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聖霊降臨節第13主日礼拝
  説教 「恵みの大河の向こう岸をめざして」

日本基督教団藤沢教会 2019年9月1日

【旧約聖書】アモス書 5章18~24節
18災いだ、主の日を待ち望む者は。
 主の日はお前たちにとって何か。
 それは闇であって、光ではない。
19人が獅子の前から逃れても熊に会い
 家にたどりついても
 壁に手で寄りかかると
 その手を蛇にかまれるようなものだ。
20主の日は闇であって、光ではない。
 暗闇であって、輝きではない。

21わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
 祭りの献げ物の香りも喜ばない。
22たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
 穀物の献げ物をささげても
 わたしは受け入れず
 肥えた動物の献げ物も顧みない。
23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
 竪琴の音もわたしは聞かない。
24正義を洪水のように
 恵みの業を大河のように
 尽きることなく流れさせよ。

【新約聖書】ルカによる福音書 13章1~9節
 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


恵みの大河の向こう岸をめざして
 昨日と今日の違いを意識させられることがありますが、幼い頃、8月31日と9月1日との違いを強く感じさせられたものでした。皆さんはいかがでしたでしょうか。私の場合、それが定められたものであっても、終わりを見ぬまま突然消されたテレビのように、この大きな変化になかなかついていくことができませんでした。そのため、9月1日には、さあ、始まるぞと、力んだ記憶もありません。だからなのでしょうか。大人になった今、かつてのような9月1日に対する特別な思いは薄まったとしても、この時期に感じる、変化に対する特別な感覚がなくなることはありませんでした。夏から秋、秋から冬へと向かうこれからの時期、闇が徐々に広がっていくことにどこか損をした気分なることがあるからです。そのため、光を追い求め、また、闇に追いつかれまいと足掻くのですが、それは、何ものをも失いたくないし、いつまでも同じままでいたい。幸せなら幸せなままでありたいし、不幸であれば、不幸なままでいたくない。闇を避け、光を追い求める最大の理由は、このように損をしたくないから、得をしたいから、そういうことであろうと思います。しかし、そんな私たちにより添い、その思いに深く応えようとされているのが神様であり、イエス様であると御言葉は語るのです。

 けれども、今、こうして御言葉に聞き、皆さんは、そのような私の物言いに素直に肯くことができるでしょうか。恐らくは、何を馬鹿な、そう思うのではないでしょうか。それは、御言葉を通し語られていることが、私たちの気持ちを決して楽にするものではないからです。また、それだけではありません。そもそも信仰を損得で語ることにいささかの抵抗を感じたからでもあるのでしょう。なぜなら、信仰とは、損得から離れるところでしか深く理解することはできないと、私たちはそう信じているからです。そして、私たちがそう信じることは、正しいことです。なぜなら、聖書が教える最も貴い教えである愛は、自らの執着や拘りを離れたところにしか成立するものではないからです。従って、聖書を正しく理解し、自分のものとするためにも、損得への拘りは捨て去る必要があります。けれども、損得を離れるという不合理な姿勢を、私たちはどうして進んで選び取ることができるのでしょうか。また、もしそれができずにいるのなら、それはいったいどうしてなのでしょうか。今日の御言葉を通し、私たちが神様の憐れみと主イエスの慰めに触れるためには、この点をおろそかにすることはできません。

 ところで、皆さんの周りを見て、損得抜きに愛を実践できている人はいったいどれほどいるのでしょうか。そもそも、自分自身を御言葉という鏡に映し出してみて、自分の姿とは一体どのようなものなのでしょうか。その答えは言を俟たないものでもあるのでしょう。そこで、私たちは、その理由を罪に求め、説明するのですが、その説明は、恐らく、私たちの多くを納得させもするのでしょう。罪ゆえに私たちは過ちを犯すし、罪ゆえに、鏡に映し出されるそのありのままの姿を甘んじて受け入れざるを得ないからです。では、罪とは何なのか。私たちに求められていることへの、そのできないことへの言い訳、あるいは、できない人を責め立てる上での武器ということなのでしょうか。ですから、今日の旧約聖書は、そういう意味で、罪ある私たち信仰者の、そんな現実の一端を明らかにしてくれているように思います。それは、私たちがこうして神様を信じ、イエス様の執り成しによって神様を礼拝しつつも、神様はその私たちの礼拝を礼拝としてお認めにはならないことがあり、そして、それはすべて私たちの罪ゆえのことだと言っているからです。預言者アモスを通し、神様が、「主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」と仰っているのはそういうことで、それゆえ、そんな私たち信仰者が立つかもしれない、罪ゆえの一つの可能性に警告を発するのです。

