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待降節第3主日礼拝 説教 「次を見つめて」

日本基督教団藤沢教会 2019年12月15日

【旧約聖書】マラキ書 3章19~24節
19見よ、その日が来る
 炉のように燃える日が。
 高慢な者、悪を行う者は
 すべてわらのようになる。
 到来するその日は、と万軍の主は言われる。
 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
20しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには
 義の太陽が昇る。
 その翼にはいやす力がある。
 あなたたちは牛舎の子牛のように
 躍り出て跳び回る。
21わたしが備えているその日に
 あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。
 彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
22わが僕モーセの教えを思い起こせ。
 わたしは彼に、全イスラエルのため
 ホレブで掟と定めを命じておいた。
23見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
24彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 1章19~28節
 19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

次を見つめて
 アドヴェントクランツの3本目のローソクに火が灯され、クリスマスまであとわずかとなったこの時、皆さんの今の心持ちは、どういうものでしょうか。それは、概ね以下のように分かれるのではないかと思います。先ず一つは、心静かに主のご降誕を待ち望むということですが、静かに祈りながら迎えるクリスマスは、クリスマスを迎える上での本来のあり方でもあります。それは、クリスマスの訪れが私たちに約束されているものである以上、急ぐ必要はなく、まただから、私たちは静かに祈りつつ、御心がなることをただ信じ、待つことができるということです。そして、それは、私たちが神の呼びかけ、語りかけを聞きつつ過ごすと言うことでもありますが、ただ、そのように過ごすことができるのは、待つ、ということを、心がけや覚悟の問題として、私たちが捉えてはいないからです。乙女マリアのように、主の御心に聞き、この身になりますように、と、御心に聞いているからです。ですから、その私たちの姿を見て、子供たちも待つことのその喜びと幸いとを、共に分かち合い過ごすがゆえに、信仰者としてのその素養を身につけ、また、その将来に備えることにもなるのでしょう。

 そして、二つ目ですが、これは、クリスマスに強い思い入れのある子供たちの中に特に多く見られることなのかもしれません。それは、待たされている、やらされているとの思いを募らせるということです。早く来てくれたらいいのに、どうして直ぐにやって来てくれないのかと、待たされることに苛立ち、直ぐに来ないことに不安を覚え、それゆえ、結果を求め、先を急ぐ、そんな自分の気持ちに押し負かされそうになってしまうということです。ただ、子供たちがもしそのような気持ちになってしまうとしたら、その責任は、子供たちではなく、もしかしたら、私たち大人の責任ではないかとも思うのです。なぜなら、私たち大人は、子供たちにいろいろなことを求めることが多いからです。クリスマスだから、クリスマスを待ち望むということはと、子どもに向かって、だから、こうしなさい、ああしなさい、こうあらねばならない、こうせねばならない、あれもこれもしなければならないと迫る、これは自らへの反省を込めて申し上げるのですが、皆さんには、そういうことはないでしょうか。そのため、子供たちの余裕を失わせ、楽しむどころではない状況を生じさせているのかもしれない、そのように思うからです。ですから、そこで育まれる子供たちの気持ちは、どんなものになるのでしょうか。クリスマスって、面倒くさいものだな、欲しいものだけさっさともらって終わればいい、クリスマスはそんな味気ないものになりかねない、ということです。

 そして、三つ目は、そんな子どもが大きくなったときの姿なのでしょうか。その訪れが約束されている以上、クリスマスは、必ず訪れるわけですから、何も無理する必要はない、ということです。あれもしなければ、これもしなければ、それで気が急いて、気持ちがささくれ立って、ちょっとしたことで苛立ち、争いが増える、それでは、本末転倒も甚だしいと言うことにもなるからです。ですから、余り難しいことは気にせずに、クリスマスは、どうせ必ずやってくるのだから、自分のペースでのんびり過ごせばいい、ということにもなるのでしょう。つまり、待ち望むのではなく、ああやって来たか、気がついたら今年もクリスマスだ、待つのではなく、向こうから勝手にやってくるものがクリスマスということになりますが、ただ、それが、クリスマスを迎える上での主流になったとしたら、子供たちは、どのように、クリスマスを迎える上で、この待つことの大切さを、つまり、待つことの喜び、待つことの幸いを、特に、みんな一緒にというところで育まれるこの信仰の素養を、どのように身につけていけばいいのかと思うのです。

