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棕櫚の主日礼拝 説教 「ホサナ、ホサナ」

日本基督教団藤沢教会 2020年4月5日

【旧約聖書】ゼカリア書 9章9~10節
9 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車を
 エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ
 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ
 大河から地の果てにまで及ぶ。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 12章12~19節
 12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように、
 イスラエルの王に。」
14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15「シオンの娘よ、恐れるな。
 見よ、お前の王がおいでになる、
 ろばの子に乗って。」
16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。17イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。18群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。19そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」


ホサナ、ホサナ
 棕櫚の主日を迎え、受難週に入りました。そこで私たちの目にする光景は、群衆が歓呼の声を上げ、主イエスを迎えるエルサレム入場の場面です。群衆は叫びます。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と。そして、それが、救い主、メシアを迎え入れる上での、人々の素直で正しい反応だと言えるのでしょうし、また、その気持ちは私たちも同じです。主イエスをお迎えすることで、信仰による救いのただ中へと進み行く、この経験を新たにさせられる一週間が始まろうとしているからです。けれども、「ホサナ、ホサナ」と同じように叫びつつも、群衆の気持ちと私たちの間には明らかな違いがあります。

 御言葉はこう語ります。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がその通りにイエスにしたということを思い出した」と。このことはつまり、御言葉がここで伝えたいことは、主を迎え入れる時に感じる、人としての素直な高揚感だけではないということです。なぜなら、そこで「イエスが栄光を受けられたとき」とあるように、分かったと思い、無邪気に喜ぶ人々と、この時を振り返り分からなかったと語る弟子たちとはでは明らかな違いがあるからです。しかし、にもかかわらず、これから起ころうとしていることについては、神の栄光を現す出来事であったとも語るのです。では、その違いは何か。それは、端から見ているだけでは分かりにくいものなのかもしれません。なぜなら、例年の私たちの姿がそうであるように、私たちの主をお迎えすることの喜び、その高揚感は、表面上はまったく同じもののように見えるからです。

 例年、ある教会では、棕櫚の主日、パームサンデーには、礼拝の中で、棕櫚の枝を振って喜びを現し、主イエスをお迎えするのですが、その気持ちは私たちにもよく分かります。しかし、今年はどうでしょうか。主をお迎えすることの喜び、その高揚感をもって、この日を迎えている人々がどれだけいるのでしょうか。それは、礼拝に集う私たち、礼拝へと招かれている私たちの気持ちが、本来与るべき喜びの、その正反対の方向に大きく振れているからです。ですから、「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声を上げるのではなく、「主よ、いずこに、主よ、どこに」と、不安と恐れの中に置かれた人々の、そんな心の声が聞こえてくるように思います。そして、それは、主が共にいます確かさではなく、その反対に、いるのかいないのか分からない、その不確実性が大きくされているからです。

 しかし、そうした中で、主は共にいます、そう感じさせてくれるのが私たちの信仰です。そのため、ある人たちは、そう感じるべきだ、感じねばならない、と熱心であることを強く求めるのでしょう。けれども、「どこに」と、そう問われ、主が共にいますことを実証できる者が果たしてどれだけいるのでしょうか。そこで、信じなければ、信じるべきだ、そう言われ、人は何とかそう思い込もうとするのですが、いずれどこかで、この「どこに」との心の声がどんどん大きくなって行き、そこで深い絶望の中に置かれていることを新たに悟ることになるのです。教条主義と絶望とがいよいよ拍車がかかり、まるで空気のように人々を包み込むことになるのはそのためです。そして、それはすべてこの不確実性の高まりによるものですが、では、それに対し、我々は為す術は何もないのか。この日御言葉が語るのは、そうではないということについてです。

 群衆と私たちとの違いは一体何なのでしょうか。それは、主イエスの出来事を見つめる眼差しです。それが、弟子たちの語る「分からなかった」との一言に表されているものでもありますが、ですから、主イエスの出来事を見つめる上で求められていることは、この「分からない」という、一つの「溜め」と「間」です。こうあるべきだ、こうすべきだと、自分の考えや思いに溺れ、期待ばかりを膨らませるのではなく、また、無意味だ、もうダメだ、仕方ない、と、自分の考えや思いに沈み、諦めがちに物事を見つめるでもない、結論へと前のめりに急ぐのではなく、ちょっと待てよ、と、冷静にものを見る目があるかないか、それが大切であるということです。まただから、私たちは喜んで主イエスをお迎えすることができるのです。そして、それは、私たちが主の十字架と復活の出来事という、これから起こることのその真実を知っているからです。

