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ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝
   説教 「求めよ、さらば与えられん」

日本基督教団藤沢教会 2019年6月9日

【旧約聖書】創世記 11章1~9節
 1世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。3彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 5主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6言われた。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。7我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 8主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。9こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

【新約聖書】ルカによる福音書 11章1~13節
 1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を
   皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


求めよ、さらば与えられん
 ペンテコステおめでとうございます。主日礼拝に先立ち、早朝礼拝においても、子どもたちとそのご家族と同じようにペンテコステの祝いの時を共に過ごすものでありましたが、そこで思うのです。それは、この祝いの時が、いったい誰のためにであるのかということですが、早朝礼拝に集われた大半の人々が、教会員以外の方であったからです。けれども、教会としての歩みが、主の御前に集められたすべての人と共に始まったことを思いますと、私たちが「私たち」と言っている中には、早朝礼拝に集められた人々も含まれているわけで、つまりは、それを踏まえての「私たち」であるということです。そして、この「私たち」ですが、ペンテコステに始まった教会の歩みの中には、熱心な人々もそうでない人も、信じる者も疑う者も、実に様々な人々がそこにおりました。従って、教会が教会としての歩みを今日までを続ける中には、こうして主の日の度毎に教会に集められたそうした人々がいたわけで、まただからこそ、集められた人々の信仰が養われ、育まれ、信仰者としての生涯を全うすることになったのです。ですから、私たちにとっての教会とはつまり、そういう意味で人生のゆりかごであり、成長を促される場でもあるということです。それゆえ、このような教会の信仰に生きる私たちにとって、ペンテコステは、クリスマス、イースターとはまた別の意味で、より身近なものだと言えるのでしょう。

 ところが、このペンテコステでありますが、クリスマス、イースターと比べ、いかがでしょうか。その祝い方もさることながら、私たちのその心持ちにおいても、ペンテコステは、いささか盛り上がりに欠いているということはないでしょうか。それは、教会を立てることになった聖霊の働きとこうして私たちが集う教会の関係とが、実態の掴みにくいものだからでもありますが、つまり、教会に集う私たちの多くにとって、聖霊は、見たこともなければ、触れたこともない、それゆえに、分かりにくいし、難しい、そういうものでもあるからです。しかし、見たこともなければ、触れたこともない、この点においては、クリスマス、イースターの出来事も同じです。同じでありながら、しかし、その受け止め方、その扱いについては、大きな開きがある、それは間違いないように思います。そこで、ある人はその理由について、「物語としての魅力に薄いからだ」と、以前、そんな話を私にしてくれたことがありますが、しかし、本当にそうでしょうか。クリスマス、イースターと比べるなら、ペンテコステの出来事の方が、ビジュアル的にも、よほど刺激的な出来事であったように思うのです。不思議な風がびゅうっと吹いて、ペンテコステの出来事の激しさを弟子たちは体で直に感じ、しかも、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、自分たちの上に留まり、そして、使徒言行録はそれを聖霊の働きと呼んでいるのですが、この聖霊の働きによって、人々は、自分たちが普段使っている言葉ではなく、他の国々の言葉を突然話し出したと、御言葉がそう語っているわけです。ですから、クリスマス、イースターよりもペンテコステの方が、よほどエンターメント性に富んでいるとも言えるのでしょう。

