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聖霊降臨節第14主日礼拝
  説教 「聖霊の働きを待つ」

日本基督教団藤沢教会 2019年9月8日

【旧約聖書】出エジプト記 23章10~13節
 10あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。11しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。

 12あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
 13わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

【新約聖書】ルカによる福音書 14章1~6節
 1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。3そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」4彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。5そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」6彼らは、これに対して答えることができなかった。


聖霊の働きを待つ
 他宗教と比べ、キリスト教のいいところは何でしょうか。それが何かは兎も角として、そこで外すことができないものは、私たちがこうして今献げている礼拝です。それゆえ、礼拝が、仏作って魂入れぬ印象を与えてはならないのですが、普段の準備不足を思いますと、なんとも言葉はありません。しかし、私たちの礼拝は、仏らしきもの、神様らしきものを作り、そこに魂と思しきものを自分で吹き込んで、それを神様と崇め奉るものではありません。私たちの献げる礼拝が、このように人間の営為だけに頼るものではない以上、いくら完璧なものを求めても仕方ありません。ただし、それをいいことに開き直ることは許されることではありません。私たちを礼拝へと招くのが神様であり、また、その礼拝を礼拝たらしめているのが、私たちと神様とを執り成すイエス様でもあるわけですから、礼拝に際しては、精一杯備えなければなりません。

 それゆえ、自分が向き合う神仏がどんな神様か仏様かも分からず拝んでいる人々とは違い、礼拝する神様については、私たちはよく分かっているはずなのです。では、そこで私たちは神様について何が分かっているのでしょうか。神社やお寺に行きますと境内にはよく縁起、つまり、その由来が記された立て札などがありますが、そこに記されているようなことをすべて知っていることが、神様のことを十分によく分かっているということではありません。もちろん、それも分かっているのですが、私たちが何を分かっているのかと言えば、私たちが神様に赦された者として、こうして神様の御前に立っているということです。そして、この神の赦しについてですが、私たちは許可を意味する許しという字を用いるのではなく、容赦、恩赦等に用いる赦しという言葉を用いるように、神様ご自身の問題として、それが実現することになったのです。

 そして、それは、主イエスの十字架と復活の出来事を通してのことでもありますが、ただ、それが許されたのは、私たちが心を入れ替えて、神様の目からも人の目からも、非の打ち所がないほどに、私たちがいい子になったからではありません。いい子も悪い子も、そして、どちらとも言えない普通の子も、こうして私たちの献げる礼拝の中にはいるわけですが、それにも関わらず、全員が神様の御前に等しく立つことが赦されているわけです。それは、神様ご自身がそうしようと決断なさったからです。つまり、神様の赦しが実現したのは、私たち自身が根本的に、本質的に、しかも、自分の努力によって自分自身を変えることができたからではなく、神様ご自身が私たちのことを思い、その考えをいともたやすく変えられたからです。そして、神様がそのように自由な態度で私たちに臨むのは、そもそも神様とはそういうお方であるからです。

 ですから、主の日、安息日の礼拝とは、そういう神様の私たちに向けられた大らかな姿に御言葉を通して触れる時であり、そういう場であるということです。それゆえ、そこには、陰日向はありません。まただから、その光を感じるように無理強いする必要もありません。すべての命がこの神様の祝福の許に置かれているからです。ただし、このことをはっきり意識するには、ある一つのことが大切なのです。それは、安息日の安息ということが、やめる、止まる、ということであるように、それぞれの日常においてなさねばならない諸々の仕事、つまり農作業などの生産活動や家事等のそうした生活を立てていく上で必要な諸々のことを一端脇に置くということです。ですから、これは当然のことだとは思いますが、主の日の礼拝とはつまり、それぞれの心の中にある気がかりなもの一切を脇に置き、それを中断し、そういうところから離れ、神の御前に進み出るということです。そして、そこに表されるものが私たちの信仰でもあるのですが、それゆえ、この信仰によって、神様に愛されている私たちらしさが現されることにもなるのです。

