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受難節第3主日礼拝 説教 「主と食卓を共にし」

日本基督教団藤沢教会 2020年3月15日

【旧約聖書】ヨシュア記 24章14~24節
 14あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。15もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 16 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
 19ヨシュアはしかし、民に言った。
 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。20もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
 21民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、22ヨシュアは民に言った。
 「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
 彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、23「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
 24 民はヨシュアに答えた。
 「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 6章60~71節
 60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。


主と食卓を共にし
 受難節第三主日の朝を迎えました。十字架の主のみ苦しみを覚えつつ過ごしたこの一週間、こうして礼拝へと招かれ、そこで先ず感じられることは何なのでしょうか。それは、罪と同時に主の赦しです。ですから、こうして礼拝へと招かれ、毎週、ホッさせられている私たちだということですが、つまり、それが主の安息です。そして、これに与らせることこそが、主が私たちを礼拝へと招く目的であり、それゆえ、この主の安息の内に置かれていることへの気づきが、つまり、喜びと感謝、主の御名を誉め讃えずにはいられない私たちの気持ちが、私たちをして、主の使命に与らせることになるのです。

 ですから、主の使命に生きるということは、険しい顔で何かをすることではありません。主の安息に与っているわけですから、心穏やかに、満足げに生きることであり、つまりは、それが、主を信じる私たちの日々のあり方だということです。そして、それが、先週、野田先生を通し、私たちが聞いたことでもありました。主イエスが、ご自分と私たちとの関係性をぶどうの木とその実とに譬えられたように、主イエスにつながっている私たちであるからこそ、私たちは、安心して毎日を過ごすことができ、また、だから、主イエスに倣い、喜びをもってキリスト者としての使命に生きることができるのです。そして、今日の旧新約聖書が語るところも、それに関わることなのです。

 そこで、先ず私の目に止まったものはヨシュア記の御言葉でありました。モーセと共に荒れ野を旅し、その後継者として立てられたヨシュアが、約束の地を手にしたイスラエルの民に、いよいよこれからというところで一つのことを求めたのです。それが、主の証人として生きることでありました。そして、このヨシュアの要求ですが、ヨシュアが「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と語るように、この決断をこのいよいよというところでイスラエルの民に任せたのです。そして、この姿勢は、主イエスも同じでした。離れていこうとする弟子たちとヨブ、人々を力尽くで止めるのではなく、去るに任せるのです。そして、この姿勢は、十二人の弟子たちに対しても同じです。服従を強制したりせず、どうするかと聞き、決断を促すだけなのです。ですから、私たちの信仰は、強制されるべきものではなく、自発的に主体性を持って受け入れるべきものであり、それゆえ、それは、口先だけのものとなることはありません。ヨシュアが「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって」と言っているように、誠実に、そして、真実に真心を込めて、神様にお仕えすると誓うのが、主の証人として、信仰の使命に生きる私たちであるということです。そして、それは、「だから」とそこでヨシュアが語っているように、生きるも死ぬも、主のものとされていることをよくよく知っているからです。

 イスラエルにとって、主と共に過ごした荒れ野の旅は、苦しいときの神頼みのような、都合のいいものではありませんでした。常に主の安息の内に置かれていることを実感させられるものでありました。ただし、彼らが主の安息を深く味わい知ることになったのは、困難な中にあって、神様が約束を守られたからであり、そして、その約束の目指すところが、神様の約束の地であったからです。ですから、それについては、私たちにも同じことが言えます。主イエスから「あなた方も離れていきたいか」と尋ねられたペトロが「あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。」と答えたように、主との永遠の交わりの中で生きる私たちにとって、主と共に過ごす毎日は、主の安息の内に置かれているような、といったものではなく、本当に置かれているものだからです。そして、それは、主が先立ちイスラエルを約束の地へと導かれたように、私たちがこうして主の教会に繋がっていればこそ実感させられるものであり、それゆえ、この安息に与れる私たちの歩みは、ギスギスしたものとはなりません。それは、温かみのある穏やかな日常だと、そう言って差し支えないのでしょう。ですから、主の安息に与ることなくして、私たちがその使命に生きられないというのは当然のことです。

