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受難節第5主日礼拝 説教 「一粒の麦」

日本基督教団藤沢教会 2020年3月29日

【旧約聖書】イザヤ書 63章1~10節
1 「エドムから来るのは誰か。
 ボツラから赤い衣をまとって来るのは。
 その装いは威光に輝き
 勢い余って身を倒しているのは。」
 「わたしは勝利を告げ
 大いなる救いをもたらすもの。」
2 「なぜ、あなたの装いは赤く染まり
 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
3 「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。
 諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。
 わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ
 憤りをもって彼らを踏み砕いた。
 それゆえ、わたしの衣は血を浴び
 わたしは着物を汚した。」
4 わたしが心に定めた報復の日
 わたしの贖いの年が来たので
5 わたしは見回したが、助ける者はなく
 驚くほど、支える者はいなかった。
 わたしの救いはわたしの腕により
 わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
6 わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり
 わたしの憤りをもって彼らを酔わせ
 彼らの血を大地に流れさせた。

7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
 主がわたしたちに賜ったすべてのことを
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
 憐れみと豊かな慈しみを。
8 主は言われた
 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
 そして主は彼らの救い主となられた。
9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
 御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐れみをもって彼らを贖い
 昔から常に
 彼らを負い、彼らを担ってくださった。
10しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。
 主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 12章20~36節
 20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」


一粒の麦
 受難節第五主日を迎え、主の十字架の出来事がまた一つ近づいたことを思いますが、その私たちに向かって、十字架の直前にある主イエスが、腹を割って、その思いの丈を伝えようとしています。「私は心騒ぐ。なんと言おうか」と仰るこの一言からそれが分かります。心とはすなわち、魂のことです。つまり、魂が揺さぶられながら、私たちにその心の底を見せるのが主イエスであり、それが、この日の礼拝で起こっているのです。

 ご存じのように、今は、非常事態です。東京都だけでなく、神奈川県からも、不要不急以外の外出を控えるようにとの自粛要請が出されており、しかも、それがいつまで続くのかまったく分からない状況です。そのため、今、世界は、大きな不安と恐れに包まれていると言えるのでしょう。それゆえ、喫緊の課題は、それにどう対処するかということです。そこで、為政者は、その原因である見えない敵と戦い、勝利しなければならないと威勢のいいことを言うのですが、ただ、目に見えないものほど厄介なものはありません。しかも、私たちには、この小さな敵との戦い方も、いわんや、勝ち方も知らないわけです。ですから、この不確かさの中で、もし私たちが何かを言えるとしたら、それは、負けないということです。負けないとはつまり、私たちが自分自身を見失わないと言うことであり、そのために、自分が何者かをしっかりとイメージし、何ができるかを知っていなければらないということです。

 では、それをどこで確かめさせられることになるのか。それは、この日曜日の礼拝です。主が復活された日曜日の朝、主との出会いを通し、自分はクリスチャンで、主に愛され、大事にされているんだと、礼拝に招かれ、この大事な事実を知らされるのです。だから、私たちは、相手を打ち負かし、やっつけ、自分だけの安心安寧を求めることはしません。いかなる敵にも負けることがないことを知っているからです。だからこそ、勝ち負けに拘らず、私たちらしく過ごすことができるのです。愛と寛容を身につけ、普段の日常を過ごすことができるのはそのためです。ですから、礼拝は、このように私たちがいかなる者であるかを知らされる場だからこそ、教会は礼拝を大事にし、これまで守り続けてきたのです。

 ところが、この非常事態によって、そもそものところで、礼拝そのものが危ぶまれています。それは、科学的見地に基づくものであり、それゆえ、その見解は正しいと言えるのでしょう。ですから、皆さんに手指の消毒、マスクの着用、さらに、今日は寒い日でありますが、換気のために窓を開け、さらに、間隔を空けてお座りいただいているのはそのためです。そして、そこまでして、主の日の礼拝を守ろうとしているのは、礼拝こそが私たちの信仰における生命線でもあるからです。ただ、その一方で、先月より日曜日のミサ、礼拝を非公開な形に変更し、信徒がミサ、礼拝に出席しない決断をした教会もありました。それは、彼らの信仰においては、システム上それが可能だからなのですが、ただ、幸いにも、私たちの教会は、なんとか礼拝だけは続けることが許されています。けれども、3月の聖餐式と4月の聖餐式は中止することにしました。ただ、週報にも記しましたように、イースターだけは、何とか聖餐式を実施できないかと今検討しているところです。

 このように、これまで大切だ、大切だと言ってきた礼拝に別の側面が加わることで、その足下が大きく揺らいでいるかの感があります。しかし、それでも、私たちはこうして礼拝へと導かれてきたわけです。それは、私たちにとって礼拝は、不要不急のものではないからです。他のことは置いておいても、大事にしていかなければならないものであり、私たちが私たちであるために必要なものだからです。このように、礼拝は私たちにとって命に関わるものであり、そして、主イエスが今日私たちに伝えてくれていることもそのことについてのことなのです。主イエスはこう仰います。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたる」と。

