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聖霊降臨節第3主日礼拝 説教 「喜びと真心をもって」

日本基督教団藤沢教会 2019年6月23日








説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
【新約聖書】使徒言行録 2章37~47節
【ペトロの説教】
 37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
【信者の生活】
 43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


喜びと真心をもって
●ペトロの説教 〜悔い改め、洗礼、聖霊の賜物のススメ
 先々週の日曜日はペンテコステ(聖霊降臨日)、そして先週は三位一体主日でした。クリスマスとイースターとペンテコステは、私たちクリスチャンの三大祭りですが、ペンテコステだけはなんとなく他の二つよりも影が薄いような気がするのですが、この藤沢教会ではどのようにお祝いされたのでしょうか?わたくしは、このアフターペンテコステの季節には、いつにも増して聖霊について多く語るようにしています。みなさんに、聖霊についてより多くのことを知っていただくチャンスでもあるからです。

 本日の箇所は、ペトロの説教の途中から始まります。2章の初めのところの、あの聖霊降臨の劇的な出来事の後で、ペトロは、まさに弁護者なる聖霊によって、イエス様のことを弁護するかのように、ユダヤの人々に対して大声で語り出しました。主の十字架と復活について、また、主イエスがどのような方かということや、さっきあなた方が目撃した不思議な出来事は、イエス様が約束してくださっていた、聖霊が注がれたことによるものなんですよ、ということなどを熱く語った上で、悔い改めと、水と聖霊による受洗を勧めるのです。

 37節に、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言ったとありますが、これは、その直前の36節で、ペトロが、だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。と言ったからです。
 自分もユダヤ人であるペトロは、同胞であるユダヤ人たちに、ローマ人の総督たちに踊らされてイエス様を十字架につけた罪があることを、大胆に宣言しました。それでそれを聞いたユダヤ人たちは大いに心を打たれ、ならば私たちは償うためにどうすればよいのですか?とペトロや他の11人の使徒たちに聞いたのです。彼らは、ペトロに罪を責められてもへそを曲げたりせず、素直に納得し、受け入れたわけです。
 大いに心を打たれ、に使われているカタニュッソーというギリシャ語は、下へ、を表すカタと、刺さる、を表すニュッソーで、「深く痛みを覚える」という意味になる言葉で、なんと新約聖書のここだけにしか使われていません。同じユダヤ人であるイエス様を十字架につけた罪について、ペトロに糾弾されたユダヤ人たちの心には、そのペトロの言葉が重く、深く、つき刺さったのでしょう。

 すると、次の38節で、ペトロは彼らにこう言うのです。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
 悔い改める(μετανοέω)という言葉には元々、「何かの後で考えを変える」という意味があり、「心や目的を変える」という意味の言葉です。つまり、悔い改めなさいとは、「心の目指す方向を変えなさい」ということです。これは古い信徒の方はもう耳にタコができるほどお聴きになったことでしょう。ペトロは別に、「自分のしたことを後悔して責めろ」などと言っているわけではないのです。ただ、「あなたの心の向きを変えなさい」と言っているのです。
 何を悔い改めるのかといえば、「罪」を悔い改めるわけですが、その「罪」という言葉が、ハマルティアといって、「的外れ」という意味だというのもご存じの方が多いとは思いますけれども、「的」つまり「目的」がはずれているから、その「向きを変える」のが「罪の悔い改め」だと考えれば分かり易いかも知れません。
 
 そして、じゃあ何をすれば悔い改めたことになるのかというと、ただイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただけばよい、というのです。
 父と子と聖霊の名によって、つまり、イエス・キリストの名によって洗礼を受ければ、的外れでなくなるのです。的が合うのです。わたしたちが心を向けて見上げ、目指すべきは、イエス・キリストだけであり、そこからブレることは的外れ、つまり罪なのです。

 そしてさらに、そうすれば、つまり、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただけば、賜物として聖霊を受けます。ともペトロは言います。「賜物」というのは、ただ恵みによっていただけるギフトのことですから、悔い改めて洗礼を受けて罪赦されたなら、まるでグリコのおまけ(古いですか?笑)か、雑誌の付録か、漫画の全員プレゼントか何かのように、当然のギフトとして聖霊を受けられますよ、と言っているのです。ものすごーくたくさん祈らないといただけません、とは言っていないのです。
 
