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降誕前第8主日 聖徒の日 永眠者記念礼拝
   説教 「父の願い、母の喜び」

日本基督教団藤沢教会 2019年11月3日

【新約聖書】ヨハネによる福音書 3章13~21節
13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


父の願い、母の喜び
 今年もご遺族の皆さまをお迎えし、主の御許へと召された方々を覚え、共々に主を礼拝できます幸いに心より感謝いたします。そこで、心を一つにし、今日も御言葉に聞いて参りたいのですが、ところで、今日のこの御言葉については、ご遺族の皆さまも、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。それは、この御言葉が、召された方々が、礼拝において、その人生の節目節目において繰り返し聞いてきた御言葉であるからです。それゆえ、ご家族とご一緒に礼拝に出席した際などに、一度ならず、二度三度と、ご一緒に聞いたことがあるのではないでしょうか。それゆえ、それについては、次のように言うことができます。この御言葉が、召された方々の人生を彩ったように、皆さんの人生をも同じように彩ってきたのが、この日の御言葉でもあるということです。なぜなら、召された方々は、皆さまの誕生、入学、卒業、結婚など、皆さまが今も大切にされているであろう人生における節目節目の出来事を、この御言葉に導かれながら皆さまとご一緒に分かち合うものであったからです。また、それだけではありません。いいことも、そうでないことも、共に分かち合うのが家族である以上、その苦しみや悲しみをも共にし、そして、その都度、召された方々を励まし、慰めたものが、この日の御言葉であったのですが、ですから、皆さまが、かつて愛する方々から励ましや慰めを受けたとしたら、それは、主イエスご自身が皆さまに向かって何かを語りかけてくださったということで、それゆえ、それは、次のように言うこともできるのでしょう。

 その生涯にわたり、御言葉に聞き続けた方々も、こうして今この御言葉に聞いている私たちも、そこには、様々な思いがあるのかもしれませんが、けれども、御言葉が私たちに語りかけてくれていることは、私たちが、御言葉に導かれつつ、同じように一つの道を歩み、その生涯を過ごしているということです。従って、このことは、こうも言えるのではないでしょうか。人がそれぞれの命を生きるということは、その人一人だけのものではないということです。それゆえ、命も私たちの人生も、自分一人だけのものではありません。共に過ごす人々とと共々に重なり合うものであり、ですから、この点を踏まえ、御言葉が語る「永遠の命」ということを見つめるなら、なんとなく捉えどころのない印象を与えるこの「永遠の命」についても、自ずとお分かりいただけるのではないかと思うのです。つまり、永遠の命とは、主と共にある命であり、主と共にある命とはつまり、主と共に歩んだ方々も、さらには、召された方々と共に歩んだ私たちも、主の招きによって、主イエスとの交わりの中に置かれ、同じ一つの命に生き、それぞれの人生を過ごすものであるということです。

 この日、私たちは、そのことをこうして共に主を礼拝することで知らされているのですが、永遠の交わりの中に共々に置かれ、では、私たちは、御言葉から具体的に何を聞いていけばいいのでしょうか。それは、主の最も近くにある方々のその声であり、その思い出です。今日の説教題を「父の願い、母の喜び」とさせていただいたのは、それゆえのことでもありますが、けれども、そこで申し上げたいことは、皆さまのご両親に限定してのことのではありません。皆さまの心の内にある召された方々すべてのこの時の願いを素直に聞き、その思いのそのままを率直に受け止めるということです。そして、それがこの日私たちに求められているのは、愛する者が私たちに語りかけていることに加えて、そこに、私たちの愛する方々が信じ、信頼した、神様の御心があるからです。そこで、その願い、その思いでありますが、それは、「御子を信じる者は裁かれない」と御言葉にあるように、神様に背を向けず、主イエスを信じた方々と同じように、「これからを信じて」生きるということです。そして、この「これから信じる」と言うことは、「光、つまり、主イエスのことですが、光が世に来たのに、人々は、その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」とあるように、光の差す方向に向かって、まっすぐに進むことです。間違っても、ふらふらと闇の方には向かわないということなのですが、ただし、この闇に向かうということについては、誤解なきようにお願いします。

