印刷用PDF(A4版4頁)
降誕節第2主日礼拝 説教 「今ここにあるもの」

日本基督教団藤沢教会 2020年1月5日

【旧約聖書】イザヤ書 40章25~31節
25お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。
26目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。
 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

27ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。
28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。
29疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
30若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
31主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 1章14~18節
 14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


今ここにあるもの
 新年明けましておめでとうございます。一つの終わりと一つの始まりを覚えつつ過ごした一週間でありましたが、皆さんにとって、この年末年始はいかがでしたでしょうか。ご家庭によって、様々であったと思いますが、ただ、この終わりと始まりの中にあって、私たちが見つめたもの、それは、主に祝された、主が共にいます幸いでありました。それゆえ、この一年、共にいます主への祈りをもってご一緒に過ごして参りたいと思うのですが、それは、この日の聖書の御言葉が、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た」と語るように、始まりから終わりまでを導かれるのが、私たちと共にある主イエス・キリストであるからです。

 このように、私たちの間で、存在感をもって共にいてくださっているお方、それが、主イエス・キリストというお方であり、このことはつまり、主イエスというお方は、私たち個々人の心の中だけに密やかに住まうお方ではないということです。ですから、私たちにとって、主イエスというお方は、あっちふらふら、こっちふらふら、いるのかいないのか分からないような、そんなあやふやなお方ではないということです。ここにいます、それ以上でもそれ以下でもない、ただいる、私たちにそう思わせるお方が主イエスであるということです。だから、聖書も、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と言うのです。従って、聖書の読み方については、様々な可能性が開かれてもいるわけですが、もしその中で唯一正しいと言えることがあるとすれば、それは、主イエスが、いるかいないか、分からないお方ではなく、私たちと確かに共にいる、そういうところから明らかにされるものであるということです。

 けれども、言葉が肉になり、そのように実体を伴い生き生きと存在感をもって現れ出たということは、人によっては、にわかには信じられないことでもあるのでしょう。なぜなら、いくら、あるあると言われても、自分には見えないし、だから、そこで言われていることも分からない、つまり、主イエスとの関わりについて、自分との直接的なつながりを見いだせない人々にとっては、そこで語られていることがどんなに本当であったとしても、それがどこまで行っても仮の話のままであると感じるなら、主イエスは、いてもいなくてもどちらでもいいと、そういうことにもなるからです。しかし、もちろん、私たちはそうではない。そして、それはここで言われていることについてもそうです。だから、御言葉もまた、あやふやなものとして、主イエスの出来事を語ることはしていません。「宿られた」と言っているように、今ここにある現実、ただある、というところから、この出来事を語るのです。ですから、その物言いは、確信に満ちています。「恵みと真理とに満ちていた」と語り、さらには、洗礼者ヨハネを通して、「私の後から来られる方は、私よりも優れており、この方は私よりも先におられたからである」と語るように、主イエスの出来事によって現されたことは、初めより終わりまでを貫く、変わらぬ神様の恵みであり、そして、それが、主が宿られたことの本当の意味でもあると、このように確信をもって語るのです。従って、御言葉が「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と語られていることは、その、そのままを私たちが、いつも口にしているものであるということです。

 それゆえ、聖書の御言葉が語る「私たち」というのは、そのようにこの主の祝福の中に置かれ、その恵みを分かち合う「私たち」ということになりますが、けれども、この「私たち」でありますが、それは、こうして御言葉に聞き、主イエスと神様の御心を生活の基盤とする、狭い範囲の中だけの「私たち」ではありません。「私たち」は、暗く狭い穴蔵の中に籠もって、分かり合える人々とだけ一緒に暮らしているのではなく、もっと広いところに身を置き、様々な人々と関わりを持っているのが「私たち」なのです。それゆえ、大きな可能性を秘めたものが「私たち」でもあるのですが、それは、「私たち」のこれまでの歴史を振り返っても明らかです。「私たち」は、カタコンベの暗い礼拝を経験しましたし、また、戦時下の教会が人々の白い目にさらされながらも礼拝を守り続けるものでもありました。このように、時に、社会、世間から疎まれ、遠ざけられることもありましたが、けれども、その時、主が共にいますがゆえに、「私たち」は孤独ではありませんでした。だから、孤独に耐えることができるのですが、それゆえ、一人でいることを「私たち」は恐れる必要はありません。それは、「私たち」が災いと感じるものが訪れるそれ以前の、普段のこの暮らしの中で、神様の御心が、この広い世界の中の隅々まで行き渡っていることを知っているからです。だから、この神様の御心を知る「私たち」は、どこにあっても、どのような状況に置かれようとも、そこで、様々なものと関わりながら、この神様の御心を現すことができるのです。それゆえ、それは、独りよがりなもので終わることはありません。

