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聖霊降臨節第5主日礼拝 説教 「神に覚えられている一人」

日本基督教団藤沢教会 2019年7月7日

【旧約聖書】エゼキエル書 34章1~6節
 1主の言葉がわたしに臨んだ。2「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。4お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。5彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

【新約聖書】ルカによる福音書 15章1~10節
 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


神に覚えられている一人
 おはようございます。ところで、説教に先立ち、ご一緒に御言葉に聞き、祈りを合わせ、そして、讃美を共にする中で思ったことは、今日は、挨拶をもって、説教を始めよう、始めたいということでした。それは、毎週献げられているこの礼拝を通し、そこに形作られているものが私たちの人生であり、そして、私たちの人生における様々な場面において必ず登場するものが、こうして今集まっている教会であると、さらには、そこに皆さんお一人お一人のお顔を見ることが許されているのだと、ふとそんなことを思ったからです。ですから、私たちの人生の一コマ一コマには、必ずどこかに教会と、こうして献げられる礼拝が映し出されているわけですし、それゆえにまた、教会は、私たちの人生における重要な決断の舞台ともなるのでしょう。

 けれども、私たちの人生の一コマ一コマは、教会と礼拝という限られた時間、場所だけに終始するものではありません。日々の祈りがあり、祈りのあるところに私たちの暮らしがあるように、信仰によって支えられる私たちの生活の、その様々な場面に深く影響を及ぼすものが礼拝であり、教会であるということです。しかし、私のこうした物の言いには、当然、反発を覚える方もいることでしょう。教会に背を向ける人、他のものに関心が向き、そもそも目にすら入っていない人、あるいは、最近耳にすることは少なくなりましたが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言われますように、兎も角何もかも教会と名の付くもののすべてが嫌だ、嫌いだと思う人、ですから、これらの人々にとっては、聞きようによっては、教会と礼拝が人生のすべてだと聞こえなくもない私の物言いは、自由を奪われ、教会という狭苦しい囲いの中に押し込められるような印象を与えることにもなるのでしょう。けれども、まただから、「おはよう」との挨拶をもって始めたいと思ったのです。

 挨拶は、意味ありげにするものではありません。挨拶には挨拶そのものに意味があり、それは、私たちが今のこの暮らしを大切にしていく上で、欠かすことのできないものだからです。互いの胸襟を開き合うだけでなく、大げさな言い方をすれば、互いの人生の土台を確かめ合い、築くために必要なものだからです。つまり、私たちの暮らしがどこから始まるのかと言えば、この挨拶から始まるのであり、まただから、それを続けていくところに、互いの人生の土台が築かれることにもなるのです。ヘブライ語で平和を意味するシャロームが挨拶の言葉となっているのは、それゆえのことでもあるのでしょう。

 従って、私たちにとって、その土台となっているものが教会であり、また、その生活を支えるものが礼拝であるということです。ところで、では、教会に背を向け、信仰以外のものに心を奪われている人は、その人生における土台は崩れ去り、生活の支えを完全に失っている人たちなのでしょうか。それだけではありません。先ほどの坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではありませんが、それゆえに、そのような人たちは、教会と私たちの信仰にとって、敵(かたき)ということになるのでしょうか。もちろん、そうではありません。なぜなら、今日のイエス様のお言葉がそのことをはっきりと語ってくれているように、背を向ける者、群れからはみ出した者を探し回るお方が、私たちの神様であり、イエス様であるからです。

 ですから、私たちは、罪人という言葉を裏切り者を扱うように用いて、村八分の仕打ちをすることはありません。罪人というレッテル貼りをすることは、結局は、罪人である自分自身に返ってくることでもあるからです。ですから、そこで私たちは、1匹を探し回ると仰るイエス様のそのお言葉にホッとさせられもするのですが、しかし、ホットするのも束の間、一つの問題に直面させられるのが、今日、こうして礼拝を献げる私たちでもあるのです。それは、今日の旧約聖書を見ていくと、イエス様のこのお言葉に確信が持てなくなるからです。キョロキョロ、ソワソワ、周りをいくら見回しても、イエス様のお顔をどこにも見いだせないことが現にあり、ですから、教会に背を向け、信仰以外のものに心を奪われた人が威勢よく教会を後にするのは、イエス様を懸命に捜してのことでもあるのでしょう。それゆえ、心の中ではきっと、もしかしたら自分でも気がつかないところで、「イエス様はどこ、どこにイエス様はいるの」とそう叫んでいるに違いありません。

