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降誕節第5主日礼拝
  説教 「私たちの願いを知る方」

日本基督教団藤沢教会 2020年1月26日









説教
鈴木みどり牧師(明治学院教会)
旧約聖書 出エジプト記 33章12〜23節
◆民と共に行かれる主
 12モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。13お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」14主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、15モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。16一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
 17主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」
◆主の栄光
 18モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、19主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」20また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。22わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。23わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」
 
新約聖書 ヨハネによる福音書 2章1~12節
◆カナでの婚礼
 1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。


私たちの願いを知る方
●願いは聞かれる
 さて早速、本日の新約聖書ですが、
1節、 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。とあります。著者ヨハネはいつも「マリア」と呼ばず、「イエスの母」とか「母」と記しています。三日目に、というのは、イエス様がヨルダン川で、多くの群衆と共に、罪人としての洗礼をバプテスマのヨハネから受けられてから、三日目に、ということでしょう。しかし同時に、十字架の死からも三日目に、復活されたこと、そのような奇跡が起こったことを、思い出してみてください。
 2節には、 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。とありますが、自分の結婚式に(ナマ)イエス様を呼べるなんてうらやましい限りですよね。(笑)
 そんな祝宴の最中、ぶどう酒が足りなくなったので、母、つまりマリアがイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。と3節にありますが、結婚の祝宴の席でぶどう酒がなくなるなどということは、およそ許されないことで、ホストハウスの恥に当たる大変なことです。しかし、イエス様は母マリアに言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
 お母さんでもあるマリアに対して「婦人よ、」などといわれ、ちょっと冷たい感じもするイエス様ですね。
 この、「わたしの時はまだ来ていない」という表現は、ヨハネによく見受けられる表現で、12章までに5,6回出て来ます。けれども12章23節まで来ますと、「人の子が栄光を受ける時が来た」となりまして、初めて「時が来た」となります。
 「イエス様の時」とは、十字架の時、復活の時、昇天の時、聖霊降臨の時、再臨の時などの一連の時のことです。この「時」という単語には、まとまった期間や季節を表す「時」=「ヘー ホーラ」つまり、英語で言えば、the season のような言葉が使われています。すべての大事な時を、ひとつの季節として、まとめて表しているわけです。

 しかし、母マリアはイエス様のそのような言葉と態度にもめげず、5節、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いつけました。6節、そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてありまして、いずれも二ないし三メトレテス入りのものでした。
 必死に計算してみますと、1メトレテスは約39㍑なので、1かめが二ないし三メトレテス入りということは、約78〜117㍑になりますので、仮に3メトレテス入りだとすると、1かめ117㍑となりまして、1かめで普通のワイン1本750mlの156本分くらい、ということになります。随分入るものですね!それが×6かめある、ということは、計算上は、750mlのワイン936本分くらい、ということになります。そしてその「かめ」だと言われているものが展示されているのをイスラエルで見てきましたが、相当大きかったです。人が2人くらい入れそうでした。いったいどれだけの客人が呼ばれていて、どんだけ飲むのやら!と思ってしまう量ですね。思わずIKKOさんになってしまいます。笑

 水をぶどう酒に変えるということ、(一体白なのか?赤なのか?はわかりませんが。笑)これは神による更新の御業です。「水」というモチーフはまたこの著者ヨハネがよく登場させるモチーフでもありまして、黙示録でもヨハネは、わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙21:6)という、その時聞こえた主の言葉を記録しています。イエス様は渇いた人に、価なしに命の水を飲ませてくださる、というのです。

 結局は、花婿役であるイエス様なしには、ほんとうの御国での祝宴もありえません。また洗礼にしても、ヨハネが授けていたのはただ罪を悔い改める水の洗礼でしたが、イエス様の授ける洗礼は、水と火(つまり聖霊)によるものですし、悔い改めのためだけでなく、永遠の命を与えるものへと更新されました。
 一方で、律法主義のユダヤ教から、キリスト教への更新という考え方もあるかも知れません。
 「時が来ていない」と言われながらも、水をぶどう酒に変えられたのは、逆に、「その時が来ればわかるため」のしるし、象徴としての奇跡をなさったということではないでしょうか?
 あるいは、かめが完全数の7つにひとつ足りない6つであることも、その時が来ていないことの象徴なのかも知れません。この奇跡は、先ほどの、十字架の時、復活の時、昇天の時、聖霊降臨の時、再臨の時(まあ再臨は今もまだですが)、という「イエスの時」をすべて通っていないこの時点では、完全ではなく、意味もわかりません。
 けれども、今、再臨の時を除くそのすべての時について知っている私たちには、彼ら当時の弟子たちよりも意味がわかるはずではないでしょうか。すべてのものは、私たちも、物事も、キリスト・イエスを通ることで、新たなものとされ、更新されるのです。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、…と2コリント5章17、18節にはあります。

