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聖霊降臨節第4主日礼拝 説教 「平安の中を歩みなさい」

日本基督教団藤沢教会 2019年6月30日

【旧約聖書】申命記 8章11~20節
 11わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。12あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、14心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、15炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、16あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。17あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。18むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
 19もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。20主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

【新約聖書】ルカによる福音書 8章40~56節
 40イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。41そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。42十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。47女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。48イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 49イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」50イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」51イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。52人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」53人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。56娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。


平安の中を歩みなさい
 神様は、神の子である私たちを礼拝へと招き、今週も大切な何かを伝えてくださろうとしています。それは、今日の旧約聖書が語っているところでもありますが、信仰の真実です。「私が今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように」、また、「あなたの神、主を思い起こしなさい」とあるように、「私たちの神様を忘れずに思い起こす」ことで、信仰の真実は明らかにされるものだからです。そして、それは、ただ心の中で神様を思うか思わないかということではありません。神様を思い起こし、信じるということは、私たちの心の中だけの問題ではないからです。私たちの目の前にいます神様そのものを知覚すること、感じること、あってある方がここにいまし、私たちに働きかけてくださっていること、それを感じ取ることが許されているのが、こうして礼拝に招かれている私たちだということです。このことはつまり、今、この時、神様が私たちの目の前に、ご自身を現わしてくださっているということです。ですから、そういう意味で、礼拝において、神様を見つめ、手を合わせ拝んでいるのが、この場にいる私たちであるということです。ただし、どうやらそこには、昔から神様を見る人と見ない人とがいるようです。忘れるな、思い起こせと、御言葉が語っているのは、それゆえのことでもあるからです。

 そこで皆さまにお尋ねしたいのですが、では、神の子と呼ばれる人々、神様にあなたたちと呼ばれる人々には、神様を見ている者と見てない者といった具合に2種類の人間がいて、それとも、見ている者だけが、神の子であり、この人たちだけが、神様からあなたたちと呼ばれるにふさわしい人々だというのでしょうか。もし、そうであるなら、神様の御前にあるのは、見ている者だけで、見てない者は、そもそも御前にはいないわけですから、忘れるな、思い起こせと、モーセを通して、こう神様が呼びかける必要もなかったわけです。しかし、そうではない。つまり、この忘れるな、思い起こせという言葉は、聞いていようがいまいが、見ていようがいまいが、神様の御前にあるすべての人々に語りかけられているものだということです。ですから、神様がいることを忘れて、神様を見ようともしない人も、気もそぞろに他のことを考えている人も、こうして神様の御言葉の前に置かれている限り、神の子、神様からあなたたちと呼ばれる一人一人であるということです。ただし、高をくくったような態度は、もちろん褒められたものではありません。けれども、誰がふさわしく、誰がふさわしくないかなどと、それを私たちが本当に区別することができるのでしょうか。いずれにせよ、私たちのすべてが同じようにこの御言葉の前に立たされているのは間違いのないことなのです。

 そこで、私たちにご自身を現される神様と私たちの関係を考えるとき、それについて、私は次のようなイメージを持っています。それは、神様から「おーいみんなー」と呼ばれ、「はーい、何でしょうか」と素直に答えることができる間柄です。けれども、それは、私がそう思っているだけで、すべての人が私と同じように考えているわけではありません。「おーい、みんなー」と神様に呼びかけられ、けれども、その心の中では、「うるせーなー、今それどころじゃないんだよ、あっち行ってろよ」と、心の中でこのような受け答えする人もいることでしょう。けれども、今申しましたように、「あなたたち」、「みんなー」と呼びかけられている「みんな」とは、素直であろうがなかろうが、神様の声が届けられている「みんな」なのです。そして、それは、別の言い方をすれば、神様に見つめられている「みんな」であり、それが私たちであるということです。ですから、忘れるな、思い起こせ、と言われていることが、そういうものである以上、私たちのいいなりになるお方が私たちの神様ではありません。

 神様の私たちを見つめるその目には、私たちのありのままの姿が映し出されています。そして、それは、神様の目の前にある私たちのことを、神様が色眼鏡で見ることはないということです。神様が呼びかける「みんな」は、みんな同じだということです。私たち全員を、神様はそういう目で見つめているということです。ただ、このように申し上げますと、そこで、皆さんは、こう思うことでしょう。「モーセが、『もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕え、ひれ伏すようなことがあれば、私は今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる』と言っているではないか」と。そして、モーセがこう言っているように、それは確かにその通りで、間違ってはおりません。節操なく、神様の御名をみだりに唱え、自分を世界の主人のように考え、行動したその先に何が待ち構えているのか、それが滅びであるのは間違いのないことだからです。

