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降誕節第8主日礼拝 説教 「いやすキリスト」

日本基督教団藤沢教会 2020年2月16日









説教
鈴木みどり牧師(明治学院教会)
旧約聖書 ヨブ記 23章1〜10節
1 ヨブは答えた。
2 今日も、わたしは苦しみ嘆き
 呻きのために、わたしの手は重い。
3 どうしたら、その方を見いだせるのか。
 おられるところに行けるのか。
4 その方にわたしの訴えを差し出し
 思う存分わたしの言い分を述べたいのに。
5 答えてくださるなら、それを悟り
 話しかけてくださるなら、理解しよう。
6 その方は強い力を振るって
   わたしと争われるだろうか。
 いや、わたしを顧みてくださるだろう。
7 そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ
 わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。
8 だが、東に行ってもその方はおられず
 西に行っても見定められない。
9 北にひそんでおられて、とらえることはできず
 南に身を覆っておられて、見いだせない。

10しかし、神はわたしの歩む道を
   知っておられるはずだ。
 わたしを試してくだされば
   金のようであることが分かるはずだ。
 
新約聖書 ヨハネによる福音書 2章1~12節
◆ベトザタの池で病人をいやす
 1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。† 5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
 その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。


いやすキリスト
●プロローグ
 さて、この藤沢教会のみなさまとの礼拝も、本日を入れてあと2回となりました。約1年はあっという間ですね。
 本日は、「いやすキリスト」というタイトルですけれども、これは「イエス・キリスト」をもじって、私のことだから、きっとダジャレのつもりなんだろうな、と思われた方、正直に手を挙げてください 笑。残念ながら違います今日は 笑。
 これは実は教団の「日毎の糧」の、どなたかわかりませんが、担当者がつけた本日の聖書箇所のタイトルなんです。まあしかしおそらくその方も20%くらいは洒落っ気? があったと思いますので笑、その心意気をそのまま受け継がせていただきました。「いやすキリスト」。真面目な教会なら「イエス様の呼び名でダジャレとは何事だ!」とぶっ飛ばされてしまいそうですけれど、藤沢の皆様は笑ってご理解くださると信じています。

 それにしてもほんとうに、突然「事」は起こりますね。新型コロナ。昔だったら、新型コロナと言えばトヨタの車がモデルチェンジしたのか?というニュースでしかありませんでしたけれど、今はウィルスの名前になってしまいました。ほんとうに、イエス様にすべての方をすみやかに癒して欲しい状況です。まあそんなに致死率は高くないようですし、現在のひどい状態の中国で約2%程度ですから、今の状態の日本であれば、そこまで恐れることはないと申しますか、ちゃんと咳エチケットが守られて、それぞれがよく手洗いうがいに励めば大丈夫でしょう。私は元々つり革には触りたくないタイプなので、手すりめいたものにもまず触りませんし、一応しゃべる仕事なので、実はほぼ年中、こうなる前からいつも、外を歩くときはだいたいマスクをしています。それで何やら日本中のみなさんが一生懸命手を洗ってうがいをしたかいあってか、日本では今年、インフルエンザの患者数がいつもの半数程度らしいですから、良いこともありますね。
 しかしそれにしても、ホテル三日月さんや、その他の帰国者を受け容れたホテルの皆さんは素晴らしい働きをされましたね。感謝です。またホテルに留まってくださった方々もほんとうにお疲れ様でした、と感謝の意を表します。横浜のダイアモンドプリンセスは残念ながら大変なことになってしまいましたが、寄港しているだけで、入国していないので、あの船内はイギリスなのだということですから、なかなか色々なことを徹底するのも大変なのでしょう。彼らの忍耐に感謝しつつ、我々も祈りで支え続けましょう。

●いやすキリスト
 さて、聖書のお話ですが、本日の新約の箇所はヨハネ福音書、イエス様の7つの奇跡の3つめのところです。また、イエス様はエルサレムに上られました。三大祭りのどれかでしょうか、ユダヤ人の祭りの最中のことです。
 2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
とありますが、イスラエルに行かれて、エルサレムに足を踏み入れたことのある方は、位置的には、あの「嘆きの壁」に向かっておそらく左手奥の方向の、「羊の門」から出た城壁の外側に、その「ベトザタ」(口語訳・新改訳「ベテスダ」)という池があったようです。聖書協会共同訳の新しい聖書には、カラーの親切な地図がついておりまして、その中の「10 イエス時代のエルサレム」という地図を見ますと、その池が●ではなく■であることがわかります。「池」と言っても人工的な「公衆浴場」的なものだったのでしょうか。二つ、四角いプールのようなものがあり、そのうちの一つがベトザタの池でした。しかもそこには五つの回廊があった。というのですから、それは地図ではわかりませんけれど、全体としてはかなり広い場所が想像できます。おそらくその回廊の中心に、四角いプールのようなものが掘られていたのでしょう。

