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復活節第4主日礼拝 説教 「我が悦ぶところ」

日本基督教団藤沢教会 2020年5月3日

【旧約聖書】イザヤ書 62章1~5節
1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
 エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
 彼女の正しさが光と輝き出で
 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2 諸国の民はあなたの正しさを見
 王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
 主の口が定めた新しい名をもって
 あなたは呼ばれるであろう。
3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
 あなたの神の御手の中で王冠となる。
4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
 あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
 あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
 あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
 主があなたを望まれ
 あなたの土地は夫を得るからである。
5 若者がおとめをめとるように
 あなたを再建される方があなたをめとり
 花婿が花嫁を喜びとするように
 あなたの神はあなたを喜びとされる。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 21章15~25節
 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。


我が悦ぶところ
 おはようございます。今週もいつもと変わりなく、主が復活なさった日曜日の朝を共々に迎えておりますが、それは、主がこの日を備え、私たちを御前へと呼び出してくださっているからです。そこで、主の呼びかけがどのようなものかと思うのですが、よもやそれが、「日曜日だよ、全員集合」ではないとは思います。けれども、この「全員集合!」が主イエスの願いであるのは間違いありません。なぜなら、顔と顔とを合わせて話をしたい、その声を聞きたい、そして、何よりもその元気な姿を見たい、同じ一つの交わりに生きる者として、この特別な日にそう思うのは当然のことだからです。

 けれども、コロナ禍の今、それが思うようにはいきません。ですから、主イエスと会えずにいる方たちの心中は穏やかではありませんし、そして、それは主イエスも同じだと思います。しかし、普通に合うことが許されたこれまではどうだったでしょうか。一緒にいることが嬉しくて嬉しくてたまらない、そういうことがこれまで何回あったでしょうか。あるいはまた、主の呼びかけに対し、はーいと、抜けるような明るい声で主の御前に集まったことが何回あったでしょう。さらに申せば、ゲームに熱中する子供たちのように、面倒臭そうに集まったことは一度としてなかったでしょうか。いつでも会える、だからまた今度でいいや、今日は止めておこう、そう思ったりしたことは、主と共にあるこれまでの日々で何度もあったように思うのです。そして、それは、褒められたことではありません。ですから、それが明らかになることは非常にばつの悪いことです。けれども、ばれなければばれないで、それですんでしまう話なのかもしれません。しかし、ばれずにいることが必ずしも幸いなばかりではありません。互いを軽んじ合うところで、交わりが続くことはありませんし、また、互いを重んじ合う交わりにおいては、そもそものところで嘘偽りは必ずばれますし、それを隠そうとすることは、みっともないだけでなく、交わりにおける信頼すら失うことにもなるからです。ですから、このコロナ禍にあって、今だからこそ考えてみたいと思うのです。会う、会えないというところからこの時を見つめるのではなく、会えないことが、私たちが置かれた今の現実でもあるわけですから、そこに立って何が見えるのか、何一つ今までのようには行かない今だからこそ、このことをこの日の御言葉から聞いていきたいと思うのです。

 そこで、皆さんにお尋ねしたいのですが、私たちがこうして集められ、御言葉に聞いていく一番の理由は何でしょうか。教会がカルチャースクールのようなものであれば、こうして集まる理由は個人的興味や関心だけでいいのでしょう。けれども、もちろんそうではない、そうではないならどうなのか、それは、御言葉を中心とした交わりがそこに築かれるということです。なぜなら、神様とイエス様を中心とした交わりを築くべく語られているのが聖書の御言葉であるからです。そして、それが、今日のそれぞれの御言葉が語るところであり、従って、第三イザヤが語る御言葉も、また、主イエスが繰り返し語ることも、そこで明らかにされていることは主にある交わりが形作られるということです。ですから、第三イザヤが今日の最後で語る「あなたの神はあなたを喜びとされる」との御言葉は、私たちをとても勇気づけることになるのでしょう。ただ、主イエスの言葉については少し趣を異にします。