 私たちが主のみ苦しみを覚えつつ、礼拝を献げる最大の理由は、主が私たちにくださった永遠の命によるものです。主との永遠の命の交わりの中に生きていることを知っているから、だから、この日もまた、私たちは、こうして礼拝へと招かれているのです。そして、それが特別なことだと分かるのは、この世に生きる私たちが、それだけ不安と恐れの内に置かれているからでもあるのでしょう。まただから、この非常事態の中、私たちは礼拝を献げずにはいられないのです。ですから、主イエスを間近に覚え、この不安と恐れを取り除きたい、そう思い、礼拝に集められてきた人は多いことでしょう。そして、その不安と恐れが取り除かれるのは、主が私たちと共にあることを知らされるからです。

 ところで、私たちの安心の源であり、基でもある、この主が共にあるということは、どういうことでしょうか。非常事態に見舞われる以前、主と出会い、自分を取り戻し、励ましを受けて、当たり前のように、教会よりこの世の馳せ場へと送り出された私たちでありますが、けれども、聖霊に満たされ、会堂を一歩出た途端に、気持ちが切り替わってしまうのはどうしてなのでしょう。普段でもそういうことがあるくらいですから、今は何をかいわんやということです。それゆえ、私たちの健康を脅かす見えない脅威がどこに潜んでいるか分からない以上、そこで、信仰が与えられているから大丈夫だと、いくら強がったところで意味はありません。けれども、だからこそ、そこで思うのです。そうした中で続けられてきたものが私たちの礼拝だということを、です。つまり、怯えながら、震えながら、恐れおののきながら、こうして集められている、その中で続けられてきたものが私たちの礼拝であり、そして、そこで与えられたものが、主の平安であるということです。

 礼拝が不要不急のものだと思う人は、私たちの中にはいません。けれども、その場合の私たちというのは、いかなる私たちなのでしょうか。毎週のことですが、礼拝には、藤沢教会の全員が集められているわけではありません。そして、そもそものところで、教会のこれまでの歴史の中で、信徒全員が集まる形での礼拝は、ただ一度としてないと言っていいのでしょう。それは、こうして礼拝を献げる私たちの信仰も、そして、教会という交わりも、私たちが人生を共にしていることを前提としているからです。つまり、人生を共にするということは、兄弟姉妹の様々な局面を共に見つめ、また、共に担い、共に生きるということであり、このことはつまり、人生には、病があり、老いがあり、様々な障害があるように、そうした中で、共にしているものが礼拝であるということです。従って、そうである以上、戸板に載せてでも主イエスの御前に兄弟姉妹をお連れすることは大切なことではありますが、けれども、それが叶わないときも必ずあるわけです。ですから、そういう意味で、全員集合というわけにはいかないということです。

 しかし、その一方で、礼拝を不要不急のものと考える人々もいることでしょう。まただから、主イエスもここでそうした人たちのことを「自分の命を愛する者」と言ったりもしているわけです。ただ、そう考えると、こうして礼拝を献げる私たちは、「この世で自分の命を憎む者」ということになります。つまり、自分を捨てることをも厭わないのが私たちであるということです。それは、十字架と復活の出来事を経て今を生きる私たちにとって、主イエスを通し、それが事実であることを知らされたからです。けれども、主イエスが私たちに伝えてくれていることは、捨てるか捨てないかといった、自分自身への拘りではありません。十字架の出来事を直接的に経験するその直前に主イエスが仰ったことは「私は心騒ぐ。なんと言おうか」ということでありました。つまり、新たな始まりの直前で、十字架という一つのこの大きな終わりを見つめ、主イエスが押しつぶされそうになっていたということです。

 イスラエルの民に向けられたこの時の神の見方について、第三イザヤは「彼らはわたしの民、偽りのない子らである」と神様が語られながらも、その最後では、「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主は翻って敵となり、戦いを挑まれた」と伝えるのです。それは、捕囚の民イスラエルにとって、この一つの終わりは、歴史的事実でもあったからです。それゆえ、この度の出来事は、一つの時代に終わりを告げるものになるのかもしれません。なぜなら、14世紀に、かつてヨーロッパで流行したペストが、ヨーロッパ世界への体質的、構造的変化を促し、中世という時代が終わりを迎えた一因となったことから、今回のことは、時代に対する体質的構造的変化を促す、一つの切っ掛けだとも言えるからです。しかし、中世を終わらせた直接的原因は、ペストだけではなく、そこには様々な要因が複合的に重なっているように、一つの病だけを取り上げて安直に結論づけることは慎まねばなりません。それゆえ、不安や恐怖を煽り立てる言説に私たちは惑わされてはならないのですが、けれども、そうならないためにも、その心の内を明かす主イエスの言葉に、私たちはしっかりと聞く必要があるのです。