 従って、そのような事態に陥ることは、私たちは何としても回避せねばなりません。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」とあるように、私たちは、神様のこの御言葉を身をもって表さなければならないのです。ですから、そういう意味で、私たちの信仰とは、御言葉そのものを我が身をもって表すことであり、それゆえ、一つ一つ語られている聖書の御言葉は、私たちそれぞれの暮らしの中に具体的に現されるものでもあるということです。従って、そうである以上、私たちの信仰とはつまり、生活そのものでもあるということです。それゆえに、今日、御言葉が明らかにする信仰者の生き方には、私たち信仰者の生活実態そのものが表されていると言えるのでしょう。

 ですから、そのことを踏まえつつ、旧新約聖書のそれぞれを見ていくとき、そこには、そういう私たちの生活をより確かなものにするための神様の愛とイエス様の知恵が現されているのは間違いありません。特に、今日のイエス様のお言葉の中には、そのことがはっきりと語られているように思います。そして、それについて、私たちは、異論を挟む余地などまったくないと言っていいのでしょう。なぜなら、今も昔もこれからも、窮地に立たされた私たちが先ずなすことは、主イエス・キリストにすがることであり、この方をおいて他に、私たちが頼るべき方はこの世界にはどこにもいないからです。しかし、このように主イエスというお方に頼りながらも、その窮地から直ちに逃れられないことも私たちは知っています。そのため、皮肉なことに、かえって御言葉そのものへの不信感を強くすることにもなるのですが、それは、主イエスのことを信じているからです。ですから、そうした不安や不信感は、できるだけ早く払拭しなければなりません。なぜなら、不安や不信感をそのまま放置すれば、私たちの生活は脅かされ、やがて生活そのものが破綻、崩壊することにもなるからです。では、どうすれば、そんな後ろ向きとも思える考えを私たちは払拭することができるのでしょうか。

 そこで私たちに必要なことは、神様の憐れみとイエス様の慰めです。ただし、この恵みは、私たちがただ指を加えて待ってさえいればいいというものではありません。一説によれば、生活への脅威でもあったローマと戦ったのがガリラヤの人々であったと言われていますが、それゆえ、ピラトの非道な振る舞いはその結果であったとも言えるのでしょう。ただし、ここに記されていることについては、具体的な確証が得られているわけではありません。けれども、この「ガリラヤ人」という呼称が、当時、ローマに対する革命的抵抗運動を象徴的に表すものであったことを考えますと、御言葉の徹底と生活の安定を図ったのが、ここで語られているガリラヤ人であったということです。それゆえ、生活に不安を感じる人々にとって、彼らの存在は、大きな期待感を抱かせたことでしょう。ところが、彼らのひたむきな姿勢をもってしても、ローマの強大な力にはまったく歯が立たなかったわけです。つまり、彼らは現実に負けたということです。ですから、ここに記されていることは、期待通りに物事が運ばないことへの人々の不安であり、また、不安を払拭し、生活の安定を図る上での彼らなりの合理的に説明や理解といったものが、ない交ぜになって表されているとも言えるのでしょう。つまり、ここにあることは、そのように取り残され、途方に暮れる人々の生活実態そのものが表されているということです。そして、それは、ただ困った、弱った、というだけではありません。主イエスが「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者であったからだと思うのか」と、こう不安を感じ、主イエスにすがる人々に尋ねているように、人々の心根にあったことは、罪に根ざした損得勘定です。損をしたくない、自分だけは得をしたい、彼らが主イエスにすがり、頼ろうとしたのはそれゆえのことであったということ
です。

