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降誕節第3主日礼拝 説教 「信仰は邪魔なものではない」

日本基督教団藤沢教会 2020年1月12日

【旧約聖書】イザヤ書 42章1~9節
1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
 わたしが選び、喜び迎える者を。
 彼の上にわたしの霊は置かれ
 彼は国々の裁きを導き出す。
2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
3 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものとする。
4 暗くなることも、傷つき果てることもない
 この地に裁きを置くときまでは。
 島々は彼の教えを待ち望む。

5 主である神はこう言われる。
 神は天を創造して、これを広げ
 地とそこに生ずるものを繰り広げ
 その上に住む人々に息を与え
 そこを歩く者に霊を与えられる。
6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
 あなたの手を取った。
 民の契約、諸国の光として
 あなたを形づくり、あなたを立てた。
7 見ることのできない目を開き
 捕らわれ人をその枷から
 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

8 わたしは主、これがわたしの名。
 わたしは栄光をほかの神に渡さず
 わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
9 見よ、初めのことは成就した。
 新しいことをわたしは告げよう。
 それが芽生えてくる前に
 わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 1章29~34節
 29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


今ここにあるもの
 主イエスの御名を褒め称え、神様の御言葉をもって送り出された一巡りの歩みでありましたが、主に喜ばれることを心に留め、皆さん、与えられたこの一週間を過ごされたことと思います。それゆえ、主イエスを証ししたその喜びを携え、再び主の御前へと招かれてきたのが、こうしてこの場にある私たちでもあるのでしょう。ただ、その喜びでありますが、苦しみや悲しみがその人だけのものであるように、この喜びもまた、ひとつとして同じものはありません。けれども、一つとして同じものはないにもかかわらず、私たちそれぞれが、同じように喜びを携え、主の御前へと進み行くことが許されている。それは、苦しみや悲しみを覚えつつも、主の御前へと進み行く私たちは、主に喜び迎えられる者とされているからです。そして、そのことについて語ってくれているのが、今日のそれぞれの御言葉であるように思うのです。

 第二イザヤは、捕囚の民イスラエルに向かい、「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を」と、イスラエルに向けられた神様の眼差しをこのように伝えます。神が支え、選び、喜び迎える者、それが、神の民イスラエルに向けられた神様の見方であるということです。ただ、神様がこのように語るのは、彼らのことだけを思ってのことではありません。「彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と、その直後でこう語るように、国々とはつまり、イスラエル以外のすべての国々、世界中の民であり、そして、世界の隅々まで神の裁きを導き出すということはつまり、世界中に神の公平、正義をもって秩序を打ち立てるということであり、つまりは、それが、私たちをその眼差しに置く神様であるということです。

 ただし、この裁きというものですが、世界に秩序をもたらすために、神様が、暴力をも厭わずに、力尽くでそれを成し遂げるということではありません。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。・・・」とあるように、その無力さ、不確かさ、つまり、確かな身の置き所を失った捕囚の民としての寄る辺なさ、そして、それは、イスラエルの人々の日々の具体的な苦しみであり、生きることの悲しさでもあるのでしょう。その切ないまでの日常の有様をもって秩序を打ち立てると、そう言っているのが、私たちの神でもあるのです。そして、そのような中で、私たちがこの神様の御心を知るのは、神様に喜びをもって迎えていただけるからです。それゆえ、神様の御心は、私たちの喜び、この日の笑顔によって、世に目に見える形で現されることにもなるのです。

 神様は、苦しみに縛られ、解放の時を待ち望む私たちにそう約束されるのですが、この後しばらくして、ペルシャの王キュロスによってバビロニアは滅ぼされ、イスラエルは解放の喜びを味わうことになりました。それゆえ、神様に迎えられたその喜びというものは、そこで味わった開放感に近いものだとも言えるのでしょう。従って、これをもって、この約束が果たされたとも言えるのでしょう。ですから、その時の開放感が、私たちの信仰の目的だとも言えるのでしょう。そして、終わりの日に向かって歩む私たちにとっては、それが真実でもあるのでしょう。けれども、ここで神様が約束されたことは、イスラエルの人々にその苦しみと悲しみを忘れさせることではありませんでした。イスラエルの人々だけに幸いを約束するのではなく、解放されたイスラエルの人々によって、世界の隅々まで秩序がもたらされることを約束するものであり、従って、イスラエルの解放は、神の完全なる秩序が打ち立てられる上での始まりに過ぎなかったということです。それゆえ、幸いをもたらす救い主、メシア、キリストの到来を、イスラエルは、その後、長く待ち望むことになるのです。そして、それから約500年後のことです。イスラエルは、救い主の到来を経験し、そして、今もその時の経験を証しし続けているのが、私たち主の教会に属する者でもあるのです。