 けれども、それにも関わらず、ペンテコステが、クリスマス、イースターのように世間の話題に上ることはありません。また、そのためなのでしょうか。ペンテコステだから、という理由で、教会が何か特別なことをしているという話を私は余り聞いたことはありません。そこで、皆さんにお尋ねしたいのですが、こうした現状について、皆さんはどうお考えでしょうか。ただ、このようにお尋ねしますと、皆さんは、私が何かに警鐘を鳴らそうとして、こんな質問をしていると思われるかもしれませんが、そうではありません。弟子たちの周囲にいた人々が、その時の光景を目の当たりにし、「驚き怪しんだ」と使徒言行録にあるように、人の好奇の目にさらされることになったのがペンテコステの出来事でもあったわけです。ですから、それを考えれば、腰が引けて、結果、どこか物足りなさを感じさせるのも分からないことではありません。ただ、もちろん、私たちは、空気を読むように、そうした人々と同じ目でペンテコステの出来事を見つめているわけではありません。大切なものであることは分かっているのです。けれども、なのにどうして、イースター、クリスマスと比べ、気持ちの上での盛り上がりを欠いているとの印象を与えてしまうのか。しかも、それを特に問題視しているわけでもありません。ですから、それでいいのか、ということにもなるのでしょうが、しかし、そう言われると、逆に、どうしてそれがいけないのかと、へそ曲がりの私などは、ついそんなことを考えたくもなってしまうわけです。ただ、それでいいのかいけないのか、というところに入り込むと、時間だけをいたずらに費やすことにもなりかねません。そこで、結論から申し上げますと、クリスマス、イースターと比べ、このペンテコステが、たとえ物足りなさを感じさせたとしても、ペンテコステを祝うと言うことにおいては、このままでいいということです。つまり、無理に盛り上げなくてもいいということです。

 ただ、もちろん、だからおざなりでいいということではありません。そうではなく、もし、私たちがどこか盛り上がりを欠いていると思い、それをなんとかしたいと思うのなら、私たちはこの日、なんとかしたいと言うところに少し距離を置いて見る必要があるということです。そして、それは、この出来事の不思議さに目を留め、そこに積極的に意味づけを行うべきであるということでもありますが、けれども、それは、いわゆる、べき論と言われることとは違います。イエス様は、この日の御言葉において、「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」と仰っておりますが、それは、何が何でもこの現状を自力で変えなければならない、変えるべきだ、そういうことではありません。御前に静まり、どうしてと、そう問うこと、つまり、刺激的な描写に心奪われ、いても立ってもいられないと言うところからではなく、御前に静まり、祈るところから改めて始めてみる、聖霊の働きは、そういうところから動き始めるものでもあるからです。

 では、弟子たちの上に聖霊が降り、教会としての歩みが始まったということはどういうことなのでしょうか。それについて、私はこう考えます。それは、神の救いの体制が整ったということです。つまり、神の救いが実現する上でのプラットホーム、土台が地上に完成したということです。それゆえ、この土台の上に乗っかっているのが教会であり、そして、そこに生きるのが私たちであるということです。従って、多少刺激的とも思える使徒言行録の言い回しは、この霊的現実の完成を伝えるものであり、事実、この出来事がなければ、そもそも教会としての歩みが始まることもなかったわけです。ですから、私たちにとって、このペンテコステはそれだけ大きな出来事であったわけで、また、そのようにこの霊的現実が整えられ、その上に教会の歩み、私たちの歩みが始まったからこそ、教会は,箱庭のような閉じた世界ではなく、開かれたこの広い世界を歩むことができたのです。まただから、そこに生きる人々と広く深く関わり合いながら歩むことができたのです。そして、私たちをしてそれを可能とさせているのは、この現実の中で、聖霊が力強く働いているからです。それが、聖書が語るところの世界の現実であり、また、それが、そこに生きる私たち人間の日常でもあるということです。

 ただ、この聖霊の働きについてですが、それは、ペンテコステを境にその時に初めて始まったわけではありません。創世記1章に「神の霊が水の面を動いていた」とあるように、世界のその始めより混沌を覆い包んでいたものが聖霊であるということです。ただ、それが、長らく分からなくなっていた、神様の御心を運ぶ聖霊の働きを長く途絶えているとしか思えなくなっていた、それが、この世界に生きる人々であり、そして、それは、主の十字架と復活の出来事を経験した弟子たちとて例外ではありませんでした。では、いかにしてそのようなことになったのか、その理由は、創世記にもあるように、御心によって、人と人とが遠いものとしてこの世界に置かれることになったからでもありますが、そのように神様の御心が人間に示されることになったのは、人と人とが近すぎたがゆえに、神様から離れる道を選ばざるをえなかったからです。それゆえ、神だけでなく、人との距離感をも人は見失い、やがて、聖霊が働く場でもある世界への関心をも見失い、人は、聖霊の働きへの関心を失うことにもなったのです。

