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降誕前第9主日礼拝 説教 「No Jesus, No life」

日本基督教団藤沢教会 2019年10月27日










説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
詩編 104編13〜24節
13主は天上の宮から山々に水を注ぎ
 御業の実りをもって地を満たされる。
14家畜のためには牧草を茂らせ
 地から糧を引き出そうと働く人間のために
 さまざまな草木を生えさせられる。
15ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
 パンは人の心を支える。
16主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち
17そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。
18高い山々は野山羊のため。
 岩狸は岩場に身を隠す。

19主は月を造って季節を定められた。
 太陽は沈む時を知っている。
20あなたが闇を置かれると夜になり
 森の獣は皆、忍び出てくる。
21若獅子は餌食を求めてほえ
 神に食べ物を求める。
22太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き
 それぞれのねぐらにうずくまる。
23人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。

24主よ、御業はいかにおびただしいことか。
 あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。
 地はお造りになったものに満ちている。

ルカによる福音書 1章1~14節 【言が肉となった】
 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。


No Jesus, No life
●三段論法
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 まだ受洗する前、一求道者として真理を求めて聖書を読んでいた頃に、この箇所を初めて読んだ時、何かものすごく深く霊的なものを感じて、つまり「真理」のようなものに近づけるような気がして、まるでスルメイカでも味わうかのように、何度も何度も繰り返し読みました。このみことばを味わっていると、「永遠」という時の尺度も、何かとても自然なこと、当然なこと、のように感じられる気がいたします。特別何か励まされたりするような箇所ではありませんが、このヨハネの冒頭の箇所がなければ、私は聖書を信じていなかったかも知れない、と思うほど、好きな箇所です。みなさんも、「今なぜ自分がここにいるのか?」とか、「どうやってこの世はできたのか?」なんていうことを、一度は考えてみたことがおありなのではないでしょうか?

 聖書というのは、文学的にももちろん優れた点もありますが、むしろ数学的で、非常に論理的に書かれています。言は神であったというくらいですから、聖書の言葉は、非常に秩序が整っている、とも言えます。
 確かに時々、なんとなくあやふやで意味が分からないな、と思える箇所もあります。けれどもそれは聖書が悪いのではなくて、むしろ日本語の訳に問題があるのです。そんな時は、とりあえず簡単な英語のおわかりになる方は、英語の聖書に当たってみますと、だいたいすぐに解決しますので、お試しください。
 あるいは、もちろん、ギリシャ語、ヘブライ語の両原典にあたってみるなら、もっと厳密に意味がわかりますが、特にギリシア語は、新約聖書を書くために神様が造られた言語なのではないか、と思われるほど、日本語で読んでいるだけでは見えてこない意味もわかることがあります。

 実は今朝のこの箇所には、見事な三段論法、つまり、A=B,A=C,だからB=Cという論理が隠されています。先に種明かしをしてしまいますと、言=神である、言=イエス・キリストである、よって、イエス・キリスト=神である、という理屈、これがこの箇所には隠されているのです。
 特に1節では、言、つまり御言葉が、神様そのものであること、またその言が、最初から存在していたもので、神様と共にあるものだということが、はっきり知らされます。こんなにシンプルで、それでいて深い意味を持つ言葉が、他にあるだろうかと、まさに、そのように思わせる1節ではないでしょうか。聖書の神髄とも言える箇所です。