 ですから、この日語られている洗礼者ヨハネの姿は、その喜びに与り、終わりを待ち望む者の姿であり、つまりは、それが、こうして御言葉に聞いている私たちの姿であるということです。そして、私たちは、そのことを自らの言葉をもって表すことが許されているのであり、つまり、それが証しするということです。ところで、この証しということですが、メソジスト教会の伝統、歴史を持つ私たちにとっては、特別な意味を持つものでも有るのでしょう。それは、信徒の証しというものを大切にしてきたのが、私たちメソジスト教会でもあったからです。ですから、私の母教会も、神学校時代、母教会を離れ、一年間お世話になった教会も、聖書の学びと祈りに加えて、信徒の証し、奨励をとても大切にしていましたし、また、最初の任地であり、また、メソジストの伝統を持つ教会が多い、静岡の教会においても、そういう教会は同じ地区にいくつもありました。それゆえ、それについては、私たちが同じメソジストの流れを汲む教会である以上、恐らくは、私たちもかつてはそうであったように思うのです。

 ただ、この証しというのは、私もそうでしたが、信徒の皆さんの立場からすると負担感たっぷりの非常にストレスフルなものでもあるのでしょう。そのため、どうしてもご勘弁をと、辞退される方が多くなってしまうことも分からないことではありません。そして、その場合の一番の障害は、人前で自分のことについてしゃべらなければならないということです。そこで、上手に話をしなければ、間違ったことをいわないようにしないと、あの人のように、この人のように自分も立派なことを言わなければならないなどと、これは、私にも覚えのあることですが、けれども、そうこうしているうちに、ほとほと弱り果ててしまうことになるわけです。けれども、そこで話をすることは、自分のことではなく、イエス・キリストについてです。主イエス・キリストによって救われた喜び、言い表すべきことはこの点にあるわけで、ですから、それについて話をすることがまったくないとしたら、これは由々しきことにもなりましょう。けれども、もちろん、そういうことは、日々主イエスの祝福のもとに生きる私たちの中では100%ないはずです。ですから、証しすることに二の足を踏んでしまうのは、そこにもっと別の理由があるからだと思います。

 それは、一番正面にある主イエス・キリストを見るのではなく、本来はその後に付いていくべき自分自身を一番前に立たせてしまっているからです。だから、証しを信仰武勇伝、信仰の自慢話のように受け止めることにもなるのでしょう。まただから、「自分にはできない、そもそも人様にお話しするような経験もない」と、その謙虚さがそう言わせることにもなるのでしょう。しかし、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙10章で次のように言っています。それは、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」というものですが、パウロがこのように語ったのは、申命記で次のように言われているからです。それは、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口、あなたの心にあるのだから、それを行うことができる」というものですが、洗礼者ヨハネのように私たちは、聖霊が天より鳩のように降って、主イエスに留まる様子を見たわけではありません。けれども、そのことを伝える神様の言葉が私たちの直ぐ近くにあるのは間違いなく、そして、この近さを日々感じながら歩んでいるのが私たちであるわけです。そうである以上、ですから、この近さに背中を押されたとき、私たちは語らずにはいられないのです。ただし、それは、熱にうなされたように熱く何かを語らなければならないということではありません。

