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聖霊降臨節第7主日礼拝 説教 「もう泣かなくともよい」

日本基督教団藤沢教会 2019年7月21日

【旧約聖書】エレミヤ書 38章1~13節
 1マタンの子シェファトヤ、パシュフルの子ゲダルヤ、シェレムヤの子ユカル、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤがすべての民に次のように語っているのを聞いた。
 2「主はこう言われる。この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。3主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される。」
 4役人たちは王に言った。
 「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」
 5ゼデキヤ王は答えた。
 「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
 6そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
 7宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクは、エレミヤが水溜めに投げ込まれたことを聞いた。そのとき、王はベニヤミン門の広場に座していた。
8エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。
 9「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」10王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。11エベド・メレクはその人々を連れて宮廷に帰り、倉庫の下から古着やぼろ切れを取って来て、それを綱で水溜めの中のエレミヤにつり降ろした。12クシュ人エベド・メレクはエレミヤに言った。「古着とぼろ切れを脇の下にはさんで、綱にあてがいなさい。」エレミヤはそのとおりにした。13そこで、彼らはエレミヤを水溜めから綱で引き上げた。そして、エレミヤは監視の庭に留めて置かれた。

【新約聖書】ルカによる福音書 7章11~17節
 11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


もう泣かなくともよい
 みくに幼稚園が夏休みに入り、毎日のように顔を合わせていた子どもたちともしばらく顔を合わすことがなくなりました。それを思うと、少し寂しい気もしますが、今日の礼拝後には、保護者主催による幼稚園の納涼祭が行われます。準備に当たっては、私も多少なりともお手伝いをしたのですが、一緒に汗を流しながら、つまらないことを言い合いながら、子供たちやそのご家族の浮かべる笑顔を思い起こしながら、お父様方と一緒に準備をし、行事を作り上げるお手伝いができたことはとても楽しくもありました。そして、思ったのです。ここに、私たち藤沢教会のコミュニティとしての姿がある、そういうことでもありました。そして、その姿でありますが、それは、主イエス・キリストを中心とする交わりの豊かさです。弾む会話、あふれる笑顔、楽しい分かち合いのひとときは、それゆえ、他の人たちをも魅了することでしょう。教会っていいな、素晴らしいな、イエス様を信じる人たちのその背中を見て、かつての私もそう思いましたし、皆さんもそうだと思います。それゆえ、この「いいなあ」との素直な思いから教会の門をくぐった方は、皆さんの中にも大勢いらっしゃることと思います。それゆえ、そうした一つ一つの出来事が私たちの思い出、記憶となっているのは間違いありません。ですから、そういう私たち一人ひとりの背中を見て、幼稚園の中から一人でも多くの子供たち、そのご家族が、私たち神の家族の一員となることを祈り願わないわけには参りません。

 ただ、こう思うと同時に、今日のそれぞれのみ言葉にこうして聞いてゆき、改めてあることに気づかされました。それは、楽しいイベントを繰り返すことだけが、私たちのコミュニティを築くわけではないということです。もちろん、だから、楽しいイベントなど必要ないと、そんな野暮なことを申し上げるつもりもありません。楽しいことも、そうでないことも、そのそれぞれの出来事の中に、主イエス・キリストを中心とするコミュニティの姿があるからです。ですから、辛く苦しい出来事も、私たちにとっては必要なものだということです。けれども、だから、意味もなく、苦しい思いをすればいいということではありません。大切なことは、楽しいことも苦しいことも、それぞれが私たちにとって一緒に分かち合うべきものであるということです。つまり、美味しいものだけを食べるのではなく、美味しいものもまずいものも一緒に食べるということ、あれは美味しかったという美味しいと感じた記憶、また、あれはまずかった、あれは嫌だったという記憶、そのそれぞれを同じように経験をすることが、私たちにとってとても大切であるということです。まただからこそ、御言葉は、私たち教会に集められている者を神の家族と呼ぶのです。ただ、それは、嫌いな給食を無理矢理食べることでもなく、また、食べさせようとすることでもありません。同じものを同じように食べることが、家族が家族であるための目的ではないからです。大切なことは、すべてのものを分かち合い、互いに家族として歩み続けること、家族とはそういうものだからです。