 「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」とあることから、すねに傷を作らずに生きることだと、多くの人は、そう思うのかもしれません。そして、生まれたままの姿をもって生涯を終えることも、親孝行の一つではあるのでしょうから、傷を負っていいわけはありません。ましてや、人を傷つけたり、困らせたりしていいはずはないのですが、けれども、悪に対抗しようとする人の善意が、人を傷つけ、また、自らをも傷つけることもあるわけです。ですから、すねに傷を負わないということがいかに難しいかは、皆さんもよくお分かりのことでしょうし、また、それを隠そうとするから、返って、闇の中にふらふらと迷い込んでしまうことにもなるのです。そして、迷い込んだ場合ですが、正しいとの思い込みの中では、闇を光と、悪を善とさえ思うことがあり、ですから、いずれが悪で、いずれが善であるかは、その判断基準が明確にされていなければならず、つまり、それが御言葉であるということです。

 けれども、そこで一つ気になることがあります。それは、この日の御言葉が、悪に対して善ということを語るのではなく、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれなされたということが、明らかになるためである。」と語っているということです。つまり、主イエスのその言葉が示すように、ここで大切なことは、私たちなりの正しさを貫くことではなく、真理を行うということです。そして、それが、召された方々が、この時、私たちに願う「これからを信じる」ということでもあるのですが、それを我が身をもって現したのが、主イエス・キリストというお方でもありました。まただから、主イエスを信じ、信頼された方々の人生が、主に導かれ、祝されるものであったことを、その葬儀の際などに私たちは知らされることにもなるのですが、では、主イエスがその生涯をもって示されたその道筋、真理とはいかなるものなのでしょうか。それは、十字架と復活へと向かう道筋です。このことを御言葉は、「人の子も上げられねばならない」と語るのですが、つまり、この十字架と復活の出来事は、主イエスにとってのMust、神様に求められている「ねばならない」ものであったということです。それゆえ、この「ねばならない」ものを引き受けることが真理に生きるということでもあるのですが、つまり、主の御許にある方々は、それを私たちに願い、そのためにその思いを寄せているということです。

 そこで、この「ねばならない」ものを引き受けるに当たって、皆さんの反応は、二つに分かれることにもなるのでしょう。それは、「よし分かった」という方もいれば、「もういいよ」と思う方もいるということです。しかし、そう思うところにまた、私たちの誤解があるようにも思うのです。なぜなら、この「ねばならない」ということは、必然であり、それは避けては通ることができないものであるということです。つまり、それが当たり前であり、他に選択肢はないということです。まただから、そこから逸れることを、御言葉は、滅び、闇、悪と言って、距離を置き、この「ねばならない」を説明しようとするのです。それは、そこで求められていることが、私たちの世界観、価値観、道徳観などに照らし合わせて、その良し悪しを私たちなりに判断することではないからです。ただし、そこで言わんとしていることは、曰く言い難きものではなく、もっと素直に、率直に聞くべきものであり、それが、今この時、私たちに求められている「ねばならない」ものでもあるということです。そして、またそれが、先に申しました「これからを信じる」ということでもあるのです。

 信じるということを自分が信じる、信じないと、信仰をあたかも自分の所有物のように考えると、今申しましたように「よし分かった」ということにもなりましょうし、また、「もういいよ、たくさんだ」ということにもなるのでしょう。けれども、それは、信仰だけに限ったことではありません。私たちがこうして家族との暮らしを立てていく中で、つまり、人生を共にする中で、この「よし分かった、ありがとう」ということも、「もういいよ、たくさんだ、いい加減にしてくれ」ということも、信仰以外にも、他にもたくさんあるように思うのです。ですから、そういうものの一つとして、この「信じる」ということを考えると、その答えは、今申しましたようにどうしても二つに分かれることになるのでしょう。それゆえ、この「ねばならない」をそういうものの一つと考えるようになり、そこで、できる、できない、やりたい、やりたくない、やってやるもんか、あー、うるさいと、自分の気持ちや考えに寄り添いやすい答えを求めることにもなるのでしょう。ただ、そうしたことが、だから、いけないことだとすぐにきめつけないでいただきたい。それは、御言葉がいいたいことは、そんな単純な決めつけではないからです。