 そして7節からイエス様は、人間である母マリアに言われたからではなく、主権者として、神の子としての権威在る者として、ご自分の自由意志とタイミングで、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召し使いたちに言われ、遂に主のみわざを初められました。
 7節、 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。とあります。言われてすぐに、そのとおりに召し使いたち(原語は「ディアコノス」なので「執事たち」)が行動したので、その水がぶどう酒に変わるという8節以降の奇跡へと繋がったのです。こうして、ホストの必要を満たすマリアの願いは聞かれました。
 主に言われたとおりに、その時にすることは大事なことです。つまりは、主イエスの言葉を信じることが、大切なのです。主の言われたとおりに私たちがすることが、奇跡に繋がる道、とも言えるでしょう。
 いつも申し上げますが、イエス様御自身が、「言(ことば)」です。この、聖書の御言葉は、イエス様御自身なのです。
 いつかお話した、このヨハネ福音書の冒頭を思い出してください。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 この「聖書」という本は、神様から私たちへのラブレターでもありますが、もっと言えば、「イエス様ご自身」なのです。この聖書を信じ、これに聴き、これに頼ることが、イエス様を信じ、従い、頼ることになります。逆に言えば、これ以外の何か別の言葉に聞き従うのなら、正しい道から外れることになりかねません。今はもう終わりの近づく時代ですから、聖書の預言どおり、人々の愛が冷え、偽預言者たちが横行し、キリスト以外の声に人々が従い、一度は信じた者でも簡単に道を外れていくような時代です。私たちも、今はここにいますけれど、自分がそうならないように、ということにも気を付けなくてはいけません。いつ何に騙されるかわからないからです。だから、主は、「目を覚ましていなさい」と言われたのです。それは決して「寝るな」ということではなくて、私たちはいついかなる時にも、「霊の目」や「霊の耳」を覚ましていなくては、主の御声ではない声に騙されてしまうので、危険なのです。今流行の「スピリチュアル系」や「ニューエイジ系」には本当に気を付けてください。
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:3)というのですから、前回もお話しましたように、イエス様はすべてを造られた創造主です。なのでいつも新しいものを創造なさいます。「光、あれ」と言えば光が在るようになる、無から有を生み出せる方なのです。
 その方が、“水をぶどう酒に変える”ことなど、どうってことはないでしょう。たとえ水がそこになくても、海を造られた方ですから、初めからぶどう酒を造ることだって簡単におできになるはずです。
 つまり、私たちはそれを「奇跡」だと思いますが、イエス様にとっては、水をぶどう酒に変えることなど、奇跡でもなんでもないのです。そんなのは朝飯前、日常茶飯事、お茶の子さいさいといった感じでしょうか。