創世記との共通点
 もし、聖書のことを何も知らない状態でこの御言葉を読んで、「言」というところをxとして、それがなんであるのか、謎を解こうとするなら、かなり難しいかも知れません。
 けれども、もしも聖書のいちばん初めの箇所、創世記を読んだことがある方なら、この「初めに」というのが、天地創造の時のことを言っていることがピンと来るのではないでしょうか。
 今日の箇所は、書かれた時代背景などを抜きにして考えれば、この天地創造の箇所と相似形(似たような形)にあるといっても過言ではありません。天地創造の場面が、新約聖書的に、キリスト論的に変換されて、つまりイエス様を中心に、コンパクトに、しかも深く語られています。
 実はこの、初めにというのは、原語のギリシア語ではエン アルケーといって、in the beginningを意味するのですが、興味深いことに、創世記の一番最初、つまり聖書の一番最初の部分も、このエン アルケーで始まるのです。 本来、旧約聖書はギリシア語ではなくヘブライ語で書かれていますが、ヘブライ語がわからないヘブライ人のために、それをギリシア語に訳した、70人訳聖書(Septuagint)というのがありまして、それを見てみますと、まったく同じ、エン アルケーで始まっています。
 創世記1章を見てみましょう。当然ながら、聖書の1ページ目です。
1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 まったくもって神秘的な箇所です。神様が、この宇宙や地球、つまり「この世」と呼ばれる所を創造された業の前には、地は混沌、カオスだったことがわかります。そして、神様が「光あれ」という言を発せられると、光があるようになりました。
 ヨハネに戻ってみますと、3節、万物は言によって成ったというとおり、この世界、天にあるものも、地上にあるものも、宇宙のすべてはみな、言(ことば)、つまり神様の「み言葉」によって、造られたことがわかります。他にも、例えばヘブライ人への手紙11章3節にはこう書いてあります。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのですと。
 またコロサイ書1章にはこうあります。
15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 これらの聖句を見ても、この世の万物は、神の言葉によって造られたのだ、ということがわかります。しかも、すべてのものは御子によって支えられているなら、「万有引力の法則」とか、ニュートンの運動3法則とか、色々ありますけれども、全部「イエスの法則」とか、「ジーザスの法則」などと言い換えた方がよいのではないか、と思ったりもします。

●言=イエス・キリスト
 では、初めから神様と共にあって、神様そのものでもあるという、「言(ことば)」とは何でしょうか?実は最初に種明かしをしてしまったのですが、「言」とは、御子イエス・キリストのことです。14節には、その裏付けのように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。言葉が受肉して、つまり肉体をとって、この地上に来られた方が、イエス・キリストなのです。私たちの造り主であり、父なる神の子であり、子なる神である方、イエス・キリストなのです。先ほど「つくりぬしを賛美します」という讃美歌を歌いましたが、これは言い換えれば、「すべての創造主であるイエス様を賛美します」ということなのです。

 こうして、イエス様が「言」であることがわかりますと、聖霊によって書かれた聖書、つまり神の言葉である、この聖書自体も、イエス様そのものだと言っても過言ではない、ということになります。確かに、ヨハネによる福音書の少し先、6章の63節には、
「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
と書いてありますから、「言」というのはただの文字だけの、しゃべるだけの言葉ではなく、霊であって、命である存在なのだということがわかります。
さらにヘブライ人への手紙4章12節には、
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろは)(つるぎ)よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」
とあります。これでダメ押しのように、恐ろしいほどに、この「言」が強力な力を持って生きていること、また、人の思いや考えまで見透かすことさえできる存在であることがわかります。イエス様は、「言」であり、霊であり、命なのです。もっと言えば、イエス様は、わたしたちの、命なのです。

 とりあえず今日は、このヨハネによる福音書の冒頭の4節にある、「言」となっているところは、すべて「イエス・キリスト」とか、英語で「ジーザス」でも良いですが、そう置き換えることができる、ということはお土産にお持ち帰りください。そして、後で実際にそのように置き換えて読んでみてください。

●創造者と被造物
 さて、言、つまり神なる主イエス・キリストによって、世界中のすべてが造られた、ということはわかりました。もっと正確に言うならば、世界中ではなくて、宇宙中のすべてが、キリストによって造られました。