 キリスト教禁教下に入国し、捕らえられたイタリア人司祭シドッティと、儒学者であった新井白石との対話の結果記されたものに「西洋紀聞」という書物がありますが、そこでなされたことは、互いに胸襟を開き、その考えをぶつけ合うものでありました。このことはつまり、たとえ対話の相手が敵対する立場にあったとしても、対話を尊重し、愛をもって関わることができるものが「私たち」であるということです。それゆえ、対話の相手の入信如何に関わらず、その人を介して、神様の御心は必ず対話の相手にも及びます。白石とシドッティの間には、ある意味での信頼感があったと言われていますし、また、その信仰的確信ゆえのことでもあったのでしょう。キリシタン屋敷に幽閉されていたシドッティの身の回りの世話をした人物に長助とハルという老夫婦がおりますが、この長助と春は、シドッティから洗礼を受け、そのため、シドッティと一緒に地下牢に幽閉され、時を同じくして亡くなったとの記録もあるのです。ただ、それをどう理解するかは、それぞれに任されていることでもあるのでしょう。けれども、この逸話を聞き、人の目から見れば、御心が閉ざされているとしか思えないこの状況にあって、なお御心は働いていると、そう思うのが「私たち」だと思います。ちなみに、確か5、6年前であったように記憶しておりますが、そのキリシタン屋敷があったと言われている場所から三体の遺骨が発見され、DNA鑑定の結果、その中の一体は、シドッティであることが判明しました。そして、残りの一体は日本人であることが分かり、あとの一体は、DNA鑑定ができなかったそうですが、恐らくは、シドッティ以外の二体の遺骨は、長助とハルであったと思われます。

 このように、御心は、「私たち」だけでなく、「私たち」が関わるその一人一人にも働き、御心が指し示すその先へと導くものでもあるのです。犬死にであったと、人からそう思われるであろうシドッティのこの逸話が、後々を生きる私たちにある確かな事実を伝えてくれているように、御心は、関わるその瞬間瞬間だけに限ったことではないということです。この日の御言葉が、主の御心が初めより終わりまでを貫くものであると「私たち」に語りかけてくれているように、かつても、今も、そして、これからも、主イエスが私たちと共にいてくださっているわけですから、私たちが「私たち」と呼んでいるものは、今だけの問題で終わることはありません。このことはつまり、家族というものが死んで見送ったらそれで終わりではないように、そのような考え方が、たとえどんなに通俗的、因習的、非科学的などと非難されようとも、聖書の御言葉が私たちに伝えてくれていることの中には、それゆえ、先に召された祖父母、父母、そして、子や孫を含んでいるのです。だから、私たちにとって、死は終わりではなく、家族が家族であることの本当の意味を知らされる新たな始まりであり、それゆえ、死して後もなお、共に主の恵みの中に置かれ、共に歩み、生きている、それが、こうして御言葉に聞いている「私たち」であるのです。また、だから、御言葉も、主イエス・キリストが「私たちの間に宿られた」と語るのです。

 ですから、「私たち」がいかなる意味で「私たち」なのか、これについては、私たちは、確信をもって、主の御心に応えていかなければならないように思います。しかし、確信をもって応えるために、その前にちょっと立ち止まって、確認したいことがあります。それは、この確信というものが、私たちが掴み取り、握りしめなければならないものではないということです。なぜなら、主イエスは、「私たち」の間に宿られたわけですから、「私たち」と人との間、「私たち」とこの世界との間には、すでにおられるわけであり、ですから、そこで自ずと了解されるものが、「私たち」が確信と呼んでいるものなのです。ただし、そこで、それがよく分からないという方もおられるわけです。まただから、立派な言葉を並べ立てられ、また、朗々たる祈りを聞かされたりすると、ついつい腰が引けてしまうことにもなるのでしょう。特に、貧しい言葉しか持っていないと普段から悩んでいる人は、立派なことを口にする人と自分とを比べて、自分は、ダメだ、ダメだ、そんな風に思ってしまうことにもなるのでしょう。そして、そのような中で、悩んでいる人に向かって、「そういうことは気にしなくてもいいですよ。信仰とはそういうものではありませんよ」といくら言ったところで意味はありません。なぜなら、その苦しみは、その人個人の苦しみでしかなく、それだけに、心配ないと言われれば言われるほど、まるで足りない自分を責められているように感じ、返って、苦しみを覚えるということにもなるからです。