 けれども、やめるということは簡単なことではありません。諸々のことは生活上必要不可欠なものであるわけですから、始まったことに気がつかなければ、やめようにもやめることはできません。また、それだけではなく、休むことは、私たち以外の他の人々にとっては、当たり前のことではありません。むしろ続けることが普通であり、従って、やめることについては、客観的にも合理的にも説明のつくことではないのでしょう。ならば、どうして私たちはそれをするのでしょうか。また、そうしないといけないと思っているのでしょうか。それは、神様と向き合うことで、見失ったり、忘れたりしていた自分自身を取り戻すことができるからです。つまり、誰でもない、自分が神様に愛されている自分であるとの気づきが与えられるということです。そして、もう一つ。多くの人々にとって生きることは、決して楽なことばかりではありません。従って、信仰に生きるということは、傍目には、その辛くて苦しい日々の生活にもう一つ信仰という重荷を背負うということでもありましょう。それゆえ、変わり者、愚か者との誹りは免れないのですが、けれども、そうするからこそ、そこで私たちは自分自身を取り戻すことができるのです。そして、そこで取り戻すことになる自分自身ですが、それは、平安のない暮らしの中で平安が与えられている私たちであるということです。イスラエルの人々は、そのことを出エジプトの出来事のまっただ中、荒れ野で知らされたわけです。では、そこで知らされた神様に愛されている自分自身、平安のない暮らしから平安へと移し替えられた暮らしとはどういうものなのでしょうか。それは、表面的には世の人々と何ら変わらぬものではあるのかもしれません。けれども、その中で決定的な違いがあるということです。

 イスラエルの人々が荒れ野において知らされたことは、神様の命の祝福から外れているとしか思えない荒れ野においてでさえ、命を保つために神様が多くの賜物を与えてくださるということでした。そして、このことはつまり、どこに置かれようとも、いかなる状況にあろうとも、また、そのために私たちがどんなことを考え思おうとも、私たちには、世界の造り主である神様が正しく働きかけてくださっているということです。ですから、私たちが安息日を守るのは、世界がそのような形で神様の恩恵、恵みの場であることを知っているからであり、このことはつまり、そこに生きるすべての命を、神様が、支え守り、世界の造り主としての責任において、この世界の秩序を保とうとされているということです。

 それゆえ、私たちにとって、生きることの意味、生きていることの価値は、どれだけ多くを生産したか、どれだけ多くのものを手にしたか、どれだけ大きな力を得ることができたか、そういうことによって量られることはありません。すべては命を守り支える神様によって与えられるものだからです。ですから、それは、信仰という営みにも当てはめることができます。神様が私たちに望んでおられることは、成果主義ではなく、そうしたものに背を向けることであり、自分の思い通り、期待通り、考え通りに物事を運ぶことではありません。神様の御心に自分自身を移し替えることであり、ですから、今日の新約聖書のイエス様の物語は、その点を私たちに丁寧に伝えてくれていると言えるのでしょう。ファリサイ派の人々からの食事の誘いに従ったように、すべて分かった上で、私たちが生きるこの世界は、どういうものかを訴えっておられるのがイエス様でもあるからです。

 従って、重い病に苦しむ人も、ファリサイ派、律法の専門家たちも、それぞれ等しく神様の御心の中に置かれているのは間違いありません。しかし、それにも関わらず、御言葉は、ファリサイ派の人々については、余りいい印象を私たちに与えてはくれません。そのため、彼らのことについては、私たちは、どうしてもネガティブな印象をもってしまうのですが、しかし、早急に結論を下すことはやはり慎まなければならないように思います。なぜなら、神様の造られた世界には陰日向ないことを伝えているのがイエス様の出来事である以上、光の当たるところと当たらないところに分けて考えることは、イエス様が仰りたいこととは相反することにもなるからです。ですから、それにも関わらず、時々、私たちが敵と味方とに分けて物事をついつい見てしまうのはそのためでもあるのでしょう。まただから、その信仰についても、そういう敵に打ち勝つことこそが私たちの信仰の至上命題であると考えてもしまうのでしょう。ですから、そこでまた、私たちは思うのです。そうした私たちの姿とここでのファリサイ派の人々とでは一体何が違うのかと。

 イエス様がここでこの矛盾し合う状況に一つの答えを与えておられるのは間違いありません。しかし、それは、どちらか一方に肩入れしてのことではありません。気の毒な立場にある人のことを第一に考えていたのは間違いありませんが、イエス様が真っ先に手を差し伸べたのは、ファリサイ派の人々、律法の専門家たちでありました。それは、彼らが、神様の御心を思い違いし、その思い込みから大きな過ちを犯すに至っていたからです。それゆえ、彼らのそうした姿、態度は、神様の祝福された現実から遠ざけられて然るべきであり、そういう意味で、病を負った人々と同じように、心配されて当然であったということです。そして、彼らがなぜそのような事態に陥ったのかといえば、それは、彼らの生活習慣によるものでもありました。ですから、それについて今日的な言い方をすれば、彼らが「生活習慣病」を患っていたということです。

