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復活節第4主日礼拝 説教 「信仰者とは何か」

日本基督教団藤沢教会 2019年5月12日

【旧約聖書】出エジプト記 16章4~16節
 4主はモーセに言われた。
 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。5ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
 6モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。
 「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、7朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
 8モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」9モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、10アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。11主はモーセに仰せになった。
 12「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」13夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。14この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。15イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
 「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。16主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 6章34~40節
 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」


「信仰者とは何か」
 母の日には、旧讃美歌の510番を讃美するのが藤沢教会の恒例となっておりますが、それゆえ、この讃美歌を歌うのを楽しみにし、教会にいらした方もおられることでしょう。ただ、私たちが、この日、この讃美歌を歌うのは、過ぎ去った思い出に浸るためではありません。それが、私たちの伝統でもあるからです。従って、それが伝統である以上、讃美歌510番を歌うところに、私たちの信仰を見ることができる。少し大げさな言い方をすれば、母の日にこの510番を歌うことは、私たち藤沢教会の信仰告白でもある、そういうことであろうと思います。それは、この讃美歌510番が受け継がれてきたものでもあるからです。ですから、今日の説教題にある「信仰者とは何か」との答えは、もうお分かりのことと思います。つまり、信仰者とはすなわち、受け継ぐべきものを受け継いだ者、そして、この受け継ぐべきものが信仰ということでもありますが、従って、そこから分かることは、自分はこう思う、こう考える、こうしたい、ああしたい、といった私たちの信仰,行動の基準は、この受け継いだものの中にその根っ子があるということです。

 ただ、人によってはそう言われることが、たまらなく我慢ならないことでもあるのでしょう。そのため、「こんちくしょー」と、そう思うことにもなる。ですから、そう思う人は、目上の人から、きっと、こう言われるに違いありません。「自分一人の力で大きくなったような顔をするな」と。そして、私の場合、親や大人たちからどれだけそう言われてきたことかと思います。それゆえ、この讃美歌の歌詞にあることは、私の両親の思いでもあるのでしょう。ただ、その思いに応えるどころか、いまだ応えられずにもいる馬鹿息子なわけですから、救いようもない、そういうことにもなるのでしょう。けれども、先ほど、私たちの根っ子は、自分の思いや考えの中にあるわけではないと申しましたように、救いはない、そう思うそのところで思い知らされるのが、また私たちの信仰でもあるのです。そして、この日の御言葉が私たちに語り聞かせることが、まさに、そういうことなのだと思います。

 信じるということは、一言で言えば、どういうことなのでしょうか。それについて、イエス様は、こう仰っています。「私が天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」と。このことはつまり、神様の独り子であるイエス様であっても、いや、神様の独り子であるからこそ、その神様のなさることに逆らうことができなかったということです。そして、それは、私たちがイエス様を信じている以上、私たちも同じであるということです。ただ、文句は言えないにもかかわらず、文句がすぐに口に付いてしまうのが私たち信仰者でもあるわけです。そこで、イスラエルの人々を見て行きますと、それがよく分かります。

 ここに記されている場面がどんなものなのか。今日の少し前では、それが、「エジプトの国を出た年の第二の月の十五日」であったとあります。つまり、ここに記されていることは、出エジプトの際に彼らが目の当たりにしたあの奇蹟のすぐ後のことであったということです。そして、この奇蹟でありますが、それは、彼らの目にしっかりと焼き付けられ、忘れようにも忘れることのできないものでありました。エジプトの軍隊に追われ、万事休すと思ったその瞬間、目の前で海がぱっと別れ、神様が備えた道を通り抜け、イスラエルの民は対岸に渡ることが許された。しかも、彼らが対岸に渡るやいなや、彼らを追ってきたエジプトの軍隊は、彼らの目の前で海の藻屑となって消え去ったわけです。ですから、この神の御業の大きさを目の当たりにし、この奇跡を忘れたなどと言える者はいないことでしょう。しかし、彼らはよほど正直者か、あるいは、よほどの大馬鹿者であったのか、そこで彼らがなんと言ったのか、その時の彼らの姿を御言葉はこう語るのです。

 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなたたちは、つまり、モーセとアロンのことですが、あなたたちは、我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と、こう言ったというのです。ですから、当然、そこで、指導者であるモーセ、アロンと、イスラエルの人々との間で、すったもんだが生じることになるわけです。では、そういう人々の声を耳にして、そこで神様が何をなさったのか。この不平不満ばかりのイスラエルの人々をご自分の前に集め、そして、こう言うようにとモーセに命じたというのです。「私は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』」と。こうして、彼らは、神様の恵みに与り、その腹を満たすことになったのですが、では、その彼らが、神を知り、それ以後、不平不満など一切口にしなくなったのかと言えば、そうではありません。後でこの次の章をご覧いただきたいのですが、そこで、彼らが何をしたのかと言うと、今度は、喉が渇いた喉が渇いたと、またまた指導者であるモーセに文句を言う始末であったのです。そして、神様に向けられた彼らの不平不満は、その後のイスラエルの歴史において、一瞬たりとも失われることはありませんでした。それゆえ、不平不満、嘆き、さらには、怒りなど、そうした神様への否定的な思いが、イスラエルの歴史の一端を築くことにもなったのは間違いありません。ただ、もちろん、それだけが、イスラエルの歴史、伝統、そして、信仰を形作ったわけではありません。神様がイスラエルの必要を満たし、神様が神様であることを「知るようになる」とこう仰ったように、不平不満ばかりを口にするイスラエルの民でありながら、神様の恵みを受け、神の家族としての形を整えていくっことになったのが、神の民イスラエルであったからです。

