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聖霊降臨節第12主日礼拝 説教 「未来予想図∞(無限大)」

日本基督教団藤沢教会 2019年8月25日





説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
【旧約聖書】エゼキエル書 12章21~28節
 21また、主の言葉がわたしに臨んだ。22「人の子よ、イスラエルの土地について伝えられている、『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、お前たちにとって一体何か。23それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と。かえって彼らにこう語りなさい。『その日は近く、幻はすべて実現する。』24もはや、イスラエルの家には、むなしい幻はひとつもない。気休めの占いもない。25なぜなら、主なるわたしが告げる言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主なる神は言われる。」26主の言葉がわたしに臨んだ。27「人の子よ、イスラエルの家は言っているではないか。『彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである』と。28それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる。」

【新約聖書】ルカによる福音書 12章35~48節
 35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」


未来予想図∞(無限大)
●セカオワ?
 今日のお話のタイトルは、看板を見た方が、「なんだこれ」と思って入って来てくださるように、確か3まであったはずの、「未来予想図」というドリカムの歌のタイトルをもじってみたのですが、これは何のことを言ってるのか?という種明かしを先にいたしましょう。
 実は先ほど歌った讃美歌の中の、「マラナタ」という歌詞の意味は、「主よ来てください」です。つまり、イエス・キリストが、この世の終わりの日に再び来られる、「主の再臨」を信じて、期待して、それを祈る歌だったわけです。
 つまり今日のお話は、ドリカムか、と思いきや、セカオワ、世界の終わり、にも関わるお話なのです。(本筋と関係ないので分かる方だけ分かっておいてください。笑)

 では、まずはそのセカオワについて押さえておきましょう。
 まだ聖書を読み始めたばかりの方もおられるかも知れないので余計に、なのですが、こういった聖書箇所、特にこうした、「この世の終わり」のようなところを読んだり聞いたりする時には、ちょっとしたコツが要ります。それは、神様はとても憐れみ深い方で、ペトロの手紙Ⅱ3:9にありますように、「1人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられる」のだということを忘れない、ということです。
 また、既にイエス様を信じ受け入れたクリスチャンの方ならばもちろんこのみことばも忘れないでください。ヨハネによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 というわけで、神様は非常に憐れみ深く、愛なるお方であり、十字架にかかってまで私たちの罪を赦してくださる方ですから、そのことを念頭におきながら、恐れずにどうぞ続きをお聴きください。

 さて、キリスト教では、十字架で死なれたイエス様が復活され、再びこの世にやってこられるという「再臨」というものを信じます。そしてその時が、この世の終わる時です。終わりといっても、実はむしろそこから、まだ私たちの知り得ない新しい世界が始まるわけです。終わるというのは、今私たちが慣れ親しみ、この目で見ることができているこの世界の在り方が、終わる、ということです。

 またその時、生きている者は、肉体の死を経験することなく、生きたまま主の再臨を迎え、天の国に移されます。もっと言えば、今死んでいる人も呼び起こされ、みんな墓から出てくる、ということも書いてあります。最後の審判を、一人一人神様の前で受けるためにです。
 とにかく、その「再臨」の時、つまり「この世の終わりの時」が来たら、今私たちがしている普段の営みはすべて終了となります。めとったり嫁いだりするのも、そこで終わるのです。また、その主の日は、盗人のように ある日突然予告なしにやって来ます。今日かも知れませんし、100年後かも知れません。それは誰にもわかりません。


●忠実なしもべの場合
 さて、それではルカを見て参りましょう。35節、36節にいきなり、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」とありますが、これは、当時の結婚式が夜に行われたことを知らなければ、私たち日本人には難しいたとえです。
 イエス様の時代のユダヤでは、結婚式の日、花婿とその付添人が、花嫁とその付添人を迎えに行くという風習がありました。結婚式や披露宴は花婿の家で盛大に、しかも夜暗くなってから行われるので、そこまでの道のりを、花嫁たちは今で言うブライズメイドつまり花嫁の付添人たちが捧げ持つランプで照らしながら、行進したそうです。日本ではあまり馴染みがないかも知れませんが、外国では今でも、よくドラマや映画で見るように、花婿にはグルームズマン、花嫁にはブライズメイド、という仲良しの友人たちがしてくれる付添人の風習があります。 そうした当時の人々が慣れ親しんでいた風習に譬えて、イエス様は当時の人々にわかりやすく話されたのです。
 その、婚宴に行っていた主人が夜帰って来た時に、すぐに動けるように、腰に帯を締め、ともし火をともして、いつでも準備をしておきなさい、ということです。