 よく考えてみれば当然のことではないでしょうか?なぜならわたしたちは、聖霊によらなければ、だれもイエス様を私の主であるとは言えないのですから。(Ⅰコリント12章3節)
 洗礼を受けたということは、もう既に外からの聖霊の働きかけは受けているのです。ただ、まだ自分の内側に聖霊が注がれた状態にはなっていない可能性がある、ということです。
 つまり、あとはもう、完全にその方に自分の心の中心を明け渡すかどうか、ということです。“わたしの理性”とか、“わたしの欲”ではなく、聖霊なる神様に、つまり神様とイエス様の霊に、「どうぞお座りください」と言って、自分の心の王座を明け渡すことができるかどうか、ということではないでしょうか。
 
 さらにペトロは、こう続けました。
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
 主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられている…こういう風に言われると、聖書の言葉をネガティブに受け取りがちな私たちはつい、じゃあ「招かれない人もいるのだろうか?」とか、「果たして自分は招かれているのだろうか?」などと思いがちです。
 けれども神様は、その独り子をお与えになったほどに世を愛され、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを望まれている方だということを信じて、私たちは安心して、自分にも、大切な人にも、この約束が既に与えられたのだと、信じましょう。

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。邪悪な(σκολιός)というのは、原語では「曲がった」という意味の言葉ですので、「この曲がった時代から救われなさい。」と訳す聖書もあります。
 また、「邪」という字は、「よこしま」とも読みます。マタイ17章で、弟子たちが病の人を癒やせなかったことに対するイエス様の怒りの言葉では、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか(中略)いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。」と言われていました。
 「信仰のない、よこしまな時代」、「邪悪なこの時代」…。現代も同じですよね。早く、そこから心の方向転換をして、救われて欲しい。人間に対して、それを一番願っておられるのは神様御自身です。だからこそ私たちも、伝道しようと努力するのです。

 41節には、 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。とあります。原文は受動態ですので、正確には、加わったではなく、「加えられた」となりまして、もっとはっきりと、背後に神様の御手が感じられる文章なのですが、これは非常に重要な記録です。
 今ここにおられるのが、だいたいいつも100名ほどでしょうか?だとしますと、この30倍の数の人々が、集まるだけでもすごいのに、なんとペトロのこの説教を聴いて「アーメン(=そうです、その通りです)」と思った人々がすぐに洗礼を受けて、それが3000人もいたというのです。
 どんな奇跡のシーンよりも、わたくしはこの聖書の記事が大好きです。何度読んでも不思議とわくわくするのです。夢に描くシーンでもあります。
 しかし、今の日本の教会では、なかなかこれは実現できないかもしれません。人間的に責任を取ろうと先走る、心配という不信仰のせいなのか、なかなか洗礼を授けようとはしないからです。なんでそんなに敷居を上げる必要があるのだろうかと、個人的には思っています(教会には従っていますが)。
 別にクリスマスやイースターやペンテコステでなくても、普段の日曜日にもどんどん洗礼を授けるバプテスト派で自分が受洗したせいもあるかも知れませんが、聖霊のバプテスマが水のバプテスマより先になっている例まで聖書には記録されているのに、どうしても、「受洗は最低半年は学んでからですね」なんて言って、洗礼を授けることよりも、学びの方を優先するのが、多くの日本の教会の現状なのは、非常に残念なことです。
 もちろん、聖書の論理を学ぶことも大事ですが、個人的には、何度か礼拝に出て説教を聴いて、これは真理だ、イエス様こそが自分の主だ、と告白するに至った人が現れたなら、基本的なことだけ確認して、まずは洗礼を授け、霊的に救ってから、じっくりとベイビークリスチャンが学ぶべきことを学ぶクラスをする、という順番でも、この箇所を読む限り、聖書的には全く間違いではないと思うのです。ついさっき弟子たちに聖霊が注がれるのを見て驚いていた人たちが、その後のペトロの説教を聴いて、すぐに洗礼を受けたのですから。
 “机の上のお勉強”よりも、まずはその魂を、目に見えない霊的な領域でキリストにつなげるために洗礼を授ける方が、重要なのではないかと、そうした霊的な判断をこそ、牧師や教会ができないといけないのではないだろうか、と、もう20年近くずっと考え続けています。なぜ聖書のこのシーンが再現できないのだろうか、このシーンが実現するためには何が必要なのだろうか、と…。
 そしてまたこの箇所を読む度に、現代の教会との乖離、違いの大きさに頭を抱えるのです。

