印刷用PDF(A4版4頁)
終末前主日礼拝 説教 「何をしてくださるのでしょうか」

日本基督教団藤沢教会 2019年11月17日

【旧約聖書】出エジプト記 2章1~10節
 1レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 6章27~35節
27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。


何をして下さるのでしょうか
 主日礼拝に先立ち、早朝礼拝後に幼児祝福式が行われ、今年も、祝されたひとときを過ごすことが許されました。そこで改めて思わされたことは、子どもに限らず、関わるすべての人々に祝福を与えることが、私たち教会に与えられている使命であるということです。そして、この日、主イエスが先ず私たちに仰っていることも、この使命に生きるということです。ですから、27節で主イエスは、こう仰るわけです。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と。ただ、主イエスがこう語るその相手は、主イエスの御後に従った弟子たちではありません。主イエスに何かを期待し、そのために主イエスを探し求め、そして、ようやく主イエスのところに辿り着いた群衆です。従って、主イエスのこのお言葉は、主の弟子たち、私たちに対して語りかけられたものではありません。けれども、語られているその中身を見て行くとき、そのように語る主イエスのこの言葉を「自分とは無関係だ」と、そう言い切ってしまっていいのでしょうか。

 ところで、私たちが礼拝に集い、求めてやまないものとは一体何なのでしょうか。つまり、何のために、私たちは、こうして主の御前へと毎週毎週集まってくるのかということです。それは、牧師の気の利いた話を聞きたいからでしょうか。讃美歌を気持ちよく歌いたいからでしょうか。あるいは、気の合う仲間と週一回会えることを楽しみにしているからでしょうか。もちろん、それ以外にもいろいろあり、今申しましたことは、その中のほんの一つでしかありません。ちなみに、今申しましたことのどれもが、なくてもいい、不必要なものだとは思いません。私たちが信仰生活をしていく上で、どれもこれも大切なものであり、それこそ、それがあるから、さあ行こう、やってみようと、重い腰を上げることができるからです。ですから、何かを始める上での切っ掛けとしては、純粋なものより不純なものの方が、私たちにより多くの力を与えてくれるというのはよく知られたところであり、また、そうであればこそ、その後の継続性、持続性の後押しすることにもなるわけです。ただし、それには一つ条件があります。動機は不純でも、そこで触れるものが純粋でなければ、長続きすることはありません。まただからこそ、その後に繋がっていくことにもなるのです。

 ですから、何かをする上で、その動機が純粋か純粋でないかを考える前に、その理由はどういうものであってもいい、先ずはやってみること、そして、続けてみること、主イエスが「働きなさい」と仰ることは、先ずそれが大事だということを言いたいのだと思います。そして、ここで主イエスが、食べ物、パン、満腹した、などなど、私たち人間が生きる上での、なくてはならない諸々のことについて触れているように、私たちが手にするもの、そこで満足するもの、そうした諸々のものを手にすることは、私たちが信仰を続けていく上で、そのどれもこれもすべてなくてはならないものなのです。ですから、35節で、主イエスが「私が命のパンである。私の下に来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言っているのはそのためです。ただし、もちろん、それが、主イエスが一番いいたいことではありません。

 ここでの本質的な事柄は、主イエスの許にやって来て、主イエスを信じるということです。けれども、信じるということは同時に、信じるからこそ、満たされるし、納得できるし、美味しいし、スッキリするし、気持ちよいものであるし、だから、やって良かったと思えるし、このように、満足感で一杯になるからこそ、人は主イエスをさらに信じることができるし、信じ続けることができるのです。ただし、そこで忘れてはならないことは、そうした満足を得るためには、そのための手順、物事の順序が大事だということです。それは、先ず主イエスの御前に集うということ、その上で、満ち足りるということ、信じるに至るためには、こうしたプロセス、手順を踏んでいくことが必要なのです。ただ、このように申しますと、じゃあ、こうして礼拝に集まり、満足が得られないのは、どうしてなのか、自分は信じていないのか、そこで、そんなことが直ぐに頭をよぎった方もいることでしょう。では、そもそも、信じるということはどういうことなのでしょうか。それについて、主イエスは、ここでこう仰います。