 主イエスは、ペトロに向かって三度同じことを尋ね、そして、三度繰り返し同じことを命じます。そして、この3度というところに、いつまでもずっと一緒に、という主イエスの恵みが現れているわけで、それは先週も申し上げたことでありました。ですから、詩編23編の最後で「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」と語られているように、主の恵みの本質とはつまり、そのしつこさにあるように思います。つまり、主の恵みというものは、そもそものところで私たちが追いかけるものではなく、追い立てられるところに大きな意味があるということです。それゆえ、恵みに追い立てられているのがこの時のペトロであったとも言えるのですが、しかし、そのあり方はどうでしょうか。正直申せば、ありがたいとは言い難いものでもあるのでしょう。ペトロに対する主イエスの態度はある意味で執拗であり、しかも、「私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは私に従いなさい。」と突き放すその様は、意地悪を通り越して、冷酷とすら感じられるからです。ですから、御言葉が「ペトロは、イエスが3度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった」と語るペトロの気持ちは分からぬことではありません。

 しかし、御言葉が私たちに求めることはそんなペトロへの共感ではありません。もちろん、それはそれであっていいことです。ペトロ始めその弟子たちから始まったものが主の教会であり、ヨハネの子シモンがペトロ、つまり、岩と呼ばれ、教会の礎を仲間たちと共に築き上げたのは間違いないわけですから、その気持ちは重んじられて然るべきなのでしょう。けれども、教会の中心に今も立ち続けておられるのはペトロではなく、主イエスです。この主イエスの上に築かれているものが教会であり、私たちの信仰であるのです。ですから、ペトロの気持ちに肩入れしすぎると、私たちは、自分が実際何を担いでいるのかが分からなくなってしまいます。そして、それがまさにこの時のペトロでもあるのでしょう。だから、ペトロは自分の気持ちに溺れ、流され、沈み込むことにもなったのです。つまり、担いでいるものは、主イエスでなく、主イエスの愛を独り占めしたいという自分の気持ちであったということです。それゆえ、私たちが冷たいと感じる主イエスの態度は、ペトロに向けられた愛ゆえのものであったということです。

 主イエスにはペトロのことがすべて分かっているし、見えていました。それゆえ、主の召命に生きるペトロにとって、悲しいなどと、めそめそする余裕はなかったはずなのです。けれども、めそめそしてしまった、それも、繰り返し繰り返し何度も甦りの主イエスに出会いながら。つまり、主の召命に生きながらも生き得ない、ペトロのこの不甲斐なさを私たちは見ているということです。三度主イエスを拒んだペトロは、どこまで行ってもペトロのままであり、ですから、そういう意気地のなさがまた主イエスの愛弟子と呼ばれる弟子への嫉妬となって、ペトロをして駆り立てることにもなったということです。そこで、そういうペトロの不甲斐なさを目の当たりにして、皆さんは何を思うでしょうか。しかも、それが弟子たちのリーダーであるとしたらどうでしょう。ペトロ、岩と主イエスが名付けた以上それでは困るわけです。主イエスが「年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と語り、また、それについて、御言葉が「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、主イエスはこう言われたのである」と説明するように、主イエスに従い、与えられたその役割に殉じるのがペトロに課せられた使命であるからです。ですから、めそめそ、グズグズされてはたまったものではありません。では、そういうとき皆さんならどうするのでしょうか。背中を押し、お尻を叩き、励ますことでしょう。そして、それでダメなら、蹴っ飛ばしたりして喝を入れたりもするのでしょう。ただ、もちろん、暴力は絶対に行けません。いけませんが、私たちが気持ちを抑えきれないのは、まさにそのようなときなのです。それは、それだけ真剣だからでもありますが、しかし、そこで私たちは気づかねばなりません。私たちは主イエスではないということをです。特に、不安や恐れに囲まれているこの時だからこそ、私たちはこのことを強く意識する必要があるのでしょう。

 伝説によれば、ペトロは、ローマで殉教したと言われています。けれども、いよいよというとき、逃げ出したのだそうです。しかし、逃げるその最中に主イエスと出会い、自らの使命を思い出し、来た道を再び引き返し、召命に殉じることになったと言われています。こうして、ペトロは、自らの召命に生き、主の栄光を現すことになったのですが、しかし、繰り返し繰り返し何度も復活の主イエスと出会いながらも、最後の最後まで、ペトロはペトロのままであったのです。しかし、最後は違ったと、私たちはそう思いたいのですが、ただ、この最後は違ったということは、あくまで伝説上のことであり、そうだとも言えるし、またそうではないとも言えるのです。ですから、その真偽に拘ったところで仕方ありません。そこで、御言葉に戻ってもう一度聞いてみると、この不甲斐ないままのペトロを通して、御言葉が何を語ろうとしているかが分かります。

