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終末主日(降誕前第5主日)・収穫感謝日礼拝
  説教 「過去と現在と未来の王」

日本基督教団藤沢教会 2019年11月24日








説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
旧約聖書 エレミヤ書 23章1〜6節 【ユダの回復】
 1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
 3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。
 わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
 王は治め、栄え
 この国に正義と恵みの業を行う。
6 彼の代にユダは救われ
 イスラエルは安らかに住む。
 彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
 
ヨハネの黙示禄 1章4~8節 【序文と挨拶】
 4-5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますよう、アーメン。
7 見よ、その方が雲に乗って来られる。
 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
 ことに、彼を突き刺した者どもは。
 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
然り、アーメン。
 8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


過去と現在と未来の王
●プロローグ
 さて、本日はキリスト者である私たちにとっては、「大晦日」とも言える日です。教会の暦では、今日で1年が終わり、次の主日から、アドヴェント、つまり待降節に入ると共に、また新しい1年が始まるのです。

 みなさんにとって、今日までの教会の1年は、どのような歩みでしたでしょうか?わたくしにとっては、なんだか不思議な、激動の1年でした。赴任先が決まると共に、特に5月からはこの藤沢教会でのこのような貴重なご奉仕の機会も毎月いただけるようになり、ほんとうに感謝な、恵みと学び多き1年でありました。

 また、今私たちが歩んでおります「降誕前」という教会暦は、イエス様の御降誕の時を迎える前に、改めて、私たちの救い主イエス様というお方が、どのような方なのかということを確認し、主の御降誕に備えて私たちの信仰を整えていく、という季節でもあります。

 ですから今日は、「日毎の糧」の聖書箇所に従いまして、特に本日の新約の箇所の4節、8節に2回出て参ります、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という御言葉を軸に、過去、現在、未来の王である方について、ご一緒に見つめ直してみたいと思います。

過去〜かつておられた方として
 さて、このタイミングで今、ローマ教皇フランシスコさんがこの日本に来ていますね。藤沢では来月、毎年恒例のカトリックと合同の市民クリスマスイベントがあるようですが、なんと教皇来日は38年ぶりとのこと。

 私はたまたま大学の卒業旅行でバチカンに行った時、私たちのバスが到着した途端に、当時の教皇だったヨハネパウロ2世が窓から顔を出したので、その時初めて生教皇を見たのですが、残念ながら今回東京ドームに行く予定はありません。


 しかしさすが本家はすごいですよね。プロテスタントの牧師のボスみたいな人(それが誰なのだかさえ分かりませんが笑)、例えば教団総会議長の石橋秀雄牧師が飛行機に乗って海外へ行っても、ヘッドレストのカバーや機内食が彼のために特別に用意されたものに変えられたりは絶対しないですからね(笑)。まああんな特別扱いを神様が良しとしておられるかどうかは「?」マークで、マザーテレサだったらどう対処しただろう?などとつい考えてしまうのですけれど…。


 教皇と言えば、3月にイスラエルに行った際に、ガリラヤ湖畔のタボハという町にあるペトロ首位権教会の庭に、最初のペトロから、今日本にいるフランシスコまで266人もの歴代教皇の顔写真や似顔絵がずらっと入ったポスターが貼ってあるのを見ました。でもイエス・キリストはずーっと、ヘブライ書にあるように、きのうも今日もいつまでも永遠に変わらず続く神の子であり、三位一体の神様です。


 そのイエス様が一体、遡るといつからおられるのか、あのクリスマスにこの地にお生まれになった時からなのか?というのは押さえておくべきポイントでしょう。イエス様の過去はどこから始まるのか、ということです。今日の新約の聖書箇所にもそのヒントはありますが、やはり具体的にはこちらの方がわかるでしょう。同じヨハネの、と言っても福音書の方ですが、確か前回もお話した冒頭部分です。

 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 
つまり、初めにあった「言」、万物を造った「言」が、神と共にあり、また神でもあられるイエス・キリストなのです。つまり、主イエス様は、万物が造られる前、永遠の初めからおられた、ということです。先月は、御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。というコロサイ書1章の聖句もご紹介しました。

