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復活節第5主日礼拝 説教 「主が心引かれる人々」

日本基督教団藤沢教会 2019年5月19日

【旧約聖書】申命記 7章6~11節
 6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 9あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、10御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。11あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 15章12~17節
12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


「主が心引かれる人々」
 聖書の物語は、気が遠くなるくらい遠い昔の出来事です。そのため、この遠さが、人をして物語の世界から遠ざけることにもなるのでしょう。遠すぎて、小さすぎて、だから、見えないし、また、分からないということです。けれども、私たち信仰者は、そういう目で聖書を見ることはありません。私たちにとって聖書の物語は、昔々のお話ではなく、私たちが、日々、この目ではっきりと見ているものだからです。つまり、聖書の物語は、私たちの生きる世界そのものであり、それゆえ、聖書の言葉のそのままに生きるのが私たち信仰者でもあるからです。ただ、そのことに時々息苦しさを覚えることもあります。それは、申命記に「あなたは、今日私が、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らなければならない」とあるように、ある種の強制力を感じることがあるからです。けれども、そう感じるのは仕方ないとして、でも、窮屈に感じる必要はありません。そのように命じられているのは、狭い世界に私たちを無理矢理閉じ込めるためではないからです。

 例えば、今日、イエス様が、二度、「互いに愛し合いなさい」とお命じになったこの掟、命令です。この掟、命令を自分のこととして大事にしない者は、恐らく、私たちの中には誰一人としていないことでしょう。それゆえ、私たちの胸に刻まれたこの掟、命令は、聖書の物語に生きる私たちそのものを現していると言えます。なぜなら、神への愛、隣人への愛が聖書の御言葉のすべてを現しているように、聖書の物語に生きる私たちにとって、互いに愛し合う姿こそが、愛に生きる私たちそのものでもあるからです。ですから、そこで現されるものは、実の伴わない、自称「互いに愛し合う」といった口先だけのものではありません。自分で自分のことを自分には愛があるなどと言って終わる、いわゆる、なんちゃってクリスチャンと、世間から後ろ指指されるような、そんな恥知らずで、みっともないものではないからです。聖書の物語は、自画自賛するだけで終わる、誰からも顧みられることのない、そんな閉じた物語ではなく、内にも外にも開かれているものであり、それゆえ、この互いに愛し合う姿は、外へと外へと向かい、現されることになります。まただから、人にも受け入れられることになるのでしょう。では、この外へ外へと向かう私たちの姿とは、いったいどんなものなのでしょうか。

 イエス様がここで、イエス様と一緒に聖書の物語に生きる私たちのことを「友」と呼んでいるように、それが外へ外へと向かう私たちを現しているように思います。そして、そのイエス様が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と仰るのですが、その姿を身をもって現されたのがイエス様でもありました。それゆえ、私たちは、この自己犠牲を厭わないイエス様の振る舞いに心動かされ、心引かれ、私も、私もと、そう思い、イエス様に倣い、同じように歩もうとするのです。ただ、イエス様がここで仰りたいことは、人の心を打つ、自己犠牲の崇高さではありません。もちろん、それを否定するおつもりはないし、また、私たちがイエス様のそういうお姿に心引かれるところがなければ、私たちの信仰は、こうして今日を迎えることもなかったのでしょう。けれども、イエス様がそのように仰ったのは、キリスト教精神の表面的な崇高さを伝えたいからではありません。聖書の物語に生きるということが、外へ外へと向かい、そして、それがいかなる場所であっても、通用するものであることを示すためでありました。

 「友のために命を捨てる」ということは、どういうことでしょうか。それは、死をも辞さないということであり、死の領域に足を踏み入れるということです。薄っぺらい感動や口先だけの覚悟を求めるものではないのです。そして、この死の領域でありますが、それは、人間の力の及ばない場所であり、そして、そこから戻ってきた者が誰一人としていないように、人間にとって死は未知の領域でもあるのです。そこで、ある冒険家が言っていたことを思い出すのですが、冒険とは、人間の文化的領域、支配の及ぶ領域の外に出ることなのだそうです。ですから、この冒険家の言葉を借りるなら、「友のために命を捨てる」ということは、人間の通常の営みの外へと向かうことであり、それゆえ、冒険ということにもなるのでしょう。そして、この冒険でありますが、冒険が単なる物見遊山ではないように、そこでは、絶えず命の危険がつきまとうことになります。それゆえ、生きるための最大限の努力を払わなければならないのが、この冒険というものでもあるのですが、しかも、「友のために命を捨てる」この冒険は、イエス様が、これ以上ない、と仰るように、それを超えるものは他にないということです。ですから、そこでは、想像を絶する困難が待ち構え、入れ替わり立ち替わり現れることにもなるのでしょう。従って、様々な困難にどのように対処し、どのように打ち勝てばいいのか、そこで、私たちは、持てる精一杯の力を駆使して、困難に立ち向かわなければなりません。ですから、そこでは、どんな言い訳も許されません。ただ、困難に打ち勝つことだけが求められるのであり、一瞬の気の緩みが、即、死につながることにもなるのです。冒険とは、そういうものだからです。