 しかし、神様は、そのようにしか生きれない私たちの下にイエス様をお遣わしになったのです。ですから、主イエスの出来事は、そういう意味で、神様と私たちとの近さを現すものであり、そして、イエス様がすべての人々と関わったように、イエス様ゆえに人と人との近さを現しているということです。従って、そのことを思えば、この日の御言葉が私たちに教えてくれていることは、神様と私たちとの、私たちと人との、この適切な距離感だとも言えるのでしょう。けれども、私たちがこの距離感を身につけるためには、一つのことが分かっていなければなりません。弟子たちの上に、神様が聖霊を送り、教会としての歩みが始まったのはそれを知らせるためでもありましたが、私たちがそれを知るには、この教会という救いの土台に自分が立っていることを知らなければなりません。それは、それを知って初めて、私たちと神様とが、また私たちと人とが、近すぎず、また遠すぎず、互いに離れることなく、共に同じ一つの歩みを続けることができるからです。弟子たちの上に聖霊が望んだのは、このことを知らしめるためであり、つまりは、十字架と復活の出来事を経験したとしても、それだけでは十分ではなかったということです。

 従って、十字架と復活をただ知っているだけでは、また、知っているということをただ口にするだけでは、画竜点睛を欠くに等しいものであったということです。そして、教会がその歴史において積み重ねてきたものが、自分がどこに立っているかというこの感覚であり、ですから、この感覚を脇に置いて、私たちは、主イエスの出来事を本当の意味で味わい知ることはできません。けれども、それがどうもはっきりしない、聖霊は見えないし、だから分からない、ならば、どうすれば、この教会としての感覚を身につけることができるのか。こうしてペンテコステの出来事を振り返る上で、今日は、刺激的な使徒言行録ではなく、あえて福音書から神様とイエス様の御心に聞いていきたいと思ったのは、この点を皆さんと確認したかったからです。

 そこで、私たちが最も知りたいと思っていることですが、それは、主イエスが私たちに教えてくださった主の祈りの中において現されているように思います。私たちの祈りは、独りよがりなつぶやきでもなく、また、身勝手な独り言でもないからです。祈りが祈りとしての力を持つのは、私たちの祈る祈りが、神様の御心を土台としているからであり、つまり、この土台の上に乗ってなされるものが祈りであり、それゆえ、主イエスの御名によって祈り、その祈りが神様に届けられているところに、私たち信仰者の日常は築かれることにもなるのです。

 そして、この私たちの日常ですが、それは、一つの確かな方向性を持っています。「御国が来ますように」とあるように、この日常において、やがて私たちが迎えるものが天の御国でもあるのです。ですから、私たちの生きるこの日常は、この目的のために備えられており、それゆえ、この日常は、神様とイエス様の御心が置かれている教会によって支えられることになるのです。そして、この日常でありますが、それは、私たちの自分一人だけの力で築かれるものではありません。神様とイエス様に加えて、こうして共に過ごす人々、家族、仲間と共に築かれものであり、つまりは、それが、教会というものであるということです。それゆえ、この日常を破壊する行為は、深く慎まなければなりません。自分だけが気持ちよければいい、楽できればいい、そのような身勝手で独りよがりな行為が、もし万が一許されることになれば、その日常を共にする私たちのコミュニティーはどうなってしまうのでしょう。しかし、壊れたものはまた作ればいいのでしょうが、一番困ることは、そのことによって、御国が遠ざかるということです。