 そこで、彼らの心根にあることを申しますと、それは、「あの人たちとお前たちとは違う、お前たちは大丈夫だ」、彼らが主イエスに言って欲しかった一言とはこの一言であり、そして、困ったとき、弱ったとき、人が主イエスに言って欲しい一言も、突き詰めればこの一言だと思うのです。従って、ここに記されていることは、彼らだけの問題ではありません。その暮らしの中において、この「大丈夫だ、お前だけは間違っていない」との一言をいつでも言って欲しいのが、こうして御言葉に聞いている私たちでもあるからです。ですから、そうした素朴な思いが、信仰者である私たちの生活に表されないはずはありません。主イエスが、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者であったからだと思うのか」と尋ねたのは、それが分かっていたからであり、つまり、人々は、「お前たちは違う、大丈夫」だと言って欲しいがために、聖書の御言葉を根拠とし、自分が納得の行く説明を予め持ち、主イエスに近づいたと言うことです。そして、そこに主イエスにより頼む私たちの真実、狡さが現されているとも言えるのでしょう。

 そこで、そんな彼らに対し主イエスが仰ったことは、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」ということでしたが、ところで、私たちが繰り返しこれまで何度も何度も耳にしてきた、主イエスが語る悔い改めとはどういうものなのでしょうか。日本語の意味では、過去の過ちを反省し、改心するということです。つまりは、心を入れ替え、生き方を改めるということですが、それゆえ、それは、一つの生き方への徹底が求められることにもなります。また、先ほども申しましたように、そうであるからこそ、御言葉が私たちの生活に反映させられることにもなるのでしょう。そして、そのことは、神を信じる彼らにもよく分かっていたはずです。御言葉の徹底を図ろうとしたガリラヤ人のことが取り上げられているのは、人々がそうした生き方を肯定的に受け止めていたと言うことだからです。けれども、ここでは、その望ましい姿が望むべき結果をもたらさず、だから、人々は、イエスにすがろうとしたわけです。そして、思うに任せないことの理由をガリラヤ人の罪に見出し、そのことに納得し、つまり、主イエスに何かを期待したのは、その上でのことであったということです。

 ですから、主イエスは、そんな彼らに同調しようとはしません。彼らに悔い改めを求め、更なる信仰、更なる徹底を人々に求めるのです。ただし、主イエスが求めたことは、後ろ向きな人々に対しての前向きな姿勢ではありません。誰もが納得の行く前向きな姿勢といったものは、私たちが願う「お前たちは大丈夫、心配ない」との一言が発せられないときには、いとも簡単に後ろ向きの姿勢に転じてしまうからです。シロアムの塔の惨劇について主イエスが語るのは、そのことを伝えるためであり、なぜなら、もし、その犠牲者が罪深い者でないとしたら、どうしてその人たちは犠牲にならねばならなかったのか、その罪ゆえに神がお見捨てになったのではないとしたら、ならば、神は死んだも同然ということか、そもそも神などいない、だから、信じるにも値しない、誰もが納得の行く前向きな姿勢は、このようなプロセスを辿り、後ろ向きなものに転じてしまうものだからです。けれども、それは、彼らだけが、ということではありません。私たちもそうであり、そもそも人にはそういう身勝手なところがあるわけです。だからこそ、私たちは、自分が見たいもの、聞きたいものに囚われるのではなく、しっかりと主イエスの仰ることに耳を傾けたいと思うのです。

 この時、主イエスが求める悔い改めとは、神へと方向転換することです。つまり、神のみに照準を合わせるということです。そして、そのことを伝えるために主イエスが語ったことが、この直後にある一つの譬え話でした。そして、そこには、神様の愛情とイエス様の知恵が満ちあふれているとも言えるのですが、ですから、悔い改めることで私たちが目にし、触れるのは、この神様の愛とイエス様の慈しみであるということです。けれども、ここに記されていることに照準を合わせ、私たちの多くは、恐らくは、それとはまったく別のことを感じるのではないでしょうか。なぜなら、私たちの目に映るものは、神様に切り倒されそうになった、役に立ちそうもないイチジクの木でしかなく、そして、これを聞いて私たちは、このイチジクの木に我が身を重ね合わせることにもなるからです。