●聖霊を侮辱する者は赦されない
 さて、ここで少し本文から離れまして、聖霊の取り扱いについての大切な御言葉にも聴いておきたいと思います。これはマタイにもマルコ(3:28-30)にも ルカ(12:10)にもある御言葉なのですが、マタイによる福音書12章ではこうです。(22pです)
31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”(聖霊のことです)に対する冒涜は赦されない。32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
 聖霊を冒涜したら、赦されないというのです。マルコ3章の表現はもっと恐いです。
28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
 
 聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うのです。これだけ強烈なことを聖書が何度も告げているのに、牧師も含め一体どれだけのクリスチャンたちが、聖霊を冒涜していることでしょうか。聖霊を冒涜するというのは、聖霊を否定したり信じないこと、また、聖霊なる神様の働きに対して、人間的な理性で勝手な制限をかけることです。
「聖霊は教会にしか働きません」とか、「聖霊は一人ひとりには働きません」と彼らは平気で言います。ほんとうにそうでしょうか?
 例えば(これは実例ですが)、誰かがまだ教会に通う前に、家で一人で聖書を読んでいて、「イエス様が私の主です!」と告白し、明日教会に行かなければ、と思ったなら、それは教会を通さずに、聖霊がその人個人に働いたのではないでしょうか?なぜなら先述しましたように、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない、と1コリント12:3に書いてあるからです。その少し先にはこうも書いてあります。
 7一人一人に“霊” (聖霊のことです)の働きが現れるのは、全体の益となるためです。8ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、9ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。11これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
 この箇所を読む限り、一人ひとりにも、その人に与えられた賜物を通して、聖霊の御力は現されます。
 ただ間違えてはいけないポイントは、聖霊を受けたその人の働きが、その人自身の栄光や利益になるのではなくて、あくまでも、教会共同体や、クリスチャン全体の益となるためであって、またその働きによる栄光も、すべては神様のものである、ということです。

 明日は特に、日本基督教団の創立記念日です。今から78年前、1941年(あえて昭和で言ってみれば16年ですが)に、日本基督教団は生まれました。
 この日本基督教団という共同体もまた、ひとつの教会です。でも果たして、神様の召しに、ちゃんと神様の方法で、わたくしたちは応えられているのでしょうか?おそらく答えは、甘く見積もって、半分イエスで半分ノーです。その半分のノーの部分について、わたくしたちは他人事と思わずに、自分のこととして、大いに悔い改める必要があるのではないでしょうか。そのことを、今この、それこそ邪悪な時代にあって、強く、感じています。イエス様が弟子たちに、約束の聖霊を受けるまでは都にとどまっていなさい、と命じられたように、聖霊なしには、正しい主の働きはできません。聖霊の働きを、人間の理性でコントロールできないことだからといって、勝手に矮小化するのも、変に封印するのも、もういい加減にしないといけない時が来ているのではないかと感じています。

●喜びと真心をもって
 さて本日の箇所に戻りまして、42節以降を見てみましょう。
 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
 その、新たに加えられた3000人の者たちは、「教え」と「交わりと「パン裂き」と「祈り」に「熱心であった」、つまり、固くこれらを守っている人々でした。
 中でも「交わり」というのは、藤沢教会の皆さんにはおなじみ、コイノーニア(κοινωνία)です。「一つのものを共有すること」という意味もあります。
 