 ただし、そこで、私たちは、この「滅び」という言葉のイメージに引きずられてはなりません。破滅、滅亡、一切が無に帰されるイメージを、私たちは、この「滅び」という言葉から受けるのでしょう。けれども、この滅びという言葉は、私たちに惨めで悲しい結末だけを想像させるためのものではありません。「滅び」とは、神様との一切の関わりが断たれることであり、これは当たり前のことかもしれませんが、有り体に申せば、行き過ぎれば、最後の最後に神様に勘当されるということです。そして、そこで忘れてはならないことは、「忘れるな、思い起こせ」と言われているように、まだその時は訪れてはいないということです。このことはつまり、まだすべてが終わったわけではない以上、「滅び」ということが言われ、どうしようどうしようと思っている人にも、まだまだチャンスがあるということです。と同時に、終わりが決まっているわけですから、新たな緊張感を与えることにもなるということです。このように、「忘れるな、思い起こせ」というこの言葉は、自分を変えて、神様の幸いの内を歩み続けるための道が目の前に開かれていることを知らしめるものであり、そして、それを身をもって私たちに伝えてくださったのがイエス様でもありました。ところが、そうであるにも関わらず、その私たちが「滅び」という言葉を耳にすると、身を強ばらせ、ビクビクおどおどしてしまう。あるいはまた、目をつり上げ、ピリピリイライラしてしまう。それはどうしてなのでしょうか。

 イエス様は、この日、私たちにこう仰います。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。そして、この同じ信仰に生きているのが、神様とイエス様から「みんな」と呼びかけられている私たちなのです。ところが、その信仰を喜びつつも、時に私たちは、自分自身の信仰をもって救われたと安心することができない。世界の造り主であり、私たちの救い主である方から、「みんな」と呼びかけられている私たちであるにもかかわらず、この「みんな」と呼ばれることに心から安心できず、ビクビクおどおど、ピリピリイライラするのはどうしてなのでしょうか。神様から「みんな」と呼びかけられるこの「みんな」を、安心している人と、安心していない人とに分けて考え、そして、それを区別することが、あたかも信仰であるかのように錯覚するのはそのためです。

 ただ、それには、はっきりとした理由があるように思います。安心しようにも、また、安心したくても、神様とイエス様が私たちを安心、平安から遠ざけている、そうとしか思えない現実があるからです。つまり、こうして生きる中で、神様とイエス様のその御心が「分からない」と思わされることが度々あるということです。今日のイエス様の物語は、そういう私たちの姿を明らかにしてくれているように思うのです。ただその一方で、心からの平安、安心を求める私たちに、安心するための道筋、安心するための土台をはっきりと教えてくれているのがこの日のイエス様でもあるのです。それは、怯え、また、それを隠すかのように怒りを露わにするしかない私たちであるからこそ、イエス様は、私たちがすでにイエス様の物語に生かされ、イエス様と一緒にそれを我がこととすることが許されていることをこの日の出来事を通して知らしめようとされているからです。

 それにしても、私たちが、主イエスのなさることの意味が時に分からなくなるのはどうしてなのでしょうか。ここでもそうです。それぞれに緊急性の高い二人がイエス様の前へとやって来て、助けを請うのですが、ただ、その優先順位がいずれにあるかは誰の目にも明らかです。ところが、イエス様は、優先順位の高い方に一目散に馳せ参じるのではなく、寄り道をする始末であったのです。ですから、その娘の親である会堂長ヤイロにとって、そんなイエス様の態度は、気になったことでしょう。ただ、イエス様が立ち止まった理由については、ヤイロにも分からないことではありません。重い病によって苦しみ、全財産を使い果たし、なおも、癒やされずにいた一人の女性が、この方なら、この方しか、そう思い、イエス様に近づき、その衣に触れ、そして、そのことによって自らが癒やされたと、その説明を本人から聞いたからです。ですから、それを聞いた瞬間、「えっ」と思ったヤイロも、さぞや力づけられたことでしょう。イエス様に縋る女性の姿は、少し前の自分の姿であり、この方にお任せしていれば大丈夫、そう思ったに違いないからです。ところが、そう思ったのも束の間、その場にヤイロ家の者がやって来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と、こう告げたというのです。そして、そこでイエス様が仰ったことは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」ということでした。