 そして3節、この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。とありますが、その後の4節が飛んでいます。これはヨハネ福音書の最後のページ、212pを御覧いただきますと、「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」として、5章の3b〜4節ということで、こんな聖句が書かれています。
 彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
 そんなことが本当にあるのかどうかはわかりませんけれど、(まあ、真実味に欠けるので、欄外送りになった一文なのでしょう)とにかくどうやら、そのような伝説的な理由があったが故に、様々な病気や体の不自由な人びとが、主の使いが降りてくる瞬間を待ち続けながら、大勢横たわっていたのでしょう。隠された4節を読んで初めてわかることですが、彼らがそこにいたのは、そうした理由があってのことだったのです。

 5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいました。
 38年といえば、平成の31年の間中ずっと、プラス、令和になってもあと7年ずっと、という長さですから、かなりの長さの時間、その人はずっと苦しんでいました。例えば20歳で病気になったとしても、もう58歳ですし、もし35歳で発症したなら、もう73歳ということになりますが、当時の人がそこまで長生きだったかどうかはわかりません。もしかしたら58歳でも相当なおじいさんだったのかも知れません。ちなみにこれより1600年位後の江戸時代の日本人の寿命は、50歳に満たなかったそうですから、もうここにいる方は私も含めほとんど召天済みということになります。

 6節で、イエス様は、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われました。
それまでに会話があったのかどうかはわかりませんが、イエス様ですから、その人のことを御覧になっただけで、その人がもう長い間病気であるのを知ることができたのかも知れません。
ちなみに、この「見るὁράω(ホラオー)」という言葉には、ただ見るのではなく、「心で見る」「思いをもって見つめる」「知ろうとして見つめる」というような意味の原語が使われています。イエス様は、主の愛と憐れみをもってその人のすべてをじっと見つめたのです。

 すると病人は答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 この人がどれだけ今まで辛かったのかがよくにじみ出た言葉です。イエス様の、「良くなりたいか」という問いにはダイレクトには答えず、ほとんど長年のグチのような事をこぼしたのです。ここで彼はイエス様に心を開いた、と言ってもよいかも知れません。(ちなみに本文では不明ですが、原語は男性形ですので、この人は男性です)
 先ほどの、隠された4節の迷信のようなことを、彼は信じ切って待っているのに、38年間も寝ている体ではすぐには動けないでしょうから、絶対に他の人に先を越されてしまう、そしてがっかりする、次に主の使いが降りてくるのは一体いつなんだ、今度はいつまで待てばいいんだ…と途方に暮れる、というようなことを、この人は長年繰り返し続けてきたのでしょう。

 そこでイエス様は言われました。8節〜9節、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしたのです。
 この、イエス様の、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」というご命令を聞いた時、もし私たちだったら、どんな風に対処するでしょうか? もしかしたら、「いやいやイエス様、お言葉ですが、それは無理です。38年間もずっと寝ていたのですから。起き上がれ、なんておっしゃられても、急に歩けなんておっしゃられても、それは無理ですよ。」…反射的にそんな風に言ってしまわないでしょうか?
 でもこの病気の彼は違いました。この瞬間の彼には、「もう治りたい!こんな生活はいやだ!」という気持ちしかなかったのでしょう。
 このあとの13節を見ますと、しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。とありますから、今自分をいやして下さろうとしている方がどなたなのかを、彼は知りません。ですから、イエス様を信じる信仰によって起き上がったわけではないのです。ただ、とにかく癒されて、先ほど愚痴ったような現状から解放されたい一心で、言われたとおりに彼はやってみました。実際に起き上がり、自分のそれまで寝ていた寝具をたたんでか、丸めてかわかりませんが、とにかく担いで歩き出したのです。良くなったから歩き出した、かのようにも読めますが、これは彼が歩き出してみないと良くなっているのかどうかわかりませんから、同時に起こったことだと捉えるべきでしょう。歩いてみたら歩けた、ということです。できると信じて従う時にこそ、奇跡は起こるのです。「38年も歩けないのだから歩けるわけない!」と言い張って、歩き出さないのなら、癒しも起こらないのです。

