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復活節第7主日礼拝 説教 「主はここにおられる」

日本基督教団藤沢教会 2019年6月2日

【旧約聖書】エゼキエル書 43章1~7節
 1それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。2見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。3わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。4主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。5霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。6わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。
 7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。

【新約聖書】マタイによる福音書 28章16~20節
 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


主はここにおられる
 主の御言葉によって押し出され、主の恵みの中に一巡りの歩みを終えた私たちを、主は、今週もまた普段と変わりなく御前へとお集めくださいました。そして、私たちに備えられている主の恵みの有り難さは、この普段と変わりないというところにあるように思います。それゆえ、この有り難さが現れ出るところが、主の日の礼拝だとも言えるのでしょう。ただ、それが分かるためには、そのために備える必要があります。昨日行われたチャペルコンサートは、それを私たちに教えるために主が備えられたものだとも言えるのでしょう。今日の御言葉にもあるように、このひとときを通し、私たちは、主の変わらぬ希望、主が示される同じ一つの幻を見つめ、このように主の栄光の許にある自らの姿を改めて見つめさせられるものでもあったからです。

 昨日、私たちは、西由起子さん、なかにしあかねさんをお招きして、今年度もまたチャペルコンサートを開催することが許されました。主催者発表によりますと、来場者数は、およそ190名とのことでありますが、このように大勢の人々をお迎えできたのは、皆さんがこの機会を利用して、積極的に親しい方々にお声かけくださったからであり、それと共に、星野富弘、西由起子、なかにしあかね、このお三方の力も大きかったように思います。ただ、このように多くの人々が教会に集ったのは、世間にもその名を知られたこの3名の方に私たちが上手にぶら下がったからではありません。この三名の方々と皆さんがお声かけ下さった方々を、私たちが普段と変わりなく上手にお迎えすることが許されたからであり、そして、この普段と変わりないというとことが、福音を宣べ伝えるということであろうと思うのです。それゆえ、福音宣教とは、孤独な戦いを私たちに強いるものではなく、また、悲壮な覚悟をもってなすべきものでもありません。集められたすべての者が、迎える側も訪ねる側も同じように仲良く、楽しみながら、一つの出来事を分かち合う恵みの出来事、それが主が私たちに託された福音宣教という業でもあるのでしょう。満足げに教会を後にした人々のその後ろ姿を見つめながら、ふとそんなことを思わされたものでもありました。

 そして、この一つの出来事を分かち合う福音宣教ということですが、それについては、昨日の演奏の中で、星野富弘さんもその詩を通し語っておられることでもありました。その詩は、「愛されている」という詩でありますが、長くはありませんのでご紹介しますと、そこには次のようにありました。「どんな時にも、神様に愛されている。そう思っている。手を伸ばせば届くところ、呼べば聞こえるところ、眠れない夜は枕の中に、あなたがいる」と、まさに福音の中心とも言えるメッセージを星野さんはこのように表現されたわけですが、今日のそれぞれの御言葉が私たちに語ろうとしていることも、この、星野富弘さんの詩と同じことを語っているように思います。

 それゆえ、この日、こうして御言葉に聞いている私たちの思いは、この詩の中で現された星野さんの気持ちと同じであるといえるのでしょう。従って、福音宣教とはすなわち、この同じ気持ちを世の人々に伝えることだと、私は思うのです。それは、神様の愛は、いつどこでも「手を伸ばせば届くところ、呼べば聞こえるところ」にあり、福音はその点を伝えるものだからです。それゆえにまた、この私たちの気持ちは、この『愛されている」という詩の中だけに収まりきるものではありません。星野さんは、それについて、また別の詩の中で次のように表現されています。それは、「木(こ)の葉」ではなく、「木(き)の葉」という詩です。短いのでご紹介しますと、それは次のようなものです。「木にある時は枝に委ねる。枝を離れれば風に任せ、地に落ちれば土と眠る。神様に委ねた人生なら木の葉のように一番美しくなって散れるだろう」と、つまり、いつどこでも絶えず神様に愛されていることを知っている私たちであるからこそ、星野さんのように委ねているがゆえに希望をもって歩むことが許され、それゆえ、その人生は神様によって彩られ、豊かな終わりを迎えることが許される、それは、神様に我が身を委ねていい、お任せしていいということを知っているからです。

 このように、福音宣教とは、我が身を神様に委ねていい、お任せしていいということを私たちが世の人々に伝えることであり、そして、このことを我が事として改めて強く知らしめられたのが、昨日行われたコンサートであったということです。そして、私がそのような思いに至ったのは、17節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあるように、主イエスを信じ、信頼しつつも、いや、信じ信頼しているからこそ、なお、主を疑う者として、分からない、なぜなのだと、命が軽んじられ、卑しめられる現状に直面し、主に対する強いわだかまりを隠すことができずにいたのが、主の恵みに押し出され歩む私自身でもあったからです。

