異な体験は、その達成感の大きさゆえに、宗教的にも貴重な経験であることは分かります。しかし、甦りの主イエスが、その信仰の目が開かれるために私たちと共に歩み続けておられるのは、そうした特異な状況下だけではありません。主の日の礼拝から礼拝へと導かれる私たちと共にいてくださっているのが、先週その復活を祝ったばかりの甦りの主なのです。ですから、そうした非日常的な体験が、もし、私たちの主と共にある普段の日常を見失わせるのであれば、それらの機会によって、主に向かってその目が正しく開かれることはなく、結局は、そうした貴重な体験が返って仇となることもあるのでしょう。しかし、昨今の人気の高まりを、だから、ダメだ、無駄だと決めつけることもまた間違いです。私たちが、甦りの主と共にこうして歩んでいることを日常において深く自覚しているなら、日常を離れ、そうした非日常的な体験とは、必ずや恵み深いものとなるからです。ですから、何かを知りたい、掴みたいと思っている人々のことを、私たちは、闇雲にただ批判するだけで終わってはなりません。むしろ、そういう求めにある人々とこそ、私たち自身が積極的に寄り添い、時間を共にし、働きかける必要があるのです。それは、そうした非日常的体験になにがしかの期待を寄せる人々は、自らの置かれた日常に対し、閉塞感を抱くか、もしくは、生きることに自信が持てずにいる場合が多いからです。

 そして、私たちにそれができるのは、今日の旧新約聖書のそれぞれが語るように、たとえ神を信じ、イエス様を信じていようとも、神の声に耳を閉ざし、また、共に歩むイエス様に対しても、私たちもまた、目を閉ざしてしまう場合があるからです。そして、それは、私たち信仰者自身、自らの置かれたこの日常に閉塞感を抱き、また、自らの信仰に自信すらを持てず、心を固く閉ざすことがあるからです。それゆえに、御言葉は、そのような私たちに、目と耳を開くことを求めるのですが、そこで、私たちが、もしそのような状況に陥ったとき、甦りの主イエスと出会った弟子たちの、このエマオへの道行き、この巡礼の旅が、目を開くためのプロセスを語ってくれているように思います。

 この二人の弟子たち、その一人はクレオパと言われていたそうですが、この人は、たった一回ここに登場するだけで、それ以外のところにその名が記されることはありません。また、今日の最後の箇所では、この二人が、十一人の弟子たちと出会ったとあることからも分かるように、この二人が主イエスの12弟子でなかったのは明らかです。けれども、ルカは、この二人を弟子と呼び、そして、この二人がこの時感じている混乱と動揺の中で、このエマオでの経験を通し、主イエスへと目が開かれる過程を語るのです。それは、甦りの主イエスとの再会が、この二人だけの特異な体験ではないからです。従って、ルカが言うこの二人の弟子とはつまり、主イエスと共に歩む一人一人でもあるということです。ただ、もちろん、すべての者がこの二人のように、主に対しその目が遮られているわけではありません。共にいます主イエスをはっきり意識している人もいるからです。けれども、礼拝に集められながらも、それは、全員ではないように思います。彼らの目が開かれ、共にいますお方が主イエスだと分かった瞬間、主イエスの姿が見えなくなってしまったように、見えないことに不安を覚える人々は、こうして礼拝を献げる者の中に間違いなくいるからです。

 見えないということ、目の前にいないと言うことは、どういうことなのでしょうか。それは、私たちの不安と恐れをかき立て、それゆえ、私たちの気持ちは、主イエスから離れ、よしんば、主への熱い思いはあっても、主イエスご自身に目を向けることは難しいということです。またそれだけに、そこで静かにしてはいられない、答えの見えない、もしかしたら、そもそも答えなど最初からなかったのではないかと、言葉には出さずともそう思い、そして、主への篤い思いゆえに、また、それを隠そうとして余計に何かを言わずにはおられない、この二人が、「話し合い論じ合っていた」とあるのは、そういうことであったように思います。ですから、そうしたとき、誰かが横から余計な口を挟もうものなら、それがたとえ主イエスであっても、その憤りを露わにすることにもなるのでしょう。泡飛ばし話し続けるこの二人に向かって、主イエスが、「それは何のことですか」と尋ねたところ、クレオパが「あなただけは知らないのですか」、「あなただけは」と強調しているところに、主イエスに向けられたこの二人の苛立ちが現されているように思います。それだけではありません。その問いかけへの説明として、主イエスのことを「ナザレのイエス」と言ってのけるところに、十字架の主イエスと距離を置こうとする彼らの不誠実さを見て取ることができるからです。そして、それは、この二人の混乱と動揺がそれだけ大きかったからでもありました。