 イエス様のこの言葉は、「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様によって癒やされた女性に語った言葉と内容的には同じです。それゆえ、悲しみに暮れるヤイロ家の人々に語った「泣くな、死んだのではない。眠っているのだ」とのイエス様の一言は、信仰とそれに伴う救いとのつながりの中で語られたものだと言えるのでしょう。そして、それは、イエス様が女性に対して最後に語った「安心して行きなさい」とのこの言葉をもって、表現しうることでもあるのでしょう。そして、この同じ信仰に生きているのが、こうして御言葉に聞いている私たちでもあるのです。ですから、同じ信仰に生き、この場に臨んでいる私たちは、同じように安心することができるということです。つまりは、イエス様にすべてを見つめられていることを知っている私たちにとって、すべてのものは、主にあって備えられ、それゆえに、安心して生きることができるということです。しかし、実態はどうでしょうか。その私たちが信仰ゆえに安心することができない、多くの人々がこのことに悩み、苦しんでいるように思うのです。

 信仰をもって平安の内に歩むということは、イエス様のそのお言葉、その振る舞いについて、その時々に適った正しい論評を行うことではありません。そのため、ここでもそうですが、イエス様のことが分からなくなる、それが私たちであるということです。そして、それは、私たちの能力が低いからでもなく、また、視野が狭いからでもありません。私たちの資質の問題ではなく、経験不足によるものであり、従って、ここに記されていることは、私たちの経験不足を補ってくれるものでもあるのでしょう。しかし、その真意が私たちには分からないのです。二つの物語がそれぞれ別々に語られ、個々の問題を一つ一つ解決してくれているならまだしも、それを一緒くたにして、何かを語ろうとしているところにどこか不親切さを感じたりもするからです。そして、私たちがそこで感じるもどかしさは、ここに登場するすべての人々が、イエス様と出会うそれ以前に感じていたことでもあったのでしょう。

 瀕死の状況にあるヤイロの娘が12歳、この女性が病に苦しんだ期間が12年、この場の登場人物は、それぞれ関わりを持つことなく、異なる場所で12年間を過ごすものでありました。そして、イエス様と出会い、それぞれの病は癒やされ、平安の内に立ち上がることが許されたのです。ですから、それぞれに異なる12年間を過ごしながらも、この平安のただ中へと導かれ過ごしていたのが、イエス様と出会ったこの場の登場人物でもあったということです。けれども、それは、それぞれの思いが思い通りすべて果たされる中で現されたわけではありません。異なる二つのものを一つにし、優先順位を変えてまで現わされたところに、イエス様によって平安へと導かれる人々のその姿を見ることができるのですが、それゆえにまた、そこに、信仰の真実が現れてもいるのです。それは、信仰の真実は「生きてこそ、そこに明らかにされる」ものでもあるからです。

 ここに登場する人々の12年の歩みが一つとして同じものはないように、私たちそれぞれの人生も一つとして同じものはありません。それゆえ、その受け止め方はまちまちで、恵みに満ちていると、あるいは、恵みから遠ざけられたと、それぞれの置かれたところで、それぞれがそれぞれに思うものに従って、答えを探し出そうとするのでしょう。それゆえ、一見すると不公平なものに見え、時にこの不公平さをイエス様が助長しているかのように思うこともあるのです。そのため、私たちは、イエス様のことが分からなくなるのですが、今日の御言葉は、そのように私たちが分からないと思う中で、イエス様が私たち一人一人を平安の内へと招いてくださっていることを教えるのです。ただ、それは、経験せずして分かるものではありません。イエス様のことが分からなくなるのは、この経験不足ゆえのことでもあるからです。けれども、ここに登場する人々と同じように、イエス様に招かれ、その都度、「起きなさい」とのイエス様の声を聞き、そして、立ち上がり、イエス様のことを間近に感じる経験を積み重ね歩むのが私たちなのです。ですから、分からないこと、分からなくなることは、私たちにとって、大きなことではありません。それは、その私たちのことを生涯にわたり導かれる方がイエス様というお方であるからです。イエス様が仰るように、安心して、新たな一巡りの歩みに導かれて参りましょう。

祈り


  



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