 主イエスは仰います。「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である」と。つまり、信じるということは、私たちの心の持ちよう、気分の問題などではなく、すべては神様の御業であるということです。ただ、これを言われてしまうと、信じるということが、分かったような分からないような、なんだか狐につままれたような話にもなりかねません。神様の問題であるわけですから、自分が信じているのかいないのか、それすらも分からないことにもなるからです。しかし、それでは、信じた甲斐というものがありません。ただ、そこで信じた甲斐がないと、いくら文句を言ったところでどうしようもありません。私たちの問題ではなく、神様の問題なわけですから、そのためにまた、じゃあ、どうすればいいのかということにもなるわけです。しかし、それでは堂々巡りを繰り返すばかりです。そこで、一つ申し上げたいのですが、ところで、今、ここで、そのように私たちに何かを仰っている方はどなたなのでしょうか。それは、主イエスです。そして、主イエスの言葉を信じるのが私たちであるわけです。ですから、自分ができるできない、納得できるできない、そういうところから主イエスのこの言葉を受け止めるのではなく、それが今の私たちには必要なことなのだ、ここから、この信じる=神の業ということを受け止めてみてはどうでしょう。

 主イエスが仰る、この信じる=神の業ということは、不純な動機で集まった人々が、心から神様を信じるために必要なことなのです。それは、関わるものに対し、慈しむ思い、大切にしたいとの気持ち、そういう大事にしたいとの気持ちがなければ、折角与えられたこの大切なものも、結局はいじり回し、引っかき回して、それで終わってしまうからです。けれども、そうはならないのは、私たちを集めるのが神様であり、そして、私たちがそこで主イエスが仰ることに満足できるのは、神様が与えてくださったことに気づくからです。まただから、そこで、この与えられたということを大事にできないと、自分の中での賞味期限が切れたときには、人は、いとも簡単にこの大切なものをゴミ箱の中にポイしてしまうことにもなるのでしょう。そして、今日の最初の所で、主イエスが「いつまでもなくならない」と仰ることが、まさにそのことを私たちに教えてくれているように思うのです。

 賞味期限が切れる前に、次々と何か新しいものを手にすることができるから、私たちが満足できると主イエスは仰っているわけではありません。神様が私たちに何かを与えてくださるのは、そもそものところで、これはどういうことなのでしょうか。それは、神様が私たちのことを祝福してくださっているということです。そして、「いつまでもなくならない」と主イエスが仰るように、この祝福がいつまでもなくならないからこそ、祝福されていることを知った私たちは、信じ、満足することができるのです。まただから、「飢えることもなければ、渇くこともない」と、主イエスは仰るのですが、つまりは、この祝福に与り、そこで純粋なものに触れればこそ、信じることができるようになるのです。従って、信じるということは、信じようとすることでもなければ、信じなければならないものでもありません。主イエスが神の業と仰るように、神様の御心でもある主イエスが私たちと共にいてくださるからこそのものだということです。そして、主イエスが私たちと共にいてくださるのは、私たちには、そこで向かうべき道、辿り着くところがあるからです。主イエスが私たちと共にいてくださるのはそのためであり、まただから、進むべき道を辿り、向かうべき所に辿り着くために、主はその時々の必要を満たしてくださるのです。それゆえ、信じるとはつまり、主イエスのこの導きを信じるということであり、そして、それを支えるものが、私たちに与えられている祝福でもあるのです。

 ですから、それは、今の問題であると同時に、これからの問題でもあるということですが、ただし、この向かうべき所、進むべき道は、私たちが自分で決めるものではありません。自分の好みやその時の気分でえり好みするものではなく、ですから、気分に流されやすい私のような者は、そのために、時にピシャッと言われる必要もあるのです。それがないと、純粋と思い込む自分の不純さに気がつくことさえできないからです。ですから、今、私が改めて思わされていることは、この「いつまでもなくならない」と主イエスが仰ることを大切にしたい、しなければとか、すべきだとか、そういうことではなく、素直に大切にしたい、ということです。

