音声スタートボタン 左端の▶ボタンをクリックすると、音声がスタートします
音量も調整できます

印刷用PDF(A4版4頁)
降誕節第9主日礼拝 説教 「主よ、み国を」

日本基督教団藤沢教会 2020年2月23日









説教
星野正興牧師(アジア学院理事長/愛川伝道所)
旧約聖書 イザヤ書 2章2〜5節
2 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
 
新約聖書 マタイによる福音書 6章9~11節
9だから、こう祈りなさい。
 『天におられるわたしたちの父よ、
 御名が崇められますように。
10御国が来ますように。
 御心が行われますように、
   天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。


主よ、み国を
1、
 今日は大切な日曜日の礼拝を「アジア学院」を覚えてお祈り下さる礼拝として下さることに心より感謝します。また「アジア学院」の目指していることに、ご協力を戴いていることに深く感謝をいたします。

 私は鵠沼中学出身でありました。私の旧友も藤沢教会に何人か通っておりました。私の家は茅ヶ崎にありまして、茅ヶ崎からの越境入学で、鵠沼中学に電車通学をしていました。ですから藤沢は故郷のようなものです。教会は茅ヶ崎教会でしたので、ここには初めて伺います。神学校を出まして初めに赴任したのが秋田県の八郎潟という農村でした。ここは会員ゼロの全くの開拓伝道でした。そこに17年余り農村伝道と農民運動に従事しました。それからカナダ合同教会の招きをうけてカナダの農村で働きました。それが3年半。その後東京の三鷹教会の招きを受け、農村伝道神学校の教師を兼務して11年を過ごしました。満55歳になった時、もう一度農村伝道をしたいと言う思いにより、伊豆半島の先端の小さな町松崎と言う所に行きまして、隣りの会員3名だけの南豆教会を兼牧しながら19年、再び農村伝道に当りました。そこで「星の野原農園」を開設し有機農業を行いました。また地域福祉の業に当りました。そこを辞め、隠退をして伊東市に寓居を移しましたが、神奈川教区の愛川伝道所という小さな教会の招聘を受けて、伊東市から車で3時間の道のりを通っております。今年で牧師生活52年となります。農村伝道について、昔も今も思いがあります。

2、
 では、初めに「アジア学院」について一言だけお話しします。

 アジア学院は栃木県の那須塩原市にある学校です。そこで研修されている方々は、アジア・アフリカの国々の農村の現場で働いている約30名の方々です。およそ8ヶ月の間研修を積み、また各国に帰ってそれぞれの国で農村活動のリーダーとして働かれます。研修生、職員、ボランティアなど約100名が一つの共同体を作りながら、相互研修をするユニークな学校です。共同体作りと言うのは、共に食事を作り、またその材料を共に生み出すことをみんなですると言うことです。ですから、農業の研修が大切にされる学校です。でも、農業学校ではありません。農業を通して、食料の自給と言うものを学び、世界の諸問題を学ぶのです。一方的に学ぶのではなく、お互いに教え合い、学び合うのです。つまり、分かち合いがアジア学院のモットーであります。

 私は、アジア学院の理事長をしていますが、藤沢教会と同じ神奈川教区内の一番小さな教会である愛川伝道所の牧師をしています。そして今日副理事長の遠藤さんも見えていますし、また食堂主任のインド人アチボさんも見えています。後で皆さんとお話しをする機会が与えられることを嬉しく思っています。

 アジア学院は、日本キリスト教団の関係学校ですが、カトリック教会の人、聖公会の人、その他の教会の人もいます。それだけではなく仏教やイスラム教の方々もいます。みんな一つになって共同体作りに励んでいます。もともとは町田市にある農村伝道神学校の一つの科として、日本の教会のアジアの諸地域への戦争の贖罪の業として始まりましたが、50年前に独立して移転し、現在のアジア学院になりました。私は農村伝道神学校の時代からアジア学院との繋がりの中に身をおいています。

3、
 さて、今日私は一本の鎌を持って来ました。これです。この鎌は、もう50年近く使っております。私にとって由緒と歴史ある鎌です。この鎌を持って、随分いろいろな所の草を刈りました。遠くカナダの国の草も刈りました。これは長野県の古間と言う村で作られた鎌です。この鎌については、どう言う由来があるのか、後でご質問があれば、その時ご説明します。

