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聖霊降臨節第8主日礼拝 説教 「あなたの罪は赦された」

日本基督教団藤沢教会 2019年7月28日





説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
【旧約聖書】サムエル記上 24章8~18節
 8ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。9ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、10サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。11今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。12わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。13主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。14古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。15イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。16主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
 17ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、18ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。

【新約聖書】ルカによる福音書 7章36~50節
 36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


あなたの罪は赦された
●ダビデがブレない理由
 本日のメインディッシュは新約のルカ福音書の方と考えているのですが、旧約のダビデの方もなかなかにボリュームがあるので、先に少しダビデのことを見つめておきましょう。

 ダビデは、油注がれたイスラエルの王で、サウルの次にイスラエルを治めました。サウルも美しく、誰よりも背が高かったようですが、ダビデもまた美しさと強さと賢さを兼ね備えた人で、竪琴の名手でもあり、サウルもダビデの竪琴に癒されました。少年時代にダビデは小石一つを投げただけで巨人のゴリアトを倒したので、人々が「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と噂するようになったので、サウルはダビデを妬むようになり、途端に悪霊に取り憑かれてしまいました。主の霊が彼を離れてしまったので、イスラエルやユダのすべての人々がダビデを愛していたのに、サウルだけはダビデを恐れ、殺そうとして命を狙っていました。サウルは、長女メラブをダビデに嫁がせる約束をしたのに、違う所にメラブを嫁がせ、2番目の娘ミカルを嫁にやり、彼女を使ってダビデを殺そうと画策しましたが、ミカルはダビデを愛していたので、父サウルには従わず、ダビデは守られました。また、サウルの息子ヨナタンも、ダビデを自分のように愛しており、父サウルの魔の手からダビデを守りました。

 そのような背景があった上で、遂にダビデがサウルを討つことができるまたとないチャンス、つまり、そこにダビデがいることを知らないサウルが、洞窟で一人用を足している時に、サウルを殺せるチャンスが来たのですが、ダビデはそっとサウルの着物の端を切り取っただけで止めました。「サウルのような者でも主が油を注がれた方だから、それを自分が殺すことは決して主が許されることではない」、と判断したからです。ダビデはそのように説明して、サウルを襲わないように兵を説得しました。

 そこからが漸く本日の箇所なのですが、9節で、 ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、とあります。もしわたくしがダビデなら、自分を殺そうと画策しているサウルの目の前で、顔を地に伏せ、礼をすることはできないと思います。それは別に憎いから頭を下げたくないという意味ではなくて、単純に、身の危険を感じるからです。けれどもダビデは、その瞬間に殺されてもおかしくないような完全降伏体勢を取って、サウルに事の次第と自分の真実の思いとを、丁寧に語り出しました。


 10節から16節まで続くそのダビデの言葉を見ますと、彼の状況判断や理解の中には、いつも「主」が中心におられることがわかります。例えば11節では、

今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。


とありますし、13節では、

主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。

とあり、あくまでも自分とサウルの間を裁くのは主であるという前提に立っています。さらには、『悪は悪人から出る』と言うけれども、わたしは手を下しません。と述べ、悪人ではない自分の中には、義父でもあるサウルを殺す意志などないことを念押しします。 そして最後まで、主を中心に置いた祈りのような言葉で、主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。と締めくくるのです。


 ダビデが、いつも理に適った正しい判断で前に進めるのは、いつも主を中心に考えるからでしょう。そこがブレないので、彼はいつも神からも人からも愛され、窮地にあっても守られるのではないでしょうか。前回お話した、「的外れ」ではない、ということです。いつもダビデは主の方に心が向いているのです。

 しかし彼も人の子です。どんなに素晴らしい王でも、私たちと同じ“罪人連合”の一員です。この先の人生において、彼はさらに人殺しもしますし、不倫もします。しかも相手の夫をわざと最前線の戦地に送って殺してしまうという悪人ぶりまで発揮します。

