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聖霊降臨節第20主日礼拝 説教 「持てる者と持たざる者」
日本基督教団藤沢教会 2019年10月20日
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【旧約聖書】士師記 7章1~8節 |
1エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。2主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。3それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。4主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」5彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」6水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。7主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
8その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミディアン人の陣営は下に広がる平野にあった。
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【新約聖書】ルカによる福音書 19章11~27節 |
11人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
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持てる者と持たざる者 |
徴税人ザアカイと出会った主イエスが、そのザアカイとの別れ際に仰ったことが、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである」という、罪人ザアカイへの罪の赦しの宣言でありました。そして、それに引き続き、語られているのが、このムナの譬え話と言われているものでありますが、この譬え話が、ザアカイと主イエスの会話に聞き耳を立てる人々に対し語られたように、それゆえ、ザアカイの物語との関わりの中で語られているのは間違いありません。つまり、救いの訪れとその実現について語っているのが、この譬え話であるということです。しかし、今ご一緒にこの譬え話に聞いて、皆さんは、どんな感想をお持ちになったでしょうか。
この譬え話は、内容的には非常に分かりやすいものだと思います。しかし、なるほどとの納得をもって聞こうとするとき、どうしても首をかしげたくなるのが、この譬え話なのではないでしょうか。ただ、御言葉もそれについては分かっておりました。だから、この譬え話を語る理由として、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」と説明するのです。それは、ザアカイと主イエスとのやり取りを目の当たりにした人々の、その思い描いた神様の救いの現実が、主イエスの知る神の国の現実からは余りにもほど遠く、現実味の薄いものと主イエスが感じたからです。それゆえ、人々を救いに与らせるためにも、その現実味のない期待感を鎮める必要があると考えた主イエスは、この譬え話を通して、救いの現実のありのままの姿を伝えようとしたのです。ですから、この譬え話は、救いに至る上でのそのままの道筋が示されているとも言えるのでしょう。
そして、そのために求められるものが、終末における神の過酷な審判を避ける上での忠実さなのですが、この忠誠心を図る上で最も重視されるべきものはその成果です。ただし、そのハードルは、それほど高いものではありません。託されたこの1ムナは、私たちの貨幣価値に置き換えれば、おおよそ100万円くらいだろうとのことです。ですから、大金は大金ですが、けれども、それほど大きな額ではありません。しかも、銀行に預けてでも、兎も角増やしさえすればいいというわけですから、そもそもの所でハードルは低いし、また、銀行に預けるだけでいいわけですから、徴税人であろうが、罪人であろうが、しかるべきところに預けさえすれば、誰もが、その赦しの恩恵に与れるということです。それゆえ、そこからはみ出す者は誰一人としていないと言ってもいいのでしょう。ですから、この主イエスの物語に聞いているルカの教会の人々にとって、このたとえ話は、願ったり叶ったりのものでもあったと言えるのでしょう。十字架と復活の出来事の後50年ほどを経て、こうして主イエスの物語に聞いているルカの教会の人々にとって、終末の遅れは最早避けることのできない現実であったからです。ですから、いつ訪れるともしれぬ終末までの歩みを期待感をもって続けるためにも、このハードルの低さは、大きな希望を与えたに違いありません。
そして、それは、彼らだけの希望で終わるものではありません。主イエスの十字架と復活の出来事のその二千年後に生きる私たちも同じように考えることができるからです。それゆえ、すでに訪れた救いと、約束された神の国の訪れとの間を生きる私たちにとって、この譬え話は、ザアカイの物語同様、大きな希望を与えるものでもあるのでしょう。従って、ここで語られていることは、信仰ゆえのその覚悟と言えるほどのご大層なものではないのかも知れません。ここにあるそのままに生きさえすればいいわけで、つまりは、この譬え話のありのままの現実を生きているのが私たちであるということです。そして、そこで忘れてはならないことは、私たちは、そのために一定の成果を上げなければならず、そして、この目的を果たすためには、一定の忠誠心が求められているということです。