 つまりそれは、さらに掘り下げれば、イエス様が、病気それ自体ではなく、その人の根本を癒す方である、ということではないでしょうか。今までの38年間は病気に乗っ取られたままの体だったけれど、この人の言うとおりに起き上がって歩き出してみよう、と思える心へと、恵みによって変えてくださった、ということなのではないでしょうか。それまでの在り方に縛られていることをやめよう、もうそこから解放されたい、と本気で思えたからこそ、病が癒されたのではないでしょうか。そしてもちろん、そのみことばと、それに従う新しい勇気を、ただ恵みによってくださったのは、イエス様なのです。みことばに生きる、みことばに従う、ということの神髄がここには隠されているような気がいたします。その病気の人はイエス様だとは認識していなかったけれども、主の恵みは、主を知らない人にまで注がれるのだ、ということです。主に知られていない人はいない、ということです。
 この彼以上に、みことばに素直に聞き従って生きる必要が、私たちにもあるということは明らかです。私たちはイエス様という方を知っているのですから。
昨年のクリスマスのお祝いからもう早くも2ヶ月が経とうとしていますが、この地上に、神であり神の子でもあるイエス様がいらしてくださったのは、他の誰のためでもなく、私たちひとりひとりのためなのだということを忘れてはいけません。私たちの人生は、自分のところに来てくださったイエス様の救いの恵みを受け入れることでこそ、本当に花開くのです。

●安息日
 そして、9節には大事なことが書いてありました。…その日は安息日であった。と。
 なまイエス様が生きておられたこの時はまだ、当然ながらイエス様の復活前ですから、土曜日が安息日でした。ユダヤ教的には金曜日の夕方からもう土曜が始まりますから、イスラエルに行った際にも、ユダヤ教の町でギリギリまで見ていると、5時になるまでに慌てて買い物袋をかかえて帰宅する主婦や、正装をしてシナゴーグに向かおうとするラビのような男性たちの姿がありました。彼らには安息日にしてはいけないことがたくさんあるのです。今でも彼らは安息日にはコーヒーメーカーのスイッチも入れられないので、食事などもすべてその時は作り置きをしてあるそうです。「だから我々も早くこの町を出なくては、日が暮れてからバスを走らせていたら石を投げられるかも知れない」とガイドさんに言われたので、「え? 石を投げるのはいいの?」とも思いましたが…笑。

 続く個所にはユダヤ人と癒された男とのこんなやり取りがあります。
10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。

 この、律法に厳しいユダヤ人たちは、とにかく安息日には一切の働きをしてはならない、という考え方でした。それが彼らの信じる律法解釈だったからです。このユダヤ人たちも、悪い事をしようとしているわけではないわけで、そこが皮肉なところです。確かに彼らのすることはもれなくイエス様の論理、神の国の論理の邪魔ではあるのですが、人間的な価値観、この世の価値観だけで考えるなら、「だって律法がダメだと言っているのだからダメでしょ」と言われてしまえば、それなりに筋が通ってしまうところがあるからです。同じ事はしばしば現代のキリスト教界の中でも起こっているように感じます。神の国の論理を取るのか、この世の論理を取るのか、というせめぎ合いです。
 確かに、彼は特に38年も寝ていたわけなので、何も今日、安息日にいやさなくても、明日まで待てば良いではないか、というのがこの世的な彼らの論理なわけです。うっかり「なるほどね」と思ってしまいそうになる、妙な説得力があるのがこの手合いの嫌なところです。

 そもそも安息日とはなんでしょう? 私も学生時代に365日と言っても良いほどバイトをしていましたので、クリスチャンの父から「安息日くらい休みなさい」とよく叱られましたが、当時全く教会に行っていなかったクリスチャンから言われても、ちょっと説得力がなかったものですから 笑、無視して土日のバイトにも精を出していました。土日は時給が高かったからです 笑。(ちなみにそのバイト代は、危ないから都内はダメだと親に言われながらも、ここ藤沢から毎日港区の大学まで車で通うガソリン代と、高速代と、グレードの高いカーオーディオと、ハンドルの切れが良い、少し扁平で幅の広い高いタイヤなどに消えて行きました 笑。車の運転が趣味だったのです。)
 話を戻しまして、安息日というのは別に、仕事をしてはいけない日、というわけではありません。十戒に、「いかなる仕事もしてはならない」と書いてあるのでそう思いがちですが、みなさんが毎週日曜日にこの礼拝に来られるのにも、電車やバスの運転をしてくれる方が必要ですし、「いかなる仕事も」と言うのなら、牧師である私も今ここでお話できないことになってしまいます。
 安息日とは本来、創造主なる神様が人間まですべてを造られて6日間の創造の業を終えられ、7日目は安息に入られたことを覚えて、その神様との親しい交わりの中に入り、安息を覚えるための日、つまりは礼拝する日であって、仕事をしてはいけない日、ではないのです。ただ、休みが欲しいのになかなか認めてもらえない時などには、「神様だって7日目は休んだのに!」と文句は言いますけれどね 笑。
 つまり、安息日であっても、イエス様のなさった、「病人を癒す」ようなことは、彼を神との親しい交わりの中に入れることなわけですし、もちろんイエス様御自身が神様なのですから、何も問題はないのです。問題はむしろ、このユダヤ人たちが、イエス様が神であり神の子であるということについて、全く認識がなかったことです。