 そこで、少し個人的なお話しをさせていただきますが、私は、おおよそ五年ほどの求道生活を経て信仰へと導かれたのですが、その中で素敵だな、と思ったことは、教会と教会に連なる人々のクリスマスを迎えるまでの過ごし方でした。それは、その過ごし方が取って付けたものではなく、心から喜び、しかも、その喜びを自分一人だけの喜びで終わらせるのではなく、誰かと一緒に分かち合いたいとのその思いを側にいて自然と感じることができたからです。ですから、その誘い方も、行ってみたいと思わせる、とてもスマートなものでありました。それは、待つことの、待たされることの、待たねばならないことの、その幸いと喜びとをよく分かっていたからだと思います。ですから、こうしてその頃のことを思いますと、ああいうこともあった、こういうこともあったと、普段忘れていることがいろいろ思い出されもするのですが、中でも、特に強く思い出されることは、やはり主の御許へと召された方々のことです。それは、お世話になったというだけではありません。いろいろなことを頼まれ、時に強制され、青年会の仲間たちといろいろなことをやったなあ、と、いろいろなことが一緒になって思い出されるのですが、その中で思い出される様々なお顔、そのため、クリスマスのことに始まって枝葉の諸々のことも一緒に思い出されもするのですが、そこには、いいことも悪いこともいろいろありました。ただ、時折会う青年会時代の仲間たちと話題に上ることは、思い出されるお一人お一人を通して、いろいろなことを学んだなあということです。そして、それは、私だけでなく、教会に連なる皆さんも同じではないかと思うのです。

 ですから、楽しむ、喜ぶ、それも、それを一緒に分かち合うということの中には、多少の強制力、バイアスがかかることは、必要なことなのだと思います。そうでないと、人が何かを学び、身につけるということは、なかなか起こっては来ないと思うからです。ただ、このようなことを申し上げるのは、だから、何かを学び、何かを身につけなければならないということを皆さんに言いたいからではありません。なぜなら、教会は、学校のようなものではないからです。けれども、もし、この学ぶこと、何かを身につけるということ、これらのことがなければ、何も始まりませんし、また、それを私たちが大事にしていかなければ、それが続けられることもありません。では、どうして、私たちは、何かを学び、身につけ、教会が大事にしていたことをこれからも大事にしていかなければならないのでしょうか。それは、私たちが家族であるからです。だから、その暮らし方、過ごし方が大事になってくるのですが、クリスマスの迎え方もその一つです。ですから、それは、一過性のものではありません。私たち教会に生きる者がこれまで大事にしてきたものであり、つまり、それが、私たちにとっては、信仰そのものであり、大げさな言い方をすれば、それが、信仰に伴い現される私たちの文化だとも言えるでしょう。ですから、それがもしおざなりになされているとしたら、私たちが大事にしてきたものが、次の世代へと伝えられないだけでなく、自分なりの言い訳がどんなに立ったとしても、それを御心とすることはできません。

 ところで、皆さんは、親や大人たちから、「自分一人だけで大きくなったと思うな」と言われたことはないでしょうか。信仰もそれと同じなのです。一人称単数現在の私だけの満足、納得を得られることが、私たちの信仰を形づくるのではなく、あなたも私もそれ以外の人も、皆が同じように主イエスの救いの出来事の中に置かれている、つまり、一人称単数現在の「私」とだけ主イエスは関わるのではなく、「あなた」とも、「それ以外の人たち」とも、同じ距離感で関わってくださっている、それが、私たちの主イエスであり、そして、それを大事にしてきたからこそ、信仰を得た私たちもその素養を身につけ、成長することができるのです。ですから、先ほど、三つのパターンを申し上げましたが、最初に申し上げたことがもちろん一番望ましいことではあるのでしょうが、けれども、だから、それ以外は、価値のない、あってはならないということにはなりません。ただ、もちろん、だから何でもいいと言うことではありませんが、しかし、そこで忘れてはならないことは、そのいずれの姿、態度とも深く関わってくださっているのが、イエス・キリストであるということです。つまり、そのどれかだけに肩入れされることはないということです。

 けれども、様々な人の思いが混じり合った中から、主の御心を探し出すことは、簡単なことではありません。まただから、私たちは、それを探し出すための素養、最近のはやりの言葉で言えば、リテラシーを身につけなければならないのです。それゆえ、そのためには、キリスト教についての学びを深めることも大事なのですが、けれども、その学びが学びとして意味あるものとされるためには、自分一人机にかじりつくのではなく、様々な人々と関わることがもっと大事なことなのです。それも、誰かねなしにということではありません。信仰的素養を身につけるためには、聖書を正しく読み継いできた共同体、つまり、信仰的素養を身につけた人々が確実にいる、主の教会の中にしっかりと生きること、生きようとすることが大事になってくるのです。ですから、待つことの大切さ、待つことの必要性は、教会が大事にしてきた、諸々の基本的な物事の考え方から出て来たものでもありますが、従って、その基本的なものとはつまり、それは教養であったり、生活様式であったり、時間感覚であったり、人が人として生き、その人生をより豊かにする上で大切にしてきた諸々のものすべてを含むのですが、中でも一番大事なこと、その基本中の基本、それが、今日の御言葉が私たちに伝えてくれていることなんだと思いますが、それが、「インマヌエル、主、我らと共にいます」ということです。従って、洗礼者ヨハネが「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる」と言っているのは、それを踏まえてのことでもあるのです。