 しかし、その私たちが、もし、主の使命に生きえない、生きていない、生きたくもない、そう思うとしたら、それは、どうしてなのでしょうか。今、私たちの日常が温かみのある穏やかなものだと申しましたが、もし、私たちの日常が、刺々しく、ギスギスしたものとなっていたら、それはどうしてなのでしょうか。主の安息が足りないからなのでしょうか。それとも、そもそものところで主の安息に与る資格がないからなのでしょうか。あるいは、主の安息に与ることを何かが邪魔をしているからでしょうか。ヨハネによる福音書では、主イエスを裏切るイスカリオテのユダについて、主イエスが「悪魔だ」と断言しておりますが、その使命に生きることができないのは、主の安息ではなく、悪魔の安息を求めてしまっているからなのでしょうか。ただ、いずれにせよ、そこにははっきりとした理由が何かあるはずなのですが、ヨシュア記を見てみますと、そのわけは、どうやら私たちだけの問題ではないようです。

 19節でヨシュアは、神様を礼拝し、お仕えすると誓ったイスラエルの民に向かい、「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにはならないからである」と語るのです。このことはつまり、主の安息に与り、神様にお従いできるのは、私たちの問題であるだけでなく、神様の問題でもあるということです。ただ、神様の問題であれば、できなければ神様がなんとかしてくださるに違いありません。けれども、ヨシュアが「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である」と言っているように、やっぱり私たちの問題だというのです。

 ですから、何事もなく主の安息の内に毎日を過ごせる間はいいのですが、私たちが今置かれているような状況の中で、主を「正しく」証ししなければならないとしたらどうでしょうか。これはとてもやっかいなことです。そこで、もし、私たちが刺々しく、またギスギスしたりすることになれば、そうなると、主の安息どころではなくなるわけですから、主の証人として生きるどころではありません。すると、そこでどういうことが起こるのか。きっと、いいことは言わないでしょうから、気の利いたことを言ってくれる他の神様に心が動かされることになるのでしょう。けれども、そこで、神様が、去る者を追わず、来る者拒まずと、互いに傷つかない距離感をもって私たちと接してくださる方であればいいのですが、それすらも赦さないと、しかも、そんなことがあれば、「あなたたちを滅ぼし尽くされる」と、神様がそう言っているとヨシュアは言うわけですから、これはたまったものではありません。そして、神様がそうなさる理由ですが、それは、神様が聖なる方であり、熱情の神であるからだというのです。つまり、神様は嫉妬深いがゆえにそこまでする方だということです。

 長い長い旅を終え、ようやく約束の地を手に入れ、そこでの暮らしにやっと目途が立ったのがこの時にイスラエルでありましたが、そこで、ヨシュアが人々に語ったことがここでのことでした。そして、それは、主なる神様と共に生きるか、それとも、神様以外の他の神々と共に生きるのか、この二つに一つの選択を人々に求めたということですが、ヨシュアが人々にこの決断を求めたのは、多くの人々にとって、父なる神様よりも、他の神々の方が使い勝手が良いことを知っていたからです。なぜなら、もし誰かが離れ、裏切るようなことがあろうとも、他の神々はその人を追いかけるような真似はしません。それぞれの要求を満たすか満たさないかの、他の神々と人との関係は、いわゆる、大人の関係であり、そういう意味で、煩わしくないし、面倒臭くもないのです。ところが、主なる神様は違います。聖であるということは、私たちにとって神様は近づきがたい方だということです。しかも、熱情の神であるということは、始末の悪いことに、嫉妬深く、怒りっぽいということです。そして、事実、だから、イスラエルは、この神様の不興を買い、亡国の憂き目に遭うことになったのですが、けれども、私たちにはそこで忘れてはならない一つの大事なことがあります。ここに至るまでそのイスラエルを導いたのはどなたであったのか。それは、この聖である熱情の神様であったということです。

 私たちは、神様が聖であることと、その本質として語られているこの熱情とを誤解してはなりません。神様がイスラエルを深く愛されたように、私たちのことも深く愛しておられるのが私たちの神様でもありますが、その愛が最も色濃く現された場所が主イエスの十字架の上でありました。このことはつまり、互いに傷つくことのない、互いを煩わせることもない、いわゆる私たちが大人の関係と呼んでいるそういう関係性の中で現されるものを、私たちは愛とは呼んではいないということです。ですから、そういう意味で、主イエスについてもここで誤解しないように気をつけたいと思うのです。主イエスは、ここで当たり障りのないかたちでの愛を示そうとしているわけではないからです。