 そこで、先日亡くなられた、同信の友でもある中村哲さんの話し方を思い出すのですが、中村さんの話し方には雄弁さやカミソリのような鋭さもありませんでした。中村さんの語り口調は、第二イザヤが「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなって行く灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」と語るそのままのものであり、そして、彼自身のその背中を押したものが、直ぐ近くにある御言葉でもありました。多くの人々の心にその姿が印象深く刻まれることにもなったのはそのためでもあるのでしょう。しかし、それだけにまた、中村さんのこの度の出来事は、世界の無秩序な状態を私たちに印象づけることにもなりました。そのため、私たちは、神の正義、公平さへの疑いを深めることにもなりました。けれども、先ほども少し触れました神様の裁き、つまり、神様の公平と正義によってもたらされる秩序でありますが、神様の公平と正義が、中村さんをそのような人生へと導き、そして、彼の成したことが、この世界に秩序をもたらす上での大きな働きであったことを思いますと、神様の公平と正義といったものの輪郭が、返ってはっきりさせられるようにも思うのです。

 そこで、この神の裁きについて、もう少し詳しく言いますと、旧約聖書で度々語られているこの「裁き」という言葉は、人間の暮らし、その営みが置かれるすべての場所で、神様によって造られた人間を幸せにするために、そのための秩序を造り出す神様の働きそのものを意味します。そして、それが私たちが御心と呼んいるものであり、また、それが神様の恵み、神様のご計画と呼んでいるものでもあるのでしょう。ただ、この神様の御心の中に置かれながらも、とても悲しいことに中村さんは、突然、その生涯に人為的に強制的に終止符を打たれることになりました。このことはつまり、人の手によって、神様の公平と正義が踏みにじられたと言うことでもありますが、けれども、これは、ありきたりな言い方になるのかもしれませんが、そうであっても、彼がその生涯をかけてしたことが、まさに神様の御心のそのままを現し、そして、それが、これから後も、確実に残り続けるものであるのは間違いありません。そして、このことはまた、主イエスを証しすべく導かれる私たち一人一人にも、同じことを同じように当てはめて考えることができるのです。

 私たちは、まったく同じように日々過ごしているわけではありません。けれども、それぞれが置かれているその場所で、同じようにこの神様の働きの中に置かれ、神様の御心を日々現しながら生きるものなのです。ですから、主イエスの出来事を知り、証しをするすべての人々、つまり、私たちすべてが、洗礼者ヨハネであり、中村哲さんであるということです。けれども、たとえ、それが本当にそうであったとしても、ハイ分かりましたとは、恐らくは、すぐに手を上げてはいただけない、それはどうしてなのか。証しすることのできる人のところには、救いが訪れ、そうでない人の所にはまだ救いは訪れていない、そういうことなのでしょうか。もちろん、そうではない、主イエスの出来事を経験した私たちは、こうして礼拝を通し語られている御言葉によって、主イエスの訪れを経験しているわけで、そして、それは、私たちだけでなく、この同じ経験をした人々は、世界の隅々までごまんといるわけで、中村さんもその一人であったということです。

 この二千年の教会の歩みを通し、世界の隅々まで立てられた教会によって、神様の秩序は完成に向かって進み、いよいよ、人が幸せになる条件は整ってきたということでもありますが、けれども、それは本当にそうであったとしても、まだまだ、その途上にあるのが,私たちが生きるこの世界でもあるのです。ですから、私たちが証しすることに尻込みするのは、メシアの到来を受け入れられないからではなく、この神様の秩序の見え辛さに原因があるのであり、またそのために、そもそものところで神様の公平さと正義を疑い、斜に構えて見てしまうところから抜け出せずにいるのです。しかも、世界の隅々まで教会が立てられたとしても、私たちが生きるこの世界が秩序だっているとは到底思えないわけですから、それを見るとき、神様の力にすがることにあきらめを覚えてしまうのも仕方ないことなのかも知れません。従って、そのような中で証しすることを強く訴え、何かを語ることを求めたとしたら、皆さんにとっては、過大なストレスを与えられるものであり、それこそ、それが高じていけば、信仰ほど邪魔なものはないということにもなるのでしょう。ましてや、宗教に対するネガティブな評価で覆われている昨今でもありますので、そうした空気の影響を免れることができないのも宜なるかなとは思います。けれども、たとえ世の中がどんな雰囲気、状況に置かれようとも、信仰は邪魔じゃない、先ほど申しましたパウロの言葉が示すように、それを証しするのが私たちでもあるのです。ただし、そのためには、皆さんの心の中にある一つの誤解を解く必要があるように思うのです。

