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復活節第2主日礼拝 説教 「あなたがたに平和があるように」

日本基督教団藤沢教会 2020年4月19日

【旧約聖書】出エジプト記 15章1~11節
1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
 主に向かってわたしは歌おう。
 主は大いなる威光を現し
 馬と乗り手を海に投げ込まれた。
2 主はわたしの力、わたしの歌
 主はわたしの救いとなってくださった。
 この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
 わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
3 主こそいくさびと、その名は主。
4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
 えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
5 深淵が彼らを覆い
 彼らは深い底に石のように沈んだ。

6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。
 主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
7 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし
 怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
8 憤りの風によって、水はせき止められ
 流れはあたかも壁のように立ち上がり
 大水は海の中で固まった。
9 敵は言った。「彼らの後を追い
 捕らえて分捕り品を分けよう。
 剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
10あなたが息を吹きかけると
 海は彼らを覆い
 彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
11主よ、神々の中に
   あなたのような方が誰かあるでしょうか。
 誰か、あなたのように聖において輝き
 ほむべき御業によって畏れられ
 くすしき御業を行う方があるでしょうか。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 20章19~31節
 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


あなたがたに平和があるように
 主我らと共にいます。先週、イエス様のご復活を共々にお祝いしたばかりの私たちは、復活の主が共にいます喜びをもってこの朝を迎えました。けれども、その喜びが大きいだけに、また気持ちがまた別の方向に動くのを覚えます。それは、この地での伝道を開始して以来初めて、藤沢教会が礼拝を休会することになったからです。

 これまで何度もお伝えしたように、先の大戦下、非国民と罵られながらも、主の日の礼拝を止めることがなかったのが私たち藤沢教会でありました。それゆえ、そこに私たち藤沢教会の信仰が現されてもいるわけですが、つまり、この信仰に立ち続けているのが私たち藤沢教会であるということです。ですから、礼拝は絶対に休まない、それをしっかりと腹に収め、日曜日よりの1週間の生活を立てている方は数多くおられます。従って、それを思うと、この度の決断は忸怩たる思いでもありました。それゆえにまた、教会員すべてがそのような思いに駆り立てられたことでしょう。ですから、私たちにとって、この度のことは、これでいい、仕方ないとの諦めが先に出るものではありません。礼拝が大切だとの思いは、それだけ私たちの体に染みついているからです。

 けれども、そうであるからこそ、そこで一つ確認しなければなりません。それは、神様を礼拝するということが、私たちにとって礼拝に出る出でないといった私たちの拘りではないということです。なぜなら、もし、人間的な拘りだけで、私たちがこれまで主の日の礼拝を守り続けてきたとしたら、その思いが叶わぬこの時、その拘りゆえに、そこにまた新たな思い煩いが生じることになるからです。けれども、もちろんそれは違います。私たちにとって主の御前に集まるということは、主の安息に与ることだからです。ここでイエス様が「あなたがたに平和があるように」と仰るように、それゆえ、それが思い煩いとなっては、本末転倒、それこそ、そもそものところで、信仰から大きくかけ離れたものとなってしまうということです。

 しかし、もちろん、そうではない。そうではないなら、どうなのか。そこで、先ず言えることは、この時の不安な気持ちを抱えつつも、こうなったことについては、私たちは負い目を感じる必要はないということです。なぜなら、私たちのこの度の決断は、この今のこの状況に流されたためでもなく、ましてや、ウィルスに負けたためでもないからです。「ステイホーム」と世間で呼びかけられているように、神様が造られたこの世界は病み、この世界に生きるすべての人々がそのことに大きな痛みを覚えている現状においては、自分の命と人の命を守るための行動は、隣人愛に生きる私たちにとっては、社会的責任を果たす上で欠かすことのできないものだからです。ただし、それが、私たちの自己都合ではなく、この時、痛みをもって生きる一人ひとりのことを覚えてのことであり、同時に、神様の御心に適うものである以上、礼拝の休止は、良かった良かった、これで良かったといった、そういう無頓着で何も感じないところで終わるものではありません。

