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平和聖日礼拝 説教 「平和を作り出す人々」

日本基督教団藤沢教会 2019年8月4日

【旧約聖書】ヨシュア記 2章1~14節
 1ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。2ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、3王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」4女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。
 「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。5日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
 6彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、7追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
 8二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、9言った。
 「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。10あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。11それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
 12わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。13父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
 14二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

【新約聖書】ルカによる福音書 8章1~3節
 1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。


平和を作り出す人々
 多くの日本人にとって、特に、ある年齢以上の方々にとりまして、8月は特別な時であろうと思います。それゆえにまた、この特別な思いが、行事暦としての平和聖日を定めることにもなったわけですが、では、今年もこうして平和聖日を迎え、皆さんは、どのような思いでこの礼拝に集ったのでしょうか。戦争という悲惨な出来事を忘れないためでしょうか。私たち藤沢教会からも出征兵士を送り出し、その中の何人かの方は、故国の土を踏むことはありませんでした。では、そうした方々の慰霊のため、私たちは集まっているのでしょうか。あるいは、戦争へと突き進む暗い時代を経験された方々が最近よく仰ることですが、昨今の政治状況は、あの暗い時代を彷彿させるところがあるとのことです。そして、昨今の空気を読まねばならない世相において、私もそう思わされるところが多々ありますが、では、そうした現状を憂い、かつての現実を呪うかのように集められているのが私たちなのでしょうか。ただ、今申しましたこれらのことは、私個人だけではなく、多くの人が感じていることでもあるのでしょう。それは、私たち日本人にとって平和というものが、過去の記憶と政治的現実から切り離して考えることのできないものだからです。けれども、私たちは、ただ過去を悔い、現実を憂い、平和を軽視する勢力に否を唱えることだけを目的として、この場に集められたわけではありません。

 過去の悲しみと苦しみ、私たちの歴史の中で大きな位置を占めるこれらの記憶は、時計の針を巻き戻すかのように、なかったことにすることはできません。それゆえ、そうしたことを一顧だにせず、仲間内だけで忖度し合う昨今の政治的状況、世相については、忸怩たる思いをもって見つめるものでもありますが、そこで、ナチス政権と戦ったマルティン・ニーメラー牧師のある一言を思い出します。それは次のようなものでありました。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから。ユダヤ人が迫害されたとき、私は声を上げなかった。私はユダヤ人ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」と、戦後、当時を振り返り、ニーメラーはこう警句を発したわけですが、それだけにまた、この言葉は、私たちの心に重く響くことにもなります。同じような状況に立たされたとき、私たちはどのように声を上げるのか、ニーメラー牧師同様、それが私たちクリスチャンの課題でもあるからです。しかし、その場合、声を上げる私たちとはいかなる私たちであるのか。そして、その私たちはどこからその声を上げるのか。そのことを確認せずに、また、無視するかのように声を上げることは、少なくとも私たちにはできません。

 この日、私たちが確かめようとしていることは、たかだか50年、100年の間のことではありません。それは、昔も今もこれからも、御言葉を通し私たちが聞き、経験し続けることであり、そして、それは、十字架に向かう直前の主イエスのある言葉の中に現されていることでもありました。主イエスは、こう仰いました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と。つまり、私たちにとって平和とは、主の御前にあって約束されているものであり、この平和を主は十字架の出来事を通して私たちに残し、与えると仰ったのです。従って、この平和の中にすでに生きている、生かされているのが主イエスの御言葉にこうして聞いている私たちであるということです。それゆえ、主の平和は、夏の逃げ水のように、近づけばすっと消え去るようなものではありません。こうして与えられている命を私たちが生き続ける中で、そこで必ず実感させられることになるのが、この平和なのです。

