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復活節第5主日礼拝 説教 「御国と社会との間に」

日本基督教団藤沢教会 2020年5月10日

【旧約聖書】エゼキエル書 36章24~28節
24わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
 25わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 15章18~27節
 18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。


御国と社会との間に
 おはようございます。息の詰まる日々が続いておりますが、ところで、皆さんが腹を抱えて笑ったのはいつのことだったでしょうか。先週、自分のことながら、思わず笑ってしまったということがありました。それは、実に馬鹿馬鹿しいというか、さもありなんというか、やっぱり神様は見ておられる、このことを実感させられるものでした。そして、私はそこで思ったのです。信仰をもって生きるというのは、こういうことなんだよなあ、と、改めてしみじみそう思わされ、思わず腹を抱えて笑ってしまったのです。

 さて、つまらない話はいいとして、早速御言葉に聞いて参りたいと思いますが、皆さんにとって、信仰をもって生きるということは、どういうことでしょうか。エゼキエル書にはこう記されています。「私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる」と。つまり、真面目に健気に懸命に、神様とイエス様の仰ることを守り、日々歩むということ、それが信仰をもって生きる者の姿であり、そして、それが、私たちの共通理解であるようにも思うのです。ですから、そこでまた私たちは思うわけです。求められていることは、神様の言葉に従うか従わないか、それだけであると。そして、私たちがそう思うのは、神様のお言葉どおりに生きたのが私たちの信じるイエス様であるからです。しかも、そのイエス様が「私があなたがたを世から選び出した」とここで仰っているわけで、特に、今日のイエス様のお言葉は私たちがよく知るぶどうの木の譬え話の直後で語られているものです。ですから、イエス様と繋がって生きる私たちにとっては、なおのこと、なおざりにすることはできません。ただ、そう思うのは私たちだけではありません。時々、世の人々から「クリスチャンなんだ、クリスチャンなんだから」と言われるように、世の人々もまた、私たちのことをそのような目で見ているように思うのです。つまり、御言葉に対して忠実であること、それが私たちの思うクリスチャン、世の人の思うクリスチャンであるということです。

 けれども、私たちがイエス様と同じように神様のお言葉に従うのは、自分がどう思うか、人がどう思うか、そういうところからではありません。今日の最後のところでイエス様が「あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである」と仰るように、私たちがイエス様のお言葉に従う理由は初めからイエス様と一緒にいるからです。ですから、証しは、この初めから一緒というところから始まるものであり、つまりは、それが私たちクリスチャンであるということです。ですから、私たちクリスチャンが時折好んで使う言葉にキリストの香りという言葉がありますが、それは、イエス様と初めから一緒に生き、イエス様を証しする私たちのあり方、状態を表しているとも言えるのでしょう。つまり、イエス様の香りがむんむんと匂い立つ、それが私たちクリスチャンであるということです。
 ただし、言葉では分かるのですが、それは一体どういうことなのでしょうか。餃子を食べた翌日、人から言われなければ匂い立つ自分自身のことが分からないように、そもそものところで、自分自身のことについては、よく分からないのが私たちです。まただから、人からキツく言われればとシュンとするし、腹も立つし、あるいは、とぼけたりもするわけです。また、その反対に、褒められれば、調子に乗ったりもするのです。ただ、いずれにせよ、私たちを一喜一憂させる鍵を握っているのは私たち自身ではありません。そこで、私たちは、あれこれ考えるわけです。イエス様そのものを現すとはどういうことかと、自分自身について考えるのです。ただ、イエス様の香りが匂い立つということは、香水を振りかけるようには参りません。そういう一過性のその場しのぎのものではなく、イエス様そのものが自ずと現れ出るということです。そこで、自分を脇に置いて、回りを見渡すと、確かにそういう人はいるわけです。ただ、私たちが、この人は、と思うその人に自分の気持ちを伝えると、恐らく、その人は、心から否定されるに違いありません。ただ、そうなると、私たちの回りには誰一人としてイエス様を証しする人はいないということになるのですが、もちろん、そうではない、そうではないならどうなのか。ここに私たちの思い込みと誤解があるように思うのです。