 けれども、その人の心の叫びは、教会に留まる私たちには聞こえてきません。距離があり、溝があり、壁がある場合がほとんどだからです。ただ、それは、教会に留まる私たちだけでなく、そう叫ぶその人の耳にも、ちょうど、イエス様の目の前にいるファリサイ派、律法学者の人々がそうであったように、その人自身にもその心の中の本当の声が届けられることはないのでしょう。それは、心の奥深くに、それも、自分でもそのことに気がつかないほど深いところにその声を隠してしまっているからです。でも、神様とイエス様には、その声がしっかりと届けられているのです。それは、どこに我が子がいるかも分からない状態の中でも、間違わずに我が子のところに辿り着くペンギンのように、その子の本当の声を聞き分けられるのが、神様とイエス様だからです。

 でも、神様とイエス様が分かっているから、だから、それでいいということではありません。その本当の声が私たちには分からなくても、教会に背を向けた人たちは、私たちにとっては、かつて挨拶を交わした仲間なのです。神様とイエス様という土台に載っている人たちであり、ですから、群れを離れた理由が具体的に何であるかは分からなくても、少なくとも私たちには、その人たちの不安、悲しみや苦しみは分かります。それは、神様とイエス様を通し、すべてを知らされているのが私たちだからです。ただ、そこでのすべてとは、私たちがすべての物事が分かっているということではありません。すべて、ということは、神様とイエス様が、教会に背を向けた人たちのその苦しみや悲しみ、その怒り、さらには、罪深さ、その醜さをもすべてご存じであり、すべてのことを受け止めてくださっているということなのです。また、だから、全力で探し回るのであり、ですから、それが分かっているから、私たちは、自分で動き回り、自分だけの力を頼るようなことはしないということです。99匹の羊のようにそこにじっとして、イエス様が戻られるのを静かに待ち望むのです。

 ただ、それは、私たちが、ハラハラ、ドキドキ、時にイライラ、ピリピリしないということではありません。様々な思いに駆られながらも、神様とイエス様にすべてをお任せして、じっと待つのが私たちなのです。そして、それは、私たちが何もしないということではありません。私たちは、何もしない言い訳として、神様とイエス様にすべてをお任せしていると言っているわけではないからです。野原に残された99匹の羊がそこでじっとしていたように、こうして私たちが集まるこの場所には、神様とイエス様のそのお言葉が活きて働いていることを私たちは知っているわけですから、そこで、当然求められるものが私たちにはあるということです。

 99という数字は、100に一つ足りない、不完全なものです。ですから、群れが、99匹であるというのは、その群れが不完全な形であるということです。それゆえ、羊飼いの顔が見えなければ、ハラハラ、ドキドキ、ピリピリ、イライラする人は必ずいるものです。けれども、それでもそこにじっと一つの群れとして留まり続けることができるのは、群れの中には、経験豊富な人々が絶えず常にいるからです。つまり、未熟な若い世代だけでなく、これまでの経験に裏打ちされた、安心してそこに留まり続けることのできる大勢の人々がいるということです。そして、それは、親であり、先達でもありますが、それゆえ、共に生きる親たちからも、また、普段挨拶を交わし合う様々な人からも、「ここに神様とイエス様の正しい御心がここに置かれているんだよ」と、そう優しく語りかけられ、それゆえ、そこに留まることが最善だと、親や回りの大人たちのその姿を見て、安心することができるのです。

 従って、これは当然のことではありますが、群れに留まり、そこでじっとしているということはつまり、聖書の言葉や教義、ましてやこの世の様々な論理を持ち出して、もっともらしく何かを説明し、力尽くで納得させ、そこにおらせるということではありません。また、虎の威を借りて、自分の言いたいことを言いたいだけ好き勝手に何でも言っていいということでもなければ、借りてきた猫のように、何もしない、何もできない、ただ勇気のないことの言い訳として、そこにじっとしているということでもありません。ただただそこにいることに安心することができるということであり、神様とイエス様にお任せし、普段通り、いつも通りに、そのお言葉の働く土台の上にじっと留まり続け、普段と変わりない暮らしを守り続ける、私たちの信仰は、そういうところに現されるものでもあるということです。