 私たちが、こうして手にしている私たちの信仰は、それが、私たちの命に対する一つの答えであるのは間違いありません。けれども、それが私たちを絶対に後悔させない、そのための唯一の答えではないということです。つまり、人の生き方に後悔が伴わないことがないように、私たちの生き方にも後悔は必ず伴うものであり、それゆえ、信仰の生涯と言えども、手探りのものとならざるを得ません。そのため、多くの揺らぎ、迷い、躊躇い、そして、後悔、そういうものが必ず伴うことにもなるのです。そして、それを神の御前に正直にさらけ出すことは、恐れ多いことであり、とても恥ずかしいことでもあると思うのです。けれども、そういう恐れ多い、恥ずかしい歩みをしてきたのがイスラエルの民であり、私たち主の教会に属する者でもあったのです。

 神様を前にして手探りな歩みをなすということは、道のりのすべてが分かっていないということであり、そのために、人の目からすれば、恥の上に恥を重ねるものと映るのでしょう。けれども、それは、捕囚の民がそうであったように、それが、神様に喜び迎えられる者の姿でもあるのです。ただ、この喜び迎えられる者の姿は、同時にその苦しみと悲しみを引き受けることであり、そして、それが私たちの喜びとなるのは、私たちが鈍感でただの恥知らずだからではありません。大なり小なり、恥を忍びつつ生きるのが人の一生だと思うのですが、それゆえ、その歩みは、手探りなものとならざるを得ず、そのために正しい答え、間違いのない生き方を人は求めてやまないようにも思うのです。そして、私たちもその一人であるのは間違いありません。ただ、私たちの歩みは終わったわけではありません。そのために、未だに神様の前に恥ずかしい姿を現すしかないのですが、けれども、その恥ずかしい姿は、主イエスの十字架と復活の出来事に包まれた姿でもあるのです。だから、主イエスと出会った洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。

 主イエスが、世の罪を取り除くと言われたことは、主イエスが世の恥、人の恥ずかしさをなかったことにしてくださるということではなく、その身にすべて引き受けられたと言うことです。私たちはこの主イエスと共に生き、この主イエスと共に神の御前に集い、この主と共にその生涯を過ごしているのです。ただ、私たちが親を疎ましく感じることがあるように、時にそれが疎ましく感じることもあるのでしょう。共にあるということはそういうことでもあるからです。まただから、それを隠そうとして、私たちは、つまらない誤魔化しをしてしまうのでしょう。アダムとエバが罪をその身に負うことになったその時、神に対し恥ずかしさを覚えたように、その罪ゆえに、その恥ずかしさゆえに、自分を誤魔化そうとしてしまうのです。けれども、そうであっても、主イエスは変わらずに私たちと共にいてくださいます。そして、その私たちの恥、私たちの罪を共に担い、背負い、そして、その私たちを神様の御前に連れ出し、そこで、私たちが神様に喜び迎えられる者であることを知らしめようとされているのです。

 それゆえ、この私たちの手探りの歩みは、自らの恥を知る歩みでもあるのでしょう。けれども、それは同時に、それでも変わらずに私たちと共にある主イエスを知る歩みでもあるのです。そして、第二イザヤが、「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形作り、あなたを立てた」と語るように、それが、この主イエスと共にある歩みを世に現す、私たちの使命であるのです。従って、私たちが、この主と共にある歩みに間違いはない、信仰は邪魔じゃない、と言えるのは、私たちの歩みが、そのように手探りなものであると同時に、そこで主イエスを知ることが許されているからです。だから、そこで、その有り難さ、そのうれしさ、その喜びを感じる私たちは、喜びのそのままを証しすることができるのです。それは、そのようなとき、私たちを担い、背負い歩む主イエスのその姿が、私たちの目にはっきりと見えているからです。しかし、それが見えずとも、主は私たちと共にいてくださっているは間違いありません。なぜなら、神様の御心はそのように私たちに働きかけるものだからです。祈りましょう。

祈り





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