 ペトロが見ていたもの、それは主イエスではなく、自分のことだけでありました。つまり、主イエスの愛をもってその召命に生きるのではなく、主イエスの愛を自分の欲しいままにしたいとの拘りがその召命を歪めていたということです。そして、それは、バビロン捕囚を経験したイスラエルもそうでした。主の恵みを甘く見ていたから、だから彼らは捕囚の憂き目に遭ったのですが、それは、神様がついているから、だから自分は大丈夫だと、そう思わせるところがあったからです。ただ、そのようにうぬぼれ、思い上がるのが私たち人間でもあるのでしょう。そして、それは、主イエスの筆頭弟子であり、教会のリーダーでもあるペトロとて例外ではありませんでした。ですから、ましてや私たちがと、そう思わざるをえません。しかも、主イエスの安息の中にあることを実感できないとしたら余計にそうです。これもない、あれもない、だから、これもできないし、あれもできない、そのため、何から何までダメだ、ダメだ、ダメだと、そんな思いに駆られたりもするのでしょう。ですから、もしそれが私たちの姿だとしたら、まさに、主に顧みられることがないと悲しむペトロと何が違うと言えるのでしょう。

 ただし、そこでの問題はそういう自分の弱さではありません。ここでのペトロがそうであるように、そういう自分の弱さ、情けなさ、更に言えば、そういう自分を自分の理屈で丸め込もうとする醜さ、つまり、自分を誤魔化し立派に見せようとするところに、一番大きい問題があるように思うのです。そして、宗教は時にそうした誤魔化しの後押しをする場合があります。カルトと言われる集団がそうした片棒を担ぐのはそのためで、人間のそうした弱さを分かりやすく、都合よく丸め込んでくれるものだからです。そのためにまた、カルトは変わることを執拗に求めます。変わらなければならないと、人をしてそう思い込ませようとするのです。しかし、主イエスも、主なる御神様も、私たちにそのようなことは求めません。それは、ペトロが不甲斐ないままであることを見れば明らかです。

 ところで、主イエスの御前に立つと言うことはどういうことなのでしょうか。それは、不甲斐ない自分の姿をさらすことであり、丸裸にされるということです。そして、それは、善悪の知識の実を食べたアダムとエバが慌てて神から身を隠したように、その御前で恥ずかしい思いをするのが私たち罪人であるということです。ですから、そういう意味で、ペトロも私たちも神様の御前にある恥しさを知っていなければならないのですが、けれども、ここでのペトロがそうであるように、それを知りつつも、同じことを繰り返すしかないのが私たちでもあるのでしょう。それゆえ、そこから逃れたいと誰もが思います。そのため、変わらなければとそう思い、こうして変わることへの拘りを強めていくことにもなるのでしょう。ただ、この変わるということについて別の言い方をすれば、神様をさておいて、自分が一番にならなければならないということです。すでに一番であるペトロにとっては、自分が一番重んじられなければならないということです。従って、主イエスから三度同じことを言われたことを悲しんでいるところに、ペトロの一番でなければならないといういじましさ、卑しさが現されているように思います。

 けれども、そのペトロに繰り返し主イエスが仰ったことが「私を愛しているか」ということと、「私の羊を飼いなさい」ということでした。ですから、分かった上で三度同じことを繰り返すところに、主の恵み深さとその愛の深さが現されているように思いますが、このことはつまり、主を愛することは、イコール主の羊を飼うところに現れるものだということです。そして、それは、言葉も通じない、気持ちも通じ合うことがない、何から何まで思い通りには動かない、そういうところに身を置くと言うことです。ですから、若葉マークの羊飼いが羊の世話をするということは、この面倒なことと日々向き合い続けるということであり、そのためにも、羊のことがよく分かっていなければならないということです。そして、そこで求められることは、人としての優位性に甘んじることではありません。羊が生きるその場所で、羊より下に立って羊に仕えるということです。そうでないと、羊の群れはまとまりを欠くことになりますし、そして、それは主の教会も同じです。傷つきやすく、弱々しい、時に思い違いから勇猛果敢に立ち向かってくる、この御しがたい羊の群れを、羊飼いとして、一番下に立って仕えること、私たちに求められていることはこのことであり、ですから、主イエスの語る愛は、相手の力を見くびり、見下すことではありません。