 ですから、これは意外と誤解している方が多いのですが、今日も聖餐式がありますが、主の聖餐が教会において変わらずに続けられてきたように、私たちの信仰は、それゆえに保守的なものなのです。もしそうでなければ、聖書が二千年にわたって、教会で正しく読み継がれることはなかったのでしょう。それゆえ、教会という前提を無視する一切の試みを、つまり、自分たちが歩んで来た二千年の歴史、もっと言えば、イエス様の出来事以前には数千年の歴史があるわけですから、その積み重ね、蓄積を無視するようなことは、もし、自分の信仰が正しいというのなら、私たちがすることはありません。けれども、そこでまた誤解のないように申しますと、私たちの信仰は、保守的なものであると同時に、イエス様が「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と仰るように、私たちの信仰は、その信仰ゆえにまた、自由が約束されてもいるのです。そして、このことはつまり、自由が約束されているがゆえに、私たちは、変わることができると言うことです。なぜなら、私たちの信仰が、もし自由を約束するものでないなら、不完全である群れはたちまちの内に崩壊し、跡形もなく消えてしまったことでしょう。

 けれども、不完全な群れが、不完全なものが不完全なまま変わることなくそこに留まり続けることが許されたのは、不完全さであるからこそ、守られ、支えられてきたからです。ですから、教会に恵みと祝福が増し加えられてきたのは、その不完全さゆえのものでもあり、つまり、守られ、支えられ、変えられつつ歩んできたのが、教会だと言うことです。それゆえ、イエス様が仰った真理とは、そのように私たちを支え、守り、変えていくものであり、それゆえにまた、真理は、私たちを狭い囲いの中に押し込めることはしません。99匹を野原に残したように、神様が造られた世界にしっかりと立たしめ、大地にしっかりと根を張らせるべく働くのです。ですから、あれがいい、これが素敵と言って、好き勝手に動き回らず、しっかりと根を張ればこそ、真理は私たちを本当の意味で自由にするということです。従って、イエス様の仰る真理とは、こうしなければならない、こうじゃなきゃいけない、そういった思いつきや思い込みのようなものではありません。鵺か、キメラだか分からないようなものではなく、むしろ、そういうわけの分からないものから守り、支え、イエス様と同じ姿に変えられていくのが、イエス様の仰る真理であり、そして、それを信じることが許されているのが私たちであるということです。

 ただ、じっと同じところに留まり続けるということは、不完全さゆえに、やはりあれこれ思い巡らせてしまうものです。とはいっても、ということです。けれども、そこで、悲しみや苦しみから逃げることなく、それを抱えることができるのは、私たちは、それをたった一人で抱えてはいないからです。ただし、それは、おんぶに抱っこということではありません。その人が担うべきものは、その人が先ず担わなければならないのですが、もし、そうでなければ、群れは共倒れになってしまうことでしょう。ですから、群れの中でもし否定的な感情が芽生えたら、そこから逃げるのではなく、群れの中の一員であることを思い、そこから始めればいいのです。そして、それは、今の私たちがそうであるように、御言葉の前に立つということであり、御言葉の前に立てばこそ、御言葉が生きて生き生きと働いていることを私たちは実感させられることになるからです。そして、それは、だから、群れから飛び出してはならないということではありません。群れを飛び出そうとも、群れに留まろうとも、それぞれが群れの一員であることに変わりはないからです。ですから、ここに立って、ここに根を張ればこそ、そこで力強く働きかける御言葉によって、私たちは、群れの一人として、群れを形作りながら歩み続けることができるのです。

 神様とイエス様が気にかけておられるのは、1匹か、それとも99匹か、ということではありません。神様とイエス様が気にかけるのは、一塊の群れであり、その群れを終わりまで、家路へと導かれるのが神様であり、イエス様であるということです。イエス様を頭とする教会は、この何千年にわたる神様の変わらぬこの御心を実際に経験してきたのであり、だから、この経験が、聖書の信仰を形づくり、また、聖書を正しく読み継がせることになったのです。ですから、私たちが追い求める真理とは、追い求めるものであると同時に、委ねるべきもの、委ねていいもの、そういうものでもあるということです。つまり、委ねればこそ、そこで私たちが求めるものが与えられる。けれども、委ねず、ただ求めるばかりでは、与えられない、よしんば与えられたと思っても、手の中にあると思った真理がスーと手の中から消えてなくなってしまうのは、神様に委ねてはいないからです。では、委ねるとはどういうことか、一つにはイエス様に倣うということですが、そのためには自分がどこに立ち、どこに向かっているのかが分かっていなければなりません。ですから、それを確かめるために、私たちはこうして礼拝へと集められているのであり、また、集められ、兄弟姉妹とこうして会えばこそ、群れの中の一人としての実感を深めることになるのです。従って、私たちの人生とは、そうした日々の繰り返しの中で形作られていくのであり、また、群れの一人である信仰が、私たちの日々の暮らしを豊かで実り多いものとするのです。祈りましょう。

祈り


  



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