 けれども、冒険家と呼ばれる人たちが、フロンティアに向かって、外へ外へと旅立てばこそ、人類の生きる領域は広がり、そして、そこで得られた様々な知見、経験によって、多くの実りがもたらされることにもなったのです。そして、それは、キリスト教についても当てはまることです。500年前、そして、時代が降って150年前、キリスト教の宣教のため、日本へと渡ってきた宣教師たちの多くは、二度と故国の土を踏むことはないと覚悟し、日本に渡ってきた人々です。それゆえ、はるばる海を渡って、キリスト教にとってのフロンティアでもある日本にやってきた宣教師たちの働きは、まさに冒険であったと言えるのでしょう。しかし、このような冒険へと駆り立てられたのは、宣教師たちだけではありません。出エジプトを経験したイスラエルの民も、主イエスに従った弟子たちも、皆同じようにこのフロンティアへと、この冒険へと旅立って行ったのです。そして、そこで、彼らは知ったのです。神が神であり、イエス様が自分たちの友であることを、彼らは深く知るに至ったのです。従って、イスラエルに向けられた神様の「聖なる民」「宝の民」との宣言も、また、イエス様の「友」とのこの呼びかけも、そんな冒険者たちの実体験に基づいたものだと言えるのでしょう。

 ですから、聖書の物語に生きるということは、同じようにこの冒険の旅を続けるということでもありますが、ただ、彼らがそこで知ったのは、神様とイエス様についてだけではありません。神様とイエス様を知るということはつまり、このお方に導かれ歩む自分自身の姿、そのあり方をも知らされたということです。そして、それが、『聖なる民、宝の民」ということであり、イエス様の友であるということです。中でも、イエス様の友であるということは、この「互いに愛し合う」ということの中で現されるものでもありました。それゆえ、それが、イエス様と共に聖書の物語に生きる私たちの姿を現すことにもなるのですが、まただから、主を信じるということがどういうものであるかを、イエス様をいたずらに怖がるだけで、その本当の姿を知らなかった私たち日本人も、そのような宣教師の姿に触れ、同じように、イエス様の友として、この冒険の旅へと旅立つことになったのです。

 そして、私たちがそのような決断へと導かれていったのは、私たちが向こう見ずで大胆であったからではありません。イエス様が、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」と仰るように、すべては、イエス様の御心によるものなのです。そして、このイエス様の御心が鮮明とさせられるのが、この冒険の最中でもありますが、そこで、イエス様は、この冒険について次のようにいっています。「私の喜びがあなたの内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」と、また、「あなた方が出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである」と、こう仰るのです。それは、イエス様とこの冒険の旅を続けることが、神様の豊かさに必ずや与ることになるからです。つまり、イエス様の恵みを受けるために、私たちは冒険の旅を続けているのであり、ですから、この冒険の旅は、ただ苦しいだけではなく、恵みに満ちたものとなり、神様の祝福を存分に味わい知るものだということです。

 そこで、ある脚本家の一言を思い起こすのですが、その方が仰るには、「物語には人を救う力がある」のだそうです。それは、物語に登場する人々を見て、また、そこで語られる言葉を聞いて、人は、自分も頑張ってみようかな、自分にもできるかな、そう思うことがあるからです。このように、物語には、人を元気にする力があるとのことですが、このことはつまり、このイエス様の掟、この命令に従い、冒険の旅を続ける私たちの姿を見て、つまり、聖書の物語にこうして生きる私たちのその姿を見て、多くの人々が励まされ、元気づけられ、勇気づけられることになるということです。そして、それが事実その通りであるからこそ、信じる者は、聖書の物語にその名が記されることになったのです。このように、聖書の物語は、自分だけの救いではなく、信じる私たちを用いて、外へ外へと救いをもたらすことになるのです。それゆえ、聖書の掟、教え、戒めを我が事として行う私たちをして、世の中は明るく照らし出されることにもなるのです。

 ですから、聖書は、聖書の物語に生きるそんな私たちのことを、イエス様をして、地の塩、世の光と呼ぶのです。そして、私たちをそのように促すのは、申命記の30章に『御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる』とあるように、私たちが、イエス様との近さを感じることが許されているからです。イエス様のお言葉が私たちのすぐ近くに絶えず置かれ、常にその言葉を私たちが口ずさみ、だから、自発的に、主体的にイエス様にお従いすることになるのです。強制されてではなく、喜びをもって、いつでもどこでもそれを実際に行うことができるということです。また、そうであるからこそ、私たちは、地の塩、世の光と呼ばれることになるのです。ですから、地の塩、世の光と呼ばれることは、私たちに与えられた単なるキャッチフレーズではありません。私たちそのものを現すものであり、ですから、塩が塩だと、光が光だと、世の人々に伝えられ、そこで、自分もやってみようかな、できるかな、そう思ってもらえるのは、聖書の物語が、本当に力を持っているからでもあるのです。