 私たちが生きるこの世界には、今のこの現状とまったく無関係に生きる者は一人もおりません。すべてが痛み、すべてが傷ついているのです。そして、このことはまた、世界に生きる私たち一人ひとりが、それだけ強い繋がりをもって生きているからです。そして、こうなったことの一因は、一説によれば、人、物、お金のグローバル化が急速に拡大したからだとも言われていますが、その背後にあるのは、私たち人間の欲望です。そして、私たちもその例外ではありません。けれども、私たちは、欲得、その拘りだけで世界と世界の人々と繋がっているわけではありません。御言葉を糧として生きる私たちにとって、世界に生きる一人一人を繋ぐものは、人、物、お金ではなく、イエス様・キリストであり、神様なのです。つまり、神様に造られたものとしてこの世界に生きるがゆえに、世界と人ともそれだけ近いところで繋がりを持って生きている、それが私たちであるということです。ですから、それだけにまた、その痛みは甚大です。感染者は世界中で200万人を大きく超え、また、亡くなった方も15万人を超えたと言われています。国と国、人と人が分断され、その勢いが収まる様子はありません。ですから、この痛みに耐えかね、それを和らげたいと願うのは不思議なことではありません。

 少し前まで、世界中の多くの人々が互いに繋がり合う中で求めたことは、大きな利益とそれに伴う喜びでした。けれども、それが突然人に不利益と苦難をもたらすものとなったのです。そのため、世界中の人々は、ソーシャルディスタンスと称してこれまでの繋がりを断ち切り、まったく逆の行動を取り始めました。そして、そうせざるを得ないこの状況が、私たちに大きな不利益をもたらすことになもったのです。ただし、それは、人、物、お金の流れがぴたっと止まったことではありません。みんなで一緒に教会にいけない、信仰の友、主にある兄弟姉妹と会えないということです。そして、私たちのそうした行動は、私たちにとっては甚だ不自然なものです。人と人とが同じ時間、同じ場所に集まって、同じことをするところに、私たちの信仰の意味があるからです。それゆえ、集まることを止めた教会、集まることができなくなった教会、集まることを避け、それを厭うようになった教会の将来は。信仰の根幹が揺るがされ、深く傷つき、やがて閉ざされることにもなるのでしょう。出エジプトの出来事に記されているように、集まり、一塊となって終わりまでを共に歩み続けるものが神の家族、主の教会であるからです。このように、利益相反の状況に立たされているのがこの時の私たちなのかもしれませんが、ただ、それだけでなく、もしかしたら、集まることを止めなかった先の戦時下よりも、もっと、より深刻な状況に立たされているのが今の私たちなのかもしれません。けれども、だからこそ、また御言葉は語るのです。この時を不安の中に生きる私たちに向かって、この時の私たちが見つめるべき一つの大切なことを、復活のイエス様を通し語るのです。

 主なる神の驚くべき御業を経験した直後のことです。出エジプトの民は、喜びの声を大きくし、その思いの丈を主なる神に打ち明けるのです。そして、彼らのこの記憶が「家族」としてのまとまりを作り上げ、その信仰を後世に伝えさせることになったのです。従って、喜びというこのポジティブな感情が、神の民のまとまりを築き上げた一つの理由であるのは間違いありません。けれども、神の民としてのまとまりを築き上げたものは、それだけではありません。喜びに加えて、より大きかったことは、彼らの記憶に刷り込まれた、不利益としか思えないその経験、そして、それに伴うネガティブな感情です。つまり、苦難とそれに伴う悲しみと嘆き、それが、彼らの家族としてのまとまりを築き上げる力となったのです。そして、それが、バビロン捕囚と言われている、普通であれば忘れたい過去の記憶でもありました。ところが、彼らはそれをしっかりと記憶し、そのときの経験、そのときの感情すらも、後世に伝え続けて行ったのです。

 彼らがそれを大切にし続けることができたのは、その時の彼らの気持ちを神様がちゃんと聞いてくださっていたからです。ですから、今の私たちに求められていることは難しいことではありません。この今の痛みについてその思いの丈を神様に打ち明けることです。ですから、やせ我慢や空元気、空威張りすることが、今の私たちに求められていることではありません。ましてや、自分で自分を慰めるように、負い目を負う必要もありません。今この時の不安な気持ちを誤魔化さずに、全部、神様に打ち明け、聞いていただいていいのです。そして、そのために神様はイエス様を私たちのところにお遣わしになったわけですからなおのことです。どんな時にも、その思いの丈を私たちに打ち明けて欲しい、そう願っているのがイエス様であり、まただから、私たちがこの願いを受け止めるところに、私たちのその信仰が現されることにもなるのです。私たちと喜びも悲しみも、共に負ってくださっているお方が神様であり、イエス様であるからです。