 ただ、御国が遠ざかると言うことですが、イエス様が教える主の祈りの最後に、罪の赦しと悪からの解放について触られているように、私たちを御国より遠ざけるこの罪と悪の問題は、私たちの人生の一部分、もしかしたら大部分を形作るものでもあるのでしょう。従って、私たちは、この人生の一部、もしかしたら大部分であるかもしれないものと直接向き合わないわけにはゆかないのですが、向き合う上で、最も大きな障害となるのは、私たちが、日毎の糧を求めずにはいられないものだということです。つまり、食っていかなければならないし、生きなければならない、そして、このねばならないところに、また、罪と悪の温床が置かれているのです。それゆえ、この罪と悪を私たちは遠ざけなければならないのですが、もしそうでないと、御国はどんどん遠ざかるだけだからです。しかし、それゆえにまた、そこで一つの矛盾が生じることになります。御心に違わず、御国に近づこうとするあまり、私たちは、痛々しいまでにこの罪と悪を、まるで親の敵のように取り除こうとするのです。そして、それは、一見するととても正しいことのようにも見えます。罪と悪に正面から向き合う、誠実な態度とも言えるからです。けれども、痛々しいまでのそうした努力には、一つの決定的な誤りを見出すことができます。それは、場合によっては、祈りを欠いているとしか思えないことがあるからです。けれども、そのような過ちを内に抱えながらも、教会は、今日までを歩み、そして、昨日より今日、今日より明日と、御国が近づいていることを知らされているのが主の教会でもあるのです。

 私たちはその罪ゆえに独りよがりで身勝手な祈りしか神様に差し出すことができないものなのかもしれません。しかし、その身勝手で独りよがりの祈りさえ、神様はイエス様ゆえに引き受け、私たちを御国へと導いてくださっているのです。それが聖霊の働きであり、それがこのペンテコステの際に弟子たちの上に臨んだのです。それゆえ、教会は、私たちの信仰にとっては、あってもなくてもいいようなおまけのようなものであろうはずはありません。教会という救いの土台、プラットホームに置かれているのが私たちであり、それゆえ、教会というこの救いの中で祈る私たちの祈りは、たとえどんなに身勝手で独りよがりなものであろうとも、必ず神様の御心に届けられ、だから、その祈る祈りが自分自身を変え、また、人をも変え、そして、状況をも変えることになるのです。

 私たちは、教会の祈りである主の祈りを通し、私たちはこの点を日々教えられているのです。また、主の祈りを主の祈りとして祈る人々のその背中を見て、人は、御国へと一歩一歩近づくことになるのです。そこで、最後に、つい最近あった幼稚園の子どもとのやり取りをご紹介し、終わりたいと思うのですが、ある時、年長組の一人の子どもが、いきなり私のところにやって来て、「私大きくなったら、私、牧師になる」と、こう言ったのです。ところが、その数日後のことです。その子に、「大きくなったら牧師になるんだよね」と聞いたところ、「やっぱやめた」と、こう言われてしまったのです。そして、その数日後、再び同じ質問をその子にし、そして、それに合わせて、「神様とイエス様のことは大好きなんだよね。だったら、牧師になってみようか」と言ってみたのです。すると、その子は、「今は嫌い。大きくなったら、好きになるけど、今は嫌いだから、嫌」と、素朴に自分の思いをこう言ったのです。

 このやり取りを聞いて、皆さんはどう思ったことでしょう。好きと嫌い、子どもと大人、そこには大きな違い、大きな開きがあるのは間違いありません。そして、この時、私たちにとって大きな溝と思えるものがどのようにして埋まっていくのか、本当に埋まるのか、それは分かりません。けれども、どうであれ、その間に共にいてくださっているのが、イエス様であり、このイエス様がその子が大きくなるまで、その子の祈りも私の祈りも、皆さんの祈りも神様に執り成してくださっているのです。そして、それは、こうして教会に集う私たちを御国へと導くことがイエス様の使命であり、そして、それを明らかにし約束するために、神様が地上にお立てになったものが、私たちがこうして集う主の教会なのです。ですから、この教会の上に、この救いの上にしっかりと立ち、慌てふためき、目先のことに心奪われることなく、御国に入ることを目指しつつ、祈り、歩み続けて参りたいと思います。

祈り