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降誕節第1主日礼拝
  説教 「星を動かす方」

日本基督教団藤沢教会 2019年12月29日








説教
鈴木みどり牧師
(明治学院教会)
旧約聖書 イザヤ書 11章1〜10節 【平和の王】
1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
 その根からひとつの若枝が育ち
2 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊
 思慮と勇気の霊
 主を知り、畏れ敬う霊。
3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
 目に見えるところによって裁きを行わず
 耳にするところによって弁護することはない。
4 弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する。
 その口の鞭をもって地を打ち
 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5 正義をその腰の帯とし
 真実をその身に帯びる。

6 狼は小羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
 その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。
9 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば
 エッサイの根は
   すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。
 
新約聖書 マタイによる福音書 2章1~12節
                 【占星術の学者たちが訪れる】
 1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


星を動かす方
●博士たちのこと
 遅ればせながら、クリスマスおめでとうございます!今年は何もカードが書けませんで失礼をいたしました。色々ありまして、ちょっと忙し過ぎました。皆様はどんなクリスマスシーズンをお過ごしでしょうか。
 私のおります明治学院教会ではちょっとしたクリスマスの奇跡が起きてしまいまして、もうてんやわんやの大変なクリスマス礼拝となりました。昨年38名しか出席者のいなかった同じ朝の礼拝に、去年と同じ宣伝方法でチラシを新聞折り込みしただけなのに、「ハンドベルミニコンサート」が効いたのか、なぜか200名もどこからか出席者がおみえになりまして、(実際数え切れなかったので、1階席がほぼ満員、ということからの目見当ですが)初めて来られる方が、なんと新来者カードを書いていただけた数だけでも62名もおられたため、献金の時に受け取った新来者カードが「札束」みたいになっておりまして、長くなるのでお名前をご紹介することさえできなかったほどの、ほとんど「事件」のようなクリスマス礼拝だったのです。 
 ところが週報もプログラムも何もかも、マックス50部しかご用意していなかったので、本当に、不信仰を反省しました。「祈りは聞かれる」と、いつもお話しているのに、自分も全然その準備ができていないじゃないか、と…笑。
 ちなみに、母の洗礼式もその日だったのですけれど、それもまた19年に及ぶ祈りがやっと聞かれた結果だったのですが、まあ、よりによってそんな大勢の方に見守られてするとは思いもよりませんで、感謝の絶えないクリスマスです。

 日本ではお正月があるので、すぐにツリーなどクリスマスの飾りは片付けられてしまいますが、聖書的文化の国に行きますと、例えばアメリカでも、まだ1月6日のエピファニー(公現日)まではクリスマスシーズンですので、3が日もずっとツリーが飾ってありますし、お店のショウウインドウもクリスマスのままです。20数年前に会社が休みの年末年始をニューヨークのマンハッタンで過ごした時に、初めてそのことに気づきました。当時私はまだクリスチャンではなかったので、公現日「エピファニー」なんて知りませんでしたから、「アメリカ人大らかだから年が明けても片付けしないのかなー?」笑 なんて勝手に思っていたのですが、1月6日のエピファニーまでがクリスマスなので、出しておくのが普通なのです。フランスでは、公現日にガレット・デ・ロワというケーキを食べる習慣もありまして、私もここ数年ほぼ毎年そのケーキを、とあるお店で買って教会で食べています。食べ方でゲームが出来るので、みんなで食べると面白いのです。
 
 それで、その公現日エピファニーというのが、今日のマタイの箇所の記事です。東の方から来た「占星術の学者たち」が、星に導かれてベツレヘムに辿り着き、幼子イエス様を礼拝する、つまりクリスマス(=キリスト礼拝)。イエス様が初めて一般人、しかも異邦人の礼拝を受けられた、つまり公に現された日、なので「公現日」というのです。

