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受難節第1主日礼拝 説教 「幼子のままに生きる我ら」

日本基督教団藤沢教会 2020年3月1日

【旧約聖書】出エジプト記 17章1~7節
 1主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。2民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
 「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
 3しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
 4モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、5主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。6見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。7彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

【新約聖書】マタイによる福音書 4章1~11節
 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


幼子のままに生きる我ら
 レントを迎え、主の御苦しみと自らの罪を見つめる、悔い改めの日々が始まりました。そして、今年は、このことに加えてもう一つ、私たちを覆う目に見えない脅威と向き合いながら、受難節を歩まなければなりません。そこで、信仰者である私たちは、何を願い、何を考え、これからの時を過ごせばいいのでしょうか。
 
 苦境に立たされていたイスラエルの民にとって、出エジプトの出来事は、特別な出来事でありました。それゆえ、彼らをして神様に大いに期待させたことでしょう。紅海徒渉に代表されるように、神様の力を直接経験したのが彼らであったからです。従って、その経験が、彼らをして具体的なものを期待させたに違いありません。ところが、神様の力強さを知ったにもかかわらず、御言葉が私たちに伝えることは、苦境に立たされた彼らの、神様に不平不満を訴える情けない姿です。ただ、神様に大きな期待を寄せながらも、苦境に立つやいなや、気持ちが逆の方向に大きく振れるのは彼らに限ったことではありません。

 生きる上での過酷な現実が、時に私たちの弱さを引き出すことがあります。ですから、この弱さを多くは克服すべきものと考えるのでしょう。ところが、御言葉はこの弱さを切って捨てるのではなく、そのありのままを記録に留めるのです。それは、そうした弱さを忌み嫌うのではなく、弱さを弱さとして見つめ、引き受けるところから見えてくるものが私たちの信仰であるからです。それゆえ、神様と共に歩むという私たちの信仰は、決して、空元気ややせ我慢のようなものではありません。まただから、神様を前にし、率直の弱さを現すことにもなるのでしょう。
 ところが、その私たちが弱さを隠そうとして、自分は悪くないと言い、さらに、そんな自分を納得させるかのように、人のせいにしたり、何かのせいにしたりする、それはどうしてなのでしょう。それは、死にたくないから、生きようとしているから、それも、自分ひとりだけは、とそう思うから、そして、これらの反応は、私たちが無意識にしてしまうことでもあるのです。まただから、ここでモーセが語っているように、挙げ句の果てには、人を殺してまで自分を守ろうとする、そして、それが叶わなければ死なばもろともと、破滅の道を突き進むことにもなるのでしょう。そして、それは、自分自身の弱さを自分で引き受けることができないからでもありますが、ですから、弱さとはつまり、過酷な現実に直面し、自分のことだけしか考えられない私たちの、心の奥底から思いがけず出てくるものだと言えるのでしょう。ですから、私たちの弱さとは、人が単に弱いからということだけでなく、私たちの生きる現実が、それだけ人にとって不都合なものを抱えているからでもあるのでしょう。

 ですから、現実を変えることが難しい以上、そうした弱さを克服することが、私たちが生きる上での最大の課題とも言えるのでしょう。ただ、人の世の弱さをすべて引き受け、最後まで他者のために生き得たのは、イエス・キリストをおいて他には一人もおりません。そうであるからこそまた、この主イエスに倣うなら、最大の課題である弱さを私たちは克服することができるとも言えるのでしょう。けれども、ここで克服という場合、そもそものところで考えなければならないことがあるように思います。克服するとは、弱い人間が強い人間になることなのでしょうか。主イエスの強さを考える場合、そもそものところでそれが具体的にどういうものであったかを考えないわけには参りません。

 私たちが強いと考える様々な強さの中で、主イエスの強さを本当に強いと思い、私たちはそれを選択し、また、すべてに勝る強さだからとの理由で、御言葉もまた私たちに推奨しているのでしょうか。むしろ、逆なように思います。それは、御言葉が語ることは、主イエスの強さを選択する難しさだからです。そして、それは、私たちが弱さを抱えているからでもありますが、けれども、そこでだから、勝ち負けに拘り強くあらねばならないとは言っていないからです。つまり、御言葉が主イエスの姿を通し語る強さとは、人として生きることの弱さを引き受け、弱さそのままで生きるということです。私たちの目の前にある主イエスとはそういうお方であり、つまり、弱さに徹するというところに主イエスの強さが現れているということです。そして、私たちもそれを主イエスの強さと理解しているわけですが、けれども、私たちは、この弱さに徹することに躊躇してしまう、それは、弱いままでいることに強い抵抗感があるからなのですが、それは、弱さを引き受けることが、私たちにとって最善の生き方とは思えないからです。だから、自分にはできない、自分のすることではないと、そう思い込んでしまうのでしょう。