 従って、「知るようになる」と言われているわけですから、当然、時代が下がるに従って、神様の恵みを受けたイスラエルは、神様が神様であることを深く知り、その信仰は、洗練されていかなければなりません。それゆえ、その点を深く受け止めた彼らも、一生懸命にそうあろうとしたわけです。ところが、その彼らの元に,神様は、その独り子をお遣わしになるのです。つまり、結果はなにをか言わんということなのですが、ただ、そこで、この独り子に神様が求められたことは、一切ご自分のなさることに文句を言わず、その御心をまっすぐに歩むことでした。それは、イエス様がここで「私が命のパンである。私の元に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と仰るように、イエス様と同じように生きる者は、神様の恵みを受け、神様の祝福から祝福へと、恵みから恵みへと歩み続けることになるからです。

 それゆえ、神の独り子にそう言われ、それを願わない者はいないのでしょう。けれども、「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と願う人々に向かって、イエス様が仰ったことは、「あなた方は私を見ているのに、信じない」ということでした。それは、彼らが主イエスのことを、そして、神様のことを深く知らなかったからでもありますが、しかし、「信じない、信じていない」と、主イエスに言われることがどういうものなのかをよく考えてみて下さい。イエス様の前にある人々は、何も信じられないと思うこの世にあって、イエス様だけは信じたい、そう思うものでもありました。ですから、イエス様からこう言われることは、たまらなく悲しいことでもあったでしょう。ただ、そう言われたのは、ここに登場する人々だけではありません。主イエスに従った弟子たちもまた、「信じる、信じる」、『信じたい、信じたい』とそう言いながら、結局は、お師匠様であるイエス様に聞き従うことができなかったからです。

 このように、信じられない、何も信じるものがないということは、とても辛いことです。何も信じられないと言うことは、自分だけを信じ、生きるしかないからです。しかし、そもそも、自分自身すら信じることができないから、人は何かにすがろうとするわけです。ですから、イエス様を信じたいと思い、主イエスの下に集まった人々にとっては、「私を見ているのに,信じない」とイエス様に言われることは、ゴミ同然の扱いをイエス様から受けたということであり、それゆえ、本当に辛いことだったと思います。しかし、御言葉が私たちに言いたいことは、イエス様を信じると言うことは、この厳しさから始まっていくということです。それは、この「私を見ているのに、信じない」というイエス様の言葉の先にあるものが、イエス様が伝えたいと心の底から願った神様の御心であり、そして、それが、聖書の御言葉が語る希望でもあるからです。

 私たちは、一生の間に、いったい何回、信じようとして信じられずに、神様とイエス様に文句を言うのでしょうか。悲しくなって文句を言い、そして、どれだけ、神様とイエス様を悲しませることになるのでしょうか。ですから、この「私を見ているのに、信じない」というこの言葉の中には、神様とイエス様の深い哀しみが表されているのは間違いありません。なぜなら、この「信じない」とのイエス様の言葉の直前では、「前にも言ったように」とあるように、何度イエス様の言葉を聞いても、自分だけの思い、考えに拘り、悲しみや怒りを募らせるのが私たちだからです。それは、どうしても、私たちが、この自分というものから離れることができないからです。けれども、まただからそこで思うのです。私たちが、信じられない、と思うその思いは、一体何が信じられないと言っているのでしょうか。

 そのとき、私たちが信じていないのは、イエス様と神様ではありません。そうではなくて、神様の恵みを受け、こうして生かされている自分自身について、私たちは、信じられない、そう言っているのではないでしょうか。つまり、神様に向かって文句しか口にすることのできない私たちがそこで何が信じられないのかというと、神様に導かれている自分自身のことを信じることができないということです。なぜなら、もし、私たちが、イエス様のことを信じることができるなら、幼子のように神様に愛されている自分自身のことを信じて疑うような真似はしないからです。

 こうして、生きている中で、何もかも全て信じられなくなることはあります。それは、出エジプトの出来事を経験したイスラエルの人々もそうですし、主イエスの十字架と復活の出来事を経験した弟子たちもそうでした。それだけでなく、2千年の教会の歴史も、私たち藤沢教会の歴史も、まさに、何もかも信じられないと思うそのような歩みでありました。しかし、その中で、放蕩の限りを尽くす中で、信じることが許された、信じるものが与えられた、讃美歌510番を私たちがこうして歌い続けてきたのは、それゆえのことなのではないでしょうか。それは、「あなたがたは私を見ているのに、信じない」とのイエス様のこの言葉の先に希望を見出し、イエス様に愛されている自分自身を信じるようになったからです。