 ところで、この日、私たちに与えられている主の御言葉でありますが、これは、いわゆる、主イエスの大宣教命令と言われるものであります。それゆえ、主のこのご命令に従って、福音を宣べ伝え、すべての民を主の弟子とする使命に生きるのが主を信じる私たちでもあるのですが、それは、主に愛されていることをいつどこでも私たちが感じているからこそできることです。だから、それを明らかにする福音を、私たちは堂々と世に述べ伝えることができるわけで、このことはつまり、今、「いつどこでも」と申しましたように、その方法論は兎も角として、いつどこでも通用するものが、私たちがこうして信じている福音であるということです。けれども、それがまったく通用しない出来事が、少なくとも、そうとしか思えない出来事が先週の火曜日の朝起こったのです。皆さんご存じのあのバスを待つ子どもたちの上に突然襲いかかった大惨事です。このような事態に直面し、では、そこで一体私たちは何を語ることができるというのでしょうか。ただ、「この何を語ることができるのか」ということですが、小手先のこととして、「何をどのように語ることができるか」ということではありません。そもそも、語るべき言葉を私たちが持っているのか、もし持っているというのであれば、それはどういうものなのか、ましてや、いつどこでも、というのであれば、当然、この悲惨な状況について、私たちは何か気の利いたことを語ることができるはずなのですが、ところが、誰もが納得するであろう何かを、私たちは、本当に持ち合わせているのか。あの大惨事以降、私の頭の中にあったことはこの点でありました。

 そんな中で、私たちが繰り返し耳にしたことは、実行犯への憎悪、敵意、それと同時に、被害に遭われた方々とそのご家族への同情など共感の言葉でありました。そして、それと共に、繰り返し耳にしたことは、被害に遭った子どもたちとその家族に対する心のケア、寄り添ってくれる人が一人でも多くいて欲しいといった呼びかけでもありました。それゆえ、世の多くの人々は、こうした呼びかけを真摯に受け止め、できる限りのことをしたいと素直に思ったことでしょう。そして、その思いは、私たちも同じです。求められれば、そうしたい、そうしようと、そう思わない者は、恐らくは、この中には一人もいなかったはずです。けれども、いざ、もし本当に何かを求められたとして、そこで私たちに何ができるというのでしょうか。犯人への憤り、被害に遭われた方々への同情、私たちが口にすべきことはそれだけなのでしょうか。そもそも、怒りや同情を口にするだけで、何かがすぐに大きく変わることがあるのでしょうか。それゆえ、そこで「命の大切さ」ということが繰り返し語られることにもなるのですが、命は確かに大切なものです。だから、大切にしなければならない、それは、その通りのことで、そして、私たちがこうして聞いている福音もまた、同じようにこの「命の大切さ」を語るのです。だから、私たちがこうして聞いている福音によって、命が大切に扱われ、何かが大きく変えられることにもなるのでしょうが、しかし、そのようなとき、私たちが口にする福音は、空しい言葉だけをただおざなりのように繰り返し語られるものではありません。それで何かが変わり、命が大切にされるようになるのは、自分が大切にされていると、心の底からそう実感させられるからです。だから、私たちは福音を我が事として人に伝え、それゆえ、人もまた福音を我が事として受け止めることができるです。

 21世紀を迎え、私たちの日常において、子どもの命が脅かされている現状が後を絶ちません。この度の悲惨な出来事だけではなく、いじめなどによる子どもの自殺、また、子どもによる殺人事件や傷害事件、あるいは、学校で飼っているウサギや鶏が殺されたりするという事件を、私たちは度々耳にするのです。そして、そうしたことが起こる度に必ず行われるのは全校集会でありますが、そこで、必ずといっていいほど語られることは、「命の大切さ」についてです。そのようなとき、この「命の大切さ」について、学校の先生方は、本当に一生懸命話しをするのですが、それを聞いていてこうも思うのです。「命は大切ですから、命を大切にしましょう」とただ、繰り返すだけで、これは、私の聞き方が悪いのかもしれませんが、それを繰り返し語るだけで、本当に二度と悲惨な出来事が繰り返されることはないのか、ということです。それゆえ、そこでまたこうも思うのです。