●もっと信じよう
 そしてこの方は、全知全能の神です。私たちの今までの祈りをすべて聞いておられ、知っておられます。ならば、私たちはもっともっと、この方にできないことはないことを信じ切るべきではないでしょうか?
 先日、クリスマスにうちの教会で起こったキセキ(普段20人なのにクリスマスに200人来会!)について少しお証ししましたが、いつもそうなのですが、こういう奇跡的な事態が起こった時、例えばみんなで祈ったら、手術が決まっていた大きなガンが消えてしまって医者が驚いたとか、そういったことも何度か見たり聞いたりしましたが、そんな時、実はこれをどうしても「奇跡」とは認めたがらない人が少数いるのです。その目で見ても、経験しても、「これはたまたま偶然」と言ってみたり、逆に「あれがこうで、これがああだったという理由に基づいてそうなっただけ」と、そういう時だけ妙に論理的になったりするのです。
 これは実に悲しく残念な神様への否定であり、拒絶です。そもそも「偶然」というものは存在しません。神様にあってはすべてが「必然」です。そしてまた、人間的な理由だけが物事や出来事の存在理由ならば、私たちは今ここに存在しないことになります。私たちの存在そのものが、神のなさった創造の御業の証しだからです。
 私たちはもっともっと神様のなさることをそのまま、信じ受け入れる必要があります。神のなさることに、いちいち人間が後付けする「理由」など要りません。もしも神様に何か理由が必要ならば、それは「愛」でしかありません。私たち人間も、愛のゆえに造られた存在です。
 もし奇跡が起こったならそれは、無から有を生み出せる方に、誰かが、「そうなるように!」と必死に祈った、みこころに適った祈りや願いが聞かれたのです。「そうではない、あれは奇跡ではない」という人は、残念ながら、その事を心一つに祈ってはいなかったから、それが祈りの応えだとわからない、というだけのことではないでしょうか。そう簡単に、自分勝手な人間の理屈を盾に、神様の御業(みわざ)を否定してはいけません。その昔、うつ病の症状なので仕方がなかったとはいえ、自分の存在そのものを否定したくなり、消し去ろうとした自分を、わたくしも大いに反省しています。
 自分や誰かの存在を否定することは、イエス様を否定することなのです。そして、変なキレイごとでなく、ほんとうに、言うなれば私たち人間一人ひとりの命や、動物や植物も含めすべての命の存在というのは、まさに神様の起こされた奇跡なのです。

●すべては主ご自身の栄光のために
 さあ、神様が私たちの祈りを聞いておられ、願いを知っておられる方だということが、わかってきました。本日の旧約箇所の出エジプト記では、あの海を割ったモーセさんが、このことを教えてくれています。(昨日の「聖おにいさん」にも「割る」という言葉に反応してしまうおかしなモーセさんが出て来ましたね。笑)

 モーセという人は実に率直な人です。3章で主から召命をいただいた時にも、さんざん主に食い下がって、「話し下手だからみんなのリーダーになるのなんか無理!」と言ってさんざんゴネた人ですが、今日の33章でもまた主に文句を言っています。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われたのに、わたしと共に遣わされる者をお示しにならないし、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われたのなら、道をお示しくださらなくちゃわからないじゃないですか、と言っているのです。

 さすが私の初恋の人(笑)。 前にもお話したかも知れませんが、平和学園幼稚園の時に読んでいた、「子どものための聖書絵ものがたり」という本の中で見た、それこそ海を割っているモーセに一目惚れしたのです。旧約から順番に読んだので、イエス様より先に出会ってしまったものですから(笑)。それ以来私は海や川や水を見る度に、これが割れるということをどうやって信じればよいのだろう?と考え続ける変な子どもになりました。今もあるのか知りませんけれど、横浜港の氷川丸という船に乗っても、海が見えると、水が恐くてビービー泣いたり、一方では、「この海が割れて人が歩けるってどゆこと?!」と考えたりで、忙しかったです(笑)。
 あれは葦の海だからもともと浅くて時々道ができるんだ、とかなんとか、色々やはり人間の理屈で海が割れた可能性を造り出して納得しようとする考え方がありますが、やはりそうやって神様のみわざを小さく見積もろうとする考え方がどうも子どもの時から苦手だったようです。でないと、後ろから来たエジプト軍が溺れ死ぬこともあり得なくなってしまいますし。
 まあそれはそうと、ここで主はすぐにそんなモーセに応えてくださり、14節「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われました。するとさらにモーセは強気にたたみかけるのです。
 ちなみに、ここで主が、わたしが自ら同行し、と言われるのは、「主の御顔が共に行く」という意味があり、主「ご自身」「本体」が共に行かれることを意味します。また、安息を与える、というのは、敵から守られることや、土地が与えられることを示しています。

 15節16節、 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」と何となく丁寧に言っている風ではありますが、通訳しますと(笑)要するに、「一緒に行くのは当たり前なんじゃボケ!」と言ってモーセは主にツッコミを入れているのです(笑)。でもなんだかよくないですか?この神様との関係…。私たちもこんな風に、構えず自由な感じで神様とお話してよいのだと思います。
 ここでのモーセの言い方も、この聖書には訳されていませんが、「見よ(ラーアー)、あなたが私に言ったことを。」と始まって、「見よ、この民があなたの民であることを。」という風に終わるので、ほんとうはもっとキツい言い方なんですね。原文では。主に対しての結構な圧があるわけです。でもそれはモーセが、自分個人のこととしてだけ考えているのではなく、民全体を導く責任ある者として言っている、勇気ある言葉でもある、ということは心に留めたいと思います。
 この、主に迫るような想い、祈り、願いというのは、本気かどうか、真意が問われる時に、とても大事な気がいたします。

