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受難節第4主日礼拝 説教 「あなたはどこに立つのか」

日本基督教団藤沢教会 2020年3月22日












説教
鈴木みどり牧師(明治学院教会)
新約聖書 ヨハネによる福音書 12章1~11節
◆ベタニアで香油を注がれる
 1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
◆ラザロに対する陰謀
 9イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。10祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。11多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。


あなたはどこに立つのか
●プロローグ
 さて、皆様との毎月第4主日のこの礼拝も、いよいよ本日で最後となりました。約1年間、皆様と共にお献げする礼拝の時は、ほんとうに楽しく豊かなものでした。私にとっては生まれ育った故郷である、この藤沢の地に主が立てられた教会で、このような機会を与えていただきましたことはとても有り難いことで、心から感謝しております。ほんとうにありがとうございました。来月からみなさん私に会えなくなって、きっとすごーく寂しいと思います(笑)。

●ユダヤ教的価値観の中で
 さて、本日の箇所は、マルコとマタイにもそれぞれ並行箇所がありますが、このヨハネの書き方は独特です。
 イエス様たちは今、1節によれば、過越祭の六日前に、ベタニアという町で、食事の席についておられるようです。この場所について、マルコとマタイでは、「重い皮膚病の人シモンの家で」、と記していますが、ヨハネはそのことに触れていません。ここベタニアという所は、エルサレムの東3キロに位置しておりまして、エルサレムに来たイエス様たち一行の宿でした。あの、病気で死んでから4日も経ってほとんど腐っていたにもかかわらず、主が甦らせたラザロと、その姉妹マルタとマリアの出身地でもあります。またそれはおそらく、ルカ10章に出て参ります、働かないで主イエスの話ばかり聴いている妹マリアに、必死に客をもてなしていた姉マルタがキレる、というあの有名なお話の、マルタとマリアのことです。
 2節によれば、やはりマルタはここでも給仕をしており、ラザロは主イエスと共に食事の席についておりまして、残るマリアが、マルコやマタイでは「一人の女」と表現されている、ナルドの香油の入った壺を持って来たその女、だということになっています。

 さてその、マルタの妹マリアが、突然イエス様のそばにやってきました。3節、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 とあります。
 純粋な、というのは、純度の高い、という言い方もできます。ナルドの香油というのは、インド産の植物の、根っこのように地下に伸びる茎から取れる香料をオリーブオイルと混ぜて作るのだそうで、実際非常に高価だったらしく、ギリシャローマ世界の女性たちに珍重されていた香油だそうです。特に裕福なユダヤ女性が愛用していたそうですから、マリアたちの家もかなり裕福だったのでしょう。
 ではどのくらい持って来たかといいますと、「1リトラ」つまり約300gほどのものだった、と記されていますので、まあ、量としてはそんなに多くはないと思われます。しかし、今申しましたとおり、それは非常に高価なものだったのです。マルコ福音書の方の記述によれば、マリアは、香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊して、香油をイエスの頭に注ぎかけた、となっています。

 もう少し先まで見てみましょう。4節から6節。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人(ぬすびと)であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 
 イエス様を囲み、ラザロも同席している会食の席です。そこには複数の男性たちがいました。マルコ福音書の方ですと、そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。」となっていますし、マタイによる福音書の記事の方では、この憤慨した何人かの人というのは、「主イエスの弟子たち」だとされています。そして、本日のヨハネの記事では、マリアを咎めたこの人は、イスカリオテのユダ、つまりこの後でイエス様を銀貨30枚で裏切ることになるユダだとされています。
 