 聖書の御言葉は、同じように命の大切さを語るものです。それは間違いありません。今日のそれぞれの御言葉もそうです。命が大切なものでなければ、そのようなことを語る必要はないからです。だから、そこで語られている御言葉を私たちはしっかりと受け止めなければならないのですが、けれども、そこで私たちが口にする御言葉は、御言葉にはこう書いてあると、そう口にするだけで、聞いた者が命の大切さを本当に身にしみて理解することができるようになるのでしょうか。もちろん、御言葉にはそうした力がなく、何を語っても意味はないなどと申し上げるつもりはありません。「命の大切さ」を語る場合、そこには、この問題特有の難しさがあるということを私たちは忘れてはなりません。つまり、命が大切であることを伝えることは、口先だけのものではないということです。伝えるためには、この難しさを経験として知っていることが大切であり、そして、この経験を私たちに語り聞かせ、この経験の向こう側にあるいいものを同じように経験させようとしているものが、今、私たちがこうして聞いている聖書の御言葉であり、福音であるということです。

 「いのち」は大切です。このことを完全に否定する人は先ずいないことでしょう。そして、それは、今回事件を起こした実行犯も同じです。それは歪んだものではありましたが、この人にも、命が大切にすべきものだということは分かっていました。だから、命を踏みにじり、無差別に奪おうとの考えに至ったのです。そして、実行犯をしてそのような歪んだ行動に駆り立てていったのは、「命の大切さ」がそのまま「私の大切さ」、「他の人の大切さ」に繋がることがなかったからです。つまり、「命の大切さ」と「私」がきちんとつながっていないと、「命の大切さ」も自分とは関係ない他人事で終わってしまう危険性があるということです。ただ「大切だ、大切だ」とどれほど「命の大切さ」を強調したとしても、それが、私というものと直接関わることがなければ、また、関わったとしても、それが関係の薄い一般論に過ぎないものであるなら、命の大切さを我が事として、人は、受け止める事はできないということです。今回の悲惨な出来事は、図らずもそのことを私たちに教えてくれたように思います。と同時に、この日の聖書の御言葉が私たちに教えてくれていることは、福音とはまさに、聖書の御言葉とはまさに、命が大切にされていないと思える状況の中で、「命の大切さ」を我が事として実感させるものであるということです。それは、その難しさを知った上で、いつどこでも、私たちの命が大切にされていることを経験として語り聞かせるものだからです。

 神様の祝福がとこしえに途絶えることがないと聞いているイスラエルも、また、福音を宣べ伝えるようにと命じられた弟子たちも、直接それぞれの御言葉を聞いているそれぞれが「命の大切さ」から切り離された現実に生きておりました。それゆえ、命が大切であると、彼らが深く知り、それを口にしているのは、御言葉がそういっているからという単純な理由からではありません。このように、御言葉に生き、御言葉を信じ召されていった人々を通して、私たちは、このそれぞれの御言葉に聞いているのであり、その中で、私たちは、自分の命が大切にされていると、その生涯において同じように御言葉そのものを経験することになるのです。おざなりに同じことをただ耳にしたから、だから、なるほどそうかと思うものではないのです。

 従って、福音というものは、ただ語りさえすれば、耳にしさえすればそれで人に伝わり、ああ自分は大切にされているんだと、そう人に実感してもらえるものではありません。命が大切されていることを、人生のどこかで私たちは必ず実感させられるのであり、つまりは、それを実感しているのが私たちであるということです。そして、このことはつまり、福音に生きる私たちは、伝えるべき相手の命を大切に大切にするということです。だから、自分の命が大切にされていると、人はそう実感させられることになる。このように、「私」に向かって「あなたが大切だ(あなたが好きだ)」と本気で語りかけてくれる誰かがいることでしか、人は「命の大切さ」を我が事として感じることはできないのだと、福音は、そう私たちに伝えてくれているのです。なぜなら、そんな人がいてくれて初めて、「私」は「私の大切さ」に気づかされ、「私」という存在が孤立した存在ではなく、たくさんの人々、たくさんの命に囲まれ、支えられていることに気づかされていくからです。私のように、疑うことでしか神様とイエス様と向き合うことのできない者も、福音を通して、命が大切にされていることを知らされ、まただから、信じる者へと変えられることになるのです。

 従って、「命の大切さ」と「私の大切さ」を繋ぐのは、「あなたは私にとって大切な存在だ」と「私」に語りかけてくれる誰かの存在なのであり、それが、福音を信じ、福音を宣べ伝える私たちなのではないでしょうか。そして、昨日のコンサートは、私たちにはそれができるということを教えてくれたように思うのですが、ですから、私たちがここにしっかりと立ち、「命の大切さ」を普段通り、いつも通りに現すことができるなら、そして、私たちに与えられている、普段と変わりなく与えられている福音のこの有り難さを、私たちがいつどこでもいつも通りに伝えられるなら、「命の大切さ」は特別なこととしてではなく、普段通りのこととして、人に伝えられ、今日のそれぞれの御言葉が語るそのままを、人は生きることができるのだと、そう思います。

祈り