 それで結局神様はどうされたのかと言えば、ご自分自身が常にモーセたちと共に行くことも、敵から守り、約束のカナンの土地まで確かに導くこともすべて、モーセの願いを叶えると、言ってくださったのです。
 ただし、繰り返しますがモーセの願いは、とても具体的で正直な内容だったこと、また、ただ自分の個人的な願いをぶつけているわけではなかったことを、私たちは心に留める必要があるでしょう。モーセはいつも、民を導くことへの責任を重く受け止め、深く考えている
のです。
 
ちなみに、ここで何度も出てくる言葉、「好意を示し」というのは、「あなたは私の目に適った」という意味の言葉です。モーセに対して主は、特別な「選び」と「親しみ」の感情を持っておられるのです。
 しかし、たとえそうでなくても、神様は私たち一人ひとりの願いを聞いておられ知っておられます。それは私たちが祈る前からだ(マタイ6:8参照)とされていますが、だからといって祈らないのはよくありません。私たちがいつもモーセのように素直に率直に、神様に願い求めるならば、そしてそれが自分勝手な願いではなく、神様の思いとベクトルが合っているのならば、いつか必ず叶えられるでしょう。
 私の母の救いも、私が受洗した2000年から祈り出してから、19年祈った昨年のクリスマスに、漸く叶えられました。ずっと祈り続けたかといえばそうでもなく、時々諦めの波がやってきて、祈りがかき消されるようなこともありました。逆に火が付く時もありました。しかし常にそれらの祈りは聞かれていたのです。ある人が、「主の前には祈りの壺があって、それをいっぱいにしないと祈りは聞かれない」というのを聞き、なるほど、そのイメージを持って私も祈ろうと思い、諦めず祈り続けたのでした。

 18節でモーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と祈るのですが、この祈りは重要だと思います。すべてのことは、主の御栄光のためにあるのです。私たちの名前や存在を高めるためではありません。私たち人間は、すぐにそこを勘違いします。自分の名の栄光を、無意識に求めるのです。いわゆる名声や名誉への欲というものです。
 先ほどの新約のヨハネにも、この「栄光」という言葉がありました。11節、 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。のだと。弟子たちは、水をぶどう酒に変える最初のしるし、奇跡を通して、主の御栄光を見たのでイエス様だと信じたのです。
 栄光とは、主なる神様の、本質的な輝きですから、20節で神様ご自身が言われているように、人間が直接見ると死んでしまいます。なので、神様はわざわざモーセを岩の裂け目に入れ、ご自分が通り過ぎるまで、ご自身の御手でモーセを覆ってくださる、とまで約束してくださいました。
 主の御栄光の輝きというのは、黙示録によれば、太陽と月も不要であり、そこに夜がなくなるほどの光だと言います。(黙21:23-25)なるほど、そんなものをこの生身のカラダで見てしまったら、それは確かに死んでしまうでしょう。

 モーセが、「あなたの栄光をお示しください」と祈った後、主は、こう言われました。19節、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
 この、「善い賜物」というのもまた、主ご自身の本質を表す言葉ですが、その主という名の方、つまり神様は、恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。と言っておられ、恵みと憐れみは、神様の自由な思いのままに、一方的な恵みとして与えられるものなのだ、ということがわかります。
 つまり、私たちの側に祈りを叶えていただくための主権はない、私たちが祈りによって神様を自由に動かすわけではない、ということです。神様は人間の執事ではないのですから、当たり前といえば当たり前のことです。しかし、多くのクリスチャンが、無意識のうちに、そのような感覚、神様を見下げるような感覚に陥っているのを見ることがあります。神様は、私たちの願いを聞いてくださる方ですが、見下げるものではなく、見上げるべき方です。それだけは間違えずに、今日も明日も明後日もひたすらに、私たちの願いを知ってくださっている方に、大胆に祈り求めて参りましょう。

祈り


  


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