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復活節第6主日礼拝 説教 「信仰に報いる主」

日本基督教団藤沢教会 2019年5月26日






説教
鈴木 みどり 牧師
(明治学院教会)
【旧約聖書】ダニエル書 6章10~23節
10ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。11ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。12役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、13王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」14彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」15王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。16役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」17それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」18一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。
 19王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、20夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。21洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」22ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。23神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」

【新約聖書】ルカによる福音書 7章1~10節
 1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

「信仰に報いる主」
● 百人隊長に見る信仰
 本日の説教題は「信仰に報いる主」と、敢えて「日毎の糧」そのままにしてみましたが、もうこのタイトルを御覧になった途端に、「ああ私はそんな話など聴けない!きっと耳に痛い話に違いない!」と、既に半分聴く気を失くしておられたり、心の耳を塞いでしまった方もおられるかも知れませんが、そんな難しいことを申し上げるつもりはございませんので、どうぞ心の耳栓をはずして、安心してお聴きいただきたいと思います。

 さて、イエス様は、民衆たちに、いわゆる「平地の説教」とか「山麓の説教」と呼ばれる大きな説教、つまり、どんな人が幸いか、とか、敵を愛しなさい、とか、人を裁いてはいけない、などの話を終えられて、カファルナウムの町に入られたところでした。そこで、ある百人隊長と出会われたのです。
 百人隊長とは文字通り、百人の兵士から成る軍隊の隊長です。その百人隊長は部下が重い病気で死にかかっており、困っていました。ちなみに、本日の箇所と同じ記事がマタイの8章とヨハネの4章にも記されておりまして、そのマタイによる福音書の方を見ますと、その部下の病気は「中風」でした。中風というのは、いわゆる今で言う脳出血などの後遺症の半身不随や手足の麻痺を指すようです。そう考えますと、去年の今頃亡くなられた歌手の西城秀樹さんは中風だったわけですね。
 また、同じくヨハネ福音書の方で見てますと、百人隊長と部下ではなく、「王の役人とその息子」という設定となっていますし、この部下のことを後の7節のところで、この百人隊長は「わたしの僕」と言います。この「僕παῖς」という原語には、「子ども」とか、「息子、娘」という意味もありまして、「奴隷」の意味を持つ「部下」(原語ではδοῦλος)という言葉とは少しニュアンスが違う言葉です。
 しかもその息子のような僕である部下は、その百人隊長に重んじられている部下だと書いてありますから、ほんとうにその隊長にとっては、かけがえのない、単なる部下を超えた、大切な息子のような存在だったのでしょう。

 そこで、どこかからイエス様の噂を聞いた百人隊長は、まず、ユダヤ人の長老たちをイエス様のところへ使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼みました。そしてその長老たちはイエス様に、
「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言って、熱心に願った。と4節5節にあります。
 実はこの百人隊長は、「異邦人」でした。異邦人というのは、昔流行った歌にもありましたが、「ユダヤ人以外の人」や「外国人」、また「割礼を受けてない人」のことです。
(ちなみに「異邦人」を歌っていた久保田早紀さんはクリスチャンで、今は久米小百合さんと言って、音楽宣教師として教会などを回って活動されています)

 なぜ百人隊長が異邦人だとわかるのかと申しますと、6節7節のこの言葉です。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。」
 これは、もうイエス様がユダヤ人の長老たちに推されて、一緒に出かけられ、病気の部下の家からさほど遠くない所まで来たとき、百人隊長が改めて使いにやった友達に言わせた言葉です。この「友だち」というのは、原語では複数形ですから、一人ではない「友人たち」を、イエス様への伝言のために走らせた、ということのようです。

 いずれにせよ、当時、異邦人たちがユダヤ人と親しくすることはなかなか難しいことでした。ここでも百人隊長が友人たちを通してイエス様に告げたように、異邦人はユダヤ人を家に招いたり、招かれたりするようなことはできないのが通常だったのです。
 似たような例が、使徒言行録10章に出て参ります、同じく百人隊長コルネリウスとペトロの関係からもわかります。そこでも、ユダヤ人であるペトロが、異邦人コルネリウスに言ったように、「ユダヤ人が外国人(つまり異邦人)と交際したり、訪問したりすることは、律法で禁じられていま」した。
 その律法の下に、今日の箇所の百人隊長もまた、ユダヤ人であるイエス様を自分の家に迎えることはできないと告げたのです。あなたを我が家にお迎えすることも、自分が伺うこともできないけれども、とにかく、あなたの言葉をひと言ください、というのが、この百人隊長の思いだったわけです。
 少し話を戻しますと、要するに、この百人隊長は、ユダヤ人ではなかったけれども、ユダヤ人を愛して、彼らのために会堂を建ててくれた、非常に人徳ある人だったわけです。それで4節で長老たちは、この百人隊長のことを、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」と言いました。イエス様に子どもをいやしていただくのに相応しい人だと推薦したのです。ユダヤ人ではない、異邦人であるにも関わらず、この百人隊長は、ユダヤ人たちから非常に信頼されていたわけです。イエス様への配慮にしても、長老たちを使いにやるだけでは足りず、さらにもう一度自分の友人たちまで遣わすという丁寧さで、非常に実直で誠実な、彼の人柄が伝わってきます。