 当時のユダヤでは、ユダヤ教の人々にとっては特に、貧しい者に施しをすることは、非常に重要な善行であり、宗教的にも自分の徳を高める行為でした。申命記15章にもこのような記述があります。11 この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
 またもちろんイエス様御自身も、マルコの10章では金持ちの男にこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 すると金持ちの男はしょぼーんとして帰ってしまったのですが、当然、私たちの今の社会でも、困っている人を助けるのは大切な働きです。むしろ現代は、ただ施すだけでは彼らのためにならないと、例えばコーヒー豆などのフェアトレードのように、技術を与え、働く機会も与え、生活基盤を向上させながら経済も援助する、というような、もっと高度な助け方さえします。
 まあそれはよしとしまして、だからこそ、その施しを重んじる当時のユダヤ的価値観が、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と、イエス様にべらぼうな金額の香油を塗った彼女の行動を、まるで「ムダ使い」であるかのように、男性たちが咎めたのです。
 1デナリオンが、当時のほぼ1日の賃金ですから、三百デナリオンというのは、当時の労働者の年収にも匹敵する金額です。皆さんも、ご自分の年収をそれぞれ密かに(笑)頭に思い浮かべていただいて、その有り金全部でナルドの香油を買って、人の頭にそれをかけることを想像してみてください。……まずあり得ませんよね?しませんよね?(笑)
 そんなもったいないこと!笑 どれだけお金持ちだったとしても、まず誰もしようとは思わないことではないでしょうか。普通に考えれば、確かにユダの言うとおり、大いなるムダ使いだと思われますよね?
 少なくとも当時、尊敬する人を迎える時には、その人の体に香油を塗る、という行為は風習としてありましたので、以前から、イエス様の話を聞くのが大好きで、給仕するよりも御言葉に聴くことを選ぶマリアにとってそれは、イエス様をお迎えするにあたって当然の行為であったことは確かです。けれどもそれに使った香油の分量は、誰がどうみても尋常ではなかったのです。それでもマリアは、壺を割ってまで、大胆にそれをしたのでした。

●世の価値観と主の価値観の対立
 しかし、だからといって、ユダが言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という批判には、「え?そこなの?そっちなの?」と、やはりユダの価値観や感覚が少々ズレていることを、指摘せざるをえません。
 なぜならたとえば、当時は、男たちの宴席に女性が突然入ってくるということもまた、なかなかできない常識破りなことでもあったのですから、せめてまだその事について叱るとか、批判をするというのならわかるのだけれど、という感じです。
 ユダの言ったことは、つまらない価値観に縛られて、本質が見えていない人がいかにもいいそうな批判です。しかもたっぷり香油を塗られたその方は、他の誰でもなくユダにとっても主であるイエス様だったわけで、普通の人に高価な香油を全部注いだわけではないのですから、この批判者がいかにこの世の価値観や当たり前の風習に、無意識に囚われているか、ということです。それは、いかにイエス様のことを何とも思っていないか、ということの現れ、ではないでしょうか?

 一方マリアの価値観はどうでしょうか。マリアは大胆にイエス様に香油をかけました。ちなみに先ほど、壺を壊して、香油をかけた、とありましたが、壊して、と書いているのはマルコ福音書だけなのですが、当時のユダヤでは、死んだ人に香油を塗り、その香油の入っていた壺を割って、棺に入れる、という風習もあったようです。
 しかしまた別の風習として、香油の壺の口を壊して誰かに注ぎかける行為は、あなたの他にはこの香油は使いません、という、ひたむきさを表す行為なのだそうです。つまりマリアは、自分の信じる主イエス様に対して、「あなたの他にはこの香油も壺も使いません!」「あなただけです!」という意思表示をしたことになるのです。
 
 しかも本日の箇所の3節に戻りますと、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。…」とあるのです。イエス様の頭に香油をかけたどころか、足に塗って、しかもその足を、当時の女性にとって特に大事な、自分の長い髪の毛でぬぐった、というのです!
 
 さらにもっと種明かしをしますと、実はそこで使われている「塗る」という言葉は、死んだ人に香油を塗る時に使う「アレイフォー」という原語が使われているのです。つまり、マリアのしたことには、この世の価値観に囚われた人には理解できないような、もっともっと深い意味があったということです。
 本来、「油注ぎ」、という行為は、王や祭司の任命をする時などにされる行為でした。そして主イエス・キリストは王の王であり、メシアです。メシアとはヘブライ語で、「油注がれた者」、という意味です。またそのギリシャ語が、「クリストス」、つまり「キリスト」なのです。
 マルタが忙しく給仕をしていても決して手伝わずにずっとイエス様のそばで彼の話を聴いていたマリアは、自分の愛する主イエスが王の王であり、メシア(=キリスト、油注がれた者)であること、また十字架で死なれ復活することもすべて、理解していたのでしょう。
 その証拠に、今日の箇所の7節8節で、イエス様はこう言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と。
 葬りの日のために、それを取って置く、ということは、主が死んで葬られる、ということを知っていなければ、できないことです。また、イエス様がここで、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。と言われたように、もうずっとこのままのイエス様と一緒にいられるわけではないのだ、そんな日々はもう残り少ないのだ、ということをはっきりと悟っていなければ、マリアのしたこと、つまり油を塗る葬りの準備など、できません。つまり、マリアはすべてを悟っていたと、考えられるのです。