 このように、主の御言葉の真実を知る上で「分かる」ことはとても大事なことですが、けれども、この受難週の始まりにおいては、「分かろう」とすることよりも、むしろ「分からない」ということを先ずしっかりと受け止める必要があるということです。ただ、だから、そのままで終わっていいということではありません。弟子たちがそうであったように、分かったと思い込もうが、分からないと嘆こうが、それはどちらでも良くて、それ以上に大切なことは、今この時から、共にいます主イエスとの最後の一週間が始まり、私たちはその歩みを一緒に始めるということなのです。つまり、主イエスご自身が経験したその同じ経験を私たちも経験するということ、「主よ、いずこに」との思いを深めつつ、なお、その歩みを共にし続けるということ、大切なことはこのことです。従って、今私たちに求められている、この「溜め」と「間」は、主と共にあるその歩みから出てきたものでもあり、特に、今年は、そのことが強く求められているように思うのです。

 受難節、特に、受難週を主と共に過ごすということはどういうことなのでしょうか。それは、私たちの信仰が根底から揺さぶられる経験をするということです。そして、その影響は個人に止まるものではありません。共同体、神の家族のあり方そのものが問われることになるのです。それは、やがて弟子たちのすべてが主イエスを裏切り、教会が雲散霧消の危機に立たされたように、共同体全体が揺さぶられ、壊れそうになる経験をすることになるのが十字架の本質でもあるからです。けれども、この経験を経て、そこでまた、新たにされるものが「神の家族」である教会なのです。それは、壊れそうになるその過程において、どこまでも私たちと共にある主イエスを知るからです。ですから、主イエスを本当の意味で知りたいのなら、私たちは主イエスと同じ歩みをしないわけには参りません。ただ、それは、同時に、揺さぶられ、壊され、何一つ自分の思い通りにならないところを通り抜けるということでもあるのです。まただから、弟子たちも、かつての自分の姿を振り返り、「分からなかった」と語るのですが、けれども、そこで待っていたものが、主イエスが示された信仰の喜びでもあったのです。

 ところで、そんな弟子たちのことを、主イエスはどのようにご覧になっておられたのでしょうか。そしてまた、弟子たちも、そんな主イエスのことをどのように見つめていたのでしょうか。それを考えると、ちぐはぐさを感じずにはいられません。ですから、私たちがもしその場にいたとしたら、一緒にいればいるほど、私たちはその意味がよく分からなくなったことでしょう。まただから、弟子たちは、振り返り、「分からなかった」と語るのですが、ただ、弟子たちは、それでも、主よ、信じますと口にし、そして、そう言いきることにいささかの躊躇いも感じることはなかったのです。そして、そこで自らの真実な姿をあぶり出されることになったのです。つまり、信じたい、信じなければ、信じるべきだ、ほぼ確信に近い形で現された弟子たちの信仰が木っ端みじんにされたということですが、それは、弟子たちが、神様の都合に合わせるものではなく、自分の考え、自分の都合に主イエスと神様とを合わさせようとしたからです。だから、絶望し、教会は雲散霧消の危機を迎えることにもなったのですが、けれども、このことを通し、新たにされ、強められることになったのが主の教会でもありました。それは、主イエスが教会の頭として、弟子たちと共に歩んでくださっていたからです。そして、それは、その時だけに限ってのことではありません。教会が二千年もの長きにわたってこの地上に立ち続けることが許されたように、人の都合ではなく、イエス様と同じように、神様の都合に合わせ、歩み続けてきたのが主の教会であるからです。つまり、それが、神の子と呼ばれる私たちの歩みであるということです。

 ところで、今、カミュの「ペスト」がよく売れているとのことですが、それは、多くの人が、この小説から、今私たちが置かれている現実に対して、何か手がかりのようなものを掴もうとしているからです。そこで、私も学生時代に読んだきりで内容についてはすっかり忘れていたため、この間から少しずつ読み進めているのですが、そこで先ず私の目を引いたことは、冒頭に記されているある一言でした。それは次のようなものです。「ある町を知るのに手頃な一つの方法は、人々がそこでいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることである」というこの短い一文なのですが、この一言をご紹介したいと思ったのは、その始まりに当たり、記されているこの一言が、十字架に向かう主イエスと、その最後の時を歩む弟子たちの姿と、つまり、主の教会の姿と重ね合わせることができると思ったからです。