●滅びに至る道は広い
 14節でイエス様は再び神殿の境内でこの人、つまり病気を癒された人に出会われるのですが、その時のイエス様の言葉は、少しコワイのです。しかし実はとても預言的です。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
 実際、この癒された人は、この後罪に手を染めるのです。15節にこうあります。
 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
 残念ながら、「イエス様という素晴らしい方が、自分の病気を癒してくださった!」と、周囲の人々に伝道した、というような良いお話では、どうやらないようです。そうではなくむしろ、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。というのですから、これは密告であり、通報でしょう。どちらに従った方が自分の立場が守られるか、病気の治ったこの人はもう、あっという間に世的な打算をしたのです。癒された感謝など、あっという間にのど元を通り過ぎ、忘れてしまったのです。これは、私たち自身にも大いにあり得る、人間の罪深さです。

 もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。とイエス様が言われた、病気よりもっと悪いこと、とは、この男がしてしまったような、神であり神の子である、イエス様との断絶です。それは霊的な滅びに至る道です。マタイによる福音書の山上の説教でイエス様が言われた大切な言葉を思い出してください。
 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
 救いは狭き門ですが、滅びに通じる門は広いのです。この癒された男はせっかくイエス様と出会っていただいて、主との親しい交わりの中に入れていただいたはずだったのに、狭い門から入ろうとせず、あっという間に滅びに通じる門へと行ってしまいました。この世の価値観では、その道の方が広々として見えるからです。彼の世的な選択眼には、ユダヤ人と結託する方が、広々とした、楽で安全な道に見えたのでしょう。

 申し訳無いことに、本日は新約が長い個所のため、旧約のヨブ記に触れる字数がもうあまりないのですが、本日の個所には、ヨブは主なる神様ともっと親しく交わりたいのに、神様がとても見出しづらい方であることへの大いなる嘆きが吐露されています。ただでさえ見出しづらい狭き門を、それでも探そうとするか、簡単に広く見える方の道へ行くか、というのは同じ人間として、大きな違いです。ヨブは何があっても最後まで諦めず、主ご自身を求め続けました。そして最後には最高の祝福をいただいたのです。

 ヨハネに戻りまして、16節によれば、この癒された男の通報により、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めました。理由はやはり、イエスが、安息日にこのようなことをしておられたから、でした。
そしてさらにイエス様が次のように言われると、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになりました。17節、イエス様はこう言われたのです。
 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と。これによりユダヤ人たちはイエス様への殺意を高めたというのです。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。と18節にはっきりと理由が記されています。
 イエス様を神の子と認めない彼らユダヤ人にとっては、それはたいそうな罪なのかも知れません。しかし、だからといってそれだけで「殺そう」などと思うのは、「殺すな」という十戒の第6戒に反することにならないのでしょうか? ほんとうに自分勝手な人たちです。自分たちの立場を守るためなら、誰を殺しても構わず、律法も破るのです。それに、その理由だけで「殺そう」とまで思えるということは、本当にイエス様が自分たちの信じている主なる神の御子である、ということがまるで認識できていない、ということの証拠ではないでしょうか。もしも主なる神の御子であると思っていたなら、その方を「殺そう」などとは決して思えないはずです。つまり彼らユダヤ人たちは、1ミリも理解していないのです。イエス様がどなたか、ということを。

 しかしそれは、ユダヤ人だけではありません。私たちすべての人類が、イエス様を十字架につけたのです。なのにイエス様は、そのすべての人類のために、当然このユダヤ人や、癒されたのに裏切った男のためにも、イエス様は十字架で死んでくださったのです。これ以上の愛はありません。
 イエス様は私たちの根本を、罪に絡め取られたままの魂を、その十字架の死と復活によっていやし、本来あるべき正常な状態へと解放してくださる神であり、神の子でもあるお方なのです。

祈り


  


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