 しかしそれでも彼が赦されるのは、主の御前に、自分の罪深さを激しく悔い改める素直さも備えられているからでしょう。そしてまた、悔い改めれば主は赦してくださるのだということを信じる強い信仰も、ダビデには宿っているのではないでしょうか。
 余談ですが、わたくしは、主イエスを銀貨30枚で裏切ったユダにも、このダビデのような図々しいくらいの大胆な信仰があれば、人ではなくイエス様の所へ直接素直に悔い改めに来て、罪赦され、自殺せずに済んだだろうに、といつも思います。

●ファリサイ派の間違い
 さて、ここにもう一人の罪人が登場します。イエス様がファリサイ派のシモンという人の家に招かれて食事をしている時に突然やって来た女性です。ルカの箇所の39節でシモンが、この女性を見て、「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。というのですから、よほど世間にもよく知られるほどの罪深い女なのでしょう。

 その罪深い女は、イエス様がここに居ることを知って、何らかの意志を持って、香油の入った石膏の壺を持って来たのです。彼女は、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。

 足に接吻して香油を塗るという行為は、尊敬と感謝を表す行いですから、この女性は以前から何らかの形で、イエス様のことを知っていたのでしょう。これが初めてではないのだと思われます。

 彼女は、後ろからイエスの足もとに近寄った、とありまして、「はてな?」と思われるかも知れませんが、当時の食事時の座り方は今のような椅子とテーブルではなく、低い、ちゃぶ台のような机で、床に肩肘をついて、テーブルと並行か、あるいは少し外側に足を投げ出して寝っ転がって食べるような、かなりお行儀の悪い格好でしたから、後ろから足に近づくことも容易にできたわけです。

 罪深い女にされるがままになっているイエス様をいぶかるシモンの思いに気づき、イエス様はファリサイ派のシモンに問いかけます。41節、

「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

 ちなみにこの愛するは、神の愛で愛することを表すἀγαπάω(アガパオー)が使われています。これ以後出て来ます「愛」や「愛する」もすべて同じです。

 また、1デナリオンは1日の労働賃金に相当する金額です。ですから500デナリオンは、約500日分の賃金ということで、例えば年間120日位休むものとして計算すれば、約2年分の賃金ということになります。50デナリオンは約2ヶ月分の賃金となるでしょうか。(ちなみに1タラントン=6000デナリオンなので、約24年分の賃金相当額です!)


 するとシモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と無難に答え、なんなく正解します。するとそこで初めてイエス様はその女の方を振り向いて、シモンに言われました。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 ちょっとした「お説教」のような長さですね(笑)。ファリサイ派のシモンは、イエス様になんにもしてくれなかったけれども、罪深い女性の方は、イエス様を歓待し、できる限りのことをして、ありったけの思いを表現したのです。石膏の壺に入った香油など、当時はかなり高額だったようです。

 私たちの誰もが気になるのが、最後の、赦されることの少ない者は、愛することも少ない。という一文ではないでしょうか?「赦されることの少ない者」というのは、罪を犯していないという意味ではなく、自分が罪人であるという自覚の少ない者を指すのではないでしょうか。ファリサイ派の人々は、ユダヤ教の律法にとても厳しい生活を自分に強いているので、おそらく彼らには、「自分だけは罪を犯していないはずだ」、という自覚の方が強いと思われます。そうでなければ、心の中で、あんなに、「罪深い女」と「それを放置するイエス様」のことをひどく断罪することもないはずです。

 ファリサイ派の人は、ルカの18章でもやはり、徴税人を断罪して、心の中で、『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』というひどい祈りをしました。その時一緒に祈っていた徴税人の祈りはこうでした。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』。しかも、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った、とあります。そして、正しい者とされたのは、この徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではない、と記されています。