 そのことを考える時、日本人である私たちは特に気を付けなければならないことがある、ということを思わされます。創造者と被造物、つまりCreatorとCreatureの区別です。
 日本人はどうしても、無意識に自然を拝む傾向にあります。自然信仰、アニミズムが潜在意識の中に浸透しているからでしょうか。凛々しくそびえたつ富士山や、美しい日ノ出などを見るとすぐに、それをお造りになった方でなく、そのもの自体を拝んでしまうのです。富士山に手を合わせ、初日の出に手を合わせてしまうのです。気持ちの中で、なんて美しいのか!素晴らしい!と感動するだけならば、何も問題はありません。けれども、山や太陽それ自体を拝んでしまったら、それは造られた方に失礼な、一番お嫌いな、偶像礼拝になってしまいます。十戒の第一戒も第二戒も、これを禁止しています。「あなたには、私の他に神があってはならない」、「いかなる偶像も造ったり拝んだりしてはならない」と言って、偶像礼拝は固く禁じられているのです。私たちはこのことを無視するわけにはいきません。
 拝むべきではない被造物を拝むことは、創造主なる神様御自身が、最もお嫌いな罪なのです。この発想は、創造者と被造物、CreatorとCreatureの区別が思考の大前提となっていない日本人には、なかなか浸透しません。だから聖書の言わんとすることや、「カミ」でなく「聖書的なGod」の思想、つまり創造主としての神様のことも、なかなか浸透しないのです。
 私たち、造られた者、被造物である人間は、いかなる美しい自然の中にも、ひたすら、創造主なる神の、つまりは主イエス・キリストの息吹を感じ、その創造の御業をこそ、驚き讃えるべきなのであって、被造物である自然それ自体を拝む偶像崇拝や偶像礼拝は避けなくてはいけないのです。

 先ほどお読みいただいた、今日の旧約聖書の箇所、詩編104編の作者はどうだったでしょうか?もう一度読んでみましょう。
13主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。14 家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。15 ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。16 主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち17 そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。18 高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。19 主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。20 あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。21 若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。22 太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。23 人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
 神様の描かれた美しい映像が浮かんで来るような気がしませんか?神様の御業(働き)によって、造られた自然や動物や人間たちが、創造主なる神様を中心に、神様の秩序によって、太陽の下で、あるいは月明かりの下で、それぞれの生活を営んでいる図です。神様は、人間がぶどう酒で喜ぶこともご存じでいらして、ちゃんと与えてくださっているのですね(笑)。おびただしい数の神様の御業で、この地は満ちているのです。私たちのいる世界は、そういうところなのです。

 じゃあ、今話題の量子コンピューターは? AIロボットは? ルンバは? 自動運転の車は?それらは人間が造ったでしょ? …そうお思いかも知れません。確かに、それらを直接造ったのは人の手です。しかしその人間の知恵の向こう側には、見えないけれども必ず、その知恵を与えてくださっている神様がおられます。今私がこうしてお話していることの上にも、聖霊なる神様の導きがあるのと同じようにです。
 私たち人間は、この世の営みの背後にも、必ず神様の御手の業があり、神様の壮大な御計画があるのだということを忘れてはいけません。

●No Jesus, No life.
 私たちは大人も子供も一人一人、全能の父なる神様によって、またその独り子であられる主イエス・キリストによって、愛されるために造られたものであり、造られたばかりのその時に、「良し」とされました。創世記の1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めてよかった。」との記述があります。これを知ることは、存在の自己肯定につながる大切なことです。自分や周りの人々が、神様によって造られ、「良し」とされた、かけがえのない存在であることを知ることは、ただ両親から生まれた者にすぎないと考えるのとは、大きな違いがあります。両親だって人間ですから、どんなに子供を愛していても、その表現の仕方を間違うこともありますし、それによって心に傷を受ける子供たちもいます。
 けれども、自分はどんなでも、神様によって、愛されて造られた存在なんだ、ということを心の片隅にでも知っていれば、難しいことはわからなくても、それだけで心の拠り所ができます。大人になって人生にくじけるようなことがあった時にも、思い出してそこに帰ることができるのです。