そこで、皆さんにお尋ねしたいのですが、そのような暮らしぶりについて人から尋ねられたとして、どのように説明するのでしょうか。これまでのご自身の暮らしを振り返りさえすれば、そこから自ずと導き出されるのでしょうし、また、主イエスの救いを信じる自らについては、すでにしっかりとした意味づけがなされてもいるのでしょうから、それを言葉にすることは、それほど難しくはないのでしょう。ですから、求道中の方、信仰へと導かれ、まだ間もない方にとっては、もしかしたら、いや、間違いなく、牧師が言葉を尽くして何かを語るよりも、そうした方々の証しを聞く方が、よほど意義深く、その信仰の養いになることでしょう。そこで、突然ではありますが、今から私が、役員、もしくは、役員を経験された方を指名いたしますので、その方に証ししていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。特に、日本キリスト教団の行事暦では、今日からの一週間は、信徒伝道週間となっています。ですから、そういう意味で、私のこの思いつきは、ただの思いつきではなく、私たちの時間感覚のなせる業だとも言えるのでしょう。しかし、しかし、です。役員、役員経験者の皆さまを慌てさせて申し訳なかったのですが、私が今そう思ったことが、仮にそれがあながち根拠のないものではないとしても、そうすることは、やはり絶対に許されることではありません。では、それは、どうしてなのでしょうか。
もし、私が、この想定外とも思えることをごり押しし、「後はお任せしましたよ」と言って、自分の席にさっさと座ったとして、皆さんは、そんな私をどう思うのでしょうか。ましてや、何の準備もなく突然指名された方はどう思うことでしょう。恐らくは、いや、先ず間違いなく、「こいつ何言っているの、寝言は寝てから言え」とそんな風に思うに違いありません。つまり、不信感を通り越して、敵意、憎悪を抱くに違いないということです。ですから、そのようなことを私もあえてやろうとも思いませんし、もちろん、やるはずもないのですが、では、今、私が突然そのようなことを申し上げ、皆さんは、想定外のことと思ったのでしょうか。それとも、想定内のことと思ったのでしょうか。つまり、私がそんなことを言うことはない、いつものように冗談を言っているのだと、そう思ったのか、それとも、こいつならやりかねない、やっぱりな、そう思ったのか、そのいずれであったのでしょうか。ただ、予め申しておきますが、それについてのコメントは不要です。それは、どちらでもいいことだからです。それよりも、こうして皆さまとご一緒に御言葉に聞きつつ、私が口にしたこの無茶振りがどうして絶対に許されないのかをお考えいただきたいのです。
その理由の一つは、先々週の譬え話もそうですが、そこで語られているたとえ話の意味については理解できても、語られているその内容を我が事として引き受け、皆さんに分かりやすく説明するのが難しかったからです。ですから、私がくどくどと、あれこれ説明すればするほど、皆さんの抵抗感は、さらに大きくなっていくように思ったのです。ですから、皆さんと同じ立場の人々から、実際の自分自身の経験として、何かを語っていただいた方が、よほど分かりやすいし、信仰の浅い方たちも、なるほどとそう思えるようになるのだと思います。それゆえ、それは、なるほどそうかと、そう思って終わることはありません。自分もそうしよう、やってみようと、必ずや多くの人にそう思わせるに違いありません。ですから、それがまた、多くの人を終末へと導き、主イエスの救いに与らせることにもなるのでしょうから、説教の準備をしていて、内心では、本当にやろう、やりたいとそう思ったほどでした。けれども、それをしなかったのは、そもそもそれが絶対に許されるないと、今日の御言葉が私に教えてくれているからです。
ですから、お陰様で最後の一線を越えることはなかったわけですが、そのことをたたき台として、皆さんにこうしてお話しをさせていただいているのは、私が、この一線を越えなかったというそのわけを皆さんと一緒に分かち合いたいと思ったからです。そして、そのためにもう一度思い起こして頂きたいのが、先ほど少し触れた想定内、想定外ということです。先ほど申し上げたことは、私の個人的なことではありましたが、そもそも、皆さんがこの想定内、想定外と思う根拠、理由は、どこにあったのでしょうか。そのような意味づけを与えたのは、皆さんご自身であったわけですが、そこには、私との普段の関わりが大きく影響していたのは間違いありません。想定内、想定外、というのは、そのような一つの枠組みの中で導き出された一つの答えでもあるからです。そして、それは、そうした日常的な関わりに限ったことではなく、私たちの神様への思いも、またイエス様への思いも同じです。それゆえ、それは、正しいとも言えるし、また、間違っているとも言えるのでしょう。ですから、先ほど、コメントは不要ですと申し上げたように、皆さんが一瞬考えた想定外、想定内との判断は、それがすべてではなく、そこには、必ず、考えなくていい、考えたくもない、そういった見たくないし、聞きたくもないと、そう思うものが必ず含まれているはずなのです。それゆえ、そのような思い込み、決めつけが崩されることがなければ、そこに主イエスの十字架と復活の出来事といった、それまで誰も経験したことのない新たな何かを受け入れる余裕が生まれることもありません。従って、今日の御言葉のそれぞれの狙いは、そうした私たちの頑なさを崩すところに置かれているのであり、ですから、今日のこの箇所がどれほど難しいからといって、思いつきのように私が意味づけを与え、じゃあ、皆さんお願いしますとは、こうしてこの日の御言葉に共々に聞いている以上、それは絶対に許されることではないのです。
