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聖霊降臨節第18主日 世界聖餐日・世界宣教の日
  説教 「その眼差しの先に」

日本基督教団藤沢教会 2019年10月6日

【旧約聖書】アモス書 8章4~7節
4 このことを聞け。
 貧しい者を踏みつけ
 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
 5お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。6弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
 「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
 いつまでも忘れない。」

【新約聖書】ルカによる福音書 16章1~13節
 1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


その眼差しの先に
 器の大きい人の後についていくことは、容易なことではありません。言うこともやることも大きすぎるために、付いていくのがやっとのことがあるからです。敵を愛せと仰るイエス様がまさにそういうお方であろうと思いますが、けれども、そこでまた、私たちが付いていくからこそ、私たちの信仰も、目に見える形で世に現されることにもなるのです。しかしながら、イエス様に付いていく中で思わされることは、イエス様の器の大きさだけではありません。それと同時に知らされるのが、自分自身の器の小ささです。それゆえ、付いていくのも息絶え絶えな私たちは、この不甲斐ない自分自身のことを不信仰などと呼んで自分を責め、また、慰めることにもなるのです。そこで、皆さんにお聞きしたいのですが、ところで、そもそもイエス様のそのお言葉に従い、イエス様に付いていくということはどういうことなのでしょうか。今日のそれぞれの御言葉を聞いて、皆さんは、そんなことを考えなかったでしょうか。

 従い、後に付いていく、ということは、金魚の糞のようにただその後をくっついていればいいということではありません。御言葉を通し語られ、また求められていることを、私たちが同じように行うということです。けれども、このことはまた、言われていることを言われたまま、言われたようにやるだけでは終わらないということです。ですから、今日の御言葉をこうして聞いていて思うことは、本当にそれでいいのかと、いうことです。特に、そう思うのは、この譬え話の中でイエス様が仰っていることが、今巷を騒がす大阪のある会社であったことと重なるようにも思うからです。よもや、彼らが普段から聖書をよく読んでいたために、そんなことをしでかしたわけではないと思いますが、もしそうであるとしたら、これほど悪い冗談はありません。それだけに、ここでイエス様が仰っていることを、仰るようにそのままやってしまっていいのだろうかと、そんな思いに駆られることにもなったのです。

 さて、聖書の御言葉も、イエス様の御言葉も、そして、今日の御言葉もそうですが、1節に「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とありますが、イエス様が弟子に何かを話すのは、弟子である私たちにそれをしっかりと受け止めて欲しいからです。ですから、そこで私たちは、イエス様のお言葉をしっかりと聞いて、その言葉を自分のものとしていかなければならないのですが、では、ここでのイエス様のお言葉を自分のものとするとはどういうことなのでしょうか。よもや、今世間を騒がしている不祥事に名を連ねることではないと思いますが、ところが、それを認めるかのようにイエス様は、8節で、主人が、「この不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めた」と言っているわけです。しかも、そこで言われている主人とはつまり、神様のことでもありますが、その神様が、管理者が不正を働いたにもかかわらず、それを褒めたというのです。それゆえ、これについて、私たちは、「神様、何を血迷われたのでしょうか、アモス書では、不正を働く人々のことを心に留め、あなたは、神としての矜持を失わなかったではありませんか」と、不遜にも、そんなことをついつい思ってしまうのです。それは、私たちが、アモス書にあるように、神様に深い信頼を寄せているからでもありますが、なのに、イエス様は、そんな私たちの期待に反するようなことを仰るのです。これは、一体全体どうしたことなのでしょうか。ですから、この譬え話を聞いた人々のそんな悲鳴が聞こえてくるようにも思います。  

 そこで、神様が一体何を褒めたのかを御言葉に戻って聞いてみたいのですが、主人が褒めているのは、不正を働いたその後のことであって、この管理者の不正そのものではありません。それは、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」からとの理由によるものですが、つまり、この仲間を作るという点で優れていたことを褒めたということです。けれども、そのようにもの申すイエス様の心境については、やはり図りかねるところがあります。不祥事のその当事者に対し、そうした発想を抱くことなど、そもそもあり得ないことでもあるからです。  従って、もし、これと同じことを私が言ったとして、なるほどと、そう思う人はいないことでしょう。世間では、管理者がやったことを持ちつ持たれつの関係などと言いますが、これは、別の言い方をすれば、ずぶずぶの関係ということで、どちらも、余りいい意味で用いられることはありません。十戒の枠組みを逸脱するだけでなく、普段からイエス様のお言葉に聞いている私たちであれば、この譬え話は、なおのこと承服しかねることでもあるのでしょう。ところが、あろうことか、そう思う私たちに、イエス様は、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とこう仰るのです。それは、「お金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」からとの理由によるのですが、このことはつまり、イエス様が信仰をお金に換算し、不正を助長しているということでもあるのでしょう。しかも、そこでまた、私たちをさらに悩ませるのは、イエス様がご自身が、それを正当化するための裏付けを与えているということです。それは、大事は小事より起こるという意味合いで語っているのでしょうか。ですから、そこには、一瞬、なるほどと思わされる妙な説得力があるわけです。つまり、日頃から小事を大切にしている人であるから、大事についても、信頼して任せることができるということですが、そもそもその理屈が通らないのが、この譬え話であると思うのです。けれども、そう仰るのがイエス様であるから「困ったな」ということになるわけです。