 言であるイエス様の内側には、命があって、その命は私たち人間を照らす光なのだと、今日のヨハネの箇所の4節は言います。イエス様がわたしたちの命の源なのです。
 しかも、9節はさらに、「すべての人を照らす」光なのだと、言っています。イエス様は、私たちすべてを、分け隔てなく、その命をもって、闇から光へと移してくださる神様なのです。

 けれども私たち人間は、その創造主なる神様であるイエス様を、あの、ゴルゴタの丘の十字架で、逆に、光から闇へと葬ってしまったのです。私たち造られた人間が、造った方であるはずのイエス様を「認めなかった」のです。そして「受け入れなかった」のです。命を与えていただいたのに、与えてくださったその方の命を奪ったのは、私たちなのです。

 5節にあるように、私たちは、そのイエス様という光を、理解しないままで暗闇にいてはいけません。10節のように、キリストを認めない世界であってはいけません。また11節のように、キリストを受け入れない民のままでいてもいけません。12節の、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」という言葉こそが、実現して欲しいのです。

 この御言葉のとおり、キリストを受け入れた人には、神の子となる資格が与えられます。今この時にもし、心の中でイエス様を受け入れることができた方は、どうぞ遠慮無く牧師に洗礼についてご相談ください。今から準備すればクリスマスに間に合うかも知れません。

 ところで、10月31日というのは、みなさん、「ハロウィン」ではなくて、ルターが95箇条の提題を出してカトリックにノーを突き付けた「宗教改革記念日」です。今年はもう502周年ですね。ハロウィンは悪霊のお祭りですから、あんまりクリスチャンが喜んで取り扱うべきものではないんですよね、本当は。子どもたちが喜ぶので幼稚園などではなさっているかも知れませんが…。 渋谷のあの乱痴気騒ぎも一掃されればいいのにと思います。以前いた渋谷の教会では毎月1日に早天祈祷会があったので、11月1日の朝6時過ぎに教会に行く道を歩いていると、血まみれのゾンビとすれ違ってギョッとしたりして、道はゴミだらけだし、大変なことになっていたのを思い出します。

 ですので本日の礼拝は、宗教改革記念礼拝としてお献げすることもできたのですが、私が付けた今回の説教タイトルは、“No Jesus, No life”でした。「イエス様なしの人生なんてありえない」という意味です。我ながらよくできたタイトルをつけたな、と思っていたのですが、そう言えば昔、タワーレコードも、No Music, No lifeと言っていましたし、普通にこの“No Jesus, No life”ロゴのTシャツや、このタイトルの歌まであったので驚きました。今度Tシャツ買おうと思います(笑)。でも冗談ではなく、先ほどの詩編104編を読んでいたら自然に、「No Jesus, No lifeだな〜」、と浮かんだのです。ルターがここにいたら、リンゴの木を植えながら、「アーメン!」と言ってくれたかも知れません(笑)。

 イエス様は、隣の十字架でイエス様をなじった強盗のためにも、世界中のすべての犯罪者のためにも、私たち一人一人のためにも、分け隔てなく、十字架にかかり、命を投げ出してくださいました。御自身の尊い命と引き換えに、私たち被造物に、永遠の命をくださるためにです。

 14節のように、言であったイエス様が、肉体をとって、ご自分の民のいるこの地上へとやって来られたのは、なぜでしょうか。何のためにでしょうか。……死ぬために、です。生まれるために生まれたのではなく、死ぬために、神の子であるはずのイエス様が、肉体をとって、この地上に来られたのです。なぜなら、肉体がなければ、死ねないからです。そうしなければ、わたしたちのために十字架にかかり、罪から救ってくださることができないからです。

 主イエスは、主を認めなかった私たちのために、また、主のために何にもしていない私たちのために、十字架で命を投げ出してくださったのです。
 しかしそれから三日目に、私たちの主、イエス・キリストは、復活されました。そして今もなお生きて働いておられ、聖霊によって、わたしたちに命を与えてくださっています。どうか今日この説教を聴かれたお一人お一人の中に、小さな宗教改革が起こりますように。

祈り