 ですから、ここでの状況は、律法という神様の御心を間に置き、生きる人々が、自分たちの力で正しい答えを探そうとして、あっちとこっちとに別れ、にっちもさっちもいかない状況に陥っていたということです。また、それだけに、私たちは、イエス様が肩入れしているのはどちらか、かわいそうな人か、それとも、理屈を立てに取ってあれこれ言ってくる小難しい人たちか、善と悪、敵と味方とに分けて考えようとしてしまうのでしょう。そして、その結果、どちらが正しいかを巡って、私たちもまた二つに分かれ、互いに互いを傷つけ合う状況を作り出すに至るのです。ですから、ここで深刻なことは、どちらも自分が正しいと信じて疑わないことです。それゆえ、この矛盾し合う状況を克服することは、人にはなかなかできるものではありません。それぞれの正しさは、それが神様に関わるものであるだけに譲ることができないからです。けれども、御言葉が私たちに語ることは、それにも関わらず、私たちはそれを克服することができるということなのです。

 イエス様が歩まれた当時の状況と今とを比べ、こうして御言葉に聞いている私たちの置かれている現実は何一つ変わるものではありません。それは、たとえ世界が分断されているように見えても、また、自分が神様に見放されたとしか思えない状況にあっても、私たちが生きるこの世界は、神なき世界ではありません。世界の秩序を保つべく働かれる主イエス・キリストの父なる神様が私たちと共にいてくださっているのであり、この陰日向のない世界に生きることをお許しくださっているのが私たちの神様であるからです。ただ、それにも関わらず、世界には混沌があり、矛盾があります。そして、そのような状況に生きているのが私たちでもあります。そのため、私たちは焦り、その中で諦めの気持ちを募らせ、そして、世界も私たち人間も、神様に罰せられなければならないとの思いを強くすることにもなるのです。ですから、そのような目で世界を見つめて行くとき、私たちが捜そうとすることは、赦しの言葉ではなく、裁きの言葉なのかもしれません。しかし、そこに本当に喜びがあるのでしょうか。また、そうすることを神様は私たちに望んでおられるのでしょうか。

 世界とそこに生きる私たちとを、滅びへと導くことが神様の御心ではありません。それゆえ、裁かれることへの恐怖が人を自由にすることはありません。むしろ、そういうところから人を解放し、本質的に私たちに日々の平安と生きる上での喜びを与えようとされているのが私たちの神様であるのです。そして、そのために、神様は、裁きではなく、赦しを与えてくださったのであり、それゆえ、この赦しこそが神様が私たちに心から願うことでもあるのです。ですから、神様に許されている私たちは、自分自身を変え、世界をも変えることができます。そして、それができるのは、私たちがそのように神様に赦されていることを知っているからですが、それは、ここでもそうです。分断し、分裂のあるところにイエス様がおられるのですが、このように、右と左とに分かれ、にっちもさっちもいかなくなったその間に、神様がお遣わしになられたイエス様はそこに確かにおられるのです。そして、そこは、私たち人間の目からすれば、最早どうにもならないと思える状況でもありますが、そうであっても、そこに私たちがイエス様のお姿を見ることができるなら、そこは、陰日向のない、神様の祝福の内に置かれた場所なのです。

 私たちは、今日の御言葉にもあるように、矛盾や綻びのない中で礼拝を献げているわけではありません。けれども、そこは、神様の御心の表される時であり、場でもあるのです。それゆえ、この安息日に、私たちは、神様の愛を感じ、そして、この神様の赦しゆえに、自らを変えられることにもなるのです。ですから、私たちが私たちであるということは、私たちがそれを知っているということであり、この神の赦しゆえに、私たちの可能性は、大きく開かれているということです。そのことを、私たちはこうして礼拝を献げることで知らされているのであり、そのように神の現実に生かされていることを知っているからこそ、神様に愛される者として、私たちは、命が祝されていることを周囲の人々にも伝え、また、共に生きる人々と一緒にこの神様の赦しを心から喜ぶ者とされるのです。祈りましょう。


祈り


  


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