 さて、鎌には刃がついています。しかし刃先は内側に曲がっており、武器にはなりません。槍や刀とは違います。以前この鎌をもって山道を歩いていた所、山犬の群に遭遇してしまいました。これはヤバいと身構えましたが、鎌は内側に曲がっていて役には立ちませんでした。鎌を下手に振り回せば自分の体をキヅつけるだけです。何とかその場を逃れましたが、今思い出してもぞっとします。

 鎌は内側に向かいます。そして刈った草を手許に集めます。しかし、剣とか槍の刃は違います。剣や槍は相手を傷つけるのです。そして相手を散らすのです。つまり向かう相手を滅ぼすのです。鎌は自分を傷つけます。これはイエス様のようです。

 今日の聖書の箇所、イザヤ書の2章に「鎌」が出て来ます。しかもその鎌は剣や槍を打ち直して作ったものだと言うのです。2:4を読んでみます。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。

 剣や槍よりも、鍬や鎌が大切な国となると言うのです。そう言う国が、必ずこの世に現れると言うのです。これが平和な国の姿です。しかし、人間は武器を作るのに精を出し、それが今日軍拡競争と呼ばれています。このイザヤ書2章は今からおよそ2800年ほど前に、つまり紀元前800年頃に書かれたものだと言われています。主イエス・キリストの生まれる前800年頃のものです。この言葉を読んだ人々は、以来剣が鎌に返られる日を待ち望んで来ました。その日はいつ来るのかと待っていたのです。

 そしてその日がとうとうやって来ました。それが主イエス・キリストの時だったのです。主イエスは人々に神の国の実現が近づいたと言われました。それが槍を鎌に打ち直す日だったのです。武器を農具に変える日だったのです。

 そのために主イエスはこうおっしゃいました。神の国を求めなさい。そのためにこう祈りなさいといわれました。「私たちに必要な食物を今日与えて下さい」と。これは、私たちが礼拝の中で共に祈る「主の祈り」の中の言葉です。

 アジア・アフリカの国々では、まだ紛争と飢餓が続いています。私たちの国日本とは異なる現実があります。その中での切実な祈りは「私たちに必要な食物を今日お与えて下さい」と言うものなのです。私たちの祈りはどうでしょうか。「今日もまたうまいものを腹いっぱい食べることが出来ますように。そして明日も将来もそうでありますように」ではないでしょうか。そして食卓にはいっぱいのご馳走を残しています。まさに、貪欲な祈りなのです。そして、この貪欲が戦争を生み出すのです。

 主イエス・キリストは「必要な食物を今日与えて下さい」と祈ること、それが神の国に繋がると仰っているのです。

4、
 アジア学院では全てのものを無駄にしません。残飯は堆肥にしたり、腐らせてガスを発生させたり、竹や木の枝を暖房や加工やそして炭に変えたりします。家畜の糞尿や草や残り野菜は皆堆肥に還元します。そしてそれを実に美味しい食事に役立てます。神様の与えて下さるものは、無駄にはしないのです。そしてアジア学院では、武器製造に関わるものを一切作りません。またそれらを誉め称えません。

 アジア学院では、黒い肌の人、黄色い肌の人、白い肌の人が一緒になってみんなが食べるものを生み出します。アジア学院の求めているものは「共に生きる」と言うことなのです。しかし、難しい面もあるのは事実です。国籍の違いが文化と生活の違いとなり、その違いにうろたえることがあります。裁き合うことも生じます。それは、私たちがまだ完全な神の国に住んでいないから起こることでしょう。しかし、私たちは神の国の実現を求めているのです。そして、いつの日か国は国に向かって剣を上げることのない世界になるように、日々祈っているのです。

 この祈りをイエス様も共に祈っています。これは、皆さんとの共有の祈りです。この祈りを世界共通の教会の祈りにして行きたいと思います。この祈りがなされるならば、平和が実現します。この一本の鎌から平和がもたらされるのです。そして、「主よ、み国を来たらせ給え」と言う祈りが、みんなの口から漏れるのです。

祈り


  


晴 10℃(am10:30)