●現在〜今おられる方として
 では、現在のイエス様、今おられる方としてのイエス様を、私たちはどのように理解しているでしょうか。ここからようやく今日の新約の聖書箇所を見てまいりましょう。でもその前に、今日の箇所は4節からですが、その少し前の1節2節にも触れさせてください。

 私たちは普段、「黙示録」などという言葉に触れることはなかなかない(あっても昔の映画のタイトル「地獄の黙示録」くらい?)と思うのですが、一体「黙示」とはなんぞや、ということを押さえておきたいのです。1節には、

 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

 とありますが、「黙示録」とは、この1節の「黙示」、 Ἀποκάλυψις アポカリュプシス(英Revlation)という言葉からきています。これは、「啓示」とか、「開示する書」という意味です。ですからこの書は、「イエス・キリストの啓示」つまり、「キリストがご自分について語られた事」だということです。

 そして2節では、
 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
 と言っていますから、本書の主題は、ヨハネが見たことの証しであって、その内容は、神の言葉とイエス・キリストについてのことなのだ、ということです。ヨハネはこの書を通して、キリストが救い主であることや、彼の真実の姿について、過去現在未来の時間軸を超えて示そうとしています。

 また、3節の終わりで、時が迫っている、と言っていますが、この「時」という単語には、クロノスではなくカイロスという原語、つまり「流れる時」ではなく、「定められた唯一の時」を示す言葉が使われているので、それは、主の再臨の時が迫っている、と解釈することもできます、…ということも、付け加えさせてください。


 さて4節からが今日の箇所ですけれども、まだヨハネが手紙を送る7つの教会への挨拶をしているところです。

 今おられ、かつておられ、やがて来られる方というのは先ほども申しましたように、8節でも繰り返されますが、実は4:8でも出て来まして、そこでは「全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」となっており、語順が違います。しかしこの箇所によって、全能者である神、主、というのが、かつておられ、今おられ、やがて来られる方と同じ方なのだ、ということがはっきりわかります。

 この「おられる」というのは、出エジプト3:14で主ご自身がモーセに言われた言葉から来ています。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言 うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と言われたのです。


 また、4節続きの、玉座の前におられる七つの霊というのは、原語の「霊」という語が大文字で始まるΠνευμάτωνとなっていますので、「聖霊」のことです。「七つの」というのは、7が聖書では完全数で、聖なる数なので、「完全なる霊」という意味もあります。ヨハネはこの7を黙示録の中で54回も使っています。


 続いて、特にイエス様を形容する言葉が並びます。(ちなみにここから5節とされている訳もあります)まず、証人。これは、「神の御旨、神様の意志を証しする方」という意味です。次に、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者と続きます。黙示録19:16には、この方の衣と腿(もも)のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。とのヨハネの報告もありますが、イエス・キリストは、地上の王たちの支配者、つまり「王の王」なのです。


 さらに、ヨハネは次のように続け、キリストを賛美します。
 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

 そうです。キリストは無条件にわたしたちを愛し、十字架にかかり、御自分の血を流されることによって、私たち全ての者を、罪から解放してくださったのです。


 ヨハネは福音書の中で、「エゴーエイミ(わたしは、ある)」という形式で、キリストが、ご自分が神の子であることを現された七つの言葉を記していまして、それは、
 ①わたしはいのちのパンである、
 ②世の光である、
 ③羊の門である、
 ④良い羊飼いである、
 ⑤復活であり、命である、
 ⑥道、真理、命である、
 ⑦わたしはまことのぶどうの木、
の七つで、これらも現在の我々にとっての主イエスがどのような方であるかを知るのに有益な情報ではあります。しかしやはり、わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方である、というキリスト認識が、最も大切でしょう。


 最近何度かこの証しをお話しているのですが、実はある所で説教しなくてはいけなくて、しかしいつまで経っても、もう明日しゃべる日だという時になっても、聖書の箇所も決められなければ、何も準備が出来ずに、ひたすら祈っていた時、明け方の4時頃、ひと言だけ神様の静かな声が聞こえたのです。
「わたしが導く」と。