 また、もしそのようにして、主人が帰って来たとき、目を覚ましているならば、きっと主人のほうが帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるだろう、というのです。
 ここで目を覚ましている(γρηγορέωグレゴレオー)というのは、「目覚めている」の他に、「見張っている」の意味もある言葉です。
 また、続く38節の、主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰ってもというのは、原文では、「その夜の見張り番の二度目も三度目も」となっているのですが、とにかく、いつでも目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ、ということです。間違っても、「ずっと起きてなさい」、という意味ではありませんのでご注意ください。

 さらにイエス様は言われます。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 これと同じような事が、聖書には他にもあちこちに書かれているのですが、ご参考までに、ここでは1テサロニケ4:16 から少しお読みしてみます。
 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。

 再びルカ12章の方に戻りますと、41節で、ペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と聞いたのですが、イエス様はそれには直接返答なさらずに、さらにこう言われたのでした。
「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」
 つまり、ちゃんと言われたとおりに務めを果たしていたものには、主人はさらに全財産までもを預けるだろう、とおっしゃるのです。

 伝道もそうですけれど、私たちは、何かを必死にやるけれど、うまくいかないことばかりではないでしょうか。自分なりには頑張るけれども、なかなか思うような効果はないように見えるし、たいしためざましい結果には、なかなか繋がらないものです。
 けれども、この43節によれば、急に戻って来た主人が見るのは、結果の善し悪しではなくて、その時、言われた通りに忠実にやっているかどうか。なのです。
 しかも、人間の上司に言われたとおり、ではないのです。神様に言われたとおりりにつまり聖書で教えられているように忠実にやっているかどうかということです。

 そしてちゃんと言われたとおりにしていたならば、その僕には、食事の管理だけでなく、全財産を任せるようになるかもしれない、と言われているのですから、会社か何かのように、良い成績を上げて、うまくやっているか、ではなく、聖書で教えられているように忠実にやっているかどうかということの方が大事なのだ、ということがここからわかるのではないでしょうか。

●ダメなしもべの場合
 続く45~47節では、しかし、と言って、今度は逆パターンのことをイエス様はおっしゃいます。突然帰って来た主人に怒られる、ダメな僕の場合です。
 45節や47節によれば、ダメな僕というのは、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる人だったり、また、主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕、のようです。
 すると、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせられたり、あるいはひどく鞭打たれるようです。
 ここで、彼を厳しく罰し、という言葉は、直訳しますと「真っ二つに切り裂き」となる怖ろしい言葉です。
 また、不忠実なという言葉は、「誠実な、忠実な、信仰深い」という意味の、πιστος(ピストス)という原語に、否定のnot の意味のἄがついた、ἄπιστος(アピストス)、つまり「不信仰な」という原語が使われています。
 ちなみにマタイによる福音書の並行箇所では「偽善者たちと同じ目に遭わせる」となっています。
 
 しかも、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む、けれども、主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる、というのですから、知っていてやらないのはもっとタチが悪いんだぞ、ということです。
 さて、ここでちょっと焦りだしてもう耳を塞ぎたくなってきたのは、既に主人の思いがどんなかを、だいたいは知ってしまっている私たち、信仰者ではないでしょうか?(笑)
 
 ここで少し、先ほどお読みいただきました旧約聖書の記事も見ておきましょう。
 この預言書を書いたエゼキエル自身もまた、バビロン捕囚の民となった預言者でした。バビロン捕囚というのは、新バビロニア帝国の王(ネブカドネザル2世)が、当時の南ユダ王国のユダヤ人たちを捕虜にしてとらえ、バビロニア地方へと連れて行き、無理矢理移住させたという、紀元前6世紀に起こった歴史的大事件です。
 エゼキエルは、そのバビロン捕囚の最中に突然主からの召命を受け、預言者となりましたが、人々は彼が伝える主の言葉に、まったく聴く耳を持ちませんでした。それどころか、「日は延ばされ、すべての幻は消えうせる」と、エゼキエルの預言とは反対のことわざを信じていました。ちなみにこの新共同訳では、『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』と訳されていますが、これは実は「が」というのが意味的に誤りでしたので、昨年末に出ました新しい聖書協会共同訳では「日々は延び、幻はすべて消えうせる」に直されています。ですから今日はみなさんもそのようにお読みいただいた方が、意味がおわかりになるかと思います。ちなみに、すべて消えうせる幻、というのは、エゼキエルの裁きの預言のことを指しています。エゼキエルはエルサレムへの裁きが近いことを預言していたのです。
 それで、主なる神様は、エゼキエルに、かえって彼らにこう語りなさい。『その日は近く、幻(つまり預言の言葉)はすべて実現する。』と言われました。
 なぜなら、主なるわたしが告げる言葉をエゼキエルが告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはないのだと、主は言われたのです。