 ところで問題はこの「占星術の学者たち」です。みなさんもご存じのように、聖書では占いや魔術は禁じられていますから、なんでそんな人たちが聖書の最初に出て来て、最初にイエス様を拝むのか?と気になるわけですが、この「占星術の学者たち」という訳の原語は「マゴスμάγος」といって、魔術師、占星術師、魔女、などの意味がありまして、あの、使徒言行録13章でパウロに叱られて目が見えなくされた「魔術師」の原語も、同じマゴスです。なんならここは「魔術師」たちが真っ先に礼拝しに来た、というお話なのです。
 とにかく、マゴスというのは聖書的には反キリストの位置にある、怪しげな人々でして、しかも東方から来たというのですから、異邦人、つまりユダヤ人ではない外国人なのです。しかし彼らの呼び名は、新しい聖書(聖書協会共同訳)では、また口語訳の時に戻って「東方の博士たち」に変更されました。新改訳聖書もこれを採用しています。
 まあ、原語に戻れば「魔術師」なのに、「博士」?という、詐欺みたいなことになっているのですが、11節にありますように、彼らがベツレヘムに辿り着き、イエス様を礼拝した時に、乳香や没薬をイエス様に献げたことから、彼らはその時代の最先端を行く薬学博士や学者だったという説もあるからでしょう。
 ちなみにこの乳香というのはフランキンセンスとして、また、没薬はミルラとして、それぞれ今は普通にエッセンシャルオイルや樹液の塊みたいなものとして、安い物なら1000円から2000円で売っています。乳香と言いますが、ミルクの香りはしません。もう少しウッディな香りです。そして没薬というのは、軟膏や防腐剤としても使われ、昔ミイラを作る時に使う薬だったので、十字架にかけられた後のイエス様のご遺体にも塗られたかも知れません。さらにまた、没薬というのは、痛み止めとしても使われていたので、マルコ福音書の15章では、十字架のイエス様は兵士たちによって、没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませられそうになりましたが、お受けになりませんでした。お生まれになった時から、既に十字架の準備がなされていたようで、切なくもなるような贈り物です。

平和の王、イエス・キリスト
 本日の新約聖書はマタイで、新約聖書の一番最初です。旧約と新約は、言ってみれば「預言」と「成就」のような関係で、旧約聖書がずーっと預言し続けた、「救い主がこの地に来られる」、という預言が、遂に現実の事として成就する最初の箇所が、このマタイの箇所なのです。  さて、それではその預言であるイザヤ書の方を見てみましょう。聖書を見ますと、本日の旧約箇所の小見出しは「平和の王」となっています。
(ちなみに、マタイの方の6節に出て来ます預言は、そのままで同じ箇所は旧約になく、あの言葉は、ミカ書とサムエル記などから混ぜたような形になっています)
 イザヤ11章は、
1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
と、まず始まっていますが、エッサイとは、ダビデのお父さんのことです。あのルツ記のルツとボアズの孫でもある人ですから、紀元前1000年頃の時代の人です。
 根というのは切り株のことです。エッサイの切り株から、ひとつの若枝が育って、というのはつまり、エッサイの子であるダビデの王家の系譜の末に、イエス様がお生まれになる、という預言です。イエス様に繋がる、新約聖書の一番最初でみんながくじけるあの系図のような箇所(笑)を、思い出してください。
 あの系図は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」、となっていますが、イザヤがなぜ途中のエッサイを起点にしたのかは、不勉強なものでよくわかりませんが、預言なのでおそらくイザヤにも理由はわからないのでしょう。神のみぞ知る、です。
 また、ひとつの若枝が育ち のこの「育つ」(פָרָהパーラー)というヘブライ語は、「豊かに実を結ぶ」という意味でして、ヨハネ15章5節の、 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。というイエス様の言葉と繋がります。
 クリスマスの時期には、後で歌います「エッサイの根より」という讃美歌とセットでよく取り扱われる聖書箇所ですので、古い皆様はもうよくご存じでしょうけれど、つまり、このイザヤの言葉は、エッサイの家系の末に、救い主イエス様がお生まれになる、という預言なのです。  さらに2節の、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。というのは、実は新しい式文(試用版)ですと、洗礼式の、聖霊の満たしのお祈りの中に、そのまま使われている言葉です。洗礼を受けた方の中に、聖霊が豊かに注がれて、知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊が与えられるよう祈るのです。
 なんとここだけで4回も「霊」(ルアハ)というヘブライ語が使われています。「ルアハ」とは、「神の息、聖霊」の意味もある、旧約聖書では重要な言葉です。実は4節後半の「唇の勢い」という言葉も、原語ではこの「ルアハ」です。主の霊、聖霊に満ちた方、それはイエス様のことです。
 3節から5節は、このイエスという方が、いかに公平な裁きをされる方か、いかに正義にあふれ、真実な方であるか、ということを言っています。
 そして6節以降9節までは、動物たちや子どもにたとえて、イエス様がいかに平和な方かということを表しています。そしていつか9節のように、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない世界になり、大地は主を知る知識で満たされるのです。そして10節、その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。というわけです。