 そして、結果から見ますと、10節にありますように、その部下は元気になりました。中風で死にかけていたのに、癒されたのです。
 ですが、何によって、どのように癒されたのかは、書かれていません。「ひと言おっしゃってください、そして、わたしの僕をいやしてください。」と百人隊長は確かに言いましたが、その結果、イエス様が言葉を発されたのかどうかということは、書かれていません。
 でも、僕は癒されたのです。私たちにわかることは、百人隊長にはイエス様の御言葉の権威への、完全なる信仰があった、ということです。8節です。
 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 つまり、自分の言葉にさえ、そのとおりに従う部下がいるのだから、イエス様の言葉になら従わないものなどあるはずがない、イエス様が命じれば、噂で聞いたとおり、病気だって癒されるだろう、という信仰です。
 しかも、3節で、「イエスのことを聞いた百人隊長は、…」とあったように、彼はイエス様が実際に中風の人を癒した奇跡などの噂を「聞いた」だけで、見たわけではなくても、信じたからこそ、長老たちを遣わしたのです。

 イエス様は、先ほどの百人隊長の言葉(8節)を聞いて、たいそう喜ばれました。9節を見ますと、
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
とあります。
 「感心し」というのは、「恐れ入る」、とか、「驚き入る」、「不思議に思う」という意味の原語です。
 しかもイエス様は、わざわざ群衆の方を振り向いてまで、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われたほど、感心されました。それは、先ほどご説明したような、百人隊長の人柄や行いの素晴らしさや人望の厚さにではなく、イエス様の言葉の力を固く信じるその信仰に、驚かれたのです。しかも彼がユダヤ人ではなく、異邦人だったからこそ、余計に、でした。

● 信仰とは?
 さて、「信仰」について見つめようとする時、わたくしたちは、つい何か難しく考え過ぎてしまいがちなのかも知れません。
確かに、行いが素晴らしいことは信仰者として大切なことかも知れませんが、ここでイエス様は別に、百人隊長がユダヤ人のために会堂を建てたりしてくれた、いい人だったから、彼の願いを聞かれたわけではありません。主が認められたのはそこではないのです。なぜなら、マタイ8章の方の記事では、部下が苦しんでいる、と聞いた途端に、素性も聞かずにイエス様の方から、「わたしが行っていやしてあげよう」とおっしゃっているからです。

 大事なのは、イエス様のお言葉は、必ず成る、と、信じる心ではないのでしょうか。
 復活のイエス様と出会っても、主の手の釘跡や脇腹の穴に指や手を入れてみるまでは信じない、と言っていたトマスに、イエス様は、「見ずに信じる者は幸いだ」と言われました。
 また、イエス様の服の房に触れれば癒されると信じた長血の女のことも、「見えるようになりたいのです」と言っただけの盲人のことも、イエス様は直ちに癒され、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
 さらにまた、イエス様の足を涙でぬらし、イエス様の頭に香油を塗った罪深い女にも、やはり、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。
 何かをしたその行いによって報いるのではなく、その根本にある純粋な信仰の故に、主は報いてくださるのです。

 私たち自身も、自分の信仰についても、目に見えるものばかりに囚われて、つい、形の上でわかりやすく立派なことや、賞や記録など、人からも自分にも分かり易い形での結果をつい求め、まるでその行いが信仰者として証あることのように思いがちではないでしょうか。
 確かに、私たちが正しいかどうかは、聖霊の実をどれだけ結んでいるかで量られるのも事実ではありますが、しかしそれは、内側に真実があってこそ、結ばれる実りです。
 ほんとうに大事なのは、そうした目に見える、形ある姿や結果よりも、目に見えない心の中心で何が起こっているか、中心の思いがどうなっているか、ではないのでしょうか。

 それは言い換えれば、こうだから信じる、とか、ああだから信じる、などという条件をつけず、この百人隊長のように無条件に、ただ子どものように素直に信じる、ということです。
 その意味で、私たちの心は少し、大人になり過ぎてしまってはいないでしょうか?
 信仰というのは、ほんとうはもっとシンプルでやさしいものではないのでしょうか?