 ちなみに、先ほどのルカ福音書の方で「人の子」と言われているのは、イエス様を指していますが、このエゼキエル書で言われる「人の子よ」というのは、主なる神様が、「エゼキエルよ」と呼びかけている言葉です。

 28節でエゼキエルが、わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる。」と預言したとおり、結局やはり、預言からさほど経っていない紀元前587年に、エルサレム神殿は崩壊し、その翌年にはユダ王国も滅亡したのです。
 紀元前6世紀のバビロン捕囚時代は、特に偽預言者が横行した時代でもあり、同時代の預言者エレミヤの周りにも、エレミヤが神の怒りによるエルサレムの危機を預言しているのに、偽預言者たちは、そんなことはない、「平和だ、平和だ」、という偽預言をしては人々を惑わしていました。惑わすというよりは、危機感を持たせないように騙して、今のままで良いのだと思い込ませていた、と言った方が正確かも知れません。
 
 現代においても、もしも今日のルカのような、終末、この世の終わりについてが語られた聖書の箇所を否定して、「いやいやそんな、世の終わりなんて来ない、この楽しい世の中はずっと続く。キリストの再臨なんて、ない」などと言うような人がいたら、それはたとえ牧師であろうが間違いなく偽預言者ですのでご注意ください。
 だいたい預言者というものは、およそ人が信じなさそうなことを神様に言わされる役割ですから、ほんとうに気の毒で、不憫で、わたくしはエレミヤ書を読んでいると涙が出て来ますし、イザヤに至っては、「救い主が来られる」という預言がイザヤの死後700年も経ってからようやく実現したことを思うに、ただの「嘘つき」とか「虚言癖」などと思われたまま死ぬなんて、預言者とはほんとうに気の毒な役回りだと思ってしまいます。
 人がどんなに言っても信じないなら、その時になってから神様が、預言者など通さず自分で言えばいいのに、などとつい不信仰なことさえ思ってしまうのです。
●未来予想図∞ 終わりの向こうに
 とはいえ、今日のお話は決して絶望のお話ではありません。むしろ希望のお話です。でもその終わりの時がいつかは、イエス様でさえも知らないと聖書は言います。マルコ13章32節「その日、その時は、だれも知らない。父だけがご存じである。」このマルコ13章は「小黙示録」と呼ばれる箇所で、今日の箇所と同じような、この世の終わりについてイエス様がたくさん話された箇所です。

 また別の箇所では、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)ともイエス様は言われました。
 ということは、逆に言えば、私たちの肉体が死んでも、魂は生き続ける、ということではないでしょうか。だからこそ、たとえ死んでいても、終わりの時には全員もれなく起こされるということが有り得るのではないでしょうか。そして、それぞれ神様の前で、裁きの御座につかねばならないのです。
 ならば、私たちはそれぞれの人生を、それぞれ与えられた分に応じて、死ぬまで、あるいは再臨のその時まで、まずはとにかく精一杯生き抜くべきでしょう。
 一日一日を大切に、祈りつつ、再臨を待ち望みつつ、やるべきことをやり、やるべきでないことはやらずにいる。
 たとえ何一つ成功できなくても構いません。富や名声を得なくてはいけないわけでもありません。ただ、それぞれ自分の信仰を、自分の人生を、最後まで耐え忍び、ひっそりとでも生き抜く必要が、その責任が、私たち一人一人にはあるのです。
 ドイツの宗教改革者ルターが、「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はりんごの木を植える」と言った、というお話はみなさんもご存じかも知れません。その心意気を見倣って、いつかわからない最後の一日まで、私たちも生きたいものです。