 そこで、今日は、短くと申し上げているので、長々とした説明は省き、結論から申し上げれば、今日、主イエスの姿を通し、私たちが聞くべきことは、主イエスのように、人の子としての弱さ、つまり、私たちが生きるということの中で現される弱さでありますが、この弱さに徹し生きるということは、難しくはないということです。ただし、それは、私たちが思う簡単か、優しいかというところから知らされるものではありません。それは、弱さに徹し生きるということは、難しく考え、どうしたら分かるようになるのか、どうしたらできるようになるのか、そういうものではないからです。つまり、私たちに提示されている主イエスの強さとは、知識量や方法論の問題ではなく、弱さを認め、弱さに生きてこそのものであって、強くありたい、強くあらねば、そういうところから身につくものではないということです。

 けれども、多くの人はそうは考えない。強くありたい、強くあらねばと考え、また願い、日々過ごしているのではないでしょうか。それは、私たちが自分自身の弱さとその先にあるものをよく理解しているからでもありますが、では、そのような私たちにとって、神様、主イエスの声として聞こえてくるもの、聞きたいと思うものは、どのようなものなのでしょうか。それは、主イエスの言葉でしょうか、それとも、サタンのささやきでしょうか。また、そのような私たちが、では、主イエスとサタンとの違いをどこで知るのでしょうか。御言葉によれば、サタンは、聖書について、主イエスと同じくらいよく知っているのですが、このことはつまり、その見分け方は、聖書の知識の量ではないということです。では、どのようにして、人は主イエスとサタンとを見分ければいいのでしょう。先の見通しも立たず、不安の中に生きる私たちにとって、今日の御言葉の中で一番聞きたい言葉は、どの御言葉なのでしょうか。恐らくそれは、「神の子があなたたちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」とある詩編の御言葉なのではないでしょうか。けれども、それを語っているのは誰なのでしょうか。それは、主イエスではなく、サタンです。私たちが一番聞きたい時に、一番聞きたいと思うものを語るのがサタンであり、そうであるからこそ、私たちは、このサタンを正しく恐れなければならないのです。では、その場合の正しく恐れるということはどういうことなのでしょうか。

 「新型コロナウィルス」感染症が蔓延し、私たちの社会生活を脅かすまでになっていますが、そこで、この感染拡大を防ぐためには、正しい知識と、検査態勢、治療体制などの方法論を確立させることが急務です。けれども、サタンを正しく恐れるということは、そのような知識や方法論の問題として解決することではありません。そもそものところで、私たちがサタンに打ち勝つことはできないからです。ですから、もし、御言葉がここで私たちにサタンに打ち勝つ方法を伝授し、打ち勝つことを私たちに求めているとしたら、こんなまやかしはないのでしょう。なぜなら、ここで主イエスは、サタンに打ち勝ってはいないし、滅ぼしたわけでもないからです。サタンは、その場を立ち去っただけで、言うならば、主イエスはサタンに負けなかっただけのことだからです。ですから、正しく恐れるとはつまり、負けない、ということでもありますが、ただ、それは、打ち勝ち、つまり、サタンを滅ぼすことによってもたらされたものではなく、人としての弱さに徹することです。そして、負けないために私たちに何が求められているかといえば、それは、主イエスとサタンとの違いをしっかりと見分けるということでもありますが、では、その私たちに何を御言葉が求めているのかといえば、主イエスがサタンに言い放ったように、「退け、サタン」とこの一言をサタンに投げかけるということです。ただし、私たちがこの一言を口にするということは、それを「おまじない」のように呟くということではありません。
 人の子としての弱さに徹した主イエスのこの言葉は、主イエスが心の底から、本気で語られたものでありました。従って、サタンに負けないためには、私たちも本気で心の底からこの言葉を口にしなければならないのですが、けれども、その自信が私たちにはない、だから、サタンに乗じられることをいたずらに恐れてしまうのでしょう。では、どうしたら、私たちは、主イエスのようにこの言葉を口することができるのでしょうか。それは、私たちが考えるほど難しいことではありません。それは、主イエスのようにということですが、つまり、主イエスと同じように弱さを引き受け生きる私たちは、神様の御心の中に生きている、それ以外のものではないということです。ですから、この日の御言葉が私たちに語ることは、主イエスのここでの姿を通し、同じように人としての弱さの中に生きるしかない私たちに、私たちがどこに生きているかを伝えているということです。

 サタンが去り、主イエスを天使たちが囲んで仕えたと御言葉にありますが、そこは、心地よい春風が吹き抜ける場所ではありません。神様が導かれた荒れ野であり、弱い者が弱いままその弱さを実感するしかない場所です。それだけに、弱いままを生きることのできない私たちは、見たいもの、聞きたいもの、自分の弱さを忘れさせてくれるものに心を動かされてしまうのでしょう。まただから、サタンも主イエスに私たちが見たいもの、聞きたいものを見せたわけです。けれども、そのサタンに主イエスは「退け、サタン」と仰ったのです。それは、やせ我慢や空元気からではありません。弱さを見つめ、この弱さに生きる者を支え、守るお方が神様であることを知ってのことであったのです。そして、そのイエス様と一緒にその人生を共にするのが私たちでもあるのです。まただから、勝ち負けに拘らずとも、負けることがない命に生きることができるのです。レントの歩みを通して、今年も私たちに許されていることは、サタンではなく、主イエスと共に生きているということであり、それゆえ、このことを忘れずに、共にレントの歩みを進めて参りたいと思います。

祈り





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