 私たちプロテスタント信仰の元祖でもあるルターについて、皆さんは、どのようなイメージをお持ちでしょうか。ルターについての知識はあったとしても、馴染みがないため、その人柄については、それほど気にしてはいないように思います。でも、間違いなくキリストを証ししたのがこのルターでありました。けれども、このルターと、もし私たちが一緒にいたら、多分、ほとんどの人が3日ともたないだろうと思います。気難しい上に、怒りっぽく、しかも、激すると言葉遣いも大変汚かったと言われているからです。ですから、その肩書きを外したルターと私たちが会ったなら、キリストを証ししているなどとはとても思えないように思うのです。けれども、そのルターがキリストを証ししたのは、歴史が証明するところでもあるのです。このことはつまり、逆に考えれば、私たち自身についてもそれと同じことが言えるということです。気難しい上に怒りっぽく、敵味方を分け、敵と見なすやいなや、情け容赦なく口汚く罵るルターも、寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐、イエス様の影に隠れ、積極的にその責任を果たそうとしないクリスチャンらしくない私たちも、同じようにイエス様を証しているのです。

 そこで、ルターのように歴史が証明してくれていればいいのですが、問題は、私たちは違うということです。だから、そうだとも言えるし、そうだとも言えない、そして、それが私たちからますます自信を奪い、イエス様を証しすることに消極的姿勢を持たせることになるのです。まだ何も終わったわけではないわけですから、キリストを証ししているか否かという点については、歴史に委ねるしかないからです。しかし、イエス様は、このそうだとも言えるし、そうだとも言えないことをその私たちに求めるのです。けれども、私たちにはその自信もないし、また、その器でもない。ですから、ここで足踏みしているクリスチャンは、私を含めとても多いように思います。ただ、それについてのイメージが、私たちにまったくないわけではありません。

 私たちが敬愛してやまなかった昨年召されたある姉妹のことを思い出していただきたいのですが、この方が小学生だった今から90年近く前のことです。まだその治療方法も確立されていなかったその頃、この姉妹は、教会学校の校長先生に伴われ、数人のお友だちと一緒にハンセン氏病の療養所をよく訪ねていたそうです。その方はその話を淡々と私にお話しくださったのですが、ですから、私は偉い人だなと思ったのです。そして、それは皆さんも同じだと思いますが、ただ、そこで私たちが心に留めるべき事は、その方が偉かったかどうかではありません。その方はそんなことは少しも望んではいないからです。むしろ、その方が私たちに望むことは、その方と同じクリスチャンであるということです。けれども、同じではない、私たちはどうしてもそう思ってしまう。そこで、私たちの多くは、その理由を覚悟の違い、能力の違いに求めたりもするのでしょう。しかし、覚悟や能力の違いといった説明しやすい言葉で片付けることは、その方が同じだと仰っている以上、その方に失礼なようにも思います。

 ここでイエス様が最初から一緒にと仰ることは、その方にも私たちにも同じように言えることです。このことはつまり、キリストを証しするその当事者として、私たちは同じように生きているということであり、つまり、イエス様と同じ一つの時間軸を生きているのが私たちクリスチャンであるということです。そして、この時間軸ですが、御言葉は、千年は一年のように、一年は千年のようにと語っているわけです。ですから、その違いはさしたる違いではありません。けれども、私たちはどうしてもその違いに拘り、自分自身をその方と重ね合わせることができないのです。そして、その理由についてですが、それは、私たちが日常生活においてよく用いるある一言の中に現されているように思います。

 私たちは物事に取り組む前によく、「できることはします。やれることはやります。」と予め線を引いくことがあります。それは、私たちが頑迷だからではなく、目先が利き、先の見通しが立つからです。ですから、それは、経験の浅い、未熟な人間にできることではありません。目先の利く、人生経験を積んだ人にしかできることではなく、そして、そう断りを入れるのは、物事が自分の思い通りにならないことをよく知っているからです。つまり、物事に絶対ということがないことを分かっているからこそ、ここまでは、という一定の線を引こうとするのです。そして、それは、私たちが意地悪で、無責任だからではありません。私たちのその当事者意識がそうさせるということです。ただし、そうであるからこそ、そこからの一歩が大事だと、先ほどの姉妹から私は教えられたように思うのです。けれども、その一歩がなかなか出ない、ですから、この画竜点睛を欠くところに、私たちの弱さが現されているとも言えるのですが、そして、この弱さでありますが、それは、当事者としての自覚は持ちつつも、被害者にもなりたくないし、加害者にもなりたくない、そういうところから出て来る弱さであるように思うのです。なぜなら、歴史の荒波に放り込まれるということは、被害者にもなり得るし、加害者にもなり得るということであり、でもそこで求められていることが、このイエス様を証しすることでもあるのです。