 ただ、結論を先に申せば、ここでイエス様が何を仰りたかったのかは、この直後にある14節以下を見れば、すぐにピンとくるはずです。御言葉はそこでこう語っています。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」と、つまりは、イエス様の真意は、このファリサイ派、中でも、お金に執着しているファリサイ派の人々のことを弟子たちに言い聞かせているということでした。ですから、イエス様が仰ることは、弟子たちと一緒に居るファリサイ派の人々のことを皮肉って、ここでこのようなことを仰っているとも考えられるのでしょう。しかし、私は、ここがみそだと思うのですが、イエス様が、そんなファリサイ派の人々のことを決して見下してはいないということです。相手の立場に立って、闇雲にだから全部が悪いとは言っていないということです。それも、それを聴いたファリサイ派の人々がそんなイエス様のことをどれほど嘲笑ったとしても、イエス様は、そんな彼らの悪いところを嘲笑うのではなく、いいところを取り上げ、しかも、それを生かし、弟子たちに何かを語ろうとしているということです。

 そして、それが私たちの目の前におられるイエス様でもあるのですが、このことはつまり、ファリサイ派の人々をあげつらうことがその目的ではなく、「仲間を作る」というキーワードを踏まえるなら、彼らとも一緒に生きているとの視点をしっかりと持ち、その上で弟子たちに何かを語ろうとしているのがイエス様であるということです。ですから、イエス様が仰りたいことは、「お金に執着するファリサイ派の人たちのようになってはいけませんよ」といった、表面的なものでないのは明らかです。まただから、その器の大きさに、私たちはなおのことまじまじと感じさせられもするのですが、では、このイエス様の器の大きさから見えてくるものとはいったい何なのでしょうか。それを理解するために、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思うのですが、そもそも、どうしてここでこういうことをイエス様が弟子たちに仰らなければならなかったのでしょうか。

 ファリサイ派の人々、律法学者たちにとって、物事の判断の基準は、律法でありました。そして、それは、イエス様も弟子たちも同じであり、このことはつまり、こうしてイエス様のお言葉に聞いている私たちも、他の人々も、同じように律法という同じ一つの土俵の上に立っているということです。しかし、それにもかかわらず、そのイエス様の真意を測りかねているのが、ユダヤ教指導者たちであり、弟子たち、私たちでもあるのでしょう。それは、イエス様が別次元に立って何かを語っているようにも見えるからです。しかし、実際はどうでしょうか。原則を語りつつも、その原則を見失っているのは誰なのでしょうか。また、原則に忠実に従っていると思いながらも、意見の違いを理由に人を排除し、気の合う仲間とばかり付き合おうとするのは誰なのでしょうか。けれども、イエス様は違います。その器の大きさが示すように、本来立つべき場所にしっかりと立ち続けているのがイエス様なのではないでしょうか。従って、ここで語られていることの分かり難さは、私たちがイエス様と同じ所に立とうとしていないがゆえのことでもあるのでしょう。

 ですから、そういうイエス様の揺るぎない姿に触れることは、私たちにとって非常に大きな意味があります。その器の大きさを知るだけではなく、物事を二項対立的に判断することに慣れている私たちが、イエス様のこの視点に立って、世の中と関わるからこそ、そこに、必ずいい関係性が築かれることになるからです。またそうであるから、仲間を作るということをイエス様は仰っているわけですが、ですから、そういう意味で、ここでのイエス様の姿に倣うということは、あらゆる対立関係の根底にある、自分とは違う、異質である、だからつきあうのは止めようとの思い込みを取り除くためにも、とても大切なことのように思います。けれども、それは、だから、相手の言いなりになるということではありません。

 ここでのイエス様が、相手と同じ土俵に立ちながらも、相手のように言い返していないのは、相手のことをよく理解し、そのいいところをさらに伸ばすことを念頭に置いているからです。そして、その結論としてイエス様は、13節にある言葉を語るのですが、これについて、皆さんはどう受け止められたのでしょうか。恐らく、多くの人々は、イエス様の仰りたいことが、神か富か、二者択一を求めているかのように聴いてしまうのでしょうが、けれども、イエス様は、私たちにあれかこれかの決断を求めているわけではありません。もし私たちがイエス様の言葉をそのように聞こえてしまうとしたら、それは、私たちがイエス様と同じ一つの土俵の上に乗っていないからです。繰り返しになりますが、イエス様もファリサイ派、律法学者たちも、同じ土俵の上に立っているのです。この前提に立って、ものを申しておられるのがイエス様であるのですが、じゃあ、その中で、神様は私たちに何をおっしゃっておられるのか、何を私たちに求めておられるのか。