 ところで、この大切にするということですが、それが愛するということでもあります。従って、私たちが愛と言っているこの言葉を、500年前に生きた人々は「お大切」と言って日常的に用いていたことはとても正しいことのように思うのです。なぜなら、大切にするということは、言葉の上だけのことではないからです。もし、この、大切にするということが、口先だけのものであれば、人がその有り難みを感じることもないでしょうし、また、そのことに喜び、そして、その味わい深さ、その気持ちよさ、などなど、そういったものが人に伝わろうはずもないのでしょう。そもそも、自分が大切にされていることが分からなければ、人がそれを人に伝えられようはずもないのです。まただから、働きなさい、励みなさい、大切にしなさい、と主イエスは仰るのですが、それがためにまた、私たちは、主イエスのこの働きなさいと仰るこの言葉を使命などと呼んだりもするのでしょう。でも、主イエスがそこで仰りたいことは、錦の御旗を振りかざすような、そういったご大層なことではありません。

 気は心、情けは人のためならず、最近、この言葉を耳にすることが少なくなってきたように思いますが、かつて、人々が、愛をお大切と呼び、言葉ではなく、日々の具体的な振る舞いにおいて表現したように、主イエスが仰りたいことは、自分の心の内側だけを覗き込むことではなく、日々共に過ごす人々のことを心に留め、大切にすること、一緒に生き、そして、歩もうとすること、そうした日々の暮らしを大切にするようにと、主イエスはそう仰っているだと思うのです。なぜなら、主イエスはそういう私たちといつまでも、どこまでも共にいてくださっているわけですから、そういう私たちの幸せ、そういう私たちの暮らし向きを、絶対におざなりになさることなどないからです。ですから、そういう意味で、私たちに与えられている祝福がおざなりなものであろうはずもなく、また、祝福に生きる私たちも、おざなりに人と関わることもありません。

 ただ、それにも関わらず、私たちは、群衆と同じように不安な毎日を過ごしています。今の飢え渇きだけでなく、将来の飢え渇きをも心配し、つまり、私たちの心のどこかで常に大きく居場所を占めているものが、この不安な気持ちなんだと思います。まただから、そのために主イエスを捜し求め、そして、見つけ出し、あれこれとお願いしたりもするのですが、このことはつまり、私たちがそれだけ主の祝福を求めずにはいられない者であり、まただから、主イエスも私たちに祝福を与えてくださるということです。ただし、主から受けるこの祝福を、私たちは取り違えてはなりません。なぜなら、この祝福は、純粋さに徹するところで与えられるものではなく、また、不純さに慢心するところで手にするものでもないからです。

 手のかかる私たち人間と、それにも関わらず主イエスが共にいてくださるからこそ、そこで与えられるのが主の祝福でもあるのです。それゆえ、そのように祝福に与り私たちが生きるということは、きれい事で片付けることはできません。けれども、それだけにまた、だから、きれいにしたいと思うのでしょうし、まただから、そのままでもいいかとも思いたくもなるのでしょうし、それだけでなく、そうした思いがない交ぜになり、だから、今すぐにと焦り、不安な毎日を過ごすことにもなるのでしょう。けれども、主はその私たちと共にいてくださっているのです。そして、それが神の業であり、それが信じるということなのです。そして、このことは、主イエスと共にある永遠の交わりの中に生きる私たち一人一人すべてに約束されていることでもあるのです。ですから、先を急ぎすぎるのでもなく、また、慢心し、高をくくって毎日を過ごすのでもなく、いつまでもなくならない、主の祝福の中に留まり、主がこうして与えてくださった兄弟姉妹と互いに互いを大切にし合いながら、主が指し示す道を今週も歩み続ける私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り


  


晴 16℃ at 10:30