 主イエスの弟子たちも、そして、私たちも、教会という一つのコミュニティでその一生を終えるものです。そして、それは、そこでいかに働き、いかに人を愛し、いかに死ぬかと言うことでもありますが、このことはつまり、そこにまた、人の都合ではなく、神様の都合に生きる私たち教会の姿が現されているということです。つまり、それが神の子として生きる私たちの一生であり、その姿を信仰をもって追い求めているのが私たちであるということです。それゆえ、それは、理想を追うようなものとはなりません。主イエスと共に生きるということは、具体的かつ現実的なことでもあるからです。まただから、弟子たちのように破れを経験し、主の御前に無様な自分自身の姿をさらけ出すことにもなるのですが、けれども、その私たちと主イエスは共にいてくださっている、あの人にも、この人にも、主は共にいてくださり、まただから、私たちは、その喜びをこの世に現すことになるのです。そこで、主イエスは、人の都合ではなく、神様の都合に生きる私たち神の子についてこう仰います。それは、皆さんよくご存じの一言でもありますが、それは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」との一言です。

 蔓延するウィルスという見えない脅威と向き合わざるをえないとき、この不確実性ゆえに、人の心は荒み、自分の都合ばかりを押し通そうとしていがみ合い、結果、人を蔑み、やがて人を虐げていることにすら鈍感になっていく、それは歴史が証明していることです。そして、恐らく、私たちも、その日常においてもそういうことを目の当たりにすることになるのでしょう。それどころか、私たちの中に、自分自身の中に、それと同じことを見ることがあるのかもしれません。ですから、そうはなりたくはない、けれども、自分がそうならないと言い切る自信は私にはありません。弟子たちのように、思わず自分の都合を優先してしまうことがあるからです。まだから、そうなることを恐れるのです。しかし、カミュの「ペスト」に記されているように、そうした中にあって、自分を見失わず、穏やかな気持ちをもって人を思いやり、その時できる精一杯のもの、それは時間であり、力であり、お金であるのかもしれません。そういう自分が大切にしているものを人と分かち合うことのできる人がその一方で確かにいるのです。そして、この互いに助け合い、支え合い、励まし合う人々、それはまさに平和を実現する人々であり、主の群れの中には、そういう人々がたくさんいて、それが私たち神の家族を特徴づけているのです。ですから、そこで、もし私たちが自らの信仰を誇ることができるとしたら、それは、罪人の集まりの中に数多くの平和を実現する人たちがいるからです。

 平和を実現すると言われていることは、人の都合ではなく、神様の都合に生きることです。主イエスと同じように御心に従って生きることなのです。ただ、それは確かに難しいことです。ですから、熱にうなされるのではなく、その難しさをよく知っていなければなりません。そういう意味で私たちは冷静でなければならないのです。けれども、冷静であることを言い訳にして何もしないということが私たちの進むべき道ではありません。では、そこで何をなすべきなのか、それは、共にある主イエスを見つめ、一歩一歩歩むということです。そして、その一歩一歩の中に、私たちだけでなく、私たちが日々共に過ごすたくさんの人々を同じように招き、同じ一歩一歩を歩む、それが私たち主を信じる者の「現実に即した」歩みなのではないでしょうか。

 ただ、そうは言っても、私たちは、神の都合に生きることができずに平和を乱すことがあるのでしょう。あるいはまた、破壊的な力に囲まれ、途方に暮れ、自分の都合でしか生きえないのが私たちでもあるのでしょう。けれども、いかなる時も、主イエスはそういう私たちから離れることはありません。ですから、そういう意味で、私たちから離れることのない主イエスを見つめている限り、私たちはもしかしたらなどと恐れる必要はありません。主の平和が実現することだけを願い、神の都合に合わせて歩めばいいのです。従って、弟子たちが「分からなかった」と語ることは、このことを現しているのであり、ですから、私たちにとって「分かった」ということはつまり、「分からない」ことを謙虚に受け止め、御言葉に親しみ、日々祈りの内に過ごすことなのです。神の子として、平和を実現すべくこの一週間をそれぞれの置かれた場で過ごし、復活の主と、喜びと感謝をもって出会う私たちでありたいと思います。

祈り


  


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