 今、このシモンの家でイエス様たちが集まっている時というのは、どんな時だったか、といいますと、「過越祭の六日前」だと書かれていました。つまり、もう十字架でイエス様が死なれるまで、一週間ほどしか残されていない時だったのです。イエス様を殺そうとするローマの祭司長たちの計画も、裏では進められているような時でありました。
 そして弟子たちは皆、少なくともこの時までに3回も、イエス様御自身から、神と人との和解のため、私たち人間の罪を贖うために十字架にかかって死なれ、でも三日目に復活する、というお話を聞かされていました。それなのに、なんと彼らは、昔流行ったムーディ勝山さんのようにうまいこと、「右から左へ受け流し」ていたのでしょう…。そうでなければマリアのしたことを批判したりせず、すぐにピンときて、拍手喝采でもするか、または一緒になって塗ろうとするはずです。今しかもう、イエス様には香油を塗ることができないのですから…。

●主のために「良いこと」をしたマリア
 マリアは、弟子たちと対称的に、主イエスの死が近いことを、きちんと把握していました。だからこそ、このチャンスを逃さず、尋常でない価値の香油をイエス様に塗るという行いで、大胆に、イエス様への愛を表明したのです。
 そんなマリアの行いを見て、ユダの言ったことを聞いたイエス様は、この人のするままにさせておきなさい。と言われたのです。

 イエス様は、ユダが批判したようなことは気にしておられませんでした。ユダをはじめ私たちのポイントは、残念ながらいつもズレているのです。しかもなんとなく、この「するままにさせておきなさい。」という台詞は、ルカ10章での、あの、自分ばかりが立ち働いていることにぶちキレた、姉のマルタを諫めたイエス様の言葉とも似ています。41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 この時の、「マリアは良い方を選んだ。」の「良い」は、「本質的に良い」という意味の原語(アガソス)が使われています。今日のマリアもまた、「本質的に良い方」を選んだのです。貧しい人に、1年分の給料で何か別の施しをするよりも、十字架での死を控えたイエス様の体に、今こそ塗る香油のために、同じ300デナリオンを、マリアは使い果たしたのです。それは、イエス様をひたすら信じ、愛する想いが表された、聖なる行いです。
 壺の口を割って、「あなただけです!」との想いを表し、自分の長い髪で、主の足を拭くほど、主に尽くす想いのある、信仰深い行いです。マタイの個所でもマルコの個所でも、イエス様は、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(「良い」は、「美しい」、とか、「価値のある」という意味の原語「カロス」)ともおっしゃいました。イエス様は、このマリアの行いをこそ、良しとされたのです。

 なのに、私たちはなぜかいつも、イエス様でなく人間にばかり認められようと、人間の目にわかりやすい「良い」ことをしようと必死なのではないでしょうか?人間の常識や、社会の価値観で、つい無意識に、物事の善し悪しや価値を判断してしまうのです。それはえてして聖書の価値観とは相容れません。それを続けていると、神様の計画とどんどんズレていくので、このマリアのように信仰的に、霊的に生きるためには、間違いの元なのです。
 ですが逆に、何をやってもうまくいかないなあ、という時、だからといって即、「これは神様の御計画ではないのかも知れない…」、と決めつけるのもまた間違いです。神様は、かわいい子ほど鍛えられますし、主の深い御計画の時ほど、サタンの妨げも強く働くものです。うまくいくことだけが主の御計画というわけではない、ということも私たちは覚えるべきです。
 少なくとも、ここでマリアのしたことは、神様の大いなる十字架の計画と一致していました。ですが、集まっていた弟子たちは、ユダも誰もみなズレていたわけです。世の中の価値観でしか考えなかったからです。マリアのしたことは、決して無駄なことではなく、神様の目には、最も正しい香油の使い方だったのです。
 そしてイエス様も、彼女のしたことが、もうすぐやってくる十字架の時を意識しての行動であることも、深く理解しておられました。マルコ14章の記事の方では、イエス様はこんなことも言われています。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 確かに、このお言葉どおり、このマリアのストーリーは、今朝もこの日本で、ここで、私たちの間で、「福音」、つまり「良き知らせ」として、宣べ伝えられました。