 静かな、しかし愛と威厳に満ちた主の御声でした。そのひと言だけでしたが、それが聞こえた途端に、安堵も含め、色々な意味の涙があふれました。


 わたくしはそれまで、メモさえ書かずに人前で説教したことは一度もなかったのですが、その時はほんとうにノープランで、何も持たずに、導かれることを信仰で信じて、導かれるままに、15分程しゃべることができました。初めての経験でした。

 要するに、神様は、わたくしが語る内容だけのことではなくて、「この日本の閉鎖的でどうしようもない、人を裁いてばかりいる、ファリサイ派のように凝り固まったキリスト教界(←敢えてこの字)を、新しい在り方へと打ち破っていくために、これから先の私たちがすべき伝道の方法や道筋も、すべて、ちゃんと神である私自身が導くから安心していなさい、ただひたすらに、私に委ねて従って来なさい、それは人間には無理だと思われるようなことだろうけれども、神である私がちゃんと導くから」、ということを、その時そこにいた大勢の方々に伝えたかったようでした。

 すると、後で多くの方々から、さっきの説教にとても励まされた、感動した、という声をいただきました。何より、語った自分自身がとても励まされました。

 「声が聞こえる」ということについては、そんなの信じられないという方もおられるでしょうが、わたくしもわざわざ嘘の話はいたしませんので、まあ、そんなことがある人もいるんだな、と思って受け止めてくださればよいと思います。


 私たちはこれから、新しいキリスト教界の時代の幕開けに向かって、主に導かれて進んでいくでしょう。人間がどんなに逆らってもムダなのです。神の御計画は必ず成ります。成就します。しかし、その方法は決して横暴なものではなく、いつもほんとうに「時に適って美しい」という、聖書の言葉どおりの鮮やかなまでの自然さで行われます。現在の私たちはそうした神の導きの中を生かされているのです。自分できっちり計画してやっているような気がすることでも、それが神の御計画と一致していなければ、最終的に実ることはないかも知れません。

 これから受験シーズンですけれども、受験の結果などもほんとうに、まあ私の場合は全く受験勉強しなかったので当然の報いでしたけれど(笑)、一生懸命勉強したからといって、必ず志望校に入れるかというとそうでもないところがあるわけですよね。やはりそれも神の御計画なのです。私自身も、大学は全く志望校ではありませんでしたけれども、受験するときから不思議な神様の導きがあり、受けたら受かってしまったので浪人させてもらえず、挫折感と納得いかない感満載の中で始まった大学生活でしたが、不思議な事に、巡り巡ってそれが今に繋がって、その時の大学の教会で、今主任牧師をしているのです。私がその教会の存在さえ全く知らなかったのにも関わらず、です。なぜでしょう?…それが神様の御計画だったから、にほかなりません。

 さらに、なんとその時のゼミの同級生に、先週洗礼を授けました。私たちは2人とも、同じキャンパスの開校初代の学生としても同期でした。30年前に共に学んでいたその場所のそのチャペルで、ある者が牧師とされ、ある者が信徒とされ、洗礼を授け授かり、再び、同じ共同体に植えられた者同士とされたのです。

 まったくもって、神のなさることは、すべて時に適って美しい、としか言いようがありません。鮮やか過ぎる神の御業です。

 キリストは、今も確かに生きておられ、私たち一人一人の上に、このようにいつも聖霊を通して働かれ、その御計画に従って私たちを導いておられるのです。

●未来〜やがて来られる方として
 さて、来週から始まる待降節、アドヴェントですが、英語のadventは、降臨とか来臨という意味です。冒険のことをadventureと言いますが、それはこのadventから来ています。そりゃあ、神の子が地上に人として生まれてくるなんて、大冒険です。しかも、その神の子の任務には、「十字架で、酷い罪人として死ぬこと」という、神の子をもってしても前の晩にゲツセマネの園で血の汗を流して祈らなければならないほど、困難なミッションがあったのです。