 けれども、その一方で、この二人は、主イエスの十字架と復活の出来事について、間違ったことは言ってはいないのです。それどころか、これまでの経緯を正しく説明し、その理解の正しさを実証さえしているのです。しかし、目が遮られているということは、そういうことなのかもしれません。彼らが、どこか他人事のように語るしかなかったのは、主イエスの出来事を自分のこと、我が事として飲み込めずにいたからです。ですから、そこで、主イエスが「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言っているのはよく分かります。自分では何やら正しいことを説明しているように思っても、肝心要の主イエスの出来事を我が事とすることができないわけですから、その勘違いには、主イエスといえども、怒りたくなるのが当然です。

 そこで、この主イエスの言葉を、ある先生は、私に対し、次のように言い直し、説明してくれたことがありました。主イエスが仰った「物わかりが悪く、心が鈍く」とあるこの箇所は、それが、主イエスの思いの深さが現れ出ている言葉である以上、決してきれいな言葉であるはずはないということです。ですから、ここは、主イエスにきれいな言葉で語らせるのではなく、むしろ、瞬間的に湧き起こる率直な思いを語らせる方がより分かりやすく、そして、その言葉とは、「バカヤロー」というこの一言であるということです。ですから、そこで私は、なるほどと、そう思わされたのですが、このことはつまり、先週の朝ドラの台詞を借りるなら、この二人の弟子たちの発言には、「魂が籠もっていない」ということで、だから、彼らのこの勘違いに対し、主イエスが、思わず「バカヤロー」と、そう怒鳴ってしまったということです。

 ただ、朝ドラのその先生のように、主イエスもまた、思いつきのように好きなことを言うだけで、その場を立ち去るような無責任な方ではありません。だから、怒鳴りながらもその上で、御言葉に基づき、十字架と復活の出来事について、事細かな説明をしたのです。それゆえ、この二人は、そんな主イエスの気持ちを受け止め、満ち足りた時間を過ごすことにもなったのです。二人が、その時のことを思い起こし、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と、こう語っていることから分かります。けれども、そこで、私たちが忘れてはならないことはそれでも、この二人の目が開かれることはなく、目が開かれたのは、主イエスと食卓を共にした後であったということです。

 そこで、この食卓について、私たちが真っ先に思い起こすのは、聖餐式です。それゆえ、このパン裂きについては、古くから様々な形で議論されることになったのですが、しかし、宗教改革者カルバンはじめ、同時代に生きた神学者たちは、このパン裂きを聖餐と見なすことはありませんでした。それは、それに先立ち、制定の言葉が語られていないからです。従って、この理解に立てば、その時のことは、ただ食卓を共にしたに過ぎない、そういうことでもあるのでしょう。しかし、では、ただ食事を共にするだけで、どうしてこの二人の目が開かれたのでしょうか。食したパンと目が開かれたこととの関連性については、未だにはっきりしたことは言えないのでしょうが、しかし、この二人の目が開かれるに至ったその理由は、主イエスと共に囲んだ食卓にあるのは間違いありません。

 聖餐は、私たちにとって、主イエスの命に与る大切な儀式です。私たちの信仰の命そのものであると言っていいのでしょう。だから、軽々しく与ることはできないし、まただから、聖餐に与る度に私たちはその点を確認しているわけです。けれども、この霊的体験は、魔法のように私たちの目を開かせるものではありません。聖餐に際し、その点を繰り返し確認するのは、私たちの目が閉ざされることがあるからです。けれども、その上で、ここでのことについて敢えて申せば、やはり、主の食卓との関わりの中で理解していいことなのだと、私はそう思うのです。それは、主の食卓において、私たちが経験することと、そして、ここでこの二人の弟子たちが経験したこととは、同じ内容を現しているからです。それは、二人の弟子たちが招かれたこの食卓の主人も、私たちを招く食卓の主人も、同じ主イエス・キリストだからです。