 このように、人と比べて苦しみ、そして、比べなくていいと言われて苦しむ、それが「私たち」の中で起こっていることでもあるのでしょう。そして、それは、「私たち」だけでなく、律法によって苦しんでいた、主イエスの到来を待ち望みつつ過ごしてきた二千年前の人々も同じでありました。ですから、確信などとんでもない、そういうことにもなり、それゆえ、そう思うことは、(むべ)なることでもありました。この混沌とした、自分でも訳の分からない、そのような現実の中を生きねばならないことそれ自体が、苦しみでしかないからです。しかも、この苦しみは、大きい、小さいといった塩梅に、人との比較による程度の問題ではありません。苦しみは、人と比べてのことではなく、その人がて生きているがゆえのものであり、その人だけのものだからです。ですから、この、自分ではどうすることもできない、生きることそれ自体が苦しみであり、悲しみでしかないこの世に生きることは、辛く、切ないものでもあるのは間違いありません。

 ですから、それを忘れさせてくれるものがあったらどれほどいいか、そういう意味で、主イエスが、この世に宿られたということは、その苦しみを和らげ、忘れさせてくれることを期待させるものでもありました。それゆえにまた、信仰に伴う確信は、私たちが何かを忘れるための条件のように受け止められることにもなるのでしょう。ただ、もし、何かを忘れさせることが私たちの信仰の目指すところであるとすれば、「宗教はアヘンだ」と言ったマルクスの発言は、事実ということになります。けれども、それは明らかに違います。主イエスは、私たちに何かを忘れさせるためにこの世に宿られたわけではないからです。神様の御心の確かさを伝え、分かち合い、そして、終わりまでを導くためにこの世に宿られた方が私たちの主イエス・キリストでありますが、そこで、私たちに求められていることは、苦しみや悲しみを忘れることではありません。こうして生きる中にあって、主が共にいますことを覚えること、心に刻むこと、思い起こすこと、宿られたということは、このことを苦しみ、悲しむしかない「私たち」に明確に伝えるものであり、また、だから、主イエスの到来を、御言葉は、福音、良き訪れというのです。

 ですから、主イエスの出来事を伝えるこの福音という言葉の中には、そもそものところで狭い範囲での「私たち」と言うことは想定されていません。福音は、世界に開かれたものであり、世界の人々と分かち合うべきものとしてこれまで語り続けられてきたからです。ですから、その結果が今のこの時代に現されているすべてであると言えるのでしょうし、また、それが許されたのは、福音によって明らかにされた神様の御心が、忘れることではなく、覚えること、神様の御心を忘れないことに強調点が置かれていたからです。つまり、「宿った」ということは、そのことを今の私たちに現してくれているのであり、また、それは同時に、主イエスが私たちの苦しみと悲しみとを担ってくださっていることを示すものでもあるのです。ですから、独り子である主イエスをこの世へとお遣わしになった神様の御心と、そのようなこの世の現実を共に歩み、数多くの苦しみと悲しみを共に担ってくださるイエス様の愛を忘れ、自分の都合のいいようにねじ曲げ、あたかも忘れ去ることが神様の御心であるかのごとく語り、また、人々を信じさせるものが「私たち」の信仰だとしたら、こんなつまらないものはありません。