 ただ、だから、それで文句が口について出てこなくなったと言うことではありません。文句は必ず出てくるものです。そして、それは、決して褒められたものではありません。それゆえ、「自分一人で大きくなったような気になるな」と、神様から言われ、売り言葉に買い言葉ではありませんが、自分をもてあまして、「こんちくしょー、こんな家、出て行ってやる」と、そう捨て台詞を吐いて、家を飛び出すことにもなるのでしょう。私たちが放蕩の限りを尽くすのはそのためです。しかし、放蕩息子のたとえ話が語るように、出て行かないからそれで、神様の御心を知るようになったかというと、必ずしもそうではありません。文句一言言わずに神様の側にいたとしても、放蕩息子の譬えの兄がそうであるように、神様を悲しませないことはないからです。文句を言わずにじっと我慢をし、いくら神様の側にいたとしても、それで自分自身を信じられなければ、結局は、神様を悲しませるだけだからです。それゆえ、そんな私たちの口につく言葉は、どこまで行っても文句でしかないのでしょう。

 けれども、そんな私たちでありながら、神様を知ることが許されいる、神を知るようになると言われているのは、そういうことだと思います。それは、イエス様に信じないと言われ、ゴミ同然に扱われたと私たちが勝手にそう思っても、イエス様が「私の元に来る人を、私は決して追い出さない」と仰るように、私たちのことを見捨てないのが、神様とイエス様だからです。讃美歌510番の歌詞は、そのことを知っている母親の思いでもあるのですが、ですから、遠藤周作は、そのような私たちの信仰について、あるところでこう言うのです。「私は人によく言うのですが、君は神様を問題にしないかもしれないけど、神様は君を問題にしているのだ。問題にしている以上は、形を変えていろんな事を神様はやって下さっていると。神様はいい方に向かわせてくれるという一種の信頼感があります。だから、私は信仰を強制する気はまったくない」と、また、別のところでは、「目には見えぬ大きなもの、大きな力を私は自分の人生を通して知っている」とこう言うのです。

 作家の遠藤周作が,そう思うようになったのは、親から受け継いだ信仰、遠藤周作の場合、それは、母親からでしたが、その母に向かって、数々悪態をつき、悲しませた結果として、親から受け継いだものを大切に、そして、いとおしく思うようになったのです。つまり、彼の信仰の原点は、母を傷つけた痛みであり、この痛みを通し、許されている自分自身であることを深く知るようになったということです。そして、それは、遠藤周作だけではありません。「私を見ているのに、信じない」と言われた人々も、そして、私たちも同じなのです。この痛みを通して、私たちの目は神様とイエス様に向かって開かれることになるからです。それゆえ、私たちがこの讃美歌510番を歌いたいと思うその気持ちは、遠藤周作と相通じるところがあるのかも知れません。ただ、だから、私たちも、そして、遠藤周作も、父を母に勝手に置き換え、自分の分かりやすいところで分かったような気分になって、それを知った、知るようになったと言っているわけではありません。自らの存在のすべてを受け入れる、この母なるものに私たちが目を向けるのは、そこに命の確かさと繋がりを見るからで、そして、この確かさを与えるのが父なる神の存在であり、父なる神を勝手に消し去ったからではありません。

 母なる存在を通し、そこに私たちが見つめるものは、かつての自分の振る舞いであり、また、それに伴う痛みなのかもしれません。そして、この痛みを通して、私たちが知らされることが神様の完全なる赦しでもあるのでしょう。それは、私たちが、そこで、神様の御心を知るからです。母の切なる思い、この何人の命も失いたくないという、神様の偽らざる本音に触れ、御心を御心として受け止めることになるからです。ですから、一言の文句も口にせず、神様の御心に従ったイエス様の姿は、まさにそのことを私たちに教えてくれているように思いますし、そして、それが、私たちに讃美歌510番を歌わせる、私たちの母の切なる思いでもあるのです。それゆえ、このイエス様と私たちが同じ一つの歩みをなすならば、私たちは、イエス様と同じように御心を深く知るようになるのです。

 従って、私たちがこの讃美歌510番を歌う中で見つめているものは、放蕩の限りを尽くす自分自身の姿とかつての優しい母親の面影だけではありません。父母から子へと受け継がれるこの命の繋がりの幸いな姿を見つめているのであり、そのことを明らかにして下さったのがイエス様であり、イエス様を信じた父母でもありました。そして、この命の繋がりは、この世においてのみ許されていることではありません。たとえ私たちが救いようもないこの世の現実、生きる上での深い悲しみ、こうして生きる上での痛みをどれだけ身に負うようなことがあっても、その私たちには、終わりの日に神様とイエス様への信仰ゆえに愛する者と再び出会うことが許されるのです。ですから、私たちは、母の日に讃美歌510番を歌い、母の手に抱かれた幼い頃を懐かしみ、また、その母を深く悲しませた放蕩の数々を思い起こし、反省するだけで終わってはなりません。なぜなら、神様の御心もイエス様を信じた父母の思いも、過ぎ去った昔ではなく、故郷である御国より語られているものであるからです。

祈り




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