 平和、こんなに人間が欲しくても手に入らないものはないでしょう。平和とは実に掴みづらい幻のようなものです。
 4歳の時、自分の幼稚園の名前が「平和学園」なのに、周りの園児たちがいつもすぐにケンカを始めて、ちっとも平和が保たれないことに、世の中の理不尽や不思議をもてあましていたことを思い出します。(今日はアレセイアの在校生の方はいらっしゃらないようですが)ほんとうに、私はあの平和学園時代、「全然平和じゃない世界に生まれて来てしまったようだ」と、4歳なりに神との断絶を感じ、思い悩んでいました。どうすればケンカがなくなるのか考えた末、猿のようにすぐケンカする周りの子たちに、「ケンカになりそうだなと思ったら、先にあやまっちゃえば?」と提案したのを覚えています。するとその子たちが固まったので、「もしも、ごめんなさい、って言いづらかったら、ごめんちゃい、でもいいんじゃない?」と、場が和みやすくなる方法まで発案したのもはっきり記憶しています。ちなみにこの年、私がクリスマスのページェントで与えられたミッションは、ナレーターとして、口語訳聖書のルカの2章1節から3節を暗記して読むことでした。幼稚園に行く間も、父の車の後ろの席で一生懸命暗記した聖句を確認していたのを覚えています。返す返すも、幼い頃の聖書や教会体験というのは本当に大切だと思います。ですから、みくに幼稚園の皆様のお働きは、ほんとうに大切です。
 話がそれましたが、平和についてです。

 人間は、そのように、どうにかして平和でありたい、平和を手に入れたい、と思うものです。けれども、私たちの求めるべき平和、そして神様が私たちにお与えになりたい平和は、人間である私たちがどんなに努力をしても、得られるものではない、ということを、私たちは知るべきでしょう。結論から言えば、真の平和というものは、キリストを通してしか得られないものだからです。
 わたしたちは、ついこの世のこととしての平和を望みがちですが、この世でどんなに平和を望んでも無理なのです。この世では戦争があるし、戦争の噂も聞くだろう、と聖書にははっきりと書いてあることを読み飛ばしてはいけません。物事は何でも、この世のこととしてだけ考えてはいけないのです。
 戦争だけではなく、病があり、地震や台風といった自然災害もあり、死もあるところがこの世です。イエス様を殺したのもこの世です。そんな世界に、真の平和があるわけがないのです。
 それに、たとえ世界中から戦争がなくなったとしても、自然災害や事故はなくならないでしょう。先日の15号や19号の台風や、阪神大震災や、東日本大震災、熊本大地震などを思い出せば、この世では、完全なる平和というものはあり得ない、ということがわかります。
 けれども、心に、永遠に変わらないキリストを受け入れ、永遠の命をいただくなら、どんな環境の中にあっても、後の世への希望を思い、心に平安を得ることができるのです。それこそがわたしたちが求めるべき、真の平和です。この世での平和は、後の世の、この真の平和のひな型を、鏡のように映すだけに過ぎませんが、完全なる平和、真の平和は、終わりの日の向こう側で、必ず私たちを待っています。それが聖書の約束です。

 ではどうすればその、真の平和、完全なる平和が得られるのか。その鍵は、キリストにしかありません。イエス様こそが、真の平和の源です。まずはこの方につながらなければ、何も始まりません。極端なことを言うならば、実は人の人生というのは、洗礼を受けてキリストに繋がってから初めて、ようやく本物の時間を刻み出し、本当の人生を歩み出す、と言ってもよいほどなのです。「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」(コヘレト12:1)という御言葉もあります。
 だからこそ私たちは、このクリスマスを祝うのです。私たちのために、ご自分の死をもって罪の代価を支払ってくださる方が現れた夜だからです。神の真実である「平和の王」が、この世に現れた日だからです。これこそが、我々人間が真剣に求めるべき、真の平和なのです。