 しかしそこさえ乗り越えれば、あとは三日目に自動的に父なる神が復活させてくださり、それから40日目に天に引き上げてくださり、あとはいつだかわからないけれど、また父なる神が決められた日に、再び地上にキリストは来られる、というのが聖書の約束です。

 いつも申し上げますが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」とマタイ24章にも、マルコ13章にも同じようにはっきり書かれていますから、ノストラダムスみたいな変な予言だけは信じないでください。(聖書の「預言」と、占いのような「予言」は別物です)再びこの地に降りて来られるイエス様御自身も、その「再臨」と言われる日がいつだかは、ご存じないのです。

 しかしイエス・キリストは、再び来られる方、やがて来られる方です。1:7に、 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、とあります。
 待降節、アドヴェントは、この再び来られる再臨のイエス様と、約2000年前、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に、人としてこの地上に生まれてくださった神の子イエス様の御降誕を、二重に待ち望む時なのです。


 本日のエレミヤ書の最後の箇所、5節6節にはこうあります。5見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。6彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

 
これはエレミヤがバビロン捕囚の時代にずっと先の事を預言した言葉ですが、後の日に、ダビデの家系の中に、正義の人として救い主イエス様が来られることについて、言っています。この王が治められると、ユダとイスラエルの南北の争いももはやなく、正義と恵みによって統治されるというのです。

 主の再臨ののち、私たちは永遠に主と共に住まいます。そこは暗闇も夜もなく、太陽がなくても神様ご自身の光によってずっと明るくて、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界であると、同じ黙示録の21章には書かれています。そこから考えますと、このエレミヤの預言は、イエス様が人として生きられた時代を超えて、再臨の後の、主が直接治められる永遠に平和な世界にまで言及しているような預言です。 


 ここに、彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれるとありますが、この救いという言葉は少々意訳でして、原語ではツェデクですから、「正義」とか「義」という意味です。しかし、そう訳したかった訳者の気持ちはよくわかります。なぜなら、「主は我らの救い」というのは、ヘブライ語でヨシュアの意味であり、つまりギリシア語で言えばそれは「イエス」を表す名だからです。この名前が指しているのはイエス様のことなのだ、ということを、先走って伝えたかったのでしょう。確かにそうではありますが、ここの訳は、新しい聖書協会共同訳聖書では、「主は我らの義」と呼ばれる、と変わっています。新改訳2017でもやはり「義」と訳されています。


 黙示録の方に戻りますと、8節にはこうあります。8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 これは、4節あたりからすると、父なる神の言葉なのかと思いきや、キリストの言葉として言われています。(黙示録を読みますと、父なる神と御子イエスと聖霊の三位一体感が、少しリアルになるような気がいたします)

 アルファαとオメガωというのは、ギリシャ語アルファベータの最初と最後の文字です。英語で言えばAとZです。黙示録の21:6 にもα、ωのことは書かれていますが、最終章である22章の13節 にはこうあります。

 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

 キリストご自身がこう言われるのですから、キリストは、初めであり、終わりである方なのです。最初にお話しましたように、永遠のはじめからキリストは創造主として存在しておられ、そして永遠の終わりまで果てしなく存在する方なのです。

 キリストは、過去、現在、未来にわたって全てを統治される、まことの王なのです。


 ご存じの方も多いでしょうが、主イエスは、インマヌエルの主、とも呼ばれます。インマヌエルとは、「神は我らと共におられる」という意味です。イザヤ書(7:14)やマタイ福音書(1:23)で、クリスマスによく読まれる箇所に、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という聖句がありますが、これが、主イエスの別名です。しかし主がインマヌエルなのは、現在に限ったことではありません。過去、現在、未来のすべての時の中で、主は永遠の初めから終わりまで、我々と共にいてくださる方、なのです。


 そして黙示録は22章で次のように結ばれ、聖書は終わります。

 20以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 必死に今を生きる私たちも、インマヌエルの主の御降誕と、また再び来られる再臨とを、Wで待ち望みつつ、信仰を整えられて参りましょう。

祈り






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