 本日の箇所での罪深い女の行いは、この徴税人と重なるのではないでしょうか。

●赦しありき
 ここでさらに私たちが気に留めなくてはいけない大切なことは、罪深い女は、既に赦されているということです。それは、この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。という先ほどのイエス様の言葉からもわかります。しかもこの「赦された」は、完了形です。ですから罪深い女は、主の足を自分の涙と髪の毛で洗って口づけして、さらに香油を塗ったことによって赦されたのではなく、逆に、多くの罪を赦された自覚があったからこそ、そのような行いをしたのだ、ということです。


 基本に立ち返りますが、イエス様の十字架は、500デナリオンどころではない、私たちの罪という莫大な借金の返済であり、代価です。このイエス様の十字架の死を信じて口で告白し、さらにその死から三日目の復活を心で信じるなら、わたしたちの罪は赦されます。


 しかしこの時、この女性が赦された時、まだイエス様は十字架にかかる前でした。ではなぜ、既に赦されていたのか?それは、イエス様を「わが主」だと認め、愛する、確固たる信仰があったからではないでしょうか。イエス様に彼女がした熱い想いのこもった行いの中に、彼女の信仰をイエス様が見抜かれたからです。

 そのように申し上げますと、「救いは信仰によるのではないか、行いも関係あるのか」、と思われるかも知れません。確かに、救いはただ信仰によるものです。しかし、ヤコブ書でも言われるように、行いもまた大切です。それは決して、いつも完全で間違いの無い生活をしましょう、などという意味ではありません。ヤコブ書は2章でこう言っています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

 まったくその通りです。アーメンです。目の前にお腹の空いた人がいるのに、「いっぱい食べてねー」と口では言いながら、何一つ食べ物を提供しないなんて、鬼のようではないですか。まったくあり得ない話です。そして信仰にもそれと同じことが言えるのだ、というのです。

 ヤコブ書は厳しいので、読むと耳も目も痛くて仕方ないのですが、さらに怖ろしいことには、「神は唯一だ、と信じているし」とあなたは言うけれど、悪霊だってそんなことは信じて神を恐れているのだぞ、とまで言っています。
信じるだけなら悪霊だってできるというなら、わたしたちはいったいどうすればよいのでしょうか?行いが大切、とは、いったいどういうことなのでしょうか?

 それはおそらく、「あなたの信仰を態度で示しなさい」ということではないでしょうか。

 「しあわせなら手を叩こう」という歌がありますが、(いったいいくつの方までご存じでしょうか…?笑)少なくとも、暗ーく、何かどよーんとした空気を醸し出してうつむいている人を、「なんて幸せそうな人だ!」とは思わないですよね?だからこの歌は、「しあわせなら態度で示そうよ、ほらみんなで手をたたこう!」と歌います。(なんと12番まであるようですが…)

 つまり、信仰を態度で示す、とは、神様を信じているなら、信じた人らしく行動しよう、ということです。同じように、イエス様を愛しているなら、愛している人らしく行動しよう、そして、罪を赦されたなら、赦された人らしく行動しよう、ということもまた言えるでしょう。

 それで、そのように、信仰に行いが伴った人が、あの罪深い女性だったわけです。反対に、イエス様を家に招いたファリサイ派のシモンという男性は、頭ではイエス様を主と受け入れ信じていたかも知れませんが、少なくとも行いは伴っていませんでした。だからイエス様を招いたにも関わらず、イエス様の足も洗ってあげませんでしたし、頭にオリーブオイルも塗ってあげませんでした。イエス様を信じ、愛し、赦されたと思っている人がとるはずの行動を、彼は取らなかったのです。

 その点、先ほどの旧約聖書のダビデは、チャンスが来てもおごること無く、危ない局面でも完全に主に委ね祈り求め、信仰と行いとが見事に一致していました。


 ただ、何度も言いますが、間違ってはいけないのは、あの女性も、ダビデも、その行いによって罪が赦されたわけではない、ということです。彼らはただ、既に罪赦されて神に愛され、子として認められた者として、行動しただけなのです。