 私の友人にこんな人がいました。以前に所属していた町田のインターナショナルチャーチのメンバーで、アメリカ人男性なのですが、私たちが木曜日の夜に教会に集まって行っていたミニチャーチという、いわゆるスモールグループ的な集まりに来る時のこと、彼はその時非常にお金に困っていたのですが、どうしてもそのミニチャーチに来たくて、友人からもらった車で相模原から町田まで来ました。
 しかしほんとうにお金がなくて、でも路上駐車はできない場所でしたから、コインパーキングに入れるしかないのですが、入れてしまったら、お金がないので二度と出られなくなってしまう、という切羽詰まった状況でした。一度は諦めて帰ろうと思ったらしいのですが、思い直し、神様に祈って、信仰によって思い切って車をパーキングに停めて、教会に来ました。
 そうしたら、次の週に証をしてくれてみんなで驚いたのですが、誰にもお金を借りるでもなく、帰りにパーキングに車を取りに行ったら、なんと急にパーキングの精算機が壊れたらしく、誰も使えなくなったので係のおじさんが立っていて、「今日はフリーで構いません」と言ってバーを上げて、全員タダで出してくれたというのです!
 そんな風に、なんの根拠もアテもないのだけれど、イエス様がいるんだから大丈夫!神様に祈ったんだから大丈夫!と単純に信じ切る姿勢こそが、信仰の神髄かも知れません。

 先ほどお読みいただいた旧約の預言者ダニエルにもまた、揺るがない、しかしシンプルな信仰がありました。ダレイオス王に気に入られ、バビロニア王国の大臣の一人にまでなっていたダニエルは、王が、王以外の誰にも、神様にも、祈ったり願いごとをしてはならないという、二度と覆せない禁令を出したことを知ってもなお揺るがず、日に三度の主への祈りをやめることはありませんでした。
 またそれだけでなく、ダニエルは、その罪のためにライオンのいる洞窟に閉じ込められても慌てることなく、天使がライオンの口を閉じたので守られ、無事でした。これはもちろんダニエルのシンプルで揺るがない神様への信頼にあふれた信仰に、神様が応えて、報いてくださったものでしょうが、それにプラスして、実はダニエルだけでなく、ダレイオス王の中にも、「祈り」と「信仰」があり、それにも神様は応えてくださっていたのです。

 王は心からダニエルを大切に思い、信頼していたので、ダニエルがいよいよライオンのいる洞窟に投げ込まれることになった時、ダニエルのために、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」という、「とりなしの祈り」をしたのでした。
 またさらに王は夕食も断食し、側女も近寄らせず、眠れずに過ごした、とありますから、どれだけダニエルを大事にしていたか、ということがわかります。王は、夜が明けるやいなや、急いで洞窟へ行き、心配してダニエルに呼びかけました。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」と。
 生ける神の僕よ、とダニエルに呼びかけている時点でもう既に、ダニエルの信じている神様が「生きている神様」であるということを、信仰告白しているようでもあります。
 とにかく、王の禁令には反しても、神様に対しての信仰はひたすら曲げなかったダニエルは、その信仰が報われ、守られました。

● 主の御言葉は必ず成る
 果たして自分は、今日見てきた百人隊長になれるだろうか、あるいはダニエルになれるだろうか…。心配だ、不安だ、どうすればよいのだろう?
つい、そんな思いに囚われてしまいそうになる私たちではあります。

 しかし、実はそのような思いの中には、もう既に神様の存在が消えて無くなっていることに気づかされます。だから不安になるのです。神様ではなく、自分の力に頼っている時、私たちは不安になるのではないでしょうか。
 こういう時にこそ、私たちは信仰を働かせるべきなのではないか、と思わされるのです。
 その不安な思いをそのまま祈りに変えて、神様に頼ればよいのではないでしょうか。
 「神様、私の信仰を、今日聴いた百人隊長やダニエルのようにしてください!」と。
 「自分の力ではできませんから、神様が私をそのようにしてください!」と…。

 昨日、見るともなしにふと目にしたテレビで、泣きながら必死に祈る子どもの姿を見ました。
 サッカー少年が、なかなか会えない憧れのロナウドに会いたくて会いたくて、待つために部屋で座らされ、一人にされた途端に、なんと固く両手を組んで、目を閉じて、何度も何度も「神様!ロナウドに会わせてください!お願いします!」と繰り返し祈るのです。鼻をすすりながら。
 そこしか見ていないので、その後どうなったのかは知りませんが、きっと会えたと信じます。人が神様に切に祈る姿というのは、なんて美しいのかと思いました。
 私たちも、その少年のように、素直な心を神様に打ち明けて、祈ればよいのではないでしょうか。

 御言葉に、万物は従うのです。
 この宇宙の全ても、御言葉による主の創造のみわざによってできました。
 「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と、ヨハネ福音書の冒頭(1:3)にもあります。
 もっと言えば、その言が肉となって、わたしたちの間に宿られた(1:14)というその方が、イエス様御自身でもあるのです。
 御言葉そのものが、イエス様だと言っても、過言ではないのです。
 「ひと言おっしゃってください」と言った百人隊長の言葉の重さ、信仰の深さがわかります。

 主の御言葉を信じれば、成るのです。その信仰は報われるのです。
 マリアの信仰もまた、そうでした。「男の子を授かる」と天使ガブリエルに突然言われたマリアは、最初は反論しました。
 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 でも、天使ガブリエルが、
 「神にできないことは何一つない。」と言うと、すぐこのように変わりました。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 そして天使の告げた神様からの言葉どおり、イエス様が誕生したのです。

 主の言葉に信頼し、子どものように、ひたすら信じて祈るその信仰に、主は必ず報いてくださいます。ですから私たちも、「安心して行き」ましょう。

(祈り)


  


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