 私たちがこうして御言葉に聞いていると言うことは、クリスチャンとしての人生に確固たる見通しをもっているからです。そして、それは、私たちが自分の人生に責任を負っているからでもありますが、まただから、イエス様の言葉をその胸に刻み、それぞれに与えられたその時々の責任を果たそうとするのです。そして、そこで求められていることは、人間一般すべてに当てはまるような、誰もが納得の行く形でのことではありません。私とイエス様、私たちとイエス様との一対一の関わりにおいてのことであり、つまり、それがイエス様が「あなたがたは世に属してはいない。私があなた方を世から選び出した」と言っていることでもあるのです。そして、このことはまた、イエス様が「世があなた方を憎むのである」と仰るように、いいことばかりではなく、私たちが被害者の立場に立たされることもあるということです。そして、私たちがそこまで人から嫌われ、攻撃されるのは、私たちが人に対し、嫌悪感、不安感、恐怖感を与えているからだとも言えるのですが、つまりは、私たちからすれば、相手はなんてひどい奴らなんだということでもありますが、相手からすれば、あいつらとんでもない奴だということにもなるということです。そして、それが私たちの生きる世の中であり、世界でもあるのです。

 ところで、それぞれがそれぞれを被害者の立場に自分を置き、相手のことを責めたとしたらどういうことになるのでしょうか。それは火を見るより明らかです。ただ、問題がエスカレートするのは、加害者側の傲慢さ、尊大さゆえのことではありません。自分はひどい目に遭った、あいつがいるからこの先もっとひどいことが起こるに違いない、迫害が起こるのは、そうした人々の不安な心理とその被害者意識との相乗効果によるものでもありますが、それは、それぞれが互いに弱さを抱えているからです。まただから、それを避けるためにも見通しはなければならないのですが、では、そこで私たちはそうした混乱の最中にあってどのように見通しを立てればいいのでしょうか。それはもちろん、御言葉に立ち、信仰によってということになるのですが、私たちは同時にこの世に生きるものでもあるのです。ですから、当然、そこで疑いが生じます。できる限り被害を最小限に留めたいという計算が働きます。物事を有利に運びたいという誘惑が起こります。結果、被害者の立場に置かれることもあれば、加害者の立場に立つこともあります。それが世に生きるということでもあるのですが、ただ、私たちに求められているその責任の果たし方は、いかにうまく世の中を渡り歩くのかということではありません。イエス様と一緒にその間に立つということで、そのために私たちは御言葉を必要としているということです。けれども、そうであるからこそまた、弱い私たちはその疑いを強くすることになるのです。

 ただ、この疑うということをネガティブに捉える必要はありません。イエス様が「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい」と仰るように、結果責任はすべてイエス様にあるからです。しかし、そうであるからといって、私たちはイエス様の被害者ではありません。常にイエス様と同じところに立つのが私たちであり、だから、「初めから私と一緒に」とイエス様は仰っているのです。それゆえ、私たちは、被害者の立場に立つことはありません。それは、迫害の最中にあっても、ということですが、ですから、そういう意味で、イエス様の被害者ではないとのイメージを私たちがしっかりともつことはとても大切なことです。私たちが被害者の立場に立って物事を主張することがないから、そういう私たちの生きるところでは、イエス様が一緒にいる以上、世の諸々の問題は沈静化することにもなるからです。ただ、その過程において、私たちは疑いを濃くすることにもなります。イエス様を疑い、自分を疑い、世の中、世界を疑うことにもなるのですが、けれども、疑うことによって私たちは、御言葉を通し、その先の見通しが与えられ、その責任を果たすことになるのです。それは、イエス様が一緒というところが見えてくるからなのですが、そういう意味で、私たちの抱く疑いは、私たちの目を開く意味で重要なものでもあるのでしょう。

 ただし、この疑いが大きな意味を持つためには、イエス様と一緒ということを自分が理解できる範囲に収めないということです。つまり、イエス様のため、教会のため、信仰のため、自分のため、誰誰のためと、何々のためといった理屈を付け、予め、そうだとも言えるし、そうだとも言えないような目的、目標を設定するのではなく、イエス様と一緒に生きることを素直に楽しむことなんだと思います。まただから、私たちの信仰は生き生きとしたものになり、気がつけば、私たちも先に召された姉妹のようにイエス様に導かれ歩む生き方に自信が持てるようになるのです。そして、それは、イエス様がここで仰る弁護者である真理の霊、つまり、聖霊の働きの中に生かされているのが私たちであるからです。だから、私たちの失望は必ず希望へと変えられていきます。この時の悲しみと苦しみは、必ず喜びへと変えられていくのです。私たちが、私たちと共にある人々が、イエス様との交わりに生かされているからこそ、私たちはこの変えられるプロセスを共にすることが赦されるのです。ですから、このイエス様の見通しを御言葉を通し、日々確かめ、それぞれに与えられた日々の責任をしっかりと果たして参りたいと思います。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様
私たちは、あなたに感謝します。あなたは、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。神様、どうかこのパウロの言葉を自分の祈りの言葉とし、あなたご自身を証しする毎日を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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