 では、この聖書の物語の力を、私たちが遺憾なく発揮するにはどうすればいいのでしょうか。もちろん、それは、聖書の御言葉のままに生きるということなのですが、そこで、始めに、掟や法、戒めや教えを息苦しく思う必要はありませんと、こう申し上げたことを覚えておられるでしょうか。ただ、息苦しく思う必要はない、窮屈に感じる必要はない、そう言われ、はい分かりましたと言えればいいのですが、皆さんいかがでしょうか。現にそう思い、そう感じてしまっている人が、そう思う必要がないと言われるだけで、この息苦しさが解消されるのでしょうか。私は、それはちょっと難しいように思います。それゆえ、この息苦しさをどうすれば解消できるのかが、息苦しさを覚える者にとっての最大の関心事ともなるのでしょうが、そこで、これまで、私がお伝えしてきたことを思い返していただきたいのです。

 聖書の物語に生きているのが私たちであり、それゆえ、私たちの歩みは、冒険そのものでもあると言えるのでしょう。そして、この冒険でありますが、冒険が、未知の領域に足を踏み入れることである以上、そこで束の間の休息を手にすることはあっても、息苦しさや窮屈さから完全に逃れられることはありません。それゆえ、この冒険を続けるということはつまり、私たちが、日々、様々なものに挑戦し続けるということであり、そのための力を様々な身につけなければならないということです。そして、続けるためには、当然、足並みが揃っていなければなりませんが、そこで身にしみてその有り難さを感じさせられるのが、この「互いに愛し合う」ということでもあるのでしょう。

 未知の領域において、そこで真っ先に問われることは、口先だけで友と呼ぶことでもなければ、友と呼ばれることでもありません。実の伴う、互いに尊重し、配慮し合える関係性です。ただ、この関係性は、足並みが揃わなくなり、関係がこじれたとき、いとも簡単に崩れ去ってしまうこともあるのです。しかし、それでも崩されずに続いてきたところに、聖書の物語の力強さがあるのです。ですから、聖なる民、宝の民、イエス様の友と、物語に生きた人々のその実体験として語られていたこれらの言葉は、聖書の物語の力強さを現しているのは間違いありません。そして、そのための大きな力となったものが、掟や法、戒めや教え、そして、互いに愛し合いなさいといった、これらの言葉でもありました。しかし、これらの言葉は、冒険を続けていく上での直接的な理由、動機、つまり、それが原動力となったわけではありません。

 冒険とは何か。端的に言えば、それは、生きて帰ってきてこそのものであるということです。それゆえ、冒険を率いる者に求められることは、一人の脱落者も出さずに生きて戻るべきところに同伴者を連れ帰るということです。ですから、そこで最も大事なものは仲間です。一人の人間の力などまったく通用しない領域に踏み込むことが冒険であり、それゆえ、仲間なくして、冒険を続けることはできないからです。そして、もう一つ、この冒険について言えることは、冒険には必ず終わりがあり、そして、この終わりには、冒険者たちが生きて戻ることを待ちわびている仲間、家族がいるということです。ですから、冒険の目的は、生きて帰ること、終わりまでを仲間と共に歩み続けること、待ちわびる家族との再会を果たすこと、それが、冒険を計画する上での欠かすことのできない条件であるということです。従って、そのことを考えない冒険は、無謀な企てということになりますし、そもそも、冒険と呼ぶに値しないものでもあるのでしょう。ですから、聖書の物語という冒険を導くイエス様の願い、それはただ一つです。御国への凱旋、つまり、私たちすべてを神様の御国へ連れ帰り、また迎え入れることなのです。そして、私たちがどこに置かれようとも、それこそ、未知の領域でもあるこの世の生の向こう側においても、このことのためにあらゆる手を尽くされるのが、イエス様でもあるのですが、そのためにも、私たちは、主イエスのように、聖書の御言葉を信じ、主イエスのように聖書の物語に生きなければならないのです。それゆえ、イエス様も従った掟、戒め、教えは、終わりを目指す上での目的ではなく、私たちが、この冒険を意識し、続ける上での杖のようなものだということです。そして、主イエスのようにこの言葉を私たちが大切にするからこそ、道から外れることなく、この杖を頼りに冒険を続けていくことができるのです。ですから、主イエスの友として生き、その仲間たちと冒険を続けるためにも、常に仲間を大事にし、聖書の物語が力あることをこれからも身をもって伝え続ける私たちでありたいと思います。

祈り

  


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