 ですから、私たちは、意気地なし、小心者、腑抜けと言われることに怖じ気づく必要はありません。御言葉が「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と語るように、自分のその時の痛みだけを見つめる私たちは、そもそものところで意気地なしであり、それが私たちの性根だということです。それゆえ、撃ちてし止まん、などと、いくら強がってみたところで意味はありません。また、それが分からないから、ひとたび今回のような事が起こると、小心者の性根が直ぐに馬脚を現すことにもなるのです。しかし、その弟子たち、私たちの前に復活の主は現れたのです。このことはつまり、イエス様が、そんな私たちの性根をたたき直そうなどとは考えていないということです。腐った性根、曲がった性根はいくら発破をかけたところで、それで何かが変わることはありません。それよりも、イエス様が私たちに望んでいることは、その思いの丈を打ち明けることです。そして、その意気地のない私たちのその性根がどこに置かれているかを知ることです。それがイエス様のいますところであり、それゆえ、それを知っているところで、イエス様を信じる私たちの心根が、芽生え、養われることになるのです。

 そこで、世の人々は、私たちのそうした心根を愛などと呼んだりもするのでしょう。そして、この日、それを私たちに伝え、明らかにしてくださっているのが復活のイエス様でもありますが、ですから、イエス様自らの言葉とその姿をもって、私たちは、自分自身のその心根がどこに置かれているかを知るのです。それが、先週も申し上げたように、十字架の下ではなく、上だということです。まただから、私たちは、そこで復活の主が共にいますことを深く知ることになるのですが、ですから、私たちにとって信仰ゆえの喜びとはつまり、十字架の上の主と共に分かち合うものであり、それゆえ、そこで手にするすべてのものは、私たち信仰者が望み、欲しているものばかりで、私たちにとって何一つ不要なものはないということです。

 イエス様はここで三度「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに語りました。そして、このイエス様のお言葉の中に、十字架の上に置かれ、そこに生きる、私たち信仰者の姿が現わされています。しかし、イエス様は、この「主の平和」をこの時初めて口にしたわけではありません。14:27ですでに「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな」と、弟子たちに語っているのです。にもかかわらず、それを再び語るのは、弟子たちの頭の中から、このことがすこっと抜け落ちてしまっていたからです。まただから、それを確かめるべく弟子たちの前に現れ、改めてそれを伝えたわけです。しかし、それでも、この「主の平和」が頭の中からすこっと抜け落ちてしまうのが私たちでもあるのでしょう。ですから、イエス様の三度の繰り返しがそんな私たちの不甲斐なさを明らかにしてくれているように思います。ただ、一度ならず、二度、三度と、同じことを言われ、それで私たちの性根が変わるでしょうか。私たちの誰もがその難しさを知っています。しかし、信仰によって、私たちは確かに変わり得るのです。それは、十字架という葛藤の中で、新たな人格が築かれることになるからです。先ほどから申し上げている私たちの心根は、この新たな人格を獲得する中で現されるものですが、それが、パウロが言うところのイエス様を着る、イエス様に倣うということです。

 仏の顔も三度まで、と言われているように、一度ならず、二度、三度と、同じ過ちの繰り返しを人は赦すことができません。けれども、七の七十倍まで赦すと仰ったのがイエス様でもありました。ただ、それは、仏と比べ、だからイエス様が寛容であり、優れているということではありません。問われていることは、このイエス様の赦しの言葉を私たちはどこで聞いているのか、ということです。つまり、信仰をもって自分はどこに生かされているのか。何回許されるかというのは私たちの都合にすぎませんが、そういう自分の都合しか考えない私たちのことを、なお、お赦しになるのが私たちのイエス様であるということです。ですから、そういう意味で、イエス様が「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに言っていることは、自分の都合しか考え得ない私たち自身に言われていることです。ただ、私たちを七の七十倍赦すと仰るイエス様を信じると言うこととは、なろうとしてなれるものではありません。つまり、なろうとしてなることではなく、御言葉の最後に「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあるように、十字架の上でイエス様に出会う私たちは、すでにイエス様を信じ、その名により新たな命に生きているのです。

 ですから、自分が信じているかいないかということに拘る必要はありません。けれども、トマス始め、主の弟子たちが疑いを持ったように、信仰を持つ持たないというところに私たちはどうしても拘りを持ってしまいます。まただから、頭の中で混乱し、不安や恐れに囲まれたとき、私たちはイエス様への疑いを強めることになるのです。そして、イエス様の愛を見失い、自分自身をも見失うのです。そして、そこで現れるものが私たちの性根であり、そうした状態にあることを御言葉もまた罪などと言ったりもするのですが、そうであるからこそ、そこで私たちは思い出さなければなりません。性根が腐っていても、性根が曲がっていても、どちらでもいいのです。そこでもし何かに拘るとしたら、そういう私たちがどこに生きているのかということです。