 難しい局面に立たされたとき、できるだけ優位な立場に立ちたいと思うのが人の常だと思いますが、まただから、丸裸にされようなそんな恥ずかしい思いを避けようとするのでしょう。しかし、十字架をも厭わなかった主イエスは違います。まただから、不甲斐ないペトロに向かって、一度ならず二度三度と同じことを語ることができたのです。飽きずに懲りずに、全て分かった上で、その卑しさのただ中に立って何かを伝えようとしているのです。それが、私たちと共におられる主イエスであり、ですから、今の難しい局面に立たされている私たちに、主イエスが何を求めているのかは明らかです。それは、愛することです。それも、分かり合える人たちだけでなく、傷つきやすく、語るべき言葉も持たない人たちとも同じ場所、同じ時間を過ごすこと、主イエスが私たちに求めることはこのことです。ただし、この愛について誤解があってはなりません。相手の言うがままにその思い通りに動き回ることが主イエスが語る愛ではないからです。

 私たちが時間と空間を共にすることで現される愛とは、そこに主イエスを頭とする交わりが築かれるものであって、そこに優劣はありません。しかし、どうしても優劣から物事を捉えてしまうのが私たちでもあるのです。だから、愛を難しいと思ってしまう。ペトロがそうであるように、まただから、自分への拘りを強めることにもなるのです。しかし、そのペトロが召命に生き、主の栄光を現すことになったのは、愛によって変えられることになったからです。そして、それは、魔法にかけられ、また、魔法が解けて、別の何かに変わったからではありません。主イエスが繰り返し何度もペトロに同じことを言い続けたからであり、このことはつまり、主イエスの愛に生きる私たちは、主の呼びかけ、語りかけによって何度もやり直すことができるということです。ペトロの殉教物語が示すように、最後の最後にあってやり直すことができるのが私たちであるということです。そして、それは、私たちがやり直そうと思うその時、弱くて傷つきやすいありのままの自分を深く知らされ、そこに主イエスの愛を思うことになるからです。

 主イエスの御前にあることは、丸裸にされ、恥ずかしさを覚え、そういう自分自身に深く傷つくことです。けれども、主イエスの恵み深さはそこにあるのです。そして、それは一度や二度で全て分かることではありません。繰り返し繰り返し、この恥ずかしさを経験しなければ分かることではなく、また、主イエスが何度も何度もやり直すことを私たちにお許しになるところでしか分かるものではないのです。まただから、その経験が私たちを強くするのですが、そこで、最後に今コロナと最前線で戦うニューヨーク州知事クオモの言葉をご紹介したいと思います。クオモは、今繰り返し愛することを市民に語り続けているのですが、ですから、彼の口から愛という言葉が語らない日はほとんどないそうです。そして、そのクオモがある時こう言ったのだそうです。「最もタフな人間は、常に愛を語るほどに強い」と。私はこの言葉を聞き、なるほどと思いましたが、皆さんはどうでしょうか。主イエスの語る愛を無関係なこと、愚かなことと思い込んではいないでしょうか。でも、愛がられ、愛が実行されるところに私たちの命が置かれているのは間違いありません。なぜなら、そこに共にあるのが私たちの主イエスであるからです。ですから、愛を語り続けられるほどに主イエスの愚かさに生きる私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り
愛する天の父なる神様
あなたの御前に全員で集まることの難しいこの時、私たちの多くがあなたの呼びかけに応え得ない自らに傷つき、そして、その思いから離れられずにおります。けれども、そのあなたが繰り返し何度も私たちをお召しになり、やり直す機会を備えて下さっていることに深く感謝します。あなたが時と場所を選ばず、すべての人々に今もその愛を与えてくださっているように、あなたの愛を受けるにふさわしい者として私たちを用いてください。主の御名によって祈ります。アーメン


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