 私たちが抱くであろう希望、求めるであろう希望、それは、頭上高く輝く太陽のようなものなのかもしれません。それゆえ、陽の光を感じるとき、私たちは、夢や希望を素直に言葉にすることができるのでしょう。けれども、一端、陽が傾きかけるやいなや、今度は一転して陽の光を追いかけようとするのです。そして、その試みが失敗に終わると、沈みかけた夕日を眺めながら、否定的な感情を高ぶらせることにもなるのでしょう。しかし、沈んだ方向をいくら見つめたところで、太陽が西から昇ることはありません。ただ、この現実の中で語られているものが聖書の希望であり、そして、それを見つめるために私たちに求められていることが、主イエスが語たった、方向転換を意味する悔い改めでもあるのです。つまり、悔い改めとは、期待する何かが沈んだ西の空を見つめ続けることではなく、それに背を向け、漆黒の闇に閉ざされた東の空に方向転換することなのです。まただから、そこで諦めずに見つめ続けるからこそ、時が満ちるに及び、私たちの見つめる方向から希望の光は再び私たちを照らし出すのです。

 しかし、それが神様の摂理であると分かっていたとしても、闇を見つめ続けることは、容易いことではありません。おいそれと誰彼なしにできることではないと思います。けれども、私たちにはそれが許されているのです。なぜなら、どこを探しても何も見つからない深い深い暗闇の中で、希望を感じることのできない私たちと共にいまし、日の出までを導いてくださっているのが主イエスだからです。ですから、この譬え話は、主イエスの損な覚悟の一端、私たちに向けられた思いの強さが表されているとも言えるのでしょう。それゆえ、その主イエスが希望の実を結ばせるべく私たちと共にいてくださる以上、先について不安を感じる必要はありません。それよりも、私たちには、考えなければならないことが一つあります。それは、何のために主は実を結ばせようと努力しておられるのかということです。

 園丁が農作業に勤しむのは、実りを独り占めするためではありません。結んだ実を誰かと一緒に食べるためであり、だから、畑の世話をし、また、木の世話をするのです。それも、特別な誰か一人が味わうためではなく、多くの人々とその収穫の恵みを分かち合うことを願い、自らの勤めに励むのです。つまり、そのように多くの人々を笑顔にするために労するお方が主イエスというお方であるということです。従って、暗闇の中にあって、約束の果実を私たちが信じて待ち望むことができるのは、共にいます主のそのような御心に常に触れているからであり、その中でやがて迎えることになるのが御言葉が語る希望の光であるということです。それゆえ、一つの覚悟をもって主イエスが共にいてくださる以上、闇の中にあってなお、私たちは、主の約束とその導きとを信じて、希望の光を待ち望むことができるのです。そして、それが、私たちの日々の暮らしを築くのであり、その中で実体を伴い表されるものが、御言葉に基づく私たちの生活でもあるのです。

 ですから、私たちがこうして共にある人々との暮らしを大切にし、日の出までを主イエスと、こうして共に集められている仲間たちと、約束を信じ、御言葉が伝える愛をもって互いに支え合い、労り合う暮らしを立てていこうとするなら、光すら感じることのできない闇の中に置かれても、神様の約束を信じて、主イエスと共に希望の光を待ち望むことができるのです。御言葉は、このように神様の愛情と満ちあふれるイエス様の知恵を私たちに伝えてくれているのですから、互いに互いを笑顔にし、この笑顔をもって毎日を過ごすためにも、御言葉は私たちを裏切らない、この視点に立ち、御言葉に信頼し、また、聴いて、私たちの暮らしを共に立てていきたいと思います。

祈り





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