 この十字架の上は、イエス様が「あなたがたに平和があるように」と仰るように、主の安息に満ちあふれた場所です。そして、このことはつまり、親が「太郎、次郎、花子、梅子」と我が子を呼ぶように、日々、「あなた」と呼びかけるイエス様の声の届く範囲に私たちが生きているということです。ですから、私たちとイエス様との関わりは、私たちが見たか見ないかといった、私たちの都合、拘りによるものではありません。お化けのように出たり隠れたりするものではなく、ずっとこれからも一緒いてくださっているのが私たちのイエス様であり、そして、このイエス様の「あなたがたに平和があるように」と呼びかけがそこでなされているのです。

 そして、そのイエス様が「聖霊を受けなさい」と弟子たちに語り、そして、「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰も罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」と仰るのです。聖霊を受けたということは、私たちが神様とイエス様から、こうして生きる上で必要な一切を与えられているということです。つまり、この聖霊によって、神様とイエス様に守られているのが私たちであるということです。それゆえ、主の弟子として、私たちは、赦されている喜びと罪許されないことへの痛みとを、それぞれ担うことになるのですが、このことはつまり、主と共に十字架の上に立つということは、私たちが欲しいと願うもの、自分に都合のいいものだけに囲まれるものではないということです。従って、イエス様と共にある喜びは、同時にこの世の現実に生きる悲しみと苦しみをも担うものであり、まただから、イエス様は、弟子たちにその手と脇腹の傷をお見せになったのです。

 十字架の上に立つ私たちは、主の甦りだけを見つめているわけではありません。甦りの主が、同時に十字架の主でもあるように、主のこの御傷から目をそらしたところに、信仰をもって生きる私たちの喜びはないからです。その喜びも、そして、その悲しみや苦しみも、そのそれぞれを主なる神様がイエス様に与えられたように、それぞれが私たちにとって大切なものなのです。ただ、今の私たちには、もしかしたら、そう思うことはなかなか難しいことなのかもしれません。難しく、そのために不安と恐れに押しつぶされそうになるのです。けれども、その私たちが主のものとされている。そして、それを私たちは十字架の上で知らされ、そこで「あなたがたに平和があるように」との主の声を聞いているのです。そして、私たちは知るのです。かつての大きな喜びも、今のこの不安と苦しみも、共にいてくださるイエス様が一緒に担ってくださっているということを。そして、この幸いに与るのは、信仰者である私たちだけではありません。私たち藤沢教会と繋がり、関わるすべての人たちと同じようにこれからも、イエス様は共に喜びを分かち合い、また、その重荷を共に担い続けてくださるのです。私たちはこのことを十字架の上で知らされるのであり、まただから、この時の不安や恐れ、様々な葛藤を通じて新たに変えられて行くのです。それは、そこで、イエス様と出会い、イエス様の声を聞き、イエス様の安息に与り、満たされ、そして、この喜びを人と分かち合うことになるからです。

 ですから、この度の危機を乗り越えたとき、そこで私たちすべてがきっと神様とイエス様からも、また、世の人々からもこう言われることでしょう。人の都合に振り回されず、また流されない、神様の都合に生きる、心根の優しい人と、そう言われるに違いありません。そのためにまた、イエス様を頭とする教会との繋がりを常に思い出しながら日々歩みたいと思うのです。甦りのイエス様は、この時も、そしてこれからも、信じる私たちを一つとすべく共にいてくださり、主の教会に繋ぎ合わせてくださっているからです。祈りましょう。

祈り

天の父なる神様
あなたが造られた世界に生きる私たちは今、不安と恐れの中に置かれています。そして、この恐れと不安があなたから出たものではなく、私たちから出たものであることを知っています。どうか、この私たちから出たものによって、世界とそこに生きる人々がその傷を広げず、この時の痛みと苦しみとが人と人とを互いに結びつけ、次へと向かうための大きな力としてください。そのためにあなたの平安をこの世界に注ぎ、そして、こうしてあなたのみ言葉に聞く私たちを、あなたの心根の優しさを世に伝えるための器として用いてください。イエス様の皆によって祈ります。アーメン。








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