 従って、今日のそれぞれの御言葉に記されていることは、そういう意味での神の家族の家族としてのありのままが記憶されているということです。そこで、私たちは、このエレミヤ書にあることも、また、福音書に記されていることも、それぞれにあることをしっかり受け止めなければならないのですが、ただ、それをどのように受け止めれば、しっかり受け止めたことになるのでしょうか。それぞれに記されていることは、今ならさしずめ、携帯で記録され、拡散されるに違いありません。特に福音書に記されていることは、亡くなった者が主イエスの呼びかけによって、生き返るわけですから、多くの人々の関心を集めるに違いありません。それゆえ、このナインの寡婦の話は、多くの人々にとって、主イエスそのものに触れる素晴らしい機会を提供することでしょう。ですから、もし、携帯などの媒体によって記録され、それが大勢の人々の間で拡散されれば、教会が負わねばならない苦労もそれだけ少なくすむはずです。けれども、そのような形で記録され、拡散されたものが、仮にそれがどこまで真実であったとしても、果たしてどこまで人々の心に残り続けることになるのでしょうか。ネット上では、再生回数何百万回と言われるものもありますが、人々が感じるであろう一時の感動、驚きが、いつまでも長く続いたという話は聞いたことがないからです。

 聖書に記されていることが、長く教会の人々の記憶に刻まれ、多くの人々に受け継がれてきたのは、それが家族としての記憶だからです。ですから、それぞれに記されていることは、そういう点で、この場にいる私たち一人ひとりと直接関わり合うものでもありますが、それゆえ、この家族としての記憶は、ただ消費されるだけのものではありません。つまり、その当事者として、私たちの中にしっかり記憶されるということです。しかし、テーブレコーダー、ICレコーダーなどの記録媒体と違って、私たちが、そこに記されていることのすべてを余すところなく記憶することなどできません。ですから、そこでまた、私たちは、取捨選択することにもなるのですが、では、何をどのように私たちは記憶すればいいのか。何を忘れず、そのためには、どのように優先順位を設定すればいいのか。そして、そこで求められることは、記憶する上での切り口です。神の家族に生きるその当事者として、様々な出来事を記憶する上で、私たちなりの切り口はどこにあるのかということです。

 そこで、エレミヤ書とルカによる福音書を見ますと、それぞれに共通していることは、登場人物の身に及んだ危険が取り除かれたということです。従って、恐らく、多くの人は、奇跡的な出来事を先ず心に刻むことになるのでしょう。ルカのナインの寡婦の話などは、特にそういう傾向にあるように思いますが、そこで、聖書に記されている出来事を私たちが記憶する上で、今日の箇所で言えば、奇跡とも言えるこの出来事が、その切り口になるということです。しかし、人々の関心の向かうところは、各人各様、皆同じではありません。その一つが、普段私たちが用いる普通という言葉に表されているように思います。普通とは何でしょうか。それは、その人が長く慣れ親しんできたことであって、その人にとってだけの普通です。そして、物事の記憶のあり方もそれと同じです。それぞれがそれぞれの関心に従って、記憶することになるわけですから、その切り口は自ずと異なってくるのが、それこそ普通だからです。
 従って、聖書の読み方がそれぞれ必ずしも同じではないのはそれゆえのことでもあるのでしょうが、ただ、もちろん、個々ばらばらに好き勝手に読みさえすればそれでいいということではありません。読み方に当たっては、やはりある一定の線が求められることになるのですが、その一つの試みとして、その最大公約数を元に意見集約を図ろうとすることがあります。つまり、今の言い方で言えば標準化ということです。そして、そこで導き出された意見が大勢を占める場合、やがて説得力を持つようになり、そして、時間の経過に伴い、それが表の意見として、「私たち」の公式見解というポジションを持つに至るわけです。けれども、では、そこでいうところの「私たち」とは一体どのような私たちなのでしょうか。最大公約数は最大公約数に過ぎず、それは単に意見、主張が重なり合うところでの「私たち」にすぎません。それゆえ、それだけを指して、家族としての記憶と呼ぶことはできないのでしょう。