 では、もう少し具体的に、忠実な僕となるためには、私たちはどうすればよいのでしょうか?
 まずお勧めしたいのは、もしまだの方は、イエス様を「私の主である方」と心に受け入れて、洗礼をお受けになり、聖霊なる神様に導かれる人生を歩むようになることです。
 その上で、では、さらに具体的にはどう生きればよいのでしょうか。
 実はその答えも、聖書の中にちゃんとあります。
 イエス様は私たちに、「最も重要な掟」として、正しい生き方を教えてくださいました。それはまず第1に、神様を愛しなさい、ということ。しかも、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30他)と言われました。
 そして第2に、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31他)ということです。
 つまり、神を愛し、自分のように人を愛す、愛のわざ、愛の行いに励みなさい、ということです。それが私たち人間にとって、最も重要な生き方だからです。
 
 この、イエス様が教えてくださったゴールデンルールを忘れずに、失敗を繰り返しながらも諦めずに日々を一生懸命生きること。主の十字架の愛と赦しの中に生きようとすること。それこそが、私たちが神様の望まれる忠実な僕であるために、最も大切なことでしょう。

 そうこうするうちに、それぞれに時が来て、この肉体が朽ちる時が来ます。そしてそれぞれ、まだ生きていたり、既に死んでいたりする状態で、その「主人が盗人のように帰ってくる時」、つまり、「世界の終わり」の時が来るのです。
 その時、太陽も月も暗くなり、星も空から落ち、地震どころか、天体が揺り動かされると聖書は言います。死んでいる者は、墓から起こされます。せっかくなので、ルカによる福音書のこの先の21章から少しお読みしてみますと、こんな風です。
 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
 これもまた、イエス様御自身がおっしゃった言葉です。

 けれども聖書は、神様の御計画はそこでおしまいではない、むしろそこからがほんとうの始まりだと言います。新しい天と地ができて、そこは、神様が私たち人間と共に住まわれ、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる所なのだと、そしてもはや死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない、最初のものが過ぎ去った新しい世界なのだということが、黙示録21章に記されています。
 そこで神様と私たちは共に住まうようになるのです。「もはや死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない」世界…。なんて素晴らしいことかと思います。
 
 死がない世界、ということは、永遠にそれが続く、ということです。逆に言えば、誰も死ねないし殺せない世界です。悲しみも嘆きもないのですから、もちろんそんな惨い事件も起こらないし起こせない世界なのです。
 今この世で私たちが毎日のように見聞きしている惨たらしいニュースはもはや起こらない世界が、永遠に続く未来に、既に神様の中に準備されているのです。
 だからこそ、その世界が始まる時、つまりはこの世の終わりの時のために、「目を覚まして」準備していなさい、というわけです。その後に続く新しい素晴らしい世界へと、ちゃんと行けるように。

 しかしそれは決して、完璧に生きよ、と言われているわけではありません。
 私たちはどうしたって失敗します。人を傷つけてしまったり、うっかりすれば犯罪に巻き込まれるようなことだって人生にはあるかも知れません。
 失敗はしてもいいのです。人間は罪を犯します。でも、それを自覚するかどうか、がポイントなのです。
 先月お話したファリサイ派の人のように、自分には罪などない、まじめに清く正しく生きている、と思い込んでいると、神様がやって来たときに、「偽善者」と言われて厳しく罰せられてしまうのです。
 「目を覚ましていなさい」と主が言われるのは、私たちがむしろ、自分がこの上なく罪人の性質を持つ者であることを、いつも自覚しているように、求められているのではないでしょうか。
 つまり、「罪人の私を憐れんで下さい!」と祈ったあの徴税人のように、いつも謙遜な思いで、自分自身と罪との関係を、目を覚まして見張り続けていなさい、ということかも知れません。私たちは、そのために、できるだけ罪に陥らぬように神様の方だけを見て、もし失敗したならまた悔い改めて方向を変えて神様の方を見て、できるだけ、神様に教えられたとおりに生きられるように努力する…。
 そうです、私たちは、この「努力賞」を目指せばよいのではないでしょうか。そうすれば、永遠に神様の愛と平和しかない世界の中に、住まう者となれるのです。そしてそここそが、私たちの本物の国籍、魂の本籍がある世界なのです。

祈り


  



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