 確かに、彼女の信仰的行いの後に、イエス様は「あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。しかし、彼女のあの行いは、「多く赦された罪深い者」として自覚ある者としての当然の行為だっただけで、それによって救われたわけでも、赦されたわけでもありません。それは、「あなたの信仰があなたを救った。」とイエス様も言われたとおりです。


 イエス様が48節で言われた、「あなたの罪は赦された」の、「赦されたἀφίημι(アフィエーミ)」という原語は、「赦す」というよりむしろ、「手放す、釈放する、リリースする」という意味の言葉で、イエス様はそれを完了形の受動態で言われました。「あなたは完全に釈放された」つまり、「もう言って良し!」ということです。これはもはや私たちのイメージする「赦す」という言葉の次の段階を行く言葉とも言えるでしょう。

 ですから、この「赦された」というイエス様の言葉は、その時に彼女が赦されたことを表すのではなく、既に赦された彼女が、大いに赦された者として、その感謝をもって大胆にイエス様を迎える行動をしたので、改めて、「もうあなたは赦されているのだから、自由になりなさい、安心して行きなさい」という意味で宣言された言葉なのです。


 さらに忘れてはいけないのは、このイエス様の、「あなたの罪は赦された」という言葉と、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉は、私たち一人ひとりへのものでもある、ということです。特に、安心して(εἰς εἰρήνην=in peace)行きなさいというのは、「平和の中を行きなさい」とも訳せます。


 自分の罪が赦されたことを信じなければ、誰もこのような神様の前に立つ礼拝になど出て来ることはできないでしょうし、牧師とて、ここで語ることなどできません。

 すべての人が、毎日のように新たな間違いを犯しながら、信仰者であっても、罪の性質をぬぐいきれずに生きています。それが人間の営みです。教会とて例外ではなく、この地上にある限り、パウロの言うところの、人間の手を介する「愚かな宣教の営み」ですから、さまざまに、間違いも多々起こります。わたくしたち牧師も人間ですから当然間違います。


 しかし、そうした互いの罪を、過ちを、神に赦され、互いに赦し合いながら、そして自分自身をも赦しながら、私たちは生きていくのです。逆に言えば、神と人間の赦しの上にしか、私たちは生きていかれないのです。また、神様がお赦しになった人のことを、人間である私たちがいつまでも赦さずにいるわけにはいきません。

 しかし時に私たちの人生には、「どうしても赦せない人」というのが出現して参ります。酷すぎて、どうしても、どんな良心や信仰をもってしても、赦せない存在。そんな人をどうやって赦せば良いのかは、人生の大問題です。私も途方に暮れたことが何度もありますし、今も完全にそこを抜けたとは言い切れないかも知れません。今、酷すぎる放火事件で突然にご家族を亡くされた方々も、きっと犯人の男性を赦すことなど、とてもとても困難な作業でしょう。少なくとも、「許可する」方の「許す」という字で許す、つまり「認める」ことは絶対にできない相手を、どうすれば「恩赦」の赦の字で、イエス様のように「赦す」ことができるのでしょうか。

 それにはまず、私たちがどう思おうが、神様は、その人が悔い改めたならば「お赦しになる」のだということを考えてみる必要があるでしょう。さらにまた、自分自身もまた、神と人とに赦された者である、というところに立たねばならないでしょう。

 そして、そんな時こそ、この、イエス様の使われた「赦す」という言葉、ἀφίημι(アフィエーミ)の意味で、「手放す、リリースする」ことかも知れません。「許可して認める」意味で許すことは絶対にできなくても、許せない思いごと、その人を、神様の下へと「手放す」ことならできるのではないでしょうか?そしてそれは、自分の中にあるその人に対する恨み辛みも、「手放す」ことに繋がるでしょう。


 なんと感謝なことに、イザヤ43章で神様は、二度と私たちの罪を思い出さない、と言われました。

 ですから、私たちも安心して、ダビデのように、涙でイエス様の足を拭った女性のように、自分が神様に愛され、赦された者である、というところにブレずにしっかり立ち、安心して行きましょう。

祈り


  



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