 そして、それは、このナインの寡婦の話にも言えることです。主イエスに「もう泣かなくとも良い」と声をかけられ、「起きなさい」との主イエスの呼びかけどおりに死者が起き上がった出来事、それを感動をもって聞いていく姿勢を表とするなら、その反対に、この話を裏から見る人も必ずいるわけです。そして、福音書には、このナインの寡婦の話に限らず、会堂長ヤイロの娘の話、ベタニアのラザロの話と、主イエスによって死者が甦った話は計三つその実例として記されているのです。ところが、裏から物事を見ようとする人は、自分との直接的なつながりを見いだせないことから冷めた目でそれぞれの出来事を見つめることにもなるわけです。それだけではありません。大きな期待感を寄せつつ、ナインの寡婦、会堂長ヤイロ、ベタニアのラザロの次は自分だと、自分は四人目じゃないかと、そう思う人は、結果、期待通りにならないとき、きっと裏切られたとの思いを強くすることにもなるのでしょう。そして、この四人目とは誰でもない、死者の甦りを身近で経験したことのない私たちすべてだということです。それゆえ、自分も自分も、そう願いながらも、どうして自分だけがとの思いに至った人々は、その期待感の大きさゆえ、大きな失望感を現すことにもなるのでしょう。このことはつまり、卑近な例で申し上げれば、お兄ちゃんばっかり、お姉ちゃんばっかりといった類いの話と同じようなことが私たちの中で起こるということです。ただ、そういったことは、放蕩息子のたとえ話が示すように、お兄ちゃんばかり、お姉ちゃんばかりという、お兄ちゃん、お姉ちゃんに限定したことではありません。弟だって、妹だってということもあるからです。

 ただ、だからこそ、またそこで思うのです。その是非は兎も角として、それも家族の記憶の一つであるということです。つまり、表のことだけが記憶され、裏のことが隠される、もちろん、家族としての記憶には、表に出せないということはあるのでしょうが、でも、少なくとも家族の間柄においては、表のことも裏のこともそれぞれ記憶としてのこり続けることになる、家族としての記憶はそういうものだと思います。それは、それが家族というものだからです。ですから、私たちがこうしてそれぞれの御言葉に聞き、神の家族の記憶を記憶する上での切り口は、それぞれの拘りからでないのは明らかです。それゆえ、私たちに求められていることは、自らの拘りを捨てるということにもなるのでしょうが、けれども、拘りを捨てるか捨てないか、相手の拘りを捨てさせるのか捨てさせないか、もし、私たちがそこに拘ることになれば、それこそ本末転倒の結果をもたらすことにもなるのでしょう。ですから、様々な場面で時々耳にすることですが、愛を語りながら愛のない状況を招くのは、それゆえのことでもあるのでしょう。

 ですから、そう考えますと、この日私たちに求められていることは、拘りを捨てるか捨てないか、自分が何をするかしないか、自分が何をもらえるかもらえないか、そういうことではありません。ただ、何かをして欲しい、そのために何かしなければ、そう思うことの多い私たちにとって、このように考えることは、返って新たな混乱をもたらすことにもなるのでしょう。なぜなら、拘りを捨て去ると言うことは、一体何をどこでどのように聞いていけばいいのかとの思いに至るからです。そこで、主イエスが仰った一つの言葉に目を向けたいと思います。それは、今日の説教題でもある、「もう泣かなくともよい」と主イエスが仰ったこの言葉です。ただ、主のこの言葉は、すでに皆さんの心にしっかりと届けられているものでもあるのでしょう。ですから、もう分かっている、主イエスは、私たちの傍らに立っておられ、私たちに慰めと癒やし、励ましを与えてくださる方なんだろ、そんなことはよく分かっているよ、それよりも、分けが分からず、今にもこっちは泣き出しそうなんだから、そこをすぐになんとかしろよ、してくれ、そんな皆さんの声が聞こえてくるように思います。そして、こう思うのは、日々いろいろな声を耳にし、執り成しの祈りを献げる私にとって、それが、私自身の言葉でもあるからです。

 では、私たちの主は、言葉だけの、ただ言いっ放しの、自分のことも人のことも顧みない、ただ偉そうで、指図がましいだけの、そういう方だというのでしょうか。もちろんそうではない、ならばどういうことなのか。この日、私たちが御言葉を通し聞いていかなければならないことは、主イエスが悲しみくれるこのナインの寡婦に「もう泣かなくともよい」と仰ったということです。つまり、何が何だか分からずに、しゃくり上げ、泣きじゃくるしかない、このナインの寡婦の姿が、こうして御言葉に聞いている私たちそのものであるということです。従って、私たちが、この姿をもって主イエスの御前に自分が立たされていることを思い起こすなら、そこで、私たちは何かを感じないわけはありません。そして、それが、今日のみ言葉に聞き、この家族としての記憶と自分自身の記憶とを重ね合わせる上での切り口であるということです。ここに立つからこそ、御言葉は、まさに家族の記憶として、こうして分かち合われることになるからです。