そこで、勝手な意味づけは許されないというところから、改めて御言葉に聞いていきたいのですが、先ほども申しましたように、主イエスがこのたとえを通し語られていることは、理解することも、実行することも、そのそれぞれにおいて、難しいことはありません。ところが、それを私たちは難しいと感じてしまう、それは、自らについて、私たちが忠実であり得ないと思い込んでいるからなのではないでしょうか。まただから、そこで、御言葉は、主イエスへの忠実さを現す例として、三つのパターンを語るのですが、それは、私たちの多くが、いや、ほとんどと言っていいのかも知れませんが、そんな私たちが最も共感をもって見つめるのは、良い僕ではなく、悪い僕と断言された人でもあるからです。それは、忠実であり得ないと思い込む私たちの多くが、この悪い僕が「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と語るように、神様のことを恐ろしい方だと思い込んでいるからです。けれども、その一方で、イエス様のことについては、それとは反対のことを考えているのです。つまり、恐ろしい方であって欲しくないし、あるはずがないということですが、けれども、この分かりやすい譬え話は、そんな私たちの期待を裏切っている、だから、分かりにくいと、そのように決めつけてもしまうのでしょう。そのため、それは、想定内であろうが、想定外であろうがどちらでもいいのですが、私たちの逃げ道を塞ぐイエス様のことを、だから、余計に分からなくなってしまうわけです。けれども、まただからこそ、そんな私たちにそうではないことを気づかせようとして、ここでこのようなことをイエス様は語ったのです。
それにしても、どうしてイエス様はそのような面倒なことをなさるのでしょうか。それは、いつ訪れるとも知れない終末を期待し、その日を待ち続けることが、いつその心が折れてもおかしくはないことだからです。それゆえ、熱狂し、思い込むだけの期待感は、何かを切っ掛けとして、一気に絶望へと衣替えをし、私たちの忠誠心を一気に失わせることにもなるのです。ただ、それは、もしかしたら私たちにとっては、想定内であり、想定外でもあるのでしょう。けれども、想定内であっても、想定外であっても、その私たちがイエス様への忠誠心を失っていいはずはありません。しかし、それにも関わらず、私たちの忠誠心は、簡単に吹き飛んでしまう、それは、イエス様と神様について、自分自身で意味づけを与えようとするからです。つまり、自分自身が分かりやすい、受け入れやすい神様であり、イエス様であって欲しいし、それ以外はすべて間違っている、本物ではない、そう思い、考えるということです。ですから、そのように意味づけを与えるのが自分自身である以上、その枠の外に出ることはとても恐ろしく、おいそれとできることではありません。しかも、イエス様が仰ることの意味は、私たちが意味づけし分かることではありません。まただから、イエス様は、そのように振る舞う人のことを敵と断じるのですが、けれども、そのようにしか動くことのできない私たちのことを、イエス様は、本当に敵と見なしているのでしょうか。
私たちの多くは、自分の期待通りに動かない神を厳しく恐ろしい方だと、大なり小なりそう決めつけているところがあります。また、その一方で、イエス様のことを私たちの気持ちをすべて理解し受け止めて下さる優しい方であり、そういう方でなければいけないと、そのように思い込んでいるところがあります。そして、それは、ここでのイエス様が無理な要求をしないように、そう信じることは間違いではありません。けれども、これは、長くイエス様と共に歩めば分かることですが、私たちが意味づけを与えるそのままのイメージで、イエス様がいつも一緒にいてくださるわけではありません。むしろ、逆のイメージを与えることもありますし、また、このたとえの中で語られているように、イエス様が柔和な王様か、それとも暴君か、それすらも分からなくなることもあるのです。ですから、そのような中で、忠誠を尽くすことは、とても大事なことでもあるのですが、ただ、それは、できる者もいれば、できない者もいるわけです。ちなみに、私は、最後まで忠誠心を失わないなどと、皆さんご存じのように絶対に口にすることはできません。けれども、そのようなとき,どうすればいいのかを知っています。そして、それを教えてくれているのがこの譬え話だと思うのです。
それは、分かろう分かろうと前のめりになるのではなく、そういうときにこそ、私たちは、立ち止まらなければならないということです。無理に、又勝手に、自分の思い込みや決めつけによって意味づけを与えるのではなく、御心が示されるのを信じて待ち望むということです。ですから、私たちに求められている忠誠心とは、私たちの疑いの中でこそ、その存在感を発揮するものであり、まただから、そこで、必ず私たちは気づかされるのです。自分を苦しめるこの世界は、神様の造られた世界であり、その自分も神様に造られ、祝福されているということを。そして、それが、イエス様がザアカイに対し最後に仰った「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである」と語られているこの御言葉をもってして語られていることでもあるのです。
私たちは、神様が造られた同じ一つの家でその生涯を暮らすものです。ただ、その中で自分が何者であるかが分からなくなり、それと共に、神様についても、イエス様についても分からなくなることがあるのです。しかし、そのようなとき、イエス様がザアカイに向かって「この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである」と仰ったように、私たちから目を離すことないイエス様の声を聞くからこそ、そこで、自分自身を取り戻すことができるのです。そして、それが許されるのは、イエス様が、私たちのいいところも悪いところも、そのすべてをご存じの上で、共にいてくださるお方だからです。ただ、そうであっても、それすらも分からなくなることがあり、今日の御言葉はそのことを私たちに伝えてくれてもいるのですが、ですから、この譬え話は、私たちを立ち止まらせ、イエス様の方に顔を向けるための「危ない!」とのイエス様の叫び声でもあるのでしょう。そして、まただから、そこで私たちは気づき、イエス様の御後に従おうとするのです。天に宝を積むそんな一週間を過ごす私たちでありたいと思います。祈りましょう。
祈り
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