 多くの弟子たちが去った後、ここでペトロが語った「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」というこの告白は大変感動的な一言だと言えるのでしょう。けれども、その先にあるものは何なのでしょうか。それは、十二人の弟子たちの裏切りです。ここで、主イエスが、ユダについて悪魔と断言しているように、弟子たちの裏切りを知っていたのがこの時の主イエスであったのです。それゆえ、このペトロの言葉、つまり、主に忠誠を尽くすと信じて疑わないこの発言は、主イエスを励ますどころか、深く傷つけたに違いありません。ただ、もちろん、主イエスは、私たちのようにそれを理由に人を責めたりはしません。気に入らない者を次々と交わりの中から放り出し、分かり合える者同士で馴れ合い、互いに傷つくこともなければ、面倒をかけることもない、そういう安全で安心な関係性、そういう閉ざされた交わりを築こうとはされないからです。それは、そもそものところで、人の愛に限界があることをよくご存じであるからです。けれども、それでも一緒にいよう、いたい、そう思うところで現されたものが主イエスの愛であるのです。

 そして、それは、イスラエルと共に歩んだ主なる神様も同じでした。熱情の神と言われているように、暑苦しいほどの神様の熱情を、人が嫉妬深いと理解するのは当然のことなのかもしれません。けれども、それは、それだけ神様の思いが深いということであり、また、人々が敢えて神様をそのように呼んでいるところに大きな意味があるようにも思うのです。つまり、彼らの神体験がそう彼らに言わせたとしたら、熱情の神との表現は、彼らの信仰告白だとも言えるからです。つまり、傷ついても傷ついてもなお愛そうとされているのが私たちの神様であり、まただから、嫉妬深いと言われようとも、気まぐれで恐いと思われようとも、そんなことは問題ではないのです。それでもなお、私たちのことを愛してくださっている、それが私たちの神様であり、まただから、その愛をもって、独り子であるイエス様をも惜しみなく私たちの救いのために差し出してくださったのです。

 安心と安全が脅かされる中で、なお、愛に生きようとすることの難しさを、私たちはよく知っています。けれども、その中で現された愛がどれほど素晴らしいことなのかも私たちにはよく分かっています。ですから、東日本大震災の直後に増えたことの一つが結婚と離婚だと言われています。それは、愛の貴さと愛の底の浅さを人々が知ったからです。ただし、離婚を選択した人々が、だから、愛の貴さを知らなかったと言うことではありません。貴いものであることを知っているからこそ、そこでまた、深く傷つくことにもなったのです。破れのない貴さを追い求め、そして、そこで生じた破れを互いに赦すことができず、互いに背を向け合うことになったのでしょう。

 けれども、聖書の語る神様と主イエスの愛は違います。破れがあり、傷つくこともあるというところから語られているのが聖書の語る愛であり、そして、その破れと傷とを厭わないところにイエス様の愛の貴さがあるのです。なぜなら、神様ご自身も傷ついているし、イエス様も傷ついている、けれども、それで話が終わるのではなく、自ら働きかけ、その先へと私たちを導こうとされている、そこに神様とイエス様の愛が現されているのです。だから、この愛を知った私たちは、傷つきつつも、癒やされ、慰められる、それゆえ、この主の愛を自らの使命として、世に現すことになるのです。

 主の日の度毎に主との出会い、主の安息に与りながらも、主を裏切り、主を深く傷つけるしかない私たちであるにも関わらず、けれども、神様が約束の地へとイスラエルを導かれたように、なお、その私たちを赦し、その私たちを御国へと招こうとされている、それが私たちの神様であり、イエス様なのです。そして、この恵みに与るのは私たちだけではありません。世にあるすべての人々をこの安息、平安に与らせるため、御国の扉を大きく開いてくださっているのが私たちの神様なのです。それゆえ、その存在感を世に広めるべく、教会は置かれた場所で大きな花を咲かさなければならないのですが、ただ、それは、強制されてのことではありません。他の神々ではなく、主なる神様を私たちが選ぶと言うことは、盲信し、盲従することではないからです。

 神様が私たちに求めることは、できないことがあることをしっかりと認め、なお、神様に信頼し、その置かれたところでしっかりと立ち、生きることです。つまり、花を咲かすときには大きな花を咲かせばいいわけですし、その反対に、咲かすことが難しいとき、その時は、深く深く根を張っていけばいいのです。御言葉の上に、主の上に、しっかりと根を張り、そこから主の愛とその御心をしっかり聞いていく、大きな花が咲くのは、主というこの言葉の上でのことなのです。そして、それは、そこに主の安息があり、そして、この安息の中にあるのがあらゆる命であり、私たちの命とはつまり、この主の安息の中に置かれているものであるからです。ですから、主の証人として、安息の内にしっかりと自らを位置づけ、この一週間を共々に過ごして参りましょう。

祈り


  


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