 この「もう泣かなくともよい」と主イエスが語るその直前で、御言葉はこう語ってくれています。それは、「主はこの母親を見て、憐れに思い」とあるように、主はこの母親への憐れみからこの「もう泣かなくともよい」という言葉を発せられたということです。そして、それは、単なる同情、悲しみの共有を意味するものではありません。気の毒に、かわいそうに、でも、自分には何もすることができない、共感とそれに伴う無常感が、主イエスをしてこう言わせたのではないからです。しかし、主イエスには確固たる自信があったのです。それゆえ、この裏付けの元に語られているのが、「もう泣かなくともよい」というこの主イエスの言葉でもあるのですが、ですから、そうであるからこそ、私たちは、主の憐れみ、「もう泣かなくともよい」と仰る主の気持ちがどこから出て来ているのかをはっきりと知らなければならないのです。そして、そのことを私たちに教えるのが、主の憐れみ、主が憐れに思い、とあるこの言葉なのです。

 主の憐れみを示すこの言葉は、犠牲動物の内蔵を指す言葉から派生したものであり、つまり、屠られた小羊である主イエスの腹の奥底から絞り出すように、ほとばしるように現れ出ることになったのが、この主イエスのありのままの気持ち、思いであったということです。そして、それが、この母親に対し、注がれたということですが、しかし、それは、この母親だから、この母親だけに、ということではありません。この憐れみという言葉を、福音書記者ルカは、放蕩息子の譬え、良きサマリア人の譬えで、同じように用いているのですが、つまり、絞り出すように、ほとばしるように、主の腹の底から私たちに向かい現されたこの憐れみは、一体誰に向けられたものなのかということです。それは、私たち一人一人です。私たち一人ひとりに注がれているのがこの主の憐れみであり、つまり、ここに主と私たちの関わり、神の家族としての原点、主を私たちのもとに送り出された神の御心、私たちがが御言葉を通し聞いていくすべてのことが、主のこの激しくも慰めに満ちた言葉の中に現されているということです。それゆえ、私たちがおおよそ経験するであろうすべての出来事は、すべてがこの主の思い、気持ちの中から出てくることであり、だから、私たちに与えられる様々な出来事を私たちは感謝の中に心に留めることになるのです。そして、このことはまた、その一つ一つの出来事を、それこそ、表も裏も私たちが共に分かち合ということであり、だからこそ、表も裏もない主の御心によって、私たちは主の慰めにより、神の家族であり続けることができるのです。ですから、この主イエスの「もう泣かなくともよい」という言葉は、次のように理解してもいいのでしょう。

 家族であらねば、家族とならねば、家族でなければ、この、なければ、あらねば、との思いに破れ、ただ泣くしかないのがこの世に生きる私たちでもあるのでしょう。けれども、だからこそ、主は、「もう泣かなくともよい」と、主イエスの御前に立つ私たちにこう仰るのです。泣きたくなるような出来事を私たちに忘れなさいと仰るのではなく、拘りの強い私たちに、ただ「もう泣かなくともよい」と仰る方が主イエスだということです。そして、それは、私たちがもうすでに主に呼び集められ、神の家族とされているからです。従って、家族であろうとすることが、家族でありたいとの拘りを強めることが、主が私たちに求められていることではありません。すでに家族とされているのだと、表も裏もない、兄と弟の区別もない、姉妹の区別もない、もちろん男と女の区別もない、健常者障害者の区別もない、主イエスの憐れみは、主の御前にこうして集められている私たち一人ひとりすべてに注がれているものであり、私たちすべての記憶、神の家族としての記憶は、この主というお方、主という言葉の上に置かれているものなのです。この日、御言葉は、主イエスと共に神の家族の一人として生きる私たちにこの大切なことを伝えてくれているのです。祈りましょう。

祈り


  



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