●あなたはどこに立つのか?
 しかし9節以下を見ますと、何やら不穏な空気が漂って来ます。イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来たのです。また、それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。というのです。祭司長たちはラザロをも殺そうと計画していました。
 しかもその理由はこうでした。11節、
多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
 なんと酷い理由でしょうか。ユダヤ教を信じていた人たちの多くが、イエス様を信じるようになってしまったから、そのきっかけとなった甦りのラザロも、その奇跡を起こしたイエス様も、どちらも殺してしまおう、というのです。こうして、刻々と、十字架の時が迫って来るのです。

 さあ、ここで私たちは一度、自分自身に聞いてみた方が良いかも知れません。
「あなたはどこに立つのか?」と。
 これまで見て来ました、信仰深いマリア、あるいは、主を裏切っているくせに、表面的には妙に道徳的な説を唱えるユダ、またあるいは、イエス様とラザロを殺す計画をしている怖ろしいほどに傲慢なユダヤ人祭司長たち…。
 とことん主を愛するマリアだと自分では思い込んでいても、知らないうちにユダのようになって、主を裏切っている自分もいるかも知れません。またあるいは私のような牧師でも、知らぬ間に、祭司長たちと同じ所に立っていて、イエス様を何度も十字架につけるようなマネを、無意識にしてしまっていることがあるかも知れません。
 
 人は誰も、自分のことを正確に評価することはできません。完全に客観的に自分を見ることもできません。自分では、完全に、絶対に、この3つの中ではマリアに違いない!と思っていても、本当にそうかどうかは、自分ではわからないものなのです。
 いえ別に、最後だからと皆さんを脅しているわけではありませんのでご安心ください(笑)。そうではなくて、むしろどうにかして励ましを置いて行こうとしているのです。
 
 パウロは、コリントの信徒への手紙2の1章で、こんなことを言いました。
20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。21 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。22 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
 「この方」というのはもちろんイエス様のことです。そして私たちはこの方、イエス様のお名前を通して、「アーメン、そうです」と言うことによって、父なる神をたたえるのです。
 私たちをイエス様に繋げてくださり、油を注いでくださったのはこの神様であり、またこの方が私たちに、信じるものとしての証印を押し、その保証として「聖霊」を与えてくださったのだとパウロは言うのです。
 まだイースターも来ていないのにペンテコステの話か?と思われるかも知れません。ですが、このことはとても大切です。イエス様の十字架と復活の前には、まだ弟子たちにも聖霊は降っていませんでした。つまり、マリアにもユダにもなくて、今、私たちには与えられているもの、それが聖霊の力なのです。
 弟子たちも、ペンテコステに聖霊の力を受けるまでは、伝道することも許されませんでした。しかしイエス様を信じた私たちの内側には、イエス様の十字架と復活の故に、もう既に聖霊が住んでくださっています。
 ですから、私たちは、この聖霊に頼り、導かれるままに進めば良いのです。常に祈り、教会につながり、御言葉に聴き、聖霊と交わる信仰生活を送るなら、私たちは多少道をはずれたり、失敗はしても、ユダや祭司長のところまで落ちることはありません。そのことは私たちの信仰により、聖霊なる神が保証してくださるのです。
 マリアの、どこまでもイエス様を愛する信仰を手本としながら、聖霊を受けた者として、安心して、共に伝道の業に励んで参りましょう。

祈り


  


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