 それは、神か富かではなく、神はお一人であり、その神様によって養われ、導かれているのが私たちであるということです。ですから、その私たちの中には、ファリサイ派の人々などもいれば、他の様々な人々もいるのですが、ただ、ここでのことが、ぱっと見た目に、イエス様の皮肉、当てこすりに聞こえてしまうように、自ら土俵を割ったファリサイ派の人々のことをどうしても切り捨てたいのが私たちでもあるのでしょう。そして、イエス様が弟子たちに向いもの申すのは、弟子たちもまたその例外ではなかったからです。ちなみに、この富という言葉の背後には、神様以外のすべての物事の考え方が含まれています。お金だけでなく、自分がいいと思うすべてのものの考え方、価値観が含まれていると言っていいのですが、土俵を割って、イエス様の前から出ていくことになるのは、この神様以外の自分がいいと思う価値観に引きずられたからです。だから、神かそれとも富かと問うているのですが、けれども、ここでのイエス様の姿に触れていた弟子たちは、土俵を割った後に、やがてまた気がつかされることになるのです。それは、イエス様がしっかりと立つその土俵とは、人間の考えや経験の中だけに収まる小さなものではないということです。つまり、土俵を割ったと思うその場所、そこは、自分の小ささを知らされる場所でもありますが、そこにもイエス様はともにいてくださり、だから、そこにも神様の御心が現されているということです。

 イエス様と同じ土俵に立つということを、私たちの多くは、もしかしたら、何かを捨てて一つを選んだと、そんな風に考えているように思います。そして、この一つを選んだということは、一つを捨てたということであり、そこで、もし別の何かを信じていたとしたら、その別の何かを裏切った、相手の立場から自分の姿を見ていくなら、そういうことにもなるのでしょう。私などもその一人です。ただ、世間でよく言われるように、一度裏切った者は、ペトロがそうであったように、再び人を裏切るものです。ですから、信仰を捨てるということが起こるのは、信仰に導かれたことを心のどこかで何かを裏切った、捨てたと、そう思っているからでもあるのでしょう。また、神様以外の何かいいものを常に探し続ける人も、意識しているかしていないかの違いはあっても、根っ子は同じ所にあるように思います。自分がひれ伏す者を求めるのか、それとも、自分にひれ伏せさせる者を求めるのか、形の上では、まったく正反対に見えるものでもありますが、ただ、神様ではなく、自分が大切にしている価値観がその中心にあって物事を動かしているわけですから、結局は同じであるということです。

 ですから、そうした人間の姿勢は、決して褒められたものではありません。けれども、ここで裏切ることに慣れた人のことを、神様が、仲間を作ったということで褒めたと、イエス様は仰るのです。それは、仲間を作るということの中に、イエス様ご自身が共にいてくださっているということでもありますが、このことはつまり、人と人とが一緒にいよう、いたい、いなければ、何でもいいのですが、仲間が作られていくところにイエス様が共にいる以上、その人生において、数限りなくイエス様を裏切り続ける私たちの器の小ささをイエス様は問題にはされていないということです。ですから、ここでの逆説的な分かり難さは、そんなイエス様と私たちの器の違いを現し、そのために、すぐに「なるほどそうか」とは思えないのかもしれませんが、弟子たちがそうであったように、すぐに分からなくとも、それが信仰の大事となることはありません。イエス様と共にあることを飲み込めてさえいれば、弟子たちがそうであるように、器の小ささを気にしたり、誤魔化そうとしたりすることはなくなるからです。

 ですから、神かそれとも富か、とイエス様が問うておられるのは、「そのいずれかを選び、あなたたちは従うのか」と、そういう呼びかけではありません。もちろん、結果から見れば、そういうことになるのでしょうが、けれども、イエス様が仰りたいことは、人と人とが一緒にいることをやめられないわけだから、結局行き着くところは神様のところしかないということです。それは、神様がこの世界を造り、そこに生きる人間を作ったからでもありますが、ただ、だから、人間はいつもべったり人と一緒にいなければならないということではありません。一人でいることが好きな人であっても、人といることが好きな人であっても、自分を通してのあらゆる関わりには、すべてそこにイエス様が共にいまし、イエス様が共にいますがゆえに、そこに神共におわす現実を私たちは知らされるということです。このことはつまり、私たちは神様を捨てたと思っても、神様は私たちのことを見捨てはしないということです。なぜなら、その私たちとどこまでも共にいてくださるのが、私たちの主イエス・キリストというお方であるからです。祈りましょう。

祈り


  


曇 22℃(at10:30)