 しかし、そうであっても、やはり、この世の苦しみ、悲しみから逃れたいと思わないものはおりません。だから、「私たち」もまた、それを忘れさせてくれるものをどうしても願ってしまうのでしょう。だから、神様に嘘をつき、イエス様を誤魔化し、美しい言葉や麗しい言葉をもって、自分を飾り立て、苦しみや悲しみから遠ざかろうとしたりもするのでしょう。それは、忘れずにいることよりも、忘れようとすることの方が、遙かに楽なことですし、また、神様とイエス様が直ぐに欲しい答えを与えてくださらない以上、その方が直ぐに納得の行くことだからです。「私たち」が、平気で神様とイエス様に嘘をつき、誤魔化したりしてしまうのはそのためです。ですから、それはとても悲しいことでもありますが、それがこの世に生きる「私たち」の一つの姿であるのは間違いありません。けれども、だからこそ忘れてはならないことは、それが、御言葉が「宿った」と言っているこの世の現実であり、それを共に担ってくださっているのが主イエスというお方でもあるのです。ならば、そこでどうしたら、私たちは神様に嘘をつかず、イエス様に自分を偽らずに生きることができるのか、堂々巡りに陥らないための一つの方法として、いつも私が考えていることは次のことです。

 第二イザヤを通し、神様は、「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と」と、神様の御心を忘れ、偽り、侮る神の民イスラエルに向かってこのように語るのです。けれども、その上で、その最後に「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と語るのです。そして、そこに現されるものが「私たち」の信仰でもありますが、それは、神の民が、忘れることではなく、忘れないことによって経験したことでもありました。このことはつまり、「私たち」が「私たち」であるがゆえに、「私たち」もまた、それと同じことを経験するということです。では、それは具体的にどういうものであるのか。立派な信仰をお持ちの方は、その立派さをもっともっと伸ばされたらいいと思いますが、立派な信仰を持っていない者は、じゃあ、どうすればいいのか。神様に嘘をつき、イエス様を誤魔化さないためにどうすればいいのか、私が普段心に留めているのは次のことです。

 「私たち」の信仰は、伝えられ、与えられたものであり、自分一人だけの力で掴み取ったものではありません。このことはつまり、そこには多くの祈りがあり、その中で、「私たち」が忘れようとしても忘れることのできない人が必ず何人かはいて、そして、その何人かの人たちの数人は、すでに御国へと旅立った人たちでもあるのでしょう。そして、その数人の人たちは、私たちのことをこよなく愛し、大切にしてくれた人たちでもありました。ですから、その愛に偽りはなく、それゆえ、その人たちは「私たち」を迎える備えをしてくださっている人たちでもあるのです。では、神様とイエス様のことを忘れ、そのために嘘をつき、また誤魔化すことがあっても、「私たち」のことをよく知り、「私たち」が忘れることのできないこの人たちに嘘をつき、誤魔化すことなどできるでしょうか。もちろん、それは、そういった人たちのことを神のごとく崇めよといっているわけではありません。その人たちは、今、御言葉を盾にとって私たちに何かを言ったりすることはありませんが、けれども、何も言わないからこそ、「私たち」は、嘘をつくことも誤魔化すこともできないのではないでしょうか。それは、御許にあって、それらの人たちが、私たちよりも神様とイエス様に近いからというだけではありません。私たちがその人たちと分かち合った経験が真実なものである以上、その愛を裏切り、踏みにじり、手放すことなど、「私たち」にはできないことだからです。つまり、「私たち」が忘れることのできない人たちは、「私たち」と神様を、「私たち」とイエス様を、しっかりとつなぎ合わせてくれた人たちであり、まただから、その人たちが喜ばない嘘や誤魔化しを、「私たち」もまた、良しとすることはないのです。

 このように、「私たち」の信仰は、袖振り合うその場限りのものでもなければ、あの世とこの世との隔たりの中にあって、めでたくもありめでたくもなしといった、そういうものでもありません。私たちを愛してくれた人々は、辛く、切ないこの世を生き、その中で、変わらぬ愛を私たちに注いでくださった人たちであり、その人たちがそうしてくれたのは、神様とイエス様を忘れなかったからです。そして、それは、今も変わりなくなされていることであり、つまり、それが、主イエスがこの世に「宿り」、起こったことでもあるのです。ただ、この世には、忘れたいことがたくさんあるのも事実です。けれども、だからこそ、忘れずにいたいのです。主イエスがこの世に宿られたからこそ、神様とも、イエス様とも、そして、愛する人々とも「私たち」の関わりは終わることがなく、これからも続けられていくのであり、そして、その神様とイエス様の御心は、特殊な「私たち」だけに向けられたものではなく、神様が造られたすべての人たちにも向けられているものでもあるのです。祈りましょう。

祈り


  


晴 8℃ at 10:30