 従って、それは、この平和聖日だけに約束されていることではありません。私たちがこうして毎週毎週献げる主の日の礼拝は、すべて主の平和、主の平安に与るものであり、主は、そこにすべての人々を招かれるのです。そこで、皆さんにお尋ねしたいのですが、この平和とは、皆さんにとっては具体的にどういったものでしょうか。ちなみに、私個人のことを申し上げれば、この主の平和ということから思い描くことは、幼子の手を引き、歩む親子の姿です。穏やかで満ち足りたこの何気ない光景の中に、主の平和というものを私は強く感じさせられもするからです。それは、命が健やかに育まれ、その命が次の世代へと受け継がれていくことを約束し、保証するものが主の平和だからです。ですから、私たちにとって、平和とはつまりスローガンのようにただ繰り返すだけのものではありません。神様によって与えられたすべての命を、その神様がこの世界において安心して生きることを約束されているわけですから、それを(ないがし)ろにすることは何人も絶対に許されることではないということです。それゆえ、幼子と共に歩む親子の姿は、世界とすべての命を造られた神様の創造の業、その秩序の許に置かれた命の喜び、神様と人とのその本来の関わりとその喜びとをそのまま現してくれていると、私はそう思うのです。そして、このことはまた、ハガイ書の「この場所に私は平和を与える」とあるこの御言葉において現されていることでもあるのでしょう。なぜなら、世界とそこに生きるすべての命は、この神様の平安の中にしっかりと置かれているからです。それゆえ、こうして礼拝を献げる私たちは、この視点へとその目が開かれることにもなるのですが、まただからこそ、礼拝で語られる御言葉を通し、聖霊の働きによって、私たちは大きな慰めと励ましを与えられることにもなるのです。自分では解決不能な過去の苦しみと悲しみを感じつつも、やがてこの絶望から解放され、私たちが、希望へと導かれることになるのはそのためです。ですから、8章1節以下に記されていることは、キリストの平和の内に置かれ、主イエスと共に歩むそんな私たちの姿を現しているとも言えるのでしょう。

 主の平和、キリストの平和、礼拝の度毎に私たちの口々の上るこの言葉は、「一緒に」とここで二回語られているように、主が共にいますところに約束されているものです。それゆえ、夢幻のようなものではなく、実態があり、それゆえ、私たちの誰もがそれを実感し、だから、そのそのままを言葉にすることにもなるのです。そして、私たちにそれが許されているのは、「一緒に」とあるように、それをあなた任せにしないからです。「誰かがやるだろう、やってくれるだろう」とポカンと口を開けてただ待っているだけではなく、主と共に、家族、仲間と一緒に、自ら進んでこの関係性に生きるからこそ、この一緒に、共に、というところで自ずと現され、経験させられるものが、この主の平和であり、主の癒やしであり、慰めであり、その導きであるということです。ただし、そこで、一つのことに私たちは留意しなければなりません。主が私たちをこの平和の中に置くのは、私たちが願ってやまないそうした諸々のことが、一緒に、共に、と言われていることの目的ではないからです。

 1節に「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあるように、主の平和の中に私たちを置くその目的は、福音を告げ知らせる旅そのものにあります。つまり、この旅を続けるために、主は私たちをこの平和の中に置くのです。それゆえ、この福音を宣べ伝える旅の目的は、街宣カーの上から大音量で聖書朗読をすることでもなければ、もちろん、聖書を振りかざし、正論らしき何かを声高に主張することでもありません。福音を宣べ伝えるということは、直訳すれば福音するということです。つまり、福音に生きること、福音を自らの人生にそのまま反映させること、それが、福音を宣べ伝えるこの旅においての目的であるということです。ですから、さきほど、主の平和についての個人的なイメージを申しましたが、それは、この「共に」、「一緒に」いるというところからこうして御言葉に聞き、そして、その思いを自らの暮らしの中に投影していったとき、「ああ、こういうことなのか」と、ある時そう気づかされたことでもありました。

 ということですので、キリストの平和、主の平安を私たちが感じ、福音に生きるということは、子どもがちゃんと大きくなることであり、人がちゃんと年を重ねていくことであり、そして、その生涯の最期に良き死を迎えることです。ちなみに、この良き死ということは、人と比べて、それがより良き死かどうかということではありません。ホイベルス神父の「最上の業」にあるように、主の平和の内に私たちは良き死を迎えることが許されているということ、主の平和は、まさに私たちの生涯を通してそのように現されるものでもあるということです。それが、主イエスが語るところの福音に生きる、福音を宣べ伝えることなのですが、それについてはまた、主イエスは、次のように語っておられます。

 ある安息日のことです。主イエスは、会堂に集まった人々にイザヤ書を引用し、こう仰いました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためであった」と。そして、こう告げるやいなや主イエスはこう仰ったのです。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と。それゆえ、それが実現したと主イエスが仰っている以上、人は、安心して生きることができるし、また、安心して死んでいくことができるのです。それも、この喜びを人々に伝えつつ、ということです。ですから、詩編4:9に「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに、私をここに住まわせてくださるのです」とあるように、今、私たちの足下で実現し、約束されていることが、この主の平和であり、また、それが実現しているからこそ、私たちは、こうして福音に生きることができるのです。