 16節で御言葉は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、主イエスに求められた「ねばならない」ことの理由をこう語るのですが、それは、御子イエス・キリストを通し示された神様との永遠の交わりと、そこに至る上での道筋とが、すでに決定されたことであり、取り消すことも取り除くこともできないものだからです。そして、この道筋を主イエスと共に歩み、主の御許において永遠の安息に与っているのが、私たちの愛する方々でもありますが、ですから、私たちが「これからを信じる」ということはつまり、始めに申しましたように、愛する方々と共に過ごしたこれまでの日々は、すべてがここにつながっているということなのです。しかも、それは、私たちの好き嫌い、この世の道理に適うか適わない、そういうことに基づき語られているのではありません。私たちの命とは、つまりは、召された方々と同じように、その同じ所を目指すもので、そして、それを約束しているのがこの「永遠の命」、主との永遠の交わりであるということです。まただから、私たちの人生は、その節目節目において、御言葉によって彩られ、その私たちをして、神様の御心が、この世に目に見える形で現されることになるのです。

 ただし、この愛する方々と共に過ごした日々は、どれもこれも、どれ一つとして同じものはありません。そのために、私たちが辿るであろうその道筋は様々な形を取ることになり、そこで、私たちは、この「ねばならない」を宿命、運命などと呼んだりもするのです。しかし、私たちがついそう呼んでしまうこの「ねばならない」ですが、それは、いわゆる、運命や宿命といった類いのものではありません。なぜなら、ネガティブに捉えられがちな、この私たちの目にはそうとしか思えないようなものも、主イエスは共に担い、その私たちたちと共に歩み、天の御国へと導こうとしてくださっているからです。だから、私たちは、この「ねばならない」を信じることができるし、信じていいし、それこそ信じなければならないのです。それゆえ、そのことを、その願いとして、その思いとして、主イエスは、今日も私たちに語るのですが、しかし、それは、神の右に座したもう主イエス・キリストだけではありません。この時、主イエスと間違いなく共にある、私たちと共に過ごした方々もまた、主イエスと同じように私たちのことを思い、私たちのことを考え、こうして礼拝を共にする私たち一人一人のことを覚え、主が約束される御国での再会を待ち望んでおられるのです。

 しかし、それにもかかわらず、道に迷い、途方に暮れることがあるのが私たちなのです。そのため、様々な思いに駆られ、それこそ、神を疑い、神を呪い、神を裏切ることすらするのですが、けれども、その私たちが、こうして礼拝を共にし、御言葉に聞くことが許されているのです。このことはつまり、そこで私たちは、自分自身を取り戻すことができるということであり、そして、そこで取り戻される自分自身とはつまり、天へと導かれている自分自身であり、まただから、そこに導く力を、御言葉は、愛と呼んだりもするのです。ですから、愛とは、その場限りのものではありません。私たちの向かうべきこの先を指し示し、そこへと導くものでもあり、それゆえ、私たちの命とはつまり、この愛を引き受けるために与えられているものだとも言えるのです。従って、この愛するということは、神様の目、イエス様の目、愛する方々の目、そうしたものを気にして、自分を殺し、相手に合わせようとするところで現されることはありません。愛とは、私たちが御国での再会を果たすための力であり、まただから、そこに辿り着くために、私たちは、今何をすればいいかを、御言葉を通し、考え、実践することにもなるのです。

 ですから、私たちにとって御言葉は、よく言われるように、人生という航海を進む上での海図であり、主イエスはそのための座標軸でもあり、そして、その先に待っている愛する方々との再会は、私たちそれぞれの命の原点であり、目的でもあるのです。従って、私たちには、このように愛する方々の信仰ゆえに進むべき道筋とその手立てが与えられ、しかも、この終わりを目指す旅路が、私たちの目には、かように豊かなものであることが、愛する方々を通してはっきりしているわけですから、そのことをしっかりと胸に刻み、共々に御国を目指す者でありたいと思うのです。なぜなら、私たちの命の豊かさは、その始まりと終わりを見つめることにおいて初めて明らかになるからで、また、それが明らかにされるからこそ、そこで、私たちの人生は、必ず豊かなものとされていくからです。愛する方々と共に過ごした日々は、私たちにとって、そういうものであったということです。祈りましょう。

祈り







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