 イザヤ書9章5節の、やはりクリスマスによく読まれる有名な箇所では、キリストのことを「平和の君」と呼んでいます。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 この箇所はほとんどそのままヘンデルの「メサイア」12番の歌詞にもなっているのですが、この日、博士たちが拝んだ幼子、私たち人類に与えられた救い主は、驚くべき指導者Wonderful Counselorであり、力ある神Mighty Godであり、永遠の父Everlasting Fatherであり、平和の君Prince of Peaceなのです。

  ここでまた、新約のマタイ2節と3節に目を転じますと、面白い対比に気づきます。  黄金、乳香、没薬を持って幼子イエスを拝みに行こうとして、遠くから一生懸命星を頼りに歩いて来た博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と、まだ認識は間違っているものの、ひたすらに主イエスを求めるだけです。そこには、主イエスにまみえる期待はあっても、「不安」は一切ありません。
 しかし一方、彼らのこの言葉で、ユダヤ人の王が生まれた、ということを聞いたヘロデ王や、当時エルサレムを牛耳っていた人々は、一様に、「不安を抱いた」のです。
 不安は、平安つまり平和の反対です。ヘロデ王たちは、新たなユダヤ人の王が生まれたと聞いて、自分たちの立場が奪われ、脅かされるとでも思ったのでしょう。4節では、王は祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと聞きながらも、「メシア」をまったく「メシア=救い主」とは思っていないので、不安しかないのです。博士たちの心持ちのような、主を探し主と出会う、期待や喜びのような平安な思いは、この世の利権にどっぷり浸かったヘロデ王たちには一切なく、むしろそうした自分たちの利権を奪われる不安に襲われるばかりだったのです。それでヘロデは後でイエス様を殺そうと、当時ベツレヘムにいた2歳以下の男子を皆殺しにさせました。しかしイエス様は、ヨセフに夢で天使のお告げがあったので、それに従ってエジプトへ逃げていたため、無事だったのです。

●星を動かす方
 そして、このお方、幼子としてこの世に生まれてくださったイエス・キリストには、忘れてはならない御性質が他にもあります。それは、いつもしつこく申し上げているかと思いますが、人間と、宇宙のすべてを造られた、「創造主」としての御性質です。
 日本人にはどうしてもこの「神様という方がすべてを造られたMighty Godなのだ」という感覚が足りません。「八百万の神」と混同しているからです。この、まことの神様は創造主である、という感覚が欠けているので、いつも世界に遅れを取ることになるのではないでしょうか。以前にもこちらで、ヨハネ福音書の冒頭やコロサイ書などを用いて、イエス様御自身が、父なる神と共に、永遠の前からおられた創造主である、ということをお話させていただいたかと思います。
 創造主なる神様は、キリストと共に、私たち人間ももちろんですが、月も星も太陽も、造られました。そして、コロサイ書1章によれば、「すべてのものは御子によって支えられている」のです。つまり、博士たちをベツレヘムの御子イエス様の所へ連れてきた星を動かしておられるのもまた、御子イエスご自身であると言ってもよいわけです。明けの明星の背後には、それを動かしておられる創造主の御手があるのです。
 星はキレイですが、星自体には何も力はありません。ですから、「星に願いを」という歌もありますし、「流れ星に3回祈ると叶う」、というような言い伝えもありますけれども、拝む対象は星そのものではなく、いつも星の背後におられる神様にしないと、願いは叶いませんのでご注意ください。
 
 9 節10節はほんとうに何だか感動しますけれど、9節、彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10節、 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。とあるんですね。この10節をもっと直訳しますと、「彼らは極めて大いなる喜びを喜んだ」となりますから、一体どれだけの喜びなのか想像もできないくらいの、それはそれは大きな喜びだったのでしょう。
 占星術の学者だから星を見て喜んだのではなくて、彼らは私たち日本人と同じ異邦人であり、罪人ではあっても、その純粋な信仰によって、遠くからでも、主に招かれていることに気づき、その主ご自身と相まみえることができる恵みを、星の向こう側にちゃんと感じていたのです。
 信仰の道は、この博士たちのように、暗い夜道を、イエス様というたった一つの星だけを見上げて、足元がどうなっているのか、この先がどうなっているのか、よくわからなくても、たとえ道が平坦ではなくても、主の平和の中に安らぎつつ、とにかく一歩一歩、博士たちのように、恐れず信じて歩いて行くもの、なのではないでしょうか。

祈り


  



晴 8℃(am10:30)