 その次の43節以降の記述は、先ほどの42節までの記事からは、多少の時間の経過があってのことだと思われます。この同じ使徒の2章初めの異言を語り出した現象もそうですが、聖霊を受けた後の使徒たちの働きの勢いは相当増し、力強くなっていたのでしょう。それは「すべての人に恐れが生じ」る程で、使徒たちは、多くの不思議な業としるし、つまり奇跡の数々を起こしていたのです。

 また、信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にしていました。
 これに関しては、現代でも、シェアハウスや、カーシェアリングなどがだいぶ普及しましたから、この聖書の時代の信者たちの暮らし方に、私たちもかなり近づきやすいかも知れません。

 そしてさらに大事なのは、最後の46節47節に記された、主イエスを信じた者たちの生活の様子です。彼らは、
 毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、→つまり心を一つにして毎日教会に行き、
 家ごとに集まってパンを裂き、→つまり「パン裂き」と言われる聖餐を家毎に行い、
 喜びと真心をもって一緒に食事をし、→つまり互いに喜んで、嘘のない心で愛餐を行い、
 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。というのです。
 しかも実はこの喜びと真心をもって、の喜びというのは、ただのjoyではなく、「大喜び」とか、「熱狂的な喜び」を意味します。もっと言えば、
「野生の喜び、恍惚の喜び、愉快な気持ち、爽快感」などといった意味もあり、とにかく、ただの喜びではないのだな、心底愉快な気持ちなのだな、ということがわかります。
 一方、真心をもって、真心は、「誠意」の意味はもちろんですが、「単純さ」や「素朴さ」の意味もあり、彼らは、この上ない喜びをもって、それでいて、シンプルで飾らない心で、共に食事をすることを楽しみながら、共に神様を賛美していたのです。
 そんな彼らを見たら、そりゃあ民衆全体から好意を寄せられるのも当然だなと思います。ほんとうに楽しそうだったら、仲間に入りたくなっても不思議はありません。
 この下の園庭でも時々BBQが行われますよね。先日も青年会主催のBBQ大会が開かれ、お陰様で楽しいひとときが過ごせて感謝でした。それでその時に園庭から外を見ていますと、いつもそこの前の道を通る人々が、私たちの様子をうらやましそうにじーっと見たまま、つまり横を向いたまま歩いていくので、その度に、危ないなあ、大丈夫かなあ、と思い、「youも来ちゃいなよ!」とジャニーさん風に声をかけたくなるのですが、きっとこの箇所で言われていることも、そういうことではないのかな、と思うのです。ほんとうに藤沢教会は恵まれた教会だと思います。
 こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたとありますから、毎日、神様はこの群れに新しい仲間を加えられたのです。

 さて、私たちは今、どんな思いでここに集められているでしょうか?大きな喜びをもってここにいるでしょうか?

 先日、同期の牧師の誘いを受け、お台場のホテルで行われた「国家朝餐祈祷会」というのに、初めて参加してきました。そこには、日本キリスト教団の教会に所属しているあの、衆議院議員の石破茂さんや、他数名のクリスチャン国会議員の方々や、各国の大使などと、日本や韓国の牧師たちや、報道関係の方々など、総勢520名が集っていました。一緒にホテルの簡単な朝食を食べて交わり、話を聴き、賛美し、祈る会です。
 実際にお話をお聞きして、石破さんもあの国会の中で、ほんとうにいつも日本のために祈っておられるのだな、ということがよくわかり、少し安心したりもしました。ほとんど知らない方々ばかりなのですが、言葉が違ってもみんなで心を一つにして賛美したり、日本と世界の救いと平和のために祈ったりしていると、なんだか不思議な高揚感と一体感がわいてきて、大きな喜びがありました。
 あんなに大きな会場でなくても、家々であのような、共に交わり、食べ、祈る集まりが頻繁に行われていれば、教会で待つよりも早いスピードで新たな仲間が加えられるかも知れません。その意味では藤沢教会の「カナの会」というのも、かなりパワフルな集まりかも知れませんね。
 大切なのは、私たち一人ひとりが、心から楽しんで、飾らない思いでそこにいられるかどうか、なのです。

祈り


  



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