 何を食べ、そこで、食べたものによってどのような効能がもたらされるのか。その効果が高ければ高いほど、いつの時代においても、人々の関心を引くものです。しかし、私たちが与る聖餐は、ヒアルロン酸やコンドロイチンのように、私たちの痛みを軽減するものではありません。混乱や動揺、生きることへの不安や恐れ、そういったものを取り除いてくれるわけでもなく、また、改善してくれるわけでもありません。ただ、人は、それを期待しています。そして、このような期待こそが、また、十字架と復活の出来事の理解を妨げることにもなるのです。彼らが「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と主イエスに語ったことが、そのことを物語ってくれています。なぜなら、その期待、望みをものの見事に打ち砕いたのが、主の十字架の出来事であるからです。復活の主と共に与るそのパンによって、十字架というこの痛みが、まるでなかったかのように取り除かれることもなく、それゆえ、主と共に歩む私たちのその生涯が、私たちにとっての望ましいものだけに囲まれた、バラ色の生涯となることもないからです。

 しかし、それにも関わらず、その目が開かれ、大きな希望を見つめることになったのがこの二人の弟子たちなのです。ですから、このエマオへの道行きが、二人の目が開かれるプロセスを明らかにしているのは間違いありません。ただ、御言葉が同時に語ることは、この二人の目が開かれ、それですべてが終わったわけではないということです。それは、この二人がこの後も生き続けなければならないからです。では、この二人がその後生きる場とはどういう場であり、どういうものであるのか。目が開かれたこの二人が見つめたものは、自分がどこに置かれ、どこに生きているか、このことに気がつかされたのが、主と共にエマオへの旅したこの二人でありました。それは、この二人が、それを我がこととして受け止めることになったからです。

 二人の気づきとはつまり、共にいます主が、私たちの人生の主であり、この主がいますところに、私たちもまた共に生き、そして、この事実と現実を我が事としているということです。つまり、この甦りの主と共に、人生という巡礼の旅を続けているのが私たちであり、そして、それは、私たちが、自分は分かった、自分は分からない、私たちがどれほどそのようなことを思おうとも、旅の終わりまでを変わりなく共に歩み続けてくださっているのが私たちの主イエスであるということです。このように、旅路の終わりまでを導かれるのは私たちの主イエスであり、そして、それは、今日の御言葉の中でも語られていることです。この二人の家に主イエスが招かれながらも、その食卓においては、この家の主として振る舞われたように、私が私がと、自分の思い通り、考えどおりに整えることのできると思い込む、何人も犯すことが許されないと思う、この「我が家」という領域において、それにも関わらずその食卓の主人は主イエスであるのです。

 二人の弟子たちは、このことに気がつかされ、そして、その目が開かれることになったのです。ただ、それは、この二人だけが特別であったということではありません。目が開かれることになったのは、この二人と変わらない経験をした、彼らの仲間も同じであったからです。このように、主イエスとの交わりに生かされているのは、彼らだけでなく、彼らの中も同じであり、そして、それは私たちも同じです。また、だから、この交わりに生かされていることへの気づきが、私たちの曇るその目をその都度主イエスへと開き、大きな希望を与えることになるのです。主イエスの「バカヤロー」との声をこの二人が感謝をもって受け止めているのはそのためです。

 主の眼差しの中に置かれ、つまり、主イエスとの交わりに生かされ、目が開かれているのが私たちなのですが、このことはつまり、私たちの見ているものも主イエスの見ているものもすべて同じであるということです。そして、見ているものが同じなわけですから、その口から出る言葉も、その祈りの言葉もすべて同じであるということです。ですから、そこで当然、私たちは笑顔に変えられることになるのでしょう。仲間と共に主イエスのその眼差しを日々我が事として受け止めているのが私たちであるわけですから、そのことを互いに喜び合わないはずはありません。それは、気づきが与えられたこの二人の顔を思い浮かべれば分かることです。ただ、そうは言っても、それでも、私たちが、難しい、嫌だなと思うことは、いろいろとあるのでしょう。けれども、それでも、主は私たちと共にいまし、終わりまでを導いてくださるのです。そして、それは、共にいます主イエスが曇る私たちの顔を必ず笑顔へと変えてくださるということであり、それは、私たちの笑顔を一番望んでいるのが主イエスでもあるからです。ですから、その主イエスの顔を曇らせないためにも、主が私たちに向けるその眼差しに対し、また、その祈りの言葉に対して誠実に応え、主イエスの眼差し、その言葉を我が事として表して参りましょう。

祈り

  


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