 「主、我らと共にいます」、このインマヌエルの現実について御言葉が語ることは、それが、歴史を貫き語られている事実であるということです。ですから、待つことの中で私たちの目に鮮明にされることは、この「主、我らと共にいます」は現実であるということです。ただし、この現実に目を向けるために、御言葉は、その一方で、私たちが見逃してはならないもう一つの現実をも語るのです。それが、「破れ」です。一見すると、今日の旧新約聖書は、インマヌエルの現実だけを私たちに伝えてくれているように思うのですが、目をこらして御言葉をよく見ていくならば分かることですが、そこで語られているそれぞれのことは、未だ実現していないものばかりでもあるのです。預言者マラキは、「我が名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼には癒やす力がある」と語り、この力強い言葉にどれほどの人々が励ましを受けたことかと思いますが、けれども、それは、未だ実現したわけではなく、将来において約束されていることなのです。それゆえ、神の民イスラエルは、この約束を信じ、歩み続けることになったのですが、今やその約束が実現したと伝えるのが、今日の新約聖書でもあるのです。ただ、この良き訪れを伝えながらも、そこには、破れがあります。神の約束の始まりを知る者と知らない者との違いがあり、また、その道の権威と権威から距離を置く者との対立があるのです。またそれだけではありません。ここで、神の約束の始まり、成就を伝えるこの洗礼者ヨハネでありますが、近い将来、この破れた現実によって、その命を奪われることになるのです。ですから、そのヨハネが「私はその履き物の紐を解く資格もない」と言っているのは、そんな破れを見つめてのことでもありますが、このことはつまり、主を待ち望むということは、光と闇とがぶつかり合い、せめぎ合う現実を見つめ、引き受けることでもあるということです。従って、待つことは、荒れ野で佇むことであり、また、破れた現実を引き受けつつ、荒れ野で「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶことでもあるのでしょう。そして、それは、洗礼者ヨハネがそうであったように、一方に組みし、一方を退けることではなく、歴史を貫き神の民が現してきたように、荒野において神の声に聞き、その声に従うこと、待つことの中で私たちに求められていることは、生身の、素のままの人間として、この神の声に聞くことであるのです。

 アドヴェントからクリスマスへと導かれる数週間を過ごし、私たちそれぞれの目に映るものとはどんなものなのでしょうか。それはきらびやかな、まばゆい光を放つものだけではありません。その背後には、私たちが意図的に見ようとしないものも隠されているのであり、つまり、クリスマスとは無縁だと思える現実の中に置かれている人々もまた、クリスマスの喜びに与ることが許されているということです。それゆえ、そうした人々にクリスマスの喜びを届け、共に分かち合うことがなければ、クリスマスを祝ったことにはならないのでしょう。そして、それは、だから、大きな何かをしなければならないということではありません。できる精一杯のことをするということです。ただし、それは、洗礼者ヨハネのように、荒野で何か特別なことをしなければならないということではありません。ちなみに、荒野というのは、神との出会いが約束されている場です。人の破れ、その欠けの多さ、愚かさ、醜さ、その素のままの姿が現される場であり、また、そこで、神の御前にむき出しの生身の姿を現すことになるからこそ、そこで神の御声に聞くことが許される、荒れ野とはつまり、そういうところであるということです。つまり、荒野で求められることは、何かをするかしないかではなく、静まり御声に聞くことであり、欠けたる自らがその御声に促され、その御声に応えようとするということです。つまり、精一杯というのは、神の声に促され、その御声を世の人々に届けるということです。ですから、そういう意味で、自らを振り返ることがこの時期私たちに求められてもいるのですが、但し、それは、理想を追い求め、また、現実を卑下するような、その人なりの価値観を表に表すことではありません。

 精一杯というのは、私たち人間が考えるような物の大小、価値の有無、事の善悪などによって推し量られるものではありません。御声に聞き、御声に促されることであり、そういう意味で、神さまに喜ばれることをすることです。そして、それが何かは、私たちそれぞれが聞いていくしかありません。けれども、そこで一つ言えることは、それが、ある限られた人々だけが集まり何かをし、また、分かる人だけがそれを分かればいいということではありません。それだけに、どうすれば神さまに喜ばれるのかは、直ぐに分かることではないのでしょう。だから、待つことが求められるわけですし、まただから、神様の御前に生身の姿を曝し、破れを見つめつつ、御声に聞くことが必要なのです。ですから、答えを急がずに、御旨がなることを信じ、御心を尋ね、残りの時を過ごすことが、今の私たちに求められているのですが、そのように待てばこそ、私たちは、クリスマスを自ずと心から喜び迎えることができるのです。御旨がなることを信じ、残りの一週間を真に望み過ごしてして参りたいと思います。

祈り


  


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