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聖霊降臨節第11主日礼拝 説教 「あなたの罪は赦された」

日本基督教団藤沢教会 2019年8月18日





説教
児玉義也牧師
(平塚富士見町教会教会)
【新約聖書】マルコによる福音書 9章14~29節
 14一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。15群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。16イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」19イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。21イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。22霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」24その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」25イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」26すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。27しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。28イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。29イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。


信じるとは
 本日の箇所は、山上の変貌につづく物語です。「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります。すばらしい山上の光景に目を奪われ、ペトロは思わず語ります「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。

 輝く主のお姿を目にし、ペトロは感動のあまり、この山上にしばらく止まって時を過ごしたいと願いました。けれども、その願いは叶えられませんでした「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。すばらしい山上の出来事は、かき消されました。現実にペトロは引き戻されたのです。何も特別なこともない、代わり映えのしない日常です。日常の中に、彼らは戻っていくのです。「 一同が山を下りるとき」とあります。弟子たちは下山します。束の間の日常からの解放を経験し、また現実が始まるのです。

 そのようにして、山を降りてきた彼らが目にしたのが、今日の箇所の出来事です。これはたいへん悲惨な出来事です。「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」。愛するわが子が、悪霊の犠牲になっています。「所かまわず」とは、まったく非情な出来事です。ここでは勘弁してほしい、ここは本当に危険だから、そういう父親の思いを踏みにじるように、悪霊はどこでも、構わないで子どもを苦しめます。体が硬直してしまっては、命に関わるような危険な場所でも、お構いなしに悪霊は、子どもを苦しめ、父親を悲しませます。そのような悲惨な出来事に、立ち尽くす父親の悲しみです。

 そのような悪霊の振る舞いは、いったいいつからはじまったのでしょうか。イエス様は父親にお尋ねになります「このようになったのは、いつごろからか」。これに対して父親こたえます「幼い時からです」。ここでの「幼い」という言葉は、原文のギリシア語で「乳飲み児」を指す言葉が使われています。もうずっとこのような経験を繰り返してきたのだと、父親は語ります。憔悴しきった父の姿が、目に浮かびます。どうすることもできない無力さを、わが子が幼い頃からずっとこの父親は経験してきたのです。

 もうひとつ、ここで語られる悲しみは、その父の苦しみを弟子たちが癒すことができなかったということです。弟子たちもまた、悲しみを味わいます。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」。父親は別に責めているわけではありません。ただ事実をのべているだけです。弟子たちの無力さを、父親は自らの無力さに重ね合わせて語っているのかもしれません。そうして改めて際立ってくるのは、圧倒的な悪霊の力と、子どもをとりまく人々の無力さです。

 あの山上のかがやく出来事は、いったい何であったのでしょうか。ペトロは、しばらくの間このすばらしい光景に身を置いていたいと願いました。現実は、あまりにも悲惨で、悲しくて、みじめです。山を降りてきた世界は、山上の世界とは180度異なっているように見えます。地に足がついた世界では、人間は如何ともしがたい現実に打ちひしがれ、希望を失ってしまうかのように思えます。

 けれども、主イエスがここにおられます。父親の目に、主イエスが映ります。父は主に願います 。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。 もし可能でありましたらと、これは控えめな表現です。この遠慮に近い願いの背景に、何度も願い、さまざまに手を尽くし、そうやって乳飲み児の時から繰り返し絶望を重ねてきた父のなかば諦めたような気持ちがうかがえます。もう無理かもしれないけれども、という具合です。 

 これに対し、主は厳しくおっしゃいます「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。思わず父は答えます「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。一見矛盾することが語られています。信仰のない私が、どうやって信じることができるのでしょうか。もともとないわけですから、これは矛盾しています。信仰のないものが、信じますと答えるのです。これはおかしい。信仰があるなら、信じますと答えておかしくないでしょう。けれども、信仰がないのですから、ないのに信じられるわけがありません。けれどもここがたいへん大事なところです。

 蓮見和夫先生は、著書でこの言葉について記しておられます「この声はまさに真の信仰を表していないでしょうか。ここには祈りがあります。「不信仰なわたしを、助けてください」という切なるうめきにも似た祈りがあります 。ここでは自分の不信仰が祈りの対象になっています」(『マルコによる福音書』206頁。1999年、新教出版社)。弟子たちの無力さと、父親の悲しみとが、混ざり合いながら、人間全般の悲しみとして浮き上がってきたときに、それは神さまへの切なる祈りになったといえます。山の下の現実の世界でこそ、そのような祈りが生まれたといえます。山上のすばらしい経験以上の恵みがここに現れていると言ってよいかと思います。

 わたしたちは、この物語を通して、信じるとは如何なることかを教えられます。信じるとは、わたしたちの意思ではなく、無力さの中で生まれる神さまへの祈りです。そして、その祈りは、すばらしい山上で生まれたのではなく、むしろ悲しみの繰り返されている地上で、地に足をついて生きる日常のなかで、生まれました。そして、そのような切なるわたしたちの祈りを、主イエスが聞いてくださったことを思います。この恵みを大切に、新しい週も歩み出したいと願います。

祈り


  



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