 一つの終わりを迎えるということは、痛みがあり、苦しみがあり、そこには必ず私たちのネガティブな感情が伴うということです。そして、その痛みと苦しみを携えながら、主の御前へと進み行くのが、主を信じる「私たち」であるということです。そして、そこで忘れてはならないことは、この「私たち」の中に主イエスは共にいてくださっているということです。主ご自身が腹を割って、私たちに伝えてくれているのはこのことであり、つまり、終わりを終わりとして受け入れることの痛みと苦しみを、主は、「私たち」のこの交わりの中で明らかにされているということです。しかも、主がその痛みを引き受けられたのは、私たちの罪を負い、私たちを新たな命へと導くためであったわけですが、そこで、私たちが導かれるところが、主がここで「私がいるところ」と言われることでもあるのです。つまり、それが、永遠の命、永遠の主イエスとの交わりであり、その外側ではなく、内側に置かれ、生きているのが「主と共にある私たち」であるということです。従って、主イエスが腹を割って私たちに伝えてくださっていることは、このままで終わることはないということです。

 私たちは、愛することと憎むこととが併記され、そして、最後のところでは、「光を信じなさい」とも言われていることから、信じるために自分を憎み、自分を捨て、そして、そのために礼拝を守り続けなければならない、と強く思おうとするものです。そうでないと、自分は終わってしまう、事態が逼迫すればするほど、そのような思いに駆られてしまうからです。しかし、主イエスが仰ることは、二つに一つ、どちらか一方を選ばなければならないということではありません。なぜなら、一つを選ぶということは、往々にしてその思いの強い方を選ぶことになるからです。けれども、主が望むことは、そのように私たちが何に執着するかではありません。主が「私のいるところ」と言われているところに、私たちが共にいることであり、そこに私たちは、すでに今生きているのです。

 このただお一人のお方が私たちと共にいてくださっているということは事実であり、この現実が変わることはありません。なぜなら、それを望んでいるのは、主ご自身であるからで、まただから、主イエスは、「心騒ぐ」と仰るのです。しかし、時に、この事実が私たちの目に歪んで見えることがあります。それは、私たちの主イエスへの関心の高さが、主イエスを信じる自分自身への執着となり、それが、礼拝に出なければとの強迫観念となることがあるからです。またその反対に、執着が緩んだときなどには、礼拝はまあいいか、といった塩梅に安きに流されたりもするのです。けれども、主イエスが仰ることは、愛着か、それとも、憎悪、嫌悪かといった、いずれに執着するかということではありません。私たちは、神様との交わりの中に生きているのであり、主イエスが一粒の麦に譬えてそのことを語っているように、そのことを実証されたのが私たちの主イエスなのです。ですから、この事実をさらにはっきりと知るためにも、私たちは、主イエスがそうであったように、主イエスと同じところを通り抜けねばなりません。苦しみつつ主イエスがそこを通り抜けられたからこそ、この苦しみの中で主イエスと出会う私たちは、光を光として感じ、新たな命へと導かれることになるのです。

 この度の出来事は、私たちの信仰をその根底から問い直す出来事であり、そのため、私たちは、その基本でもある礼拝に対する思いを深くさせられもするのでしょう。しかし、そうであるなら、そこで誤解しないように気をつけねばなりません。礼拝に何が何でも出なければとの執着を強くする必要はない、ということをです。執着し、感染し、その結果、執着が解かれ、主を憎むようなことが起こったとしたら、それは本末転倒のことであり、そうなると、主との命の関わりを自分自身で否定することにつながりかねません。しかし、だから、非常時ゆえに礼拝はなくていいということではありません。全員が仮に集まることができないとしても、主の日には、教会は開かれており、開かれているということはつまり、そこで礼拝が守られているということです。そして、それが約束されているということは、場所を異にしていたとしても、同じ主との交わりを思いお越し、同じ時間を過ごす私たちは、同じ命に生きているということです。大切なことは、このことが信仰によって約束されているということであり、だからこうして礼拝に集う私たちにとって、礼拝は、主の命に共々に生かされていることを知らされる、恵みであるということです。

 病に伏していても、外出もままならないような状況に置かれようとも、そして、様々な状況によって、礼拝への道筋が閉ざされるようなことがあったとしても、教会がこうして開かれている限り、私たちは主の命の中に置かれ、兄弟姉妹と共に一つの命を生きているのです。そして、そこに主は間違いなく私たちと共にいまし、私たちの命を照らし出してくださっているのです。私たちに光を信じなさいと仰るのはそれゆえであり、まただから、私たちも光に照らし出され、主の命に内に終わりの日までを歩み続けることができるのです。ですから、執着を捨て去り、主の命の中を生きるものであることを忘れずに、今週も感謝の中に過ごして参りたいと思います。


祈り





霙 3℃ at 10:30