 このように主の平和の内にすでに置かれ、主イエスと共に、主イエスが招く仲間、友人と一緒に、主の恵みの中に生きることが許されているのが私たちでもありますが、ところが、このように私が申し上げ、今、皆さんの頭の中にあることはどんなことなのでしょうか。この恵みを頭では理解し、それに感謝しつつも、一方では、どこか他人事のように感じているところはないでしょうか。それは、隣人同士でありながら、仲良く暮らすことができず、それゆえ、分かり合える人々、気の合う人間だけと付き合おうとしてしまう。そして、そういうことが実際に私たちの身近にあり、それゆえ、それはこの私とて例外ではありません。それは、主の平和をどこか他人事のように思っているところがあるからでもあるのでしょう。まただから、努力して、頑張って、共に一緒に歩もうとするのでしょうが、しかし、結果はどうか。やはり分かり合える狭い範囲の中の人とだけ一緒にいよう、いたいと思ってしまうわけです。けれども、そう思っているのは、私たちだけではありません。冒頭に申しましたニーメラー牧師もそんな一人でありました。そして、その理由は難しいものではありません。共産主義者、社会主義者、ユダヤ人、ニーメラーがこれらの人々との関わりに対して積極性を欠いたのは、これらの人々が、「教会員」ではなかったからです。まただから、戦後、先ほどの言葉をニーメラーは発することになったのですが、覆水盆に返らず、では、そもそも、ニーメラーほどの人物でもできなかったこの「一緒に」福音に生きるということはどういうことなのでしょうか。主の平和とは、私たちにとってどんな意味を持つものなのでしょうか。

 主イエスと共に、一緒に歩むこと、つまり、主イエスに従い、主イエスに倣い歩むと言うことは、そこには気の合う仲間同士の麗しさがあり、信仰を共にする喜びが満ちあふれています。女性たちが、持ち物を出し合って、全員のために奉仕したとあるのがまさにこの点を現しているように思います。主と共に生きることがそれだけ喜びの大きいものだったからです。ただし、御言葉は、そこに現されている麗しさだけを語るのではありません。主イエスに同行した一人が、ヘロデの家令クザの妻ヨハナであったとありますが、このヨハナが主イエスに従うことは、胸を張って堂々となされるものではなかったからです。そして、他の女性たちの置かれた事情もこのヨハナとさして変わらないものであったに違いありません。そうした自由が認められる世の中では決してなかったからです。このことはつまり、麗しさに包まれながらも、一方で、主イエス一行の外には、それとは真逆の人々の感情が鬱積していたということです。そして、それは、そもそも主イエスに向けられた感情でもありました。ガリラヤは、主イエスの生まれ故郷でもありましたが、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と主イエスご自身がそう仰ったように、事実、主イエスの身内親族の主イエスに対する激しい感情は、崖から突き落とそうとするところまで高まっていき、このように主イエス一行に向けられた社会からのネガティブな感情は、主イエスの身内、主イエスに従う人々の身内親族仲間内においては、いつ危険水域をいつ越えてもおかしくないほどの高まりを見せていたのです。けれども、そうした状況にもかかわらず、福音に生きたのが彼らであり、また、その中で現されたものが、主の平和でもありました。

 ここでの主にある交わりの麗しさが示すように、そこでは階級などの上下関係、人々が長く抱いていたであろうわだかまり、対立に伴う偏見、差別といったことは、主イエスとの交わりにあっては、この時点で克服されていたとも言えるのでしょう。ただ、主イエスの身内がそうであったように、身内としては、それが麗しくあればあるほど、愛情の裏返しとして、その攻撃性を強くすることにもなるのでしょう。従って、福音に生きるということは、世の中のそうした激しさを受け止めることであり、その中にあって、なお、麗しさを保つと言うことでもあるのでしょう。つまり、主の平和の中を生きるということは、この矛盾し合う、互いに背を向け合う状況のただ中で、そこに主と共に、仲間と一緒に安んじて身を置くものだということです。ただし、このことは、内と外とを区別することで成り立つものではありません。やがてこの麗しい関係性に大きな転機がもたらされたように、福音に生きるということは、自分の思い通り、願い通りの関係性を築くことで成り立つものではなく、それが壊れ、その上に築かれるものだからです。まただからこそ、主イエスは、山上の説教の中で、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と仰ったわけです。

 主の平和の内に生きるということは、その対極にあるものをも視野に入れ過ごす以上、そのことに怯え、臆病になることもあるのでしょう。ましてや、落ち着いて自分自身を振り返り見つめたとき、その目に映し出された自分自身を、誰が福音に生きていると心底納得することができるのでしょうか。けれども、まただからこそ、今日の御言葉は。私たちにはっきり語るのです。私たちは、主の平和に怯えるのではなく、ニーメラーと同じように、自らの欠けを知らされながらも、なお変わることないこの主の平和の中に置かれているからこそ、私たちは、真実と関わり、新たな歩みへと希望の内に向かうことができるのです。そして、それが私たちの日々の暮らしであり、それが福音に生きるということなのです。なぜなら、神の子であることを確かめるためにこうして一緒